人が人になるまでにたった一万三千年 / 7



 真選組の朝は朝議の集まりから始まる。
 隊を構成している人員が少なかった頃は全員を会議室に集めて行っていたが、今では隊の各班の代表者のみが出席すれば良い事になっている。(なお会議に遅れたものは切腹──と言う名の処罰──である)
 その内容は概ね、一日の確認事項や、特殊スケジュールがある時の連絡事項、上から持って来た懸案事項、各隊各班からの意見や報告などを、局長副長から直々に通達ないし上申するもので、一種の儀礼的な行事となっている。
 実際の『会議』と呼ばれるものは主に隊長格の人員のみが集まって行うものなので、朝議の場で難しい話し合いが行われる事はまず、無い。
 因って、お固い会議と言う訳ではないその性質上、副長の土方が厳しい眼差しで、居並ぶ一同を半ば睨む様にしながらあれこれと伝達事項を述べて行く間も、聞く側にはどこか気楽な空気が漂っている。きちんと話を聞いていれば良いだけなので、隊長格の人間──主に沖田──が茶々を入れたり、隊士らが、聞いた内容を直ぐ隣の人間と相談する様など珍しくもない。その様子は学校の朝礼にも似ているかも知れない。
 「──と言う決定が警察庁で取り決められた。法案の形になるのは未だ先の話だが──、オイそこ無駄口叩いてんじゃねェ!」
 土方の怒気の篭もった声に、叱責された隊士らがびくりと身を竦ませる。何の先触れもなく飛んだ鬼の声と眼力には、そこに触れたものを忽ちに斬って仕舞いそうな鋭さがあった。
 「土方さん、そう朝からカリカリするもんじゃねェですぜィ。もしかして、あの日ですかィ?」
 「総悟」
 その鋭さをさらりと躱し、恐れ知らぬ声が一つ割って入る。が、短く名前を呼ぶだけの切り返しには、茶化す発言に乗る気配はまるで無い。最前列の隊長席で退屈そうな表情で耳をほじっていた沖田は、やれやれと言う仕草で軽く肩を竦めながら「………へーへー」とあっさりと白旗を上げた。それはもう不服そうにだが。
 同じく最前列に混じって座す山崎はそんな両者の様子をはらはらと見ていたが、流石に横槍を突っ込む程の度胸はなかった。土方の横に座る近藤にも、別段顔色を変える様子はない。
 沖田が茶化せば土方が怒鳴り、近藤が笑って宥める。そんないつもの光景はいつまで経っても顕れそうも無かった。
 常ならば小さなざわめきのある会議場が、今日はしんと静まり返る。上座に正座した侭それを固い表情で見回し、土方は場の沈黙と傾聴を確認すると、手にしていた書類の続きを読み始める。
 そこから発せられる、ぴりぴりとした緊張感の様なものを、その場に居た誰もがなんとなく感じ取っていた。
 だが、矢張り誰も何も口にする事はなかった。
 
 
 「じゃあ、今日も皆一日頑張って務めてくれ」
 近藤のそんな宣言と共に、緊張感のある朝議はそれ以上何も起きずに終わった。
 隊士らが退室して行き、皆それぞれ本日の職務に就いて行く。隠さぬ仏頂面で最後まで座っていた沖田は、会議室から出て行く寸前に、
 「みっともねェ様あんま見せねーで下せェよ。攻撃したくなっちまうんで」
 そんな口撃を、辛辣を通り越した無表情と共に、土方に向けて投げて行った。
 土方とて、己が苛立っているのは客観視で重々承知でいた。部下を理不尽に呵りつけているのだろうとも感じていた。だが、そうでもしていないと、なんでもないざわめきさえも、全て己の無様を嘲笑う類のものに聞こえて来て仕舞うのだ。
 愚かな事だとは解っていたが、一度その身で感じた、その耳で聞いたものはそう容易くは去らないのだと思い知る。
 だから、下らない中傷なぞ聞こえない程に、喋らせない程に、厳しく全てを律さなければならない。それが愚かしい虚勢に過ぎないと己で解っていたとしても。理性が、恐れと言う本能に勝てないのだ。
 「トシ」
 ぽんと後ろから肩を叩かれて、土方はびくりと跳ねそうになる背を留めて、背後に立っていた近藤の姿をゆっくりと振り仰いだ。
 近藤は、土方の醜態の仔細を全て知る少ない人間の一人だ。事件後に病院から連絡を受けて直ぐに駆けつけてくれたのを皮切りに、松平の呼び出しに出たり、土方の会議出席に同席したりと、色々と気を遣ってくれている。
 それは頼もしい反面で心苦しくもあるのだが、土方は近藤の寄越す、それら労りの申し出を断る事がどうしても出来なかったのだ。
 「どうした、近藤さん」
 いつもこの大将に感じていたのは安堵や信頼だったと言うのに、今はその実感が酷く重い。近藤の言葉や気遣いの一つ一つが、明確に己の負担になっているのだと言う薄らとした理解だけはあるのだが、かと言ってそれを拒絶する事も出来ない。大人しく全てを受け入れる事も出来ない。
 土方の態度からもその身の裡の緊張感を感じ取ったのか、近藤はその場にしゃがみ込むと、手にしていた薄いバインダーを土方へと手渡しながら言う。
 「今日の会議用の資料だ。一応俺なりにまとめてみたんだが、誤謬がないか確認しちゃくれねェか」
 「……あ。あぁ…、」
 確かに近藤には、会議の決定が出されてから資料の作成を頼んではいたが、〆切に間に合わない可能性や添削を考えて、念の為に土方も予備をまとめていたのだ。恐る恐るバインダーを開けば、見慣れた筆文字がコピーされた公文書にあれこれと書き記してある。
 各種組織が集まって行う会議では、大概が予めの予定や資料通りには行かないものだ。必ず誰かの足下を掬おうとする輩が居る為に、項目に応じた反論反証に対する相応の対策が必要になる。そしてそれは事前のある程度の準備が無ければ到底為し得ない。
 高給取りの幕僚らであれば山と抱えた秘書官に全てを任せて自分は書面を読み上げるだけで終わりだろうが、人手の足りない真選組ではそうも行かない。ただでさえ学のない田舎侍と見られるきらいが強いだけに、会議で自分たちの意見を正しく上申する為にはありとあらゆる対策を講じる必要があるのだ。
 土方もある程度であれば主張を回り諄く繰り返して、アドリブでごり押しをするが、対策は幾ら練っておいても損はない。武を排除した文の場では、知識とそれを正しく把握し効率的に発言する事こそが武器なのである。
 そしてそれは近藤が最も不得手とする部類だ。豪快に笑ったり、良い人面をして発言し、意見をがむしゃらに通すだけの剛では、金や各組織の利権も絡む会議の場は動かせやしない。
 因って、土方は余り近藤に任せた資料作成はともかく、『対策』には期待していなかったのだが──、
 書類には所狭しと、近藤の人柄には合わない様な几帳面な注釈や、話を解り易くする為の付箋が貼られている。今までに余り見た憶えも無い様な頑張りぶりに土方が思わず若干の驚きを憶えつつも近藤の顔を見上げてみれば、その面相にほんの少しだけだが、常にはない隈が浮かんでいるのが確認出来た。徹夜でもしたのだろうか。……したのだろう。
 「……ああ。問題は、無いな」
 大凡安堵には程遠い吐息と共に、土方はバインダーをそっと閉じて近藤へと返した。
 徹夜をしたと言うなら、言うまでもない。この、無様な副長の負担を少しでも軽減出来ればと、局長として出来る努力をしたのだ。『してくれた』のだ。
 「そうか。なら、これで今日の会議は安心だな」
 僅か俯き加減になる土方の顔に差した陰には気付かず、近藤は安心した様に笑うと腰を持ち上げた。
 いつもならば。そう、いつもならばその男臭い笑顔ひとつにどれだけ助けられただろうか。日課のストーカーにも励まずに仕事を相応以上にやり遂げてくれた上司にどれだけ感謝しただろうか。
 だが、今の土方にはその笑顔も、勤勉な職務態度にも、何ら良い作用を齎す事は無かった。
 己が、不甲斐ないからだ。
 だから、近藤がらしくもなく仕事に励んだ。緊張に固い土方の表情を和ませるべく、朝議の不穏な空気にも何も言わず、こうして笑ってみせているのだ。
 (手前ェが、余りに無様だから、だ)
 その事実を棘の様に飲み下して、土方はふらりと立ち上がった。相当に悪い顔色をしている自覚のある横顔に、近藤の労る様な眼差しが向けられているのを振り切って、また後でな、と短く言い置いて歩き出す。
 近藤の労りも気遣いも、沖田の常に比べれば鈍いとしか言い様のない弾劾も、隊士たちから感じる『目』も埒もない噂話も、何もかもが重たく苦しい。一歩でもひとりきりの空間から滑り出て仕舞えば、そこは己を苛むだけの茨の牢獄の様だ。
 余りに目に余る様であれば専門の医者の診療を受けた方が良いとは、遠回しに山崎からも打診されているし、土方自身とてそれは解りきっている。のだが。
 (真選組の鬼副長が、レイプされた挙げ句カウンセリングに通うだなんて、笑えもしねェ冗談だ)
 それが己の『弱さ』に因るものなのか、瑕が余りに心の脆い所を偶々抉っただけなのか、知れないが。
 喉を滑り落ちた棘は焦燥となって、落ちた胃の腑を灼く。
 全く、無様で惨めな存在に成り果てたものだと自嘲する声も遠く、土方は何だか己が水槽の中を泳ぎ続けるだけの回遊魚にでもなって仕舞った様な錯覚を憶えた。
 だとしたら、安堵出来る様な場所は、誰からも覗き見えるこの狭い水槽の何処にもありはしない。
 
 *
 
 本日の会議の議題は、ここ最近頻発している違法薬物の取締と、その取引で利潤を得ている組織などへの対抗策及び、武力面での効果の是非が主なものである。法案改正への働きかけは既に行われているが、対策と言う面では今後の予算会議にも関わる話となる。
 参加者は主立った警察組織の上役たち。名簿を見れば錚々たる名前──家柄の──が連なっているが、同時にそれは『いつもの』会議と言う事でもある。
 警察庁の組織が集まる為、議場は本庁内の会議室になる。真選組は基本的に実働部隊良い所の存在だが、その管轄が直接に警察庁長官と割り当てられている為に、警察関係の幕僚の集まりに所轄の署長が同席するぐらいに階級的には場違いと言える。
 そこに来て屯所が中央から少々離れた立地にある為、いつも早めに議場に向かう羽目になる。のんびり出て行った挙げ句の不備が生じました、では、ただでさえ肩身の狭い身には余計に笑えないからだ。
 会議の開始までは未だ小一時間以上はある。黒塗りの公用車で直接本庁地下の駐車場に入り、そこからエレベーターで途中階まで上がり、後に認証装置付きの上層階用のエレベーターに乗り換える。ここから先はSPや護衛、秘書官と当人以外は入れない。
 然し生憎と真選組代表の局長と副長にはSPも護衛も不要で、秘書官も居ないので、静かなエレベーター内にはいつも通りに近藤と土方の二人だけが乗り込む形となった。運転手のほか、護衛役、と言うより連絡役の隊士を一人伴って来てはいるが、彼は車内で留守番である。
 ワイヤーを巻き上げる僅かな音しかしない沈黙の筺の中で、土方は携えて来ている書類の幾つかを、最終確認なのだろう、ここ数日ですっかり見慣れた、相変わらずの固い表情の侭で検分していた。
 その様子をちらりと横目に伺いながら、近藤は足下のアタッシュケースを見遣る。二人の手荷物は書類の詰まったこれだけで、土方は頑としてそれを近藤に渡そうとはしないのが常である。幕僚の地位や議題に因っては段ボール箱でそれら会議の為の書類を搬入する事もあると言うので、真選組は未だ気楽な方なのかも知れない。
 とは言え、書類で一杯のアタッシュケースの重みばかりではなく、土方が負っている負担が相当に多いのだと言う事実を近藤は昨晩の徹夜作業をして改めて思い知った。
 真選組には今は文門に長けた机仕事向けの人員も多く居る。が、組織とは複雑化すればするだけ造反や不正の芽を生じ易いものだ。結局の所土方が組織を回すのに必要な頭脳であり、結果こなさねばならない職務が増える事に変わりはないのだ。
 その癖、本人の性質もあって現場に出る事も鍛錬や見廻りも止めないと言うのだから、その多忙さは推して知るべし、である。
 近藤は当初、『今』の土方には休養ではなく、全てを忘れられるぐらいの多忙さが必要なのではないかと思っていた。仕事と喧嘩が趣味の様なあの生粋の暴れん坊には、ゆっくりと心と身体の休養を、などと言う方がきっと酷であると。そう思っていた。
 だが、今朝の朝議もそうだが、事件以来土方の気は常に張り詰めっぱなしで、正直危うさを憶える程だ。山崎の報告では、夜も碌に眠れていないらしい。
 それが単純に多忙なだけ、と言う原因に由来するものであれば近藤は、いつも通り労いと感謝はすれど、何ら心配はしなかっただろう。だが、今の土方は明かに、目の前の『起きて仕舞った』現実から目を背ける事に躍起になっている。
 同時に土方は自分でその無意味さに気付いてもいる。だからこそ苛立ち、目を背ける己の弱さに怒りながら必死で虚勢を張って己を保とうとしているのだ、と。沖田と山崎はそう見立てていたし、近藤もそれには概ねの所で同感だった。
 朝議を威圧感で抑え込む様にして終わらせた『今日』が、偶々土方の虫の居所が悪かっただけだ、と、隊士らにそう認識されるのであれば構うまい。が、そうも行くまい。
 それが繰り返されれば、土方の張り詰めぶりは隊士らの間に不満や疑惑を生じるだろう。今も隊内で──箝口令があるとは言え──噂話程度に、土方の身に起きた『事件』は知れつつある。それが醜聞となって余所に漏れるか、土方自身の胸を抉るか、或いは真選組の士気と団結力を削ぐ致命となるか──未だ何れも起き得てはいないが、可能性は最早ゼロとは言い切れない。
 皮肉にも、土方自身が己を平然と保とうとする行為こそが、隊内の不審を煽る引き金になりかねないのだ。
 土方が病院に担ぎ込まれたと一報を受けた時、病院に慌てて駆けつけた近藤が見たのは、入院着で茫っと寝台に座っているその姿を、鑑識が写真に収めている所だった。
 無論公にはただの暴行障害事件として捜査・処理されるし、犯人の罪状もそれでしかない、が。
 盛られたと言うクスリの効力が中和されて来ていたのか、医者や鑑識に言われる侭に検査を受諾する土方の顔は生気が抜け落ちた様に蒼白で、横に除けられた証拠品──衣類などだ──の生々しさが、その負わされた瑕を物語っていた。
 飽く迄己を『暴行』した犯人を検挙する為に、その身の至る所にまとわりつく瑕の残滓を、『被害者』として提供しようと言うのだ。本来はこんな事は、何処にも誰にも隠したい、隠さねばならない醜態であると感じている癖に。
 土方は改めて面会として訪れた近藤に、「野郎なんだから強姦にゃならねェし、ちょっとボコられただけだろ、こんなん」、と、退院の準備をしながら笑ってみせたが、そうする間にも何度も、すまねぇ、と口にしていた。
 己の油断の招いた無様な為体が赦せないと言うのは、土方の苛烈な気性からしても想像だには易い事だった。
 こう言ってはなんだが、近藤の知る限り、土方は暴力には慣れている。受ける方も与える方も、だが。若い頃は何度も、強くなろうと無茶をしては返り討ちに遭っていたと言うのだから無理もない。
 そんな土方が『瑕』と受け取った『それ』がどの様な仕打ちであったのか──そこを考え思い遣る事は、恐らく土方は近藤にも赦しはすまい。
 ただ強姦された、と言うだけではない。それ以上の事が、土方にとっての『瑕』になり、今も猶それはその身を苛み続けているのだ。
 沖田の見立て通りならば、近藤が追求すれば土方はその事についてでも大人しく口を開くだろう。だがそれは、土方にとっては己の『瑕』に屈服するも同然の行為となる。
 だから近藤は土方に対する身の置き所に困り果てているのだ。優しく労ればいいのか、厳しく呵りつければいいのか、今までと何ら変わらぬ素振りでいればいいのか。
 「近藤さん」
 なまじ気心が知れているだけにどう対処したら良いのか解らない、とは如何なものなのか。近藤は細かい事や小難しい事を考えるのが苦手な己の頭を不甲斐なく思って肩を落とした。
 (総悟は匙投げちまってるみてェだし…、何この難しい年頃の娘息子を持ったお父さんみたいな気分……)
 「近藤さん」
 「え、」
 少し強めに名を呼ばれ、近藤がはっと我に返ると、土方の少し困った様な表情に出会う。
 「あ…、すまんちょっと考え事…って、」
 「……携帯、鳴ってるぞ」
 言われて隊服の上着のポケットを見下ろせば、その内側から、ヴー、と振動音が響いている。慌てて掴み出して通話ボタンを押すのとほぼ同時に、エレベーターが議場のある階へと到着した。土方が足下の重いアタッシュケースを持ち上げて外に出るのに、近藤も「もしもし?」耳に携帯電話の受話部を当てながら続く。
 《局長》
 「……」
 潜められた声は聞き慣れた監察のものだ。近藤は寸時息を呑んで、足を止めた。背後でエレベーターの扉の閉まる音。
 「すまねェが、トシ、先に会議室に向かっててくれんか」
 「あぁ、解った」
 軽く頷いた土方の答えは奇妙なぐらいに早かった。誰からの電話だとも訊く事も無く、アタッシュケースを軽く持ち直して背中を向ける。
 「………」
 物分かりの良い背に何か不穏なものを感じなかった訳ではない。だが近藤は、胸中でだけ密かに「すまん」ともう一度諳んじてから、土方の向かった方角とは逆に廊下を歩き始めた。エレベーターホールの反対側は休憩スペースになっており、会議前のこの時間であれば誰かが利用している事もあるまいと踏んでの事だ。
 そして近藤の想像通り、窓際に面した小さな休憩スペースに他に人の影は無かった。近藤は廊下の端の壁に軽く寄り掛かる様にしながら、携帯電話を耳に当てる。
 「待たせたな、山崎。念の為にトシは遠ざけておいた」
 《その方が良いでしょう。話の内容が内容ですから。今の副長にこれ以上負担になる様な事は避けた方が無難です》
 そこで「で、」と切ってから、電話の向こうの山崎は続ける。
 《まずは副長の証言にあった、鼠面の情報屋ですが……、事件の日の夜に路地裏に倒れていた所を江戸市中の総合病院に運び込まれていました。どうやら何者かに一方的に暴行されたらしく、骨折に内臓破裂寸前にと結構に酷い有り様でしたが、幸い命に別状はない様です》
 土方の証言する所の、『鼠』と彼が呼んでいた情報屋だ。そもそも事件は、鼠が土方との約束の場に現れなかった事が発端となっている。鼠も土方を襲った連中とグル或いは買収された線も棄てきれていなかったのだが、それだけの重症を負っている所を見ると、その可能性は低い。
 「本人──被害者から証言は取れているのか?」
 《所轄の同心の調書では、身に憶えが無いと語っているそうです。まあ情報屋の性質上、怨みを買う事も珍しくないでしょうしね。仮に憶えのある顔に襲撃されていたとしても、我々警察にその証言はしないでしょう。証言の取引材料を探す手もありますが…、警察と取引をした情報屋の信頼は失墜します。と、なると推定余罪でブタ箱に放り込むぞと脅した所で、応じないと思います》
 山崎の説明は淡々としたものだ。情報屋と言う人種がどの様なものなのかを理解しているからだろう、近藤に追い縋る要素を与えない、見事な迄の断定だった。
 然し、そうなると。鼠は事件の日に偶々何者かの怨みを買った訳では当然なく。土方曰くの蝙蝠面の男の仲間ないし本人が鼠を襲撃し、約束の時間に現れない鼠の代理人と言う形を取る事で、まんまと土方を騙したと言う話の方が筋が通る。
 つまり、犯人たちは意図して鼠を半殺しにして、土方に連絡のつかぬ様なタイミングで、発見され易い路地裏へと放り出したのだろう。
 現場や『被害者』から採取した証拠品から、一人の人間のものだと辛うじて判別出来たDNAも、データベースには存在しない男のものだった。土方の記憶に唯一残っている蝙蝠面の男とやらも見つかっていない。
 報道が『警察官襲撃』と言う点からも容疑者は犯歴者だろうと伝えていた通り、警察の捜査もそちらが重点的であった。だが、データベースに残っていない人物である以上、その線はほぼ消えたと見て良い。それどころか、少なくとも実行犯は初犯の『一般市民』である可能性が高い事になる。
 そして何よりも厄介なのは。何よりも『問題』なのは。
 「……然し、そうなると益々解らなくなってきたぞ…?」
 渋面を形作った顔の下半分を掌で覆う様にして、近藤は低く呻いた。携帯電話の回線の向こうで、山崎もきっと同じ様な表情をして、理解の難しい思考を巡らせているに相違ない。小さく、息を吐く様な音。
 「念の為にまた訊くが…、」
 《ありません。残念ながら、とは言いたくありませんが》
 これもまた、ありもしない可能性に縋るのを端から拒否した様な声だった。いっそ冷淡であったと言っても良い。
 だが、沸き起こりそうになる愚かしい期待へと冷や水を頭からブチ撒けてくれた事自体には、近藤は素直に山崎に感謝する。迷いが多く踏ん切りのつかない、どちらかと言えば頭脳ではなく心でものを考え口にするきらいの近藤にとっては、現実的な意見が何よりも響く事もあるのだ。
 ……──そう。問題なのは。
 依然として、犯人の狙いが『何』であるのかが、知れない事だ。
 例えば土方の醜態を具体的に示す、写真や映像などの証拠が漏れたり、それを盾にした強請及び取引の気配は、今に至るまで全く無い。
 犯人を特定し捕まえたとして、土方の負った瑕疵が何ら消える訳でも癒える訳でもないのだが、少なからずそう言った可能性が消滅する事で、心も幾分平安を取り戻せるだろう。
 だが、犯人の行方は疎か、その目的も今のところまるで知れてはいない。
 夜道を無防備に歩いていた女性ではないのだ。ただの強姦や暴行の目的で真選組の副長を、しかも周到な計画を以て狙う、そんな理由が『何』であるのか。『何』にあると言うのか。
 実行犯である蝙蝠面の男らは、少なからず土方が鼠から情報を買い、それを受け取る約束を取り付けていた事までを知り得て、贋物の駕篭(タクシー)まで用意しているのだ。計画的な犯行である事は疑う余地もない。
 だからこそ、目的がただの──ただの、と言うには些か抵抗があるが──強姦や輪姦に留まる、その意味に全く説明がつかないのだ。
 現状は見事な八方塞がりであった。土方の精神状態を見れば、事件を早期解決ないし動機を説明つける事が叶うならそれは早い方が良いに決まっている。
 だが、山崎の断言は確かで、そして有り得ないだろう事実を認識している故のものだ。犯人からのアクションは相変わらず何も無いし、土方が個人的に取引に応じて強請られている節もないと。そう言う事だ。
 「……解った。山崎、引き続き調査を頼んだぞ。今のトシを余り一人にしておくのも心配だ」
 声を押し潜めて言いながら、近藤は土方の背の消えていった廊下の反対側を見遣った。電話の向こうの山崎は《はい》と短く是の応えだけを残し、通話は切れる。
 目的のない犯罪は無い。それが警察と言う組織に就いて近藤の得た知識であり、世の常識だ。どんな物事にでも、欲でも怨恨でも金銭でも、何でも良い、理由が必ずある。
 中にはまるきり感情も感慨もなく犯罪を犯す輩も居るが、そんなものは極一握りの精神疾患者である事が殆どで、今回の様な解り易い、性欲や暴力を示すものにはまず有り得ない。
 (……他に、一体何があるってんだ……?)
 薬物を盛られ前後不覚になった土方に、もしも怨恨があるなら、殺すなり、辱めた内容を世間に撒いたり、幾らでも報復の手段はある筈だ。
 だが、その何れも行われてはいない。犯人たちの姿も見えては来ない。
 本当にただの気紛れの様に、周到な計画の末に、土方を傷つけ続けているだけの結果にしかならない。
 何かの意趣。それとも顕示の伴わない征服欲。そんな『成果』にもならぬ様なものに、そこまで手を回し計画を立てる意味が果たしてあるのか。
 近藤には幾ら考えてもその正解が解らない。或いは、近藤の様に真っ当な思考で生きる人間にはそれは到底理解し難い様なものなのかも知れない、が。
 そこで思考を中断し、近藤は携帯電話をポケットに戻すと廊下を少し足早に、議場に向かって歩き始めた。
 今は空白の犯人を想像する時ではない。その理解の無さを嘆く時でもない。
 今の土方は、水の溢れそうなグラスの様なものだ。いつ、どんな衝撃でグラスが砕け散るか、水を溢れさせて仕舞うか。何れであったとして、酷く危うい。
 土方の負った、修復の難しい状況に置かれた瑕を出来る限り護るなり、癒すなりをするべき時だ。それが、局長として副長に出来る事であり、親友として出来る事でもある筈だと、近藤はそう信じる事を己に課す事にした。







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