人が人になるまでにたった一万三千年 / 12



 ……ほら、やっぱり。
 こうして、良かったのだ。
 
 *
 
 銀時はそれ以上を無理に促しはしなかった。俯き、途切れ途切れに言葉を紡ぐ土方の肩を無遠慮に抱いたりもしなかった。
 一度口を開いて仕舞えば後は簡単だった。葛藤も罵倒も後悔も消え失せて、土方は瑕を割く様にしてこれまでの経緯を喋った。瘡蓋を剥がす様にして、自らの無様さを嘲ってみせた。
 話して楽になぞなる訳がないとは解っていた。だが、それでもこの瑕に、何も知らなかった者の手で触れて貰いたかった。安易な慰めでもなく、無様さを嗤うでもなく、ただ、
 (知られた所で、問題もなくて、気も遣わなくて良くて、誰にも喋りはしない、奴、だから)
 知った上で。瑕に触れて貰いたかった。痛みであれ労りであれ構わない。ただ。それだけで。
 誰かに苛立って当たり散らすのと同じ様なものだ。或いは王様の耳は驢馬の耳であると密やかに囁く様に。怖いのだと、誰にも吐露出来ない愚かな叫びを、ここに曝す事を赦して貰いたかったのだ。
 銀時は相槌を特に挟む事もなく、無言で土方の途切れ途切れの言葉に、自ら瑕を引き裂いて叫ぶ痛苦の悲鳴に、ただ無言で耳を傾けていた。
 そして、自ら瑕を晒す事で身勝手な安堵を得ようとした土方には、その沈黙は恐ろしくもあり、弾劾を待つ迄の猶予の様でもあった。
 促す言葉が無くとも、土方は己の記憶にある限りの全てを苦々しく吐き捨て続けた。クスリでラリっていた所を無様に犯されたのだと、殊更に嗤いながら。
 無様で惨めな為体。笑う他ないと、話せば話すだけそう思えて来て自然と口も軽くなる。その分いつか後悔の負債を抱える事になるだろうかとどこかで思いながらも、今はどうでも良かった。何があったのかと問われて、話しているだけだから。聞く耳を前に、蕩々と独りきりの自虐の様に紡いでいるだけだから。
 毒を自ら干して決するのではなく、渡された毒を喉に呷るだけ。能動的な様でその実己にそれを拒否する選択肢が無いのだろうと、どこかで薄らと土方はそれに気付いていたが──だからこそ、それは己に与える大義名分となった。その事に疑問は湧いたが、構わずにおいた。
 「男の身体なんざ組み敷いて、何が楽しいのかなんざ、俺には理解出来ねェ」
 心底の侮蔑を顕わにする時は、己に苛立ちもしていた。
 だから土方は、その時まで、責は己のものでしかないと思っていたし、それを吐露するのも己しかいないと思っていた。
 「いやいや。なかなか凄かったし?アレ。ノンケでも充分勃てるって」

 だから土方は暫くの間、その悪意の音を、意味ある言葉として認識する事が出来なかった。

 「え?」
 それは相槌なのだろうか。音の意味が解らず土方が顔を起こせば、口を開いた銀時は笑いながら土方の方を見ていた。そうしてやおら、ソファから再び立ち上がると、卓の上のリモコンを操作してTVを点ける。然し画面は真っ黒で何も映っていない。
 銀時は続けて、そこから配線で繋がっている、デスクの上に置いてあった小型のポータブルDVDプレイヤーのスイッチを押した。
 ぷつ、と音がして、黒かった画面に、映像が、
 
 「………え?」
 
 目を瞠る土方の視界、小さなTV画面の中には、土方自身が映し出されていた。
 映像の中の土方は、虚ろに笑いながら嬌声を上げている。
 
 『ははっ、見ろよコイツ勃ってんぞ』
 『案外才能あったんじゃねェの?』
 ははは、と下卑た笑い声たちが喝采の様に響くその中で、仰向けに転がされ、膝を肩につく程折られた土方の、その後孔の中へと男性器が出入りを繰り返している。見るも無惨でグロテスクな光景。
 足の間から、笑い続けている淫売の様な顔が、、
 
 「──ッ?!」
 
 男のモノを尻にねじ込まれて、ハイになり過ぎて最早白痴の様になった表情で、土方は要求される侭の卑猥な言葉を繰り返しては、快楽に感じ入って啼いている。それが己であると。己の姿であるのだと認識すると同時に、土方の背筋はざっと冷え、心臓は羞じに震えた。
 「なん、……っ、で…ッ!?」
 戦いてソファから腰を浮かすその合間にも、映像は克明に、あの日暴行を受けた土方の姿を、その音声を、残酷に再生し続けていた。
 「なんで、ッ、なん、で、こんな、ものが…ッ、」
 そう。映像と記憶の端々が間違えようもなく合致している、これは、紛れもないあの暴行の記憶──否、記録映像に他ならない。
 沸き起こった嘔吐感を堪えて、衝撃に呼吸が出来なくなった土方はがくりとその場に膝をついた。俯こうが目を覆おうが、耳を塞ごうが、声も、音も、記憶も、違える事なくそこにその事実を突きつけている。起こった無様は覆せない。当然の様に。そんな事実を再認識させる様に。
 TVの横に立っていた銀時がしゃがみ込んだ。その気配に、土方はがちがちと歯を鳴らしながら顔を上げる。
 なんで、こんなものが。
 上手く呼吸が出来ず、音にならず、掠れた声で繰り返すのに。銀時はいつもの死んだ魚の様な眼の侭酷くあっさりと。
 
 「だって、これをやらせたのは俺だし」
 
 そう。なんでもない事の様に。やっぱり肯定してみせたのだった。
 
 
 「……、なん、…ッ、どうし、て、、どう、して、」
 なんでもない事の様に。にこりと嗤う銀時を、土方は合わない歯の根を鳴らしながら茫然と見上げて問いかけた。
 否、既に問いにすらなっていない。
 だって、理解が出来ない。何を言っているのか。解りたくない。知りたくもない。
 銀時の背後で延々と再生され続けている映像の中からは、善がり狂って啼き嗤う無様な己の声が続いている。繰り返し。土方の受けた暴虐の記憶の通り。或いは記憶にない部分まで。克明に、残酷なまでに、全てを記録していた。
 「お前が情報屋と話してるのを偶々訊いたんだよ。で、金さえ払えば何でもやる、でも前科者じゃ無ェ様な連中に匿名で依頼した。土方(おまえ)を輪姦して、その一部始終を録画しろ、って」
 「……………」
 土方が答えなかったのは、反論が無かったからではない。ただ、訳が解らなかっただけだ。本当に、訳が解らなかっただけだ。
 異国の言葉や理解出来ない道徳か何かの様な、その言葉を、意味あるものとして受け取る事が出来なかっただけだ。それが、説明なのか釈明なのか問いへの解答なのかも、解らない。
 「で。お前の行きつけの飲み屋を指示して、お前の会う予定だった情報屋には悪ィけど、病院送りになって貰って、」
 何で。何の為に。どうして。問いかける言葉は浮かぶのだが、全く意味が繋がらない、理解の出来ないものに対して、何をどう問えと言うのか。解らない。
 「お前は真選組の副長だし、勁ェ侍だし。てめぇ自身の身ぐらい護れるし、俺の事なんざ忌々しくしか思って無ェんだろうし。
 それでも良いって思ってたけどな、片恋かなって認識しちまったらやっぱり気付いて貰いたくなるし。同じ気持ちで見て欲しくなるし。
 だから、どうすればお前はこっちを向いてくれんのかな、俺に護らせてくれんのかなってずっと考えて、考えてたんだけどさ。考えれば考えるだけ、どうしたってそれは無理なんだろうなって思い知るばかりな訳だよ」
 床に触れさせた手指をこつこつと動かしながら、銀時は謳う様な調子で続ける。それを茫然と聞くほかない土方の理解なぞ置き去りにして。
 「例えば強姦して手に入れたって、それを盾に脅してみたって、お前は卑怯者の犯罪者を見る目しか向けてくれやしないだろうし。拉致も監禁も現実的じゃねェし。手足もぎ取るのも酷ェだろうし。したら段々腹も立って来て」
 だから。繰り返しそう言う銀時の口元が、紡ぐその内容にまるでそぐわない事にも、やんわりと微笑みの形を刻む。
 「じゃあ後はもう、弱って傷ついたお前を護ってやるしかないじゃん?弱っても真選組以外の所に縋る他無い様にしてやんなきゃなんねェじゃん?
 こんな連中にお前が酷ェ目に遭わされんのは正直言って腹立たしいし。腑が煮えくり返りそうになった。でも、お前のボロボロな姿を誰かに見せびらかさねェと意味無ェし。そうすりゃきっとお前は傷つくだろうけど。そんなお前は可哀想で堪らねェけど。だからこそ俺になら護ってやれるんだし」
 脳髄を直接掴んで揺さぶる様な衝撃がした。
 何だこれは。何を言っているんだこの男は。
 身体の中心を通る根っこか何かを根こそぎ抜かれる様な、底冷えのする不快感に背筋が粟立って、血の気が引いた。
 土方の感情が憶えているのは、純粋な憤りよりも、理解出来ないと言う恐怖と、理解したくないと言う強い不快感ばかり。
 個人を。人間の一人を。こんなにも怪物の様に怖れた事は無かった。
 否。理解の出来ない、これがきっと畏れると言う感情なのだと、土方はこの時初めて知った。
 「そしたら沖田くんの話じゃ、お前凹み過ぎて立ち直れねェって言うじゃん。ああこれは俺の選択は間違ってなかったんだなって確信して。傷ついたお前が俺に縋って、俺を救いみてェに思ってくれれば良いんじゃないかって思ったんだよ」
 言葉から得なければならない情報は多いのに、土方の耳は最早それらへの理解を放棄しようとしていた。
 こわい。
 この、わらう鬼が、怖い。土方はそれだけを強く、思った。
 この得体の知れぬモノが人間である筈がない。だって理解出来ない。何を言っているのか理解出来ない。何をしたのか、理解したくもない。
 その口が紡ぐ熱っぽく紡ぐ対象が己の事であるなどと、思いたくもない。その眼差しが酷く優しく見ているのが今の己なのだと、気付きたくもない。
 床に膝をついて座り込んだ土方の前にしゃがみ込んでいる銀時は、まるで幼子に言い聞かせる様に酷く優しい口調で言って微笑みかける。
 「ああでも、心配しねェでいいから」
 銀時は未だTVの中で生きて動いて、土方に屈辱を与え続けている男らの映像を振り返った。その僅かの瞬間だけ、笑んだ侭でいた口元を酷薄に歪めてみせながら、さも忌々しげに吐き捨てて。
 「そいつらはもう俺が全部、口きけなくしたから」
 ひく、と思わず喉を鳴らした土方の様子を、怯えているものだと思ったのだろう。だから大丈夫だと、再び優しげな調子に転じた声で甘く囁く。
 「もうこの話がこいつらから誰かに漏れる事も無ェし、この事でお前が脅される様な事も無ェ。だからこの、真選組副長の濡れエロビデオが世間に漏れる事も無ェ。流せば売れそうだけど、そんな事は幾ら俺でもしたく無ェし?」
 最早。怒りも恐怖も、理解出来なければただの怪物だった。
 壊れものを扱う様な所作の手が伸びて来て、がちがちと歯を鳴らして震える土方の両頬をそっと包み込んだ。器用に動いていたあの掌に触れられて初めて、土方は己が涙をこぼしている事に気付いた。
 その様を労る様に、泣く子を宥める様な──事実その通りだったろう──手つきが、戦き涙に濡れた土方の頬を優しくなぞる。
 「大丈夫。他の野郎になんて絶対ェ手は出させねェ。そんなのは俺が許さねェから。だからもう他の野郎の目になんざ怯えなくて良い」
 怖い。映像の中の男たちでも記憶の中の瑕でも無く、お前が何を言っているのかが解らないのが怖い。お前が何を思っているのかが解らないから怖い。解りたくないものを孕んでいるから怖い。こわい。こわい。
 泣くほか出来ない己を情けないと思う余裕もなかった。こんなに恐ろしいものは他にないと思った。
 理解を拒絶した感情が涙に変わって、言葉に出せない感情の代わりに次々こぼれ落ちて行く。
 怖い、とか。悲しい、とか。赦せない、とか。ふざけるな、とか。怖いとか、怖いとか、こわい、とか。
 「なん、で…、」
 辛うじて口に上ったのは、ぐちゃぐちゃになった土方の感情たちの中では最も役には立ちそうもない問いかけであった。
 「なんで、こんな、事」
 見上げた銀時の顔の向こうには、未だ記憶の侭の映像が流れ続けている。無様な悲鳴が無為に響く中、記録は何の感慨もなくただ無情に、土方の負った瑕をそこに抉り出していた。
 問いたのは問うまでもない事実。この記録映像の語る通り、或いは銀時自信の語った通りの顛末である事は最早疑い様もないのだろう。
 情報屋──鼠と会う予定だった土方に、連中を嗾けて。鼠は路地裏に憐れにも転がされた。
 そして土方はクスリを盛られた挙げ句に埠頭の倉庫で暴行され。その一部始終を記録されて。
 暴行を行った実行犯たちは、犯行を依頼した男に口を封じられ。
 その証明であり証拠である記録映像は、今土方の目の前で、件の有り様を無造作に再生し続けている。
 全てを行う様に仕向けたと自ら宣う、男の手に因って。
 「……何で、って」
 心底不思議そうな様子で土方の問いを反芻すると、銀時は困った様に微笑んでみせる。
 「お前の事を愛してるから。護ってやりたいから」
 それ以外に何があると言うのだ、とばかりにわらう銀時の事が、土方は心の底から恐ろしかった。
 困っていたから手を差し伸べたのだとでも言わんばかりの、酷く当たり前の調子で、非道く身勝手で残酷な言葉を吐く。この男が何よりも恐ろしい。
 その口が紡いだ『愛』と言う言葉が恐ろしい。その指す意味がおそろしい。

 「この事でお前に手を出す様な輩がいたら、俺が黙らせてやるから。
 俺がお前を、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと。護ってやるから」

 男は笑って言う。己に絶対の自信を持ち、尊大な迄にそれを正しいと確信した勝者のみの発する傲慢さを見せつけながら。
 「瑕ついて、周りが怖くて、真選組ですら息苦しさを感じちまう様になった、可哀想なお前を。
 俺が、ずっと、護ってやるから」
 記録映像の中の土方が笑っている。耳を塞ぎたくなる、屈辱の悲鳴を上げながら、笑い続けている。
 それを背に、怯え座り込んだ土方の涙を前にして。銀時は酷く満足そうに笑みながら、震え続ける土方を安心させる様にその背を抱いた。
 その腕は侍らしい力強さで、その掌は万事屋らしく器用で温かい。
 だが、土方の裡から恐怖が去る事は無かったし、これからも無い侭だろう。
 理解が出来なくて怖かった。理解が出来て怖かった。得心なぞ到底叶わない。だが、最早それを肯定する以外に土方には選べる選択肢なぞ無いも同然だった。
 それが恋情なのかと問われれば、断じて違うと答えた。
 だが、それが執着であったのかと問われたのであれば、そうかも知れないと答えただろう。
 それは余りに明確な、冷えた熱しかない情であった。
 そしてその情動は、土方にはまるで理解が出来ないものだったのだ。
 愛情と嘯いて、壊すまできっと固執し続ける。壊れぬ様にずっと恋い続ける。そんな歪な情なぞ、到底真っ当な人間の抱ける感情ではない。真っ当な人間の受け入れられる感情ではないと言うのに。
 銀時の腕に抱かれながら、ぼんやりと眼前の悪夢の再生を見て。土方はゆっくりと目を閉ざした。そうして仕舞えば目蓋の裏に無惨な記憶は蘇る事もなく。思考の必要の無い暗闇に沈む。
 組み敷かれるのも、言いなりにされるのも、それを知る眼の嘲りも、怖い。
 縋ろうとしたら、笑みながらやんわりと殺された。だから恭順するのも、怖い。
 この男の心一つが、土方の命運全てを握っているのだと言う事実も。男がそれを悪いとも全く思っていない事も。怖い。
 ……ならば、受け入れて仕舞えば。
 
 「もう大丈夫。怖がる事なんざ無ェよ。ずっと、ずっと。護ってやるから」
 
 これを、愛情であるのだと受け入れて、受け止めて仕舞えば、良い。







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