人が人になるまでにたった一万三千年 / 8



 議場とは言ったものだが、要するにただの会議室の事である。擂り鉢状に席を並べた形状の、大きく本格的な議場も近くにあるが、そちらは余程大掛かりな会議でも無い限りは使われる事は滅多にない。
 今回は幾つかの警察組織での会議だから、土方もよく見慣れている、本庁内の会議室の一つが使われる事になっている。
 議場は結構に広く、四角い会議用デスクが中央を四角く開ける形で置かれていて、奥の壁にはスライドを表示する事の出来るスクリーンが設置されている。スクリーンに背を向ける事になる位置に席は用意されておらず、代わりに機材などが用意されていた。
 各々の席には飲み物のペットボトルが配られ、誰の席であるかを示す名札が机に貼られている。マイクは両隣三席ぐらいで共用だ。
 まだ準備中と言った様子の室内では各幕僚の秘書官と思しき者らが慌ただしく準備に動き回っており、早めに到着しているらしい彼らの主の幾人かは、辺りで挨拶をかねた世間話をしていた。
 軽く室内の人間を見回し、挨拶やご機嫌伺いの必要はなさそうだと判断すると、土方は名札から真選組の席を探し出してそこに腰を下ろした。会議室用に設えられた椅子は当然安物のパイプ椅子などではないから、ぎしりと音を鳴らしながらしなやかな緩衝材で土方の体重を受け止めてくれる。
 膝上に置いたアタッシュケースを開き、中から配布用の資料と報告書とを机の上に置いて、土方はともすれば固くなりがちな表情筋を何とか緩めた。笑う程ではないが、取り敢えず『普通』で居る様に見せなければならない。
 議場に満ちている物音もざわめきも、会議に向けた会話ばかりだ。そう言い聞かせながら、土方は机に肘をつきまるで祈る様に合わせた両指を鼻梁に押しつけ、ゆっくりと、ゆっくりと肺の中の空気を入れ換えた。
 これ以上の無様など晒す訳にはいかない。こんな、警察組織の会議の中で。弱味も怯えも、誰にも見せる訳にはいかないのだ。
 今は目の前の事だけに集中しよう、と何度も胸中で諳んじた土方が目元に僅か力を込めたその時。
 不意に真横に人影が立った。
 「──」
 それだけならば、なんでもない事だ。跳ねそうになった肩も鼓動も理性ひとつだけで必死で押さえて、土方は己の真横に立った人物をゆっくりとした所作で見上げる。
 いつもこんな怯える様な挙措を己がしていたか。睨みそうになる目はどうしていたか。思い出せない。
 「…………、お久し振りです、久慈殿」
 「やあ、久し振りだね土方君。ああ、立ち上がらずとも良い良い」
 不躾にも土方の右横に立った人物の正体は、脳内を検索する迄もなく直ぐに出た。警察官僚の一人で、一応は真選組の後ろ盾になっている一人である。
 一応、と言う部分に掛かるのは、成り上がりの芋侍の組織と言う点は不満ながら、実働部隊としての働きは認めており、真選組の活動を支援する事もあれば渋る事もある、解り易い己の利害への拘りの事だ。
 以前この幕臣は、キャリア街道まっしぐらの息子──実際には息子を、とは名指しはしなかったが──を真選組の局長に据えて、成り上がり組織を盤石の幕府下の組織にしようなどと言い出した経緯があり、それもあって土方は久慈と言うこの男を蛇蝎の如くに嫌っている。
 なお、その意見は「猿山の面倒みんなら、雇われ園長より慣れた飼育員のが効率的な事もあらァな」と言う松平の一言で却下されているのだが。
 ともあれ、土方にとっては余り楽しく世間話などしたい手合いではない。今はこの男に阿る様な必要も無いし、何より愛想なぞ振りまく余裕も無い。会議の準備があるので、と適当に打ち切って仕舞おうと考え、机に置いた書類束を両手に持ち、とんとん、と態とらしく整えたりしてみせる。
 「危険薬物を扱う様な若者の集いは、より大きな犯罪組織の温床にもなっている。警察組織としてはこれ以上の犯罪の防止と、何より未来ある若者を正しく導く為にも、棄ておいてはいられないからね」
 「…仰る通りです。先の法案可決にも久慈殿は大層貢献されたとか。現場の人間としても、そのご尽力に感謝の念が絶えません」
 久慈の態とらしい言い回しで、どうやらこの度に可決予定の法案が、今回の議題絡みのものである所を改めて自慢したいらしいと取った土方は、適当に相槌を打っておく事にした。幕閣にまで広がる家柄と言う派閥を持つ幕臣なのだから、少しぐらいは警察組織に貢献して当然だろうと、胸中では真逆の悪態をつく事は忘れない。
 「何しろ最近は物騒だからねぇ。警察官が襲われたり──」
 「   、」
 抉る様な一撃は、何事もない世間話の恰も延長の様に吐かれた。不意な刃を躱し損ねた土方は、咄嗟に戦慄く唇を噛み締めて俯いた。
 頭の中でがんがんと音が鳴っている。耳鳴りよりも煩い、強烈で無遠慮なノックの様な音。
 正直な所を言えば理解していた。土方の醜態については警察関係の、この会議場に集まる人間の殆どがその事実を知り得ているのだ。直接目にした訳では無いにしても。『事件』として、知っている。知って、いる。
 その実感は理解していたと言うのに、改めて──単なる揶揄とは言え、その事実を突きつけられた衝撃は痛烈で酷い激痛を伴っていた。
 「現場の人員にも、気を付けて職務に当たるよう、常々言い含めてあります、ので」
 震えそうになる舌を無理に動かして、世間話の延長に何とか付き合う。そうして土方が何とか視線を向けた先では、久慈はあからさまな揶揄の色を隠さずに鷹揚な笑みを浮かべていた。
 賢しい人間に口先の小細工は不要だ。寧ろ逆に慣れているから、より痛烈な返しを食らう可能性も高い。常の土方ならばそう在ったし、出来ただろう。自信もあるしネタもある。嫌味を嫌味とも思わぬ顔で投げつけてやるのは皮肉にも身に付いた技能だ。
 だが、今し方の返し方は、土方にしてはソフトで、当たり障りなく──上手くはなかった。
 久慈の口元に浮かんだ笑みが、まるで穢らわしいものを嘲るかの様な質に変わるのを、土方は見た。嘲って、見下して、下卑た眼差しを全身に這わせる。犯罪者の一物をその身で食んで啼く、無様な侍の形をした男娼か何かと認定して。
 「──っ、」
 目の前が怒りと屈辱感とで真っ赤に染まった。固くかたく握った拳が、屈辱への代償を求めて戦慄く、そんな瞋恚の衝動を土方は必死で堪えた。
 土方の醜態は、警察組織では半ば暗黙の了解として『無い事』として通す事になっている筈だ。言外にせずとも指示されずとも、長官である松平が『強姦された警察官』が居たと言う事実をスルーし、揉み消した以上、警察組織は全てその決定に倣うのが慣例だからである。
 被害者が一介の警察官であれば松平もその判断は下さなかっただろう。被害者が土方であったから、松平は『無い事』にする決断をした。そしてそれは自らの従える組織への労りでも気遣いからでもない。
 真選組と土方十四郎及び一部の幹部の『名』は、攘夷浪士や犯罪者への一種の抑止力の様なものとなっている。恐ろしく強く凶悪なもののふが居る組織こそが真選組。そう言った意味で。
 それが、酔わされクスリを盛られて喧嘩負けした挙げ句に輪姦されたなどと言う事実は、事実であったとして出して良いものでは決してない。互いに足を引っ張り合いたい組織間であったとして、武力部隊の象徴でもある真選組の、鬼の副長と呼ばれる男が力無い女の様に扱われたなどと言う事が世間や犯罪者に知れると言うのはデメリットにしかならない。下手を打てばそれは警察組織の権威の失墜や、今は大人しい攘夷浪士を付け上がらせる火種にも繋がりかねないのだから。
 だが。公ではない場で、個人的に揶揄や嫌味を投げ置くのであれば、それは関係がない。
 わなわなと震える土方の手は、既に刀の柄に置かれていた。あとひとつ、何かが起きていたら、鞘を飛ばして久慈に斬りかかっているだろう。この屈辱の痛苦には、刃を以てしか向かえないのだと、土方の報復の本能が悲鳴を上げている。
 怒りに茹だる頭を余所に、身体の熱は急速に冷めて、
 (まずい、)
 柄に添えられた血の気の引いた指先が、小刻みに震えている。
 (この侭、だと)
 貧血の症状にも似たその中で、耳鳴りの合間から、
 「末端の芋侍とは言え、己の役割への自覚が必要だと思うね。個ではなく組織であると。たった一人の醜態が何を招くか、しっかり肝に命じて貰いたいものだ」
 怒りに血を流す土方の裡に、更に押し込まれる無遠慮の刃が、
 (るせェ、そんなんは、手前ェが一番よく解って、るから、この無様に、この為体に、)
 貫き抉った痛みが。無意識の侭、縋る様に刀の鍔を鳴らす。
 公の場ではないとは言え、本庁での刃傷沙汰なぞ殿中に近い。理解しているその癖に、土方の理性は今にも千切れて、激しい瞋恚と応報を求めて動き出しそうに、
 「おお、久慈殿。お久し振りですな!」
 なった所で断線した。理性を繋ぎ留めていた鎖が、横合いからやって来た声に引かれてじゃらりと音を立てる。冷静さを促す様に。
 「これはこれは。近藤殿」
 椅子に座る土方と、その横に立っていた久慈との間に、近藤が長閑な挨拶などを投げながら割って入る。久慈の姿が見慣れた大柄な体躯にひととき隠された所で、土方は漸く我に返った。震える指を刀の柄からそっと遠ざけて、呼吸を思い出した様に大きく息を吐き出す。
 (今、)
 何をしようとしていた?
 実際には刀を抜くにはまるで至っていない、牽制にもならない、ほんの少し手を動かしただけの挙措に過ぎない筈のそれは──、然し明確な応報の形を殺意として求めていた、何よりも雄弁な証拠だった。
 (俺は…、)
 近藤がやって来なければ、割って入らなければ、怒りに千切れた土方の理性は『たったそれだけ』の理由で久慈を斬り殺しかねなかったのだ。
 今まで真選組として積み重ねてきた努力も皆の尽力も、全ての利害計算がその瞬間だけ確かに意味を失っていた。
 たったそれだけ。怒りと屈辱。己の為体の招いた下らない──そう、下らない『動機』で、刃は振るわれていた。
 因縁をつけられたから腹が立って殺した。そんな、誰もが「下らない事で」と嘆く様な事件の様に。土方の理性は、『たったそれだけ』の為に、全てを棄てている所だった。
 「──、ぁ」
 ぞわりと背筋が粟立って、喉が小さく鳴る。
 何と言う事を。
 取り返しのつかぬ様な愚行を。
 真選組の為と謳う己こそが、真選組にとって最も危険な存在に、なる所、だった。
 「………………、」
 眩暈にも似た心地に堪える様に、土方は拳の中に絶叫を無理矢理に呑み込ませた。口を開いたら、少しでも恐れを思い出したら、それだけで何かが折れて仕舞いそうな感覚だけがある。まるで、足下に掘られていた大穴に、たった今気付いた様な。そんな危うさ。
 近藤は久慈に土方の様子を悟らせない様にか、楽しくもなさそうな世間話を続けている。
 その姿を見上げながら、土方は己に激しく失望した。
 本来、近藤の剣で無ければならない筈の己が、彼に護られている──事実。
 信頼を寄せ従いついて来てくれる隊士らでさえも恐れずにいられない、怯懦な瑕に引き裂かれた精神。
 揶揄のひとつでさえ理性を容易く千切る。恐れから生じた憤慨。まるで、毛を逆立て吠える小さな動物の様に。
 誰かに当たり、怒鳴り、虚勢で佇んでいるのは、無様な侍の形骸でしかないものだ。
 こんな事ぐらいで。ただの暴力ぐらいで。
 ただ、刀が届かなかっただけで。手に入れたと思った力が、その瞬間には全くの無力であったと味わっただけで。
 己の油断も、賢しさは一定量保有していると思っていた頭も、容易く騙され足下を掬われる、ただの役立たずの代物。
 女の様に組み敷かれ、無力を嘲られ、無様に啼く事しか出来なかった。たったの、それだけの事で。
 無力は絶望で、それに堪え得るだけの力も持たぬ事実は、失望。
 
 *
 
 と言って。己の不甲斐なさに耽溺して落ち込んでいられる状況でもなければ性分でもない。心配顔を僅かに寄せて来た近藤には持ち直した素振りを向けて、土方はその侭会議をそつなく終える事には何とか成功した。
 血を吐く様な心地で目も耳も下卑た揶揄も全て振り切って、いつも以上に声を張り上げ、老獪な警察官僚を相手取り、危険薬物絡みの事例に於ける真選組の貢献と、今後必要とされる対策を余すことなく上申し、懸案事項の幾つかを通させた。普段通りであれば上々の成果と言える。
 帰りの車中では近藤からの労いを、疲れて仕舞った、と、罪悪感を憶える言い訳をつけて躱し、帰り着いた屯所でも兎に角急いで部屋に向かう。
 癇癪に頭を叩き付けたり、襖を蹴り抜いたり──そんな事をするより、何かをどこかに吠えたかった。逃げ場が欲しい。今だけは誰も知らない様な、己を詰って詰って詰って傷つけるだけの行為をして、我に返った己を「馬鹿か」と思う存分罵ってやりたかった。勿論そんな自虐行為には何の意味も無いのだとは解っていたが。
 そして同時に。そんな事が許される筈もないのだが。とも。
 副長室の襖を細く開いて、その隙間から室内へと滑り込む。部屋は薄ら明るいがもう十五時近い。天気はこれからどんどん下り模様になると、車中で近藤が点けたラジオがそう伝えていたのを思い出す。深夜までには雨がぱらつくと言う空は、まだ日中の明るさをそれなりに保って、室内に居た男の姿をぼやりと描き出していた。
 「よ。お帰りさん」
 「……………よろず、や」
 思わずぽろりと間抜けな声が落ちた。何でこんな所に居るんだ、と問いが口をついて出るより先に、銀時は目の前の畳に横倒しに置かれていた襖の一枚を「よっせ」とかけ声を上げながら立てた。
 ああそう言えば修繕がどうとか言っていた。常になく草臥れて緩慢になった土方の思考がそう至るのとほぼ同時に、正に修繕された襖が一枚、元通りに填め直される。
 当然そこには、土方が先日蹴り空けた無惨な大穴は無い。
 「どうよ。中々の仕事ぶりじゃね?」
 具体的な襖の修繕方法なぞ土方の知識には無いが、綺麗に貼り直された襖紙は他の無傷のものと比べ何ら遜色無い様に見えたので、「ああ」と土方は素直にそう頷いて、真新しい和紙の貼られた襖にそっと触れてみた。
 ひょっとしたら一から造り直したのかも知れない。洋室文化も近年増えてはいるが、未だ表具屋の需要は多い。そんな専門の技術を必要とする作業を、真似事の様にやって除けると言うのは言う程簡単な事ではないだろう。
 穴の無い襖に触れてみれば、己の八つ当たりひとつで壊して仕舞った襖に何だか申し訳のない様な心地になる。まあ、壁であれ畳であれ、理不尽な暴力をぶつけるのは如何なものだとは客観的には思うが。
 「相変わらず顔色悪ィのな」
 不意にそんな声と共に、襖に触れていた土方の右手の上に銀時の掌がぴたりと覆い被せられていた。
 「………」
 いつかと同じ距離。畳に膝をついて座る土方の真横にしゃがみ込んだ銀時の顔が、至近距離でこちらをじっと見つめて、いる。
 無意識で跳ねそうになった背は、掌に力を込められた事で反射的に留まる事に成功した。
 振り解きたくなる衝動は、怖れか嫌悪か。怒鳴ろうとした唇は役立たずに戦慄いて言葉を紡いでくれそうもない。
 何れも出来ないのは、刀を抜きはなつ手が、握られているからなのか。
 強制的な力も何もない、押さえつける様な膂力も何もない、ほんのりと温かいだけの器用なてのひらが、どうして侍の剣を止められると言うのだろう。
 「何、の真似、だ」
 己でも驚く程に乾いた声がそんな問いを発するのに、銀時は気にした様子もなくただの柔和な笑みを返して来る。
 「お節介。焼いた方が良いかね」
 顔色、前より悪くなってんじゃねェか。苦笑に似た調子でそう言うと、土方の右手に乗せられていた銀時の左手指にぐっと力が込められた。指の間を縫う様に、指が折られて、
 「、」
 狭まった距離は最早隙間と言った方が良さそうな、僅かの空隙だけ。跳ね回っている銀髪が土方の顔に今にも触れそうな位置で止まるのに、息を呑む。
 幾ら何でも近すぎる距離だ。近藤や沖田でも入った事の無い様な内側に片足を踏み入れておいて、銀時はどこか満足そうに微笑んでいる。
 いけ好かない危険な奴だと、防衛本能が嘗て分類したそんなラベルと共にこの男の存在はずっと放ったらかしになっていた筈だと言うのに、いつしかそれは剥がれ落ちて、腐れ縁、と書き殴られた新たなラベルを貼り付けられていた。
 騒動で関わり、町中や飲み屋や食事処で関わるでもなく関わる。それだけの、存在だった筈だ。
 それが何でだろうか、お前が心配だから、だのと宣って目の前に居て。
 有無を言わさぬやさしい声と、覆い被せたてのひらひとつで、まるで頑是ない子供を宥める様にして、居る。
 否。それ以上の隙間を追い詰めて。
 「心配されんのは真っ平御免?」
 溜息に似た呼気を吐いて、銀時の顔が、すい、と離れていくのに、土方の裡で焦燥感の様なものが沸き起こった。押さえられた手指の間に力を込めて──それがまるで、離れるなと縋る仕草にも思える事に気付いて困惑しながら、思わず声を上げる。
 「……いや、そういう、訳じゃ、…ねェ、が、」
 これではまるで、怖れている様だ。
 何も知らぬ筈の男に。知らないから水槽に無遠慮に手を突っ込んで来ている様な、男に。
 「そ?なら良いけどよ」
 ふ、と笑みの残滓を纏いつかせた顔が遠ざかり、手指がやんわりと解ける様に外れていく。
 その動きを追う土方の表情が、銀時には果たしてどう映ったのか。彼はひとつ、見慣れたいつもの気の抜けた調子で笑いかけると、
 「また明日も来るから」
 まだ仕事は終わってないしな、と言って、ひらりと手を振りながら、戸の開け放たれた侭だった副長室から廊下に出て行く。
 ぺたりぺたりと、裸足の足音が正面玄関の方角へと遠ざかって行くのを背中でだけ聞きながら、土方はひとときの緊張感にも似た感覚から漸く解放されて大きく息を吐き出した。
 鼓動が早い。寒くも怖くもないのに微細に震える身体が不思議だと思う。一体己は『何』をあの男の言葉や態度から感じ取っていたのか。怒りの様な怖れの様な救いの様なその正体が解らなくて困惑する。
 今まで土方は銀時に対し大凡そんな惑いを抱いた事も無ければ、奇妙な態度で距離を詰められた事も無かった。
 困惑の向こうに、安堵が滲んでいるのを感じる。それは、畏れに多分、似ている。
 だが、それでも。手の甲に残された温度は、酷く温かかった。
 
 
 そんな土方の様子を見ている目があった。
 去る銀時の背中を無言で見送り、次には蹲る土方の背中をじっと見つめるその眼差しには、熱も表情も特には無い。
 (……存外、悪知恵の働くお人だとは解っちゃいたがねィ……?)
 密かに胸中で呟きながら、沖田は佩いている刀の柄を指先でとんと弾いた。
 土方の不甲斐ない態度に苛立って、己の見立てでは土方の事を然程に嫌ってはいないだろう銀時を言いくるめて焚き付けたのは、多少の荒療治目的や真選組以外の他者の介入で何か症状に変化が起きないかと言う期待もあったからだ。
 同じドSとして解る。銀時のあの様子には、土方へと選択を促す意図的な目的がある。与える選択肢は是か否かの二つだけ。そして今の土方には否の解答は無いも同然なのだから、実際選択を迫る素振りで誘導しているだけである。
 (どうもこりゃァ、旦那は本気で土方さんの事を好きだったらしい、と見て良いかねィ…)
 手段を選ばず、相手の不利を利する事が真っ当な『好意』とは大凡言い難いだろう、とは沖田とて思うのだが。
 助けを依頼したのは主に近藤だし、己もそれに乗った身だ。だから、沖田は銀時の遣り口に何か異を唱える様な心算は無かった。
 ただ、少し感じた妙な違和感に、また刀の柄をとんと叩く。癇性めいた仕草で。
 腑抜けて項垂れている土方は、その音にも、沖田の視線にも気付かぬ侭、未だ暫く動きそうもなかった。







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