人が人になるまでにたった一万三千年 / 9



 「好きなんですかィ?」
 唐突に主語もなくそんな問いを投げられ、銀時は団子を放り込もうと思っていた口をぱくんと閉じた。みたらしの滴りそうになる串を傾けて持ち直し、隣で白玉餡蜜をぱくついている沖田の横顔を見遣る。
 「また藪から棒な」
 「…まァ正直どうでも良い事なんですが、どうにも旦那、アンタこの状況を得た様に利してる様に見えましてねィ」
 ちょっと気になっただけでさァ。肩を竦める銀時へとそう投げると、沖田は手にした匙を指揮棒の様にくるりと振った。それこそタクトの一振りで楽団を誘導する指揮者の様に、口元に刻まれているのは自信に溢れた笑み。
 指揮も誘導されてやるつもりはないが、銀時は幾つか浮かんだ解答から回避の選択肢を取り敢えず棄てる事にした。このドSの悪魔が巡回中に(真面目に職務に就いているかどうかなぞ知らないが)わざわざ、団子屋の店先で店主と、ツケが幾ら貯まっているだのとやり合っていた銀時の隣に座って来て、この笑顔なのだ。ただの鎌掛けや暇潰しとは到底思えない。
 どうでも良い、と口にしている以上に、問いには含むものがあった。沖田自身がそれに気付いているのかどうかは銀時には計りかねる所だったが。
 「…………ま。好きか嫌いかの二択しか無ェんなら、それで良いんじゃねーの?」
 白旗を上げる心地で言って、先頃囓り損ねた団子を一つ、串から食い千切る。すればその解答を問いた張本人の沖田は「へェ」とさも珍しそうに眉を弓形に持ち上げて見せた。
 全く白々しい。思いながら銀時は残った最後の団子の一つも咀嚼し、ぽいと串を皿に戻す。
 探る程に知られている、とは思っていない。だが、変に鼻の利くこの少年の前には僅かでも付け入れる隙なぞ晒したくはない。開き直った様に見えるならそう見てくれて結構だ。
 「つーかそもそも、依頼っつって万事屋(ウチ)に話持ちかけて来たのはお前だろーが。利するも何も言われる筋合い無ェと思うんだけど?」
 「言われる迄もなくその通りでさァ。ただね旦那、これ幸いと違う方角に事を運ぼうとしてる様に見えんのが気になりましてねィ…、ま、それで野郎が形ばかりでも持ち直すんなら別に構やしねェんですが」
 口を尖らせる銀時の抗議をあっさりと肯定し流してみせると、沖田は空になった器を盆の上に戻した。乗せられた匙が器にぶつかって、かちん、と音を弾かせる。何かの警告音の様に。
 「卵と鶏の論争なんてする気は無ェですが…、旦那が『そのヤリカタ』であん人をどうにか出来ると思うんなら、依頼した手前こっちにゃ口出しする気は無ェですんで」
 それが土方にとって良しとなるか悪しとなるかは関心の埒外だと言う事か。察して眉を寄せる銀時に構う風情でもなく、砂の様に掴み所の無い調子でさらりと言い除けた沖田は緋毛氈の上に代金を置いて立ち上がった。横目でそちらを伺ってみれば、餡蜜と団子一皿分に釣りが少々出る程度の金額が置いてある。よもや迷惑料と言う事はあるまいが。
 (ならわざわざ言うなっての)
 今更牽制にもならぬ事なぞ解り切っているだろうに。それでもわざわざ問いに来たのは、本人の口にした通りの、依頼をした手前、と言う事だろうか。
 「ちなみにですが、旦那ァ、」
 釣り銭が小銭にして何枚になるか。そんな計算を頭の中で数えていた銀時が顔を起こせば、栗色の後頭部が小さく揺れた所だった。溜息でもついたらしい。
 「三つ目の選択肢はあるんで?」
 先程の、好きか嫌いかと言う問答の続きだろうか。銀時は遠回しに、肯定の様で否定はしないだけの答え方をしたが。
 好意を利そうとしたか、嫌悪で害する事を考えるか。どちらも、執着と言う動機に足る理由は得られるかも知れない、が。
 解り易く、片恋と言う形に頭の中で認定をくれてやったのが間違いだったのかも知れない。お陰で余計に止めようが無くなって仕舞ったのだと、こうして遠回しに──意図的ではないとは言え──指摘されて思い知る。
 だから、銀時はこれだけは正直に答えてやる事にした。それが求められた答えではない事なぞ重々に承知で。

 「……………さてね。俺が訊きてェわそんなん」
 
 *
 
 書き損じの書類を乱暴に両手でぐしゃぐしゃと丸め、当てずっぽうで屑籠に向けて放る。畳に落ちる音はしなかったからきっと入ったのだろう。そう言う事にしておこう。
 インクが生乾きの侭で丸めたから、紙に触れた手が薄ら汚れていた。己の手を見下ろした土方は舌打ちをしたい心地になりながら、机の上に余っていた懐紙を掌で鷲掴みにしてお座なりに拭った。またぽいと、紙屑となったそれを投げ棄てる。
 こうして苛立ちの量と同じだけ屑籠の中や周囲に山を築き上げた所で、仕事の量も、土方がやらねばならない事も、何一つ変わりはしない。その事自体が不満な訳ではないのだが、波立つ心の合間で行うには些かに難しいものである事は確かな様だった。
 あれからずっと纏わりついている、抑制出来ない苛立ちを抱える事にはもう慣れた。だが、怖れに逆上した声を上げそうになる度、近藤がそれを取りなす様に『してくれる』のには酷く焦燥感を煽られ、自分がどうしようもない矮小な存在である様に感じられた。
 怖れを消す事の出来ない己に焦っているのだろうと、土方は客観的に己を表せる程には冷静であったが、生憎と理解が克服に直接繋がると言う訳ではないのだと思い知るばかりだった。
 無責任な想像の噂話が。起きた事実の醜聞が。囁く声と向けられる目からそれを読み取って、読み違えて、その都度に恐怖と屈辱とが蘇る。目的と、意味も解らぬ暴力とが、土方の心を鑢で削り取る様にじわじわと苛み続けている。
 応報が叶えば、まだそんな思いを味わう事も無かっただろうに。犯人を全員斬り捨てて、それでおしまい、ならば楽になれたのに。
 目の前の敵全てを斬る、刀ではこう言う瑕の役には立たない。斬りたいものが目の前に居なければ、刃なぞ無力だ。
 そして、本来そんな瑕を負う前に抗うべき力だったものが、刀なのだと言うのに。
 怒鳴り散らす相手もいなければ、当たり散らして良い壁や襖もない。己の不甲斐なさを嘆いてみても、苛立ちと屈辱感が堆積するばかりだ。とんだ為体だと自嘲するのも既に無意味と飽いた。
 部屋の襖も壁も既に元通りに修繕されている。あれから数日は、万事屋は宣言した通りに襖と壁とを修理しに真選組の屯所を訪ねて来て、その度に労りの様な言葉を土方に投げて寄越した。襖や壁の穴ばかりでなく土方の裡の瑕を塞ごうとでも言うかの様に。
 土方が瑕を負ったあの事件は、民間人の男には伝わってなどいない筈だ。どれだけ市井の噂に耳が早いと言った所で、銀時が警察の強いた箝口令を抜けて偶々当事者やマスコミに問えたとは思えないし、そんな事をする理由もないだろう。
 況して真選組の誰か──例えば山崎や沖田や近藤──が、土方の醜聞にしかならないそんな話を、果たして部外者である銀時に盛らすだろうか。……答えは否だ。理由がない。説明がつかない。苛立ち続ける己に、あの相性の悪い男をぶつける事で火に油どころでは無くなる事ぐらい解っている筈だ。
 沖田ならば或いは意趣めいた事をしかねないとも思うが、あれでいてあのドS国の王子は理由無く悪趣味な真似をする質ではない。必ずそこには何らかの楽しみないし意味がある。
 だから仮に、土方の事を打ちのめしたくて銀時に仔細を教えたとしたのなら、沖田が何も言わないのも、銀時がそれらしい事を何一つ口にしないのも解らない。
 だから。銀時は土方の負った無様な瑕なぞ知らぬ筈だ。知らないからこそ、腫れ物に触れる様な扱いを向けたり、下卑た気配を漂わす目で見ては来ないのだろうから。
 ……だからこそ、気が楽だった、のは事実だ。
 何も知らぬ者になら忌憚なく話でも相対でも出来そうな気がする。それこそただの甘えに過ぎないと解ってはいたが。
 銀時は万事屋として『襖と壁の修繕』に来ただけだから、その仕事が終わって仕舞えば屯所を訪う事など無い。元々銀時と土方との接点なぞ、こうして普通に生活していいれば殆ど無かったのだから、当然の話だ。
 町で遭遇と言う名の衝突をするのも、食堂や飲み屋で遭遇と言う名の喧嘩をするのも。全ては偶然に任せた出来事だった。
 そしてその偶然は、土方が屯所(ここ)から出ない限りは生じようのないものなのだ。
 謹慎期間は既に職務の上では解けている。職務の限りであれば、警察庁であろうがかぶき町であろうが、何処に向かっても構わない。
 「………それこそ、弱音、か…?」
 口を歪めて怯懦な己に吐き捨てる。インク汚れの残る手で髪を掻き回して、土方は机の上に横頬をことりと落とした。障子紙の向こうの陽は傾きつつある頃合いだから少し眩しくて、思わず目を眇める。
 本当にどうかしている。……己が油断と無力の招いた怖れに、他者からの救いを求む、など。それも、気休めでしかない──理性的に認定するのであれば『逃避』の思考で、など。
 だが、副長としてもそうでなかったとしても、土方が何とか今まで通りに持ち直さねばならないのも事実である。それも、出来る限り早い内に。
 (犯人を斬る事が出来りゃァ、一番早ェんだがな…)
 山崎からの報告は依然として変わらない。つまり、土方の思う最も単純な解決法は相も変わらず望めそうもないと言う事だ。
 じりじりと焙られる様な遣り口には腹さえも立つ。いよいよ本格的にあの蝙蝠面の男らは、周到な計画を練ってまで、ただ土方に屈辱と醜態と──恐怖と──を味わわせるだけ味わわせて捨て置いたと言う事だ。その目的も狙いも解らない。解らないだけにいつまでも気持ちの悪い怖れが消えない。
 (屯所に居辛くするのが目的、なんて事ァあるまいし…)
 思って苦く笑い飛ばす。そもそも我が家でもある真選組の屯所に居て猶、土方が怖れを抱く羽目になったのは連中の仕業が直接の原因となった訳ではないのだから、その線は余りに勝率が悪い。
 「……クソ、」
 何でもない暴力、ただの下らない顛末。そう笑ってやり過ごす事が出来ない苦痛をどう処理したら良いのかが解らない。その癖焦りだけが増す。早く戻らないと。早く安堵出来る場所へ行かないと。早く、
 「…………………情けの、無ェ」
 重く落ちかけた前髪をぐしゃりと指の間で握り潰して、土方は机に手をつくと立ち上がった。鴨居に掛けてある衣紋掛けから隊服のスカーフを取って巻くと、上着を手に取りながら歩き出す。
 まだ一日の終わりの見廻りの時間には間に合う。だからだ、と、猶も往生際悪く唱える己に益々苛立ちながら。







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