人が人になるまでにたった一万三千年 / 3



 玄関の呼び鈴が鳴った時、銀時はソファの上で微睡みかけていた所だった。
 腹の上に開いて置いてあったジャンプがばさりと床に落ちる音を聞きながら、銀時が二度寝に入ろうか本を拾って起き上がろうかと暫し悩んだ所で、耳障りにも二度目の呼び鈴が鳴ったので、渋々と上体を起こす事にした。
 窓の外は生憎の雨。室内の空気も湿気ていて、床に下ろした足の裏がぺたりと音を立てる。
 こんな日だが、新八はお通のコンサートだからと朝早くから出掛けているし、神楽は今日休みだと言うお妙と一緒にショッピングに出て行って仕舞っている。
 客も来なければ、家に誰が居る訳でもない。暇だからジャンプを読みながら寝転がった。まあ業務の不定な万事屋的にも銀時的にもよくある事である。
 立ち上がったついでに足下に落ちていたジャンプを拾ってソファの上へと投げ置くと、銀時は衣服越しに腹を掻きつつ玄関へと向かった。喧しい三度目の呼び鈴が鳴るより先に「はいはい」とお座なりな返事を上げておく。
 「どうも。お早うごぜェます、旦那」
 果たして三度目の音は鳴らなかった。が、それよりも余程厄介な客人が玄関戸を引き開けた先には立っていた。
 「なんでお早うなんだよ。どうして銀さん寝てた事前提?」
 「おや、違ったんで?」
 「まあ似た様なもんだけど。寝ちゃいねーよ流石にこんな真っ昼間から。君ね、俺をなんだと思ってんの」
 寝てないと言うのは嘘だけど。まあ寝かかっただけで寝てはいないからセーフで良いだろう。多分。
 きょとんと小首なぞ傾げてみせる栗色頭の悪魔に向けて口を尖らせて抗議してから、銀時は細く開いた玄関を塞ぐ様にして、突っ掛けたサンダルの音を鳴らした。
 平日の昼間。小雨とは到底言えない雨音の中に、江戸を騒がす武装警察の装い。余り良い組み合わせではない。しかも中身がこの悪魔の如き少年であれば猶更の話である。
 「普段なら、紛う事無いだらしない大人、略してマダオって答える所なんですがねィ、今日は万事屋の旦那と答えておきまさァ」
 「…………へぇ?」
 言う『マダオ』の内容は気に障ったが──、つまり。沖田は暇つぶしや気紛れや雨宿りなどではなく、明確な目的を以て『万事屋』に用がある、と言う事だ。
 あからさまに戸口を塞ぎ、歓迎する気なぞまるで無い態度の銀時に頓着する様子もなく、沖田は普段通りの風情で恬淡とした様子でいる。その表情は相変わらず読み辛く、肝心の、何の為に『万事屋』を訪ねて来たのか、の想像はまるで出来そうもない。
 きっかり五秒の間考えてから、銀時は戸の隙間を空ける様に身体を横にずらした。どうせ考えても無駄なら考えても仕方がないのだし、沖田の事だ、用があると言って来た以上簡単に退く事もあるまいと思ったのだ。
 銀時の退いた隙間から玄関を覗き込んで、そこにある靴の数をわざとらしく指さしながら数えた沖田は、片手に持っていた濡れた傘で地面を突いた。くる、と緩やかに回す動きに合わせて、ぽたりぽたりと滴が溢れる。濡れ具合からしてどうやら歩きで傘をさして来たらしい。これもまた珍しい事だが。
 「チャイナとメガネは留守ですかィ?」
 「神楽はお妙と『おんなどうしのしょっぴんぐ』とやらで外出中。新八はお通のコンサートだってよ」
 見りゃ留守なのぐらい解んだろ、と思いながらも、銀時は出て行く時の神楽の口調を思い出しつつ口真似でそう答えてやった。すれば、神楽との日頃の子供じみた口喧嘩の応酬でも思い出したのか、沖田はほんの僅か不快そうに片目を眇めてみせた。こう言う所だけは時々解り易い少年である。
 定春は銀時と共に留守番と言う憂き目に遭っているのだが、雨で退屈なのは飼い主と同じなのか、出てこない所を見ると納戸でぐうぐうと寝ているのだろう。犬は客の応対もしなくて良いから良い気なものだと思いながら、銀時は突っ掛けを脱いで三和土から上がった。
 それを上がっても良い許可と取ったのか、沖田は濡れた傘を傘立てに放り込みながら玄関戸を閉じた。ざあざあと囃し立てる様な雨音が戸の一枚に遮られて遠くなる。
 「旦那一人なら好都合だ。邪魔しやすぜィ」
 不穏で余計な言葉を添えながら、足だけでブーツを脱ぎ捨てた沖田が廊下をついて来るのに、銀時は密かに嘆息しながら居間へと戻る。
 ソファの上のジャンプを机へ投げる様に移すと、空いたそこにどさりと腰を下ろす。すれば沖田はさも当然の様にその向かいのソファにすとんと座った。
 格子窓の向こうの雨音と薄暗い空模様とが不穏な陰を室内に落としていたが、電気を点ける気にもなれないので、動く気は特にないぞと言う意味を込めて、銀時は黙って足を組む。
 「じゃ、単刀直入に言いますが」
 そう切り出した沖田も、茶が出て来るなどと言う事は別段期待なぞしていなかったのだろう、澱みの無い調子で話を始めた。
 「旦那はニュースとか見ますかィ?見た所新聞は取ってる様ですが」
 言ってちらりと視線を向けるのは、居間の隅に置いてある、廃品回収に出す新聞を束ねた山。定春の排泄物の始末に使うと言う理由もあって、ゴミ出しする以外にいつも何日分か貯めてあるのだが。
 (何でそんな、さも意外そうに言うかね、こんガキゃ)
 ほんの少し引きつりかけた頬を歪めながら、銀時は心外だと言う心算で肩を竦めてみせた。
 「そりゃァ、ニュースぐらいは見るし、新聞も目ぐらいは通すよ?幾らなんでも競馬新聞だけだとかお天気お姉さんのコーナーしか見てないなんて事ァ無いからね?まあ一番関心あるのは確かにそこだけども!」
 「正直な事で結構でさァ」
 問いておいて別段その辺りはどうでも良かったのか、銀時の抗議をまたしても右から左にさらりと聞き流すと、沖田は「で」と続ける。否、切り返す。
 その少し強い調子から、これからが本題なのか、と察して、銀時も僅か背筋に緊張を走らせる。気取られない程度にだが。
 「三日前の朝のニュース。警察官が暴行を受けたとか言う傷害事件があったんですが…、憶えちゃいませんかねィ?」
 「……あー、」
 深く思い出す迄もなかった。寝覚めの良い朝だったので良く憶えている。
 「朝刊にゃ間に合ってませんし、それ以降はどこの局でもどんなニュースでも新聞でも週刊誌でも伝えて無ェ筈なんで、憶えがあるってんなら話が早ェんですが」
 「ああ、うん。憶え……………て、るけど」
 そこまで答えてから、銀時は目を細めた。沖田の言い種を具に拾うまでもなく、その内容から漂う気配には余り碌な予感がしない。
 警察官の云々、と言う内容も勿論だが。朝のニュース以降はなりを潜め、夕刊にも載らないどころか週刊誌でさえもそれを掲載していない、と言う事は。
 「………報道規制、って奴か?」
 「まあ厳密にゃちっと違いますが、早ェ話それですねィ。で、憶えがあんですね?」
 「……まあ。一応は」
 恐る恐る問いたらあっさりと肯定された。銀時は沖田の話の行く先を余り想像する気にはなれず、曖昧に頷く。
 「朝の一度かそこらのニュースですし旦那が知ってるかどうかには実の所あんま期待してなかったんですがねィ……、まあ話も早くなった所で本題なんですが」
 そこで沖田は一旦間を取る様に両目を閉じて、この少年にしては珍しくも、全身から吐き出す様な溜息を挟んだ。
 然しそれは、躊躇い、ではなく、どう投げるか、を考えていた、その程度なのだろうけれど。
 結局、その間を経た沖田が選んだのは、実に直球な言い方だった。言葉通りのストレート。それ以上には他意も意味も潜まない、そんなもの。
 「実はその被害者、ウチの副長なんでさァ」
 ガイシャ、と言う言葉もあってか。それはまるでドラマの中の台詞の様に銀時の耳を軽く叩いて、酷く安っぽく万事屋の居間に落とされた。
 「…………………副長って。アレだよね。おめーがシツコくその座を狙うあの」
 安っぽい言葉と同じ様に、銀時の答えもまた、単純で、そして解り易く。
 「ええ。不本意ながら、その副長でさァ」
 「…………」
 言葉を交わし合う互いの間には、答えはとても明確で。熱が無くて。そして当人の不在の噂話の様に残酷だった。
 暫くの間銀時は、何と答えるべきかを考えたが、結局は無言で沖田の言葉の続きを促す事しか出来そうもない。
 そして沖田もまた、銀時の反応を特に待つでもなく、さっさと話を続ける。
 「まあ…色々と運が悪いと言うか、馬鹿だと言うほかないんですがねィ…、
 まず、暴行の現場が朝には操業の始まる倉庫だった事。──結果、多くの目につく状態で発見される事になりましてねィ。更にあん人が隊服でなく私服だったのもあって、普通の救急車で普通の病院に搬送されちまったんですよ」
 事件があったのは大江戸埠頭にある○○屋の所有する倉庫。○○屋と言えば銀時も名ぐらい知る貿易関係の大店だ。深夜こそ警備を機械の監視に任せていたとして、荷の積み卸しの為には職員が朝早くから動き回る事だろう。
 「ここで更に運の悪い事に、搬送された病院にはとある汚職疑惑の幕臣が『入院』してましてねィ、それを張ってたマスコミが居たんですよ」
 「……そんで、朝のニュースに、と」
 「ええ。あん人ァ面だけは良く知られてますからねィ、運び込まれたのが真選組の副長である事は直ぐに知れる事になっちまいましたが、幸いその被害者がその名前で報道されるより先に、所持してた警察手帳から病院側も事態を直ぐ把握して真選組(ウチ)に連絡が来まして。そのお陰でニュースの原稿になる数分前にはなんとか報道への規制の圧力が掛けられた、って訳ですが」
 報道の規制は基本的に各報道機関の自己判断に任せられる事が多い。それを『警察関係』として圧力を掛けて封じるのは、報道の自由と言う言葉に真っ向に反する事である。が。
 真選組の副長──攘夷志士に対してあらゆる意味で有名人である男を示す名である、それを貶める情報が不名誉なものである事は警察組織の問題にも、攘夷志士の新たな犯罪にも繋がる事だとは想像に易い。あの『鬼』の名前にはそれだけの意味と抑止力とがある。因って、報道に規制が強制的に入るのは、まあ頷ける話だ。
 そうでなくとも当人が、常日頃から己の役割と意味とに気を張っているのは、見れば容易く知れる事だった。万一の襲撃に備えているのだと言う理由で、未だ包帯も取れぬ傷の痛みさえ表情筋には毛ほども出さない。それならいっそ物騒な道を歩かなきゃ良いだろうと銀時が突っ込んだら、それこそ怖じけてると取られるだけだろうがと呆れた様に言い返されたのは、確か酒の席での話だったか。
 銀時がそんな事をつらつらと考えている間、沖田は息を継ぐ様に視線を窓の外へと流していたが、やがてゆっくりと戻って来た。心なし気乗りのない様な様子で。
 「…………まァ、正体が知れた以上、何があったのかを知りたがるのは報道としちゃ当然でしょう。スクープになる可能性もありますしねィ。
 第一発見者の○○屋の職員は、どう見た所で刑法絡みの犯罪の被害者の、発見時の事情を説明する目的もあって救急車に同乗してくれてましてねィ。記者に訊かれる侭に、被害者の発見時の状況を全部喋っちまいまして」
 まあその時はまだ、搬送直後で被害者の正体も知れてなけりゃ、真選組に連絡も行って無かったから仕方ねーんですが。
 そう、つまらない作文でも読み上げる調子で付け足して、沖田は無言で話を聞いている銀時へと、実に質の悪い笑みを向けて寄越した。
 「結果、真選組の鬼の副長──土方十四郎が、複数の野郎供に暴行、詰まる所レイプされたって事実が各所に知れる事になっちまった訳です」
 「………………」
 嘲笑とも同情ともつかない沖田の笑み混じりの言い種に、銀時は目を眇めたのみで何も答えなかった。
 雨の静かな音だけが暫くの間、気休めにもならない相槌を打ち続ける。そんな暫しの沈黙を破ったのは、結局沖田の紡ぐ話の続きだった。
 「相手が攘夷浪士共ならまだしも、訊けば破落戸と言えど一般人って話です。幾らクスリ盛られてラリっちまってたァ言った所で、武装警察の鬼の副長様が、喧嘩負けの挙げ句に輪姦されただなんて、笑い話にもなりやしねェです。しかも状況が状況でしたからねィ、本来それを伏せるべき隊士らにも話が知れちまったと来たもんだ」
 全く情けの無ェ話です、と独り言の様に投げて、今度こそ沖田は銀時から顔ごと視線を逸らした。相槌を打つのは雨音だけだと言う嫌味の心算なのか、その侭の姿勢で続ける。
 「近藤さんにも、とっつァん──警察庁長官から痛烈な釘が刺されましてねィ。ただでさえ低空飛行の真選組(ウチ)の風聞以上に、これは組全体の士気にも関わるってんで、事は野郎と言う被害者がどうのこうのって問題を越えちまってんでさァ。あ。もちろん旦那もこれ、オフレコで頼みますぜィ」
 最後だけ鋭い視線がちらりと向けられるのに、銀時は思わず顎を逸らして口を尖らせる。
 「オフレコならわざわざ言いに来んなっつーの」
 「土方さんの立場と階級もありましてねェ、深酒の挙げ句喧嘩負けして手籠めにされた、そんな不始末で懲戒免職って訳にも行かねェ。報道は押さえたから、後は知らぬ存ぜぬで、事実が噂になってやがて消えるのを待つだけなんですが…、」
 無視かよ、と、その侭何食わぬ顔で続ける沖田の横顔から視線を外して、銀時は両肩を落としながら嘆息した。足を組み直して、恐らくはこの後に続いて行くのだろう『本題』を──『万事屋』への用件を待つ事にする。半ば諦めに似た心地で。
 「肝心の『何事も無く振る舞わ』なきゃなんねェ被害者が、まあすっかり腑抜けて苛々しててやってらんねぇんでさァ」
 「あれ。て事は屯所に戻ってんのアイツ?」
 「ええ。いつまでも病院に居るなんて、何か異常がありますって言ってる様なもんですしねィ。応急手当の後は即日退院でさァ」
 暴行と言うぐらいだし、てっきり病院で囲っているのかと思っていた銀時には少々予想外ではあったが、まあ言われてみれば確かに頷ける話だ。
 「まあ怪我って言っても酷いもんじゃ無かったんで。…………一部分以外は概ね」
 「……まー下世話だこと」
 またしても厭な嗤いを乗せて言う沖田を窘める様に言ってから、銀時は「で?」と更に続きを促す事にした。ここまでは未だ、『万事屋』への本題には触れていない。すれば沖田は、促された事へ不快感でも示す様に、表情を癇性めいた仕草で歪めてみせる。
 「…………あん人は別に、喧嘩に負ける事自体は初めてでもなんでも無ェんですがねィ。それに、強姦ったって所詮は野郎だ、傷害にしかならねェ。
 でも、手前ェの男としての矜持や侍としての意地が真っ向から踏みにじられて、しかもそれが隊士らを含む他の多数の人間に知れた事で、野郎の自尊心は易々修復出来ねェぐらい砕けちまいやした。
 だから今、残された手前ェの自尊心を保つのに必死で、見ちゃいられねェ程に大荒れしてんでさァ」
 成程、自尊心が高く負けず嫌いのあの土方であれば、それは充分想像に違えのない話である。それで苛々、と言う事か。と、そこで銀時は首を捻った。沖田の言い種が余りに淡々としているので、一瞬見落としそうになった事がある。
 「荒れてんのはともかく…、腑抜けてる方は何でよ?」
 沖田は先頃、不抜けて苛々していると言ったのだ。銀時が知る土方と言う男の性質から見ても、苛々していると言う様子には頷けるのだが、腑抜けて仕舞うと言うのは良く解らない。
 「…………」
 銀時の問いに、沖田はぐるりと頭の向きをこちらへと戻して、それから膝の上で両手を軽く組んだ。そうして何処か苦味にも似た様子で唇の端を片方だけ器用に持ち上げてみせる。
 「正直、俺や近藤さんじゃ、今のあん人はちっと手に余るんでさァ」
 その苦味の中に、縋る藁の様なものが僅かだけ覗き見えた気がして、銀時は沖田の本当は濁したいのだろう──手に余ると言わしめるその部分、それこそが万事屋に恃みたい『依頼』なのであると直感的に察した。
 あの矜持高い男の、負った瑕がどれ程のものなのかを計る気にはなれない。
 銀時は口中に沸き上がって来た、酷く不快なものを呑み込む事も出来ずに転がして、それから密やかに、憶え深く記憶の中に棲んで仕舞った男の姿を頭に浮かべようとして、然し失敗した。
 不快だった。
 それはもう、酷く、不快であった。
 仕舞っておいた何かを無遠慮に暴かれ踏みにじられ、そして勝手に盗まれた様な。理不尽ささえ感じる、不快な、怒り。
 沖田の濁そうとしている言葉にではない。
 ニュースにならなかった事件にではない。
 こんな事を話されている現状にではない。
 腑の煮えくり返りそうな、どろりとした感情は、激しい嫉妬なのだと。おかしなもので、不意にそう気付く。
 
 そう。坂田銀時は、土方十四郎へと片恋を抱いていたのだから。







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