人が人になるまでにたった一万三千年 / 4



 居酒屋で遭遇しては、埒もない喧嘩の末に飲み代をせびったり。
 町中で遭遇しては、下らない口喧嘩の様な会話未満の会話をしたり。
 親友でも仲間でも無かったから、多分にお互いに気が楽な存在だったのだろう。気分が良ければ相槌の一つぐらい打ったし、気分が悪ければ悪口雑言の応酬で憂さを晴らした。
 遠慮のない関係は、偶々相席した見知らぬ他人よりも遠いぐらいで、気を遣う必要がないだけこちらの方がいっそ楽であった。
 慣れなのか、毒されたのか。気付いて仕舞った時には待ち人恋しい面とやらを──指摘されたのだ──していたのだから、全く己の感情と言えど手に負えない。
 それが恋愛の名前で分類されるものなのかどうかは解らなかったし知らなかったが、厄介な感情であった事は確かだった。
 どうしようかと思うより先に、肚の底でそれは煩い程に存在を主張していたから。
 どうにかしたいのだろうなと、半ば白旗を振る心地でそちらを向いた。衝動の正体は分からないけれど、どうしたらこちらを振り向いてくれるのだろうかと、そんな事を考え──
 
 *
 
 「手に余るって」
 「……まあ、言葉通りなんですがねィ、」
 どうにも言い辛そうにしている沖田を促す様に問えば、彼は存外正直に呆れ顔を浮かべてみせた。それこそ何かを持て余している事そのものの様に。
 「今のあん人は崩された手前ェの矜持を保つ為に、強がってねェと駄目らしいんですよ。でも、俺や近藤さんにはその真逆になっちまう。今まで見た事も無ェくらいしおらしいんで、気持ち悪ィったらありゃしねェ。それこそ、本当に雌に成り下がっちまったみてェに」
 そこで沖田の目にぎらりとした光が過ぎる。これは言葉にしている通りの苛立ちだなと直ぐに銀時も察した。
 「ザキや、呼んで貰ったお匙の見立てでは、土方さんは無意識の内に、また誰かに暴力に因って屈服させられんのを怖れてんだそうです。だから、自分の絶対の命令権者でもある近藤さんは勿論、野郎を日課で攻撃していた、野郎よりも強ェ俺にも逆らう事が出来ねェ。
 反論があったとして、怒鳴りたかったとして、振り上げかけた拳を下ろす様にして従っちまうんでさァ。本人は無自覚の上に無意識だから、それをおかしいと思っていても、止められねェ。
 部屋にバズーカぶっ放そうが、マヨにタバスコ混ぜようが、目に余るストーカーに励んでいようが、キャバクラで真っ裸に剥かれていようが。
 ……怒りすらしねェんですよ、あの癇性な所のある鬼の副長が」
 沖田はそう淡々と言い終えると、さも煩わしそうに舌を打った。本人曰く『腑抜け』ている土方に対して、てっきり副長の座を奪う好機を見るかと思いきや、どうやらそうではないらしい。全く、複雑な少年の心中は良く知れない。
 (……にしても。問題児二人を放置するとか、確かにアイツらしくねェわな)
 それだけ、真っ向からの暴力に屈せられた事は、土方にとって度し難く、認め難い『恐怖』であったと言う事か。
 「無駄に怒鳴られる隊士連中にも良い迷惑でしょうがねィ、近藤さんも大分心配して心砕いてまして、副長出席の小さな会議にも付き添うしで、実務に差し支えも出てんでさァ」
 沖田は目の下に皺を刻みながら吐き捨てる様にそう言って、相槌を促す様に肩を揺らしたが、銀時は同じ様に肩を竦めて返すのみに留めた。
 土方が『そう』なると言うのは、心理的な運びとしては解る。自分の言う事に従う部下には強く当たればそれで良い。彼らが決して逆らいなぞしない様に、強い己を見せていればそれで良い。
 だが、近藤や沖田の様に、己に容易く何かを言い聞かせる事の出来る者たちはそうは行かない。彼らの権能や力が為す術もなく降る事で、再び己の意志がねじ曲げられるのが、今の土方にとっては『怖い』のだろうから。
 故に先んじて従う。全くの無意識で。但し酷く不自然に。己が端から『そう』したのだと思い違えながら、彼らの行動にも言動にも目を瞑って仕舞う。
 そう。予期せぬ瑕を負った人間の心の、防衛的な反応は理屈として解る、が。
 だが、沖田が銀時に期待している反応は、銀時のそんな理解でも解説でもないのだ。
 「……まぁ良いです。本題の本題に入りますぜィ」
 失望、ではないだろうが。むすりと黙り込んだ侭の銀時の眼前、卓の上へと。沖田は、懐から取り出した封筒を滑らせた。
 普通の茶封筒。膨らみ、厚め。重量感、ややあり。
 「近藤さん…って言うか、まあ真選組(ウチ)の依頼と思って下せェ」
 依頼、と言う所で沖田が小さく顎をしゃくる様な仕草をしたので、促された銀時は出された封筒を持ち上げた。ちらりと覗き見た中身は想像通り──否、以上の諭吉の群れ。
 「旦那は一度あん人に勝ってんでしょう。ガチの喧嘩で」
 「や。喧嘩っつーか決闘未満つーか……」
 「つまり、旦那も土方さんを一度は力でねじ伏せた人間な訳でしょう。だから、俺らと同じで、旦那も土方さんを『怖れ』させられる一人になると、俺ァ踏んでんでさ」
 金の詰まった封筒を出した以上、これが依頼、と言う事なのだろうが──沖田の言う事は今ひとつ的を得ていない。
 心のケアの必要だろう被害者にとって、怖れのある人間を、金まで払って増やしてどうすると言うのか。それとも逆で、もう近付くなとでも言うのか。いや、金まで払う必要性がそこにあるとは思えない。別に無理に接近していた訳でもなんでも無いのだし。
 片眉を持ち上げ、視線だけで答えを促す銀時に、沖田は自らの膝についた肘から先を態とらしく揺らしてみせた。
 「土方さんは、手前ェにとって絶対である筈の真選組の中で訳も解らず萎縮しちまう己に困惑してるから、益々下には怒鳴り散らし、上にゃ怯えちまってるって訳です。だから、真選組と無関係な旦那が『命令』してやりゃいいんでさァ。ストーカーに励んでる上司に『怒っても良いんだ』って具合に」
 命令。その言葉に、寸時鼻先に漂う甘美なものを感じ取って仕舞い、いやいや、と直ぐ様振り捨てる。
 「いや意味わかんねェんだけど?何で俺があの子の面倒見る感じになってんの。無理だろ。つーか有り得ねェだろ」
 それ以前に意味がないだろう、と銀時は怪訝な表情を向けるのだが、沖田はあっさりとしたもので──先頃の躊躇いは何処へやったのやら──、
 「要するに誘導ですよ。土方さんの逃げ道を塞ぐ様に、一言言ってやって欲しいんでさァ。俺や近藤さんがそう『言った』所で、あん人ァそれを不承不承受け入れて仕舞うんだから、それじゃあいつまで経っても解決しねーでしょ。
 で、然程親しくもなくて、真選組に全く関わりの無ェ旦那の言う事なら、別に誰に角が立つ訳でも無ェ。それに、土方さんはなんでかんで旦那の事は認めていますからねィ、『命令』されてると感じる事もなく受け入れられる可能性は高いんじゃねェかと」
 取り付く島なぞ端からないと言いたげに、実にさらりとそう言い切り──推論の様に言うが、言葉は強い断定の色をしていた──、対して口の両端を落とした銀時は益々渋面になった。
 これもまた、言い種は何となく解る。萎縮の正体とはまるで無関係の者の言う事ならば、それが『命令』である違和感を憶える事なく土方もそれを受け取るだろう、と言う理屈は一応解るが。
 (だが、それじゃあ野郎は回復なんざしねェだろ。一時は真選組に対する手前ェの在り方のストレスからは解放されるかも知れねェが、)
 それをして回復したと言い切れるのであれば、そもそもそんな面倒な症状に陥ってないだろう。寧ろ単なる臭い物に蓋の原理である。
 「まあ効果の程はさておいて、縋れる藁があるんなら縋りてェのが現状ですからねィ」
 「……良く言うぜ」
 ちらり、と意味ありげな視線を投げて寄越す沖田を見下ろして、銀時は露骨にそう吐き捨ててから、封筒を卓の上へ投げ落とした。髪を掴んで後頭部をがりがりと引っ掻く。
 大体にして、幾ら嘗て喧嘩に勝ったからとは言え、折り合いの悪い相手の言う事なぞを聞いて従う事を良しとしたら、それこそ土方の精神状態を危ぶみたくなる。沖田曰くの通りに、土方が銀時の事を『認めて』くれていたとしても、だ。
 それでは根本的に解決にはならない。そんな事は沖田とて知っている筈なのだが──、言うだけ言う事ですっきりしたのか、すっかりと無表情に程近い表情を取り戻して仕舞っている沖田のその面からは相変わらず感情がよく読めない。
 「言っときますが、旦那が藁なのは俺らにとってじゃねーですよ」
 「………………それこそ、良く言うわ」
 言うだけ言って立ち上がる沖田の動きを目で追って、銀時は忌々しさも顕わに呟いた。
 土方さんにとっての藁になってやれるのは、多分アンタだけでさァ。
 そんな言葉を、思わしげに細められた大きな瞳の中に読んで仕舞っただけに。可能性があるかも知れないだろうと提示されているだけに。銀時は苛立ちながらも思わず笑みを浮かべて仕舞った。
 その表情の意味に気付いたのか、いないのか。沖田は細めていた目をするりと卓の上の封筒へと向けて言う。
 「取り敢えず一週間、屯所に襖と壁の修理の仕事って事で来て下せェ。ザキに話は通しときますんで、日中なら時間はお任せします。んで、後は旦那の裁量で適当に。
 依頼金は成否を問わず前払い分だけで。あと、チャイナとメガネは連れて来ねェで下せェよ。見知ったガキに手前ェの醜態知れてるかもって勝手に思い込んで凹みそうなんで」
 腹立たしいんですよ、アレ。
 そう、口元を厭な形に歪めて付け足すと、沖田は刀をベルトに提げ直して歩き出す。
 「まだ、請けるとも言って無ェんだけどな」
 封筒の厚みは魅力的ではあるが、依頼の内容に因ってはそれもまた霞む事もある。稀にだが。
 そんな躊躇いの重みを引き摺った銀時の言に、然し沖田は振り返りもしない。
 「まあ、一度みてやって下せェよ」
 看て、なのか。見て、なのか。意味の不明瞭な一言と、厚みと価値のある封筒とを置いて、沖田は「それじゃあ失礼しやした」と、ソファに座った侭の銀時に向けてそう投げて、雨の中へと戻っていった。ばさり、と玄関の外で傘の開く音。窓を見遣れば、雨は益々その勢いを増している様に見えた。
 神楽とお妙はショッピングモールに行くとは言っていたが、行き帰りに降られるのは避けられないだろう。タオルでも用意した方が良いだろうか。こんな天気の中出掛けるからだ、と悪態をつきながら、こんな天気の中にわざわざ厄介そうな依頼を置きに来た奴の事を思って、自然と溜息がひとつ。
 近藤にとっては兎も角、沖田にとっては藁がなんであろうが別段構わないのだろう。ただ、雨だからと出渋る程に暢気に構えてもいられないと言う事実が恐らくはあるだけで。
 (土方が、ね)
 思い出す、気位の高そうな表情が──苛々としている様子であればすんなり思い描けたが、萎縮し凹んで居る様子と言うのは、どうにも余り想像がつかない。沖田にとっては相当に癇に障る態度である様だが。
 藁に縋らせたいのだろうか。それとも、逆上でもするのを期待しているのか。どう言う形であれど、取り敢えず土方が平常心に戻れれば良い、と言う見込みではある様だが──
 とは言え。銀時は、沖田の言う程に土方に意見なぞ言い聞かせられるとはまるで思っていない。
 (……まさか、知ってはいねェだろうけど)
 時々凄まじい直感を働かせるあの悪魔であれば、そんな銀時の胸中でさえ何処か見抜いていそうではあるが。いやまさか。
 「まあ、金も置いてかれたしなァ…」
 手を伸ばして封筒を取り上げると、銀時は立ち上がって机の抽斗を開いた。雑多なメモや不織布の袋に入ったDVDディスクなどの上へと金の入った封筒を放り込み、元通りにぴたりと閉じる。
 さて、新八や神楽には何と説明をして、明日からの単独での依頼に出向こうか。
 思考を巡らせながら椅子に腰を下ろせば、近くなった窓からはまるで喝采にも似た雨音が響いていた。







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