愛する人よ(真実は)誓わずにいよう / 11



 銀時が戻って来たのは、陽もとっぷりと沈んだ夜半だった。そうでなくとも夕方から出始めた雨雲に包まれてぱらぱらと雨粒が降り始めた江戸の片隅は、月の無い夜の様にひたすら黒く暗い。
 「…ただいま」
 「……お帰り」
 灯りも点けず、家の中でなまくらの刀を抱き締め蹲っていた十四郎の姿に何を思ったのか、或いはその様でさえ想像通りだったのか。銀時は十四郎の様子には何も言う事はなく、濡れた着物を煩わしげに着替えながら口を開く。
 「もう、俺が攘夷志士でしかもお尋ね者なのは解ってるたァ思うけど。仲間に連絡付けて来たから、今晩中──遅くても明日の夜明けまでには此処を出なくちゃなんなくなった」
 「……そう、か」
 動き易そうな軽衫に穿き替えながらそう説明を寄越す銀時にぼんやりと頷きを返しながら、十四郎は、これで終わりなのだろうと考えていた。ただ漠然と。己がどう望もうが望むまいが、銀時は十四郎の事を『護る』のだろう、と。
 だから。着替えて刀を──十四郎の持つ様ななまくらではない、何かの信念の為振るわれるのだろう剣を──佩いた銀時が、座り込んで動かない己の傍らに膝をついた時。十四郎は、切り出されるだろう別れの言葉を覚悟し、目を固く瞑っていた。
 「十四郎」
 呼ばれる。呼ばれ慣れず、呼び慣れない筈の名前。それが何故か非道く十四郎の心を引っ掻く。耳から入り込んで脳を、憧憬や安堵にも似た感情で縛り付ける。初めて己が教えて、呼ばれた、それから未だほんの僅かの時しか経っていないと言うのに、まるで何年も前から『こう』だった──そんな錯覚さえ、憶えるのは。銀時が余りに大事そうにその響きを紡いでくれたからなのだろうか。
 呼ばれる侭に。手を取られ導かれる様に、十四郎の目蓋は自然と持ち上がり、こちらを覗き込んでいる銀髪の男の姿をたちまちに視界に捉えていた。
 「…ぎ、ん、」
 躊躇いを押し退けて唇が震えた。
 望めと、叫べと、何かの衝動が、何処からともなく沸き起こる。銀時はじっと、十四郎のその言葉をまるで待っているかの様に、ただ静かな眼差しを向けて来ていた。
 望めば良いと──仮令それが叶わぬとしても。虚構に見た夢でしか無くとも。
 望もうと、唇は開くのに、喉から言葉が出て行かない。竦んだ様にずきずきと喉が痛む。上手く呼吸の出来ない子供の様に不自然な呼吸が、ひゅ、と出て行く、それに乗せて何とか十四郎が声を上げようとしたその時。
 「!」
 銀時が弾かれた様にばっと戸口の方を振り返った。それと同時に、土間に面した窓の、今は閉ざされたその隙間から強烈な光が飛び込んで来る。闇を無遠慮に裂くそれは、投光器に因るものだろうか。歪に細い隙間から入り込み、真っ直ぐな光を床へと投げ落とす。
 「御用改めである!攘夷志士白夜叉、大人しく投降すれば我らに交戦の意志は無い!速やかに武器と抵抗を棄て、出て来るが良い!」
 更に続け様闇を裂いたのは、轟、と腹の底に響く様な声量だった。凛と張った声の力からは、権力と実力とに絶対の力を持つ自負さえ伺え、雷にでも打たれた様に思わず十四郎は身を竦ませた。
 「……野暮な連中だよ全く」
 刀に軽く手を掛けた銀時は嘆息すると、十四郎の方を素早く振り向く。
 「新八の言ってた、真選組、か?」
 「らしいな。尾けられてた感じはしなかったから、予めこの近所にアタリを付けてたのかもな。で、帰宅を見届けた所で包囲された、と」
 「…………」
 新八や十四郎が密告したと言う可能性は銀時の頭には端からゼロの様だった。だがそんな事に安心している暇はないと十四郎は直ぐ様我に返って言う。地道な捜査の成果だろうが何者かの密告だろうが、今彼らに退路を塞がれている絶望的な現状に変わりはないのだ。
 「どうするんだ…?」
 表を囲む人員が何人いるのか、正直十四郎には知れない。ただ雨音に紛れてあからさまなほどに大勢の気配はする。する、と言うよりは『在る』。彼らが全員無感情で潜んでいればどうかなど流石に解らないが、一斉にこちらに集中し身構えている、空気や物音と言ったものははっきりと知れる。
 そしてその数は、到底一人や二人の人間に何とか出来るものでもない、と。
 問いはしたものの。反射的な行動だったのかも知れないが、刀に手なぞ掛けている所を見る限り、銀時には真選組の命令に対する承伏の意志は無いだろうなと十四郎は察していた。だから問いの主旨は寧ろ、どうやってこの危機を脱するのだ、と言う所に向けられていたし、銀時もその問いの意を正しく判断していると思っていた。のだが。
 銀時は、なまくらの刀を握りしめていた十四郎に、酷く優しげな視線を向けて。言う。
 「それはこっちの台詞だよ十四郎。……どうする?」
 「え…、」
 「今ならお前は未だ引き返せる。お前くらいの腕があれば、外の連中みてェな職にも就けるかも知れねェ。……そう言う、真っ当な生き方のがほんとうはお前には合ってるのかも知れねェ」
 角度の変わった光が、銀時の背中を照らした。その丁度陰になる部分に佇む十四郎には、外からの光は届かない。

 触れなくて、良かったと思った。
 きっと、触れたら灼けて仕舞うと。そう思った。
 狗の謗りを受けながらも自らに課した信念を護り通し生きる、眩しすぎる彼らの生き様に。灼かれ爛れて仕舞うと。
 ………──そう、思った。

 「──っ、銀時、俺は、」
 「………………それとも。俺と来るか?」
 逆光でよく伺えぬ陰影の中、銀時の掌が伸べられるのを見て、十四郎はそっと息を呑んだ。
 この、光と陰の狭間が。恐らく何かの、選び損ねた何かの岐路だと。本能的にそう感じる。
 それはきっと余りに馬鹿げた想像の様なものだったのだろうけど。

 「……銀時…、俺はもう、あそこには戻れねェんだ」

 瞬間的に『何か』を選ぶには、充分に過ぎる理由には足り得た。
 「あいつらみてェな、真っ当に刀を佩いて生きる様な、そんなものにはなれやしねェんだ。
 俺は既にあいつらの法で言う『罪人』だ。夜毎に天人を辻斬りして来た、そんなどうしようも無ェ人間である事を選んだ。そうしてまでも手前ェのちっぽけな望みだけを信じようと浅ましく願った。だから、もう」
 ここでの、選択は既に違えている。
 真選組(かれら)の様な生き方なぞ、今更望んだ所で望めやしない。
 苦い思いも恐れも一時呑み込んで、決然と十四郎が見上げた先で、銀時の掌は引く事も畳まれる事もなく、ただじっと待っているだけだった。
 驚かないのか、と僅かに思う。銀時は聡い男であったし、状況からひょっとしたら十四郎の事を辻斬り犯ではないかと薄々は勘付いていたのかも知れない。
 だ、としたら何故。そんな、攘夷志士にとっては罪状を増やし名誉を貶められる様な、言って仕舞えば迷惑な存在を、銀時はわざわざ拾おうと──護ろうとしてくれたのだろうか。
 攘夷志士の仕業の様に天人を殺める迷惑な悪ガキを、手ずから仕留めようとでも思ったのか。否。
 「お前を信じるのも、護りてェのも、俺のしてェ事だからって言ったろ」
 どうする? と。十四郎の思考を継ぐ様にもう一度言う銀時の、伸べられた侭のその掌を。
 「………」
 じっと見つめる十四郎の裡に生じていたのは、果たして躊躇いだったのだろうか。
 或いはそれは。
 他の可能性を知り得る者の、当然の惑いだったのか。
 「繰り返す!我らは真選組だ!御用改めである!」
 外の鋭く大きい声には聞き覚えがあった。先日近くの水場で会った、近藤と言う男のものだろう。その事だけは、十四郎には酷く確信があった。
 声に引かれる様に、寸時銀時の肩越しに光を覗こうとして──然し十四郎はその衝動を、興味にも似たその感覚を振り切った。目の前の、銀時の手を強く握る。
 「行く。お前と、行く。俺は、俺の知らない夜叉(お前)を知りてェ」
 「………上等」
 ほんと、お前は。
 何かどうしようもない感情を噛み締め損ねた様に、銀時がそう小声で呟いて笑って見せるのに、十四郎は心底安堵した。
 これが正しい岐路かそうでないかを決めるも斟酌するも、今の事ではない。そんな愚昧も傲慢も赦されはしない。
 畢竟、こうなるべく在っただけの、在りたいだけの、ただの望みだけが形作るのが今のこの瞬間でしかない。
 「こう言う時の為に、連絡取って来た訳だ」
 そう銀時が不敵な笑みを窓の外へ向けた横顔に乗せた瞬間、包囲されている外から爆音が響いた。
 たちまちに辺りが戦場の様な喧噪に包まれるのに、反射的に背筋を正した十四郎はその背を押されて立ち上がる。そこには惑いも迷いも疾うに無く。
 土間から二人分の草履を取って来た銀時は、続けて家の奥にある押し入れを開いた。その寝具以外の中身の殆ど無い下段にしゃがみ込んで壁をいじると、奥壁ががたりと横にずれて外れる。小さな、這わないと出れない様なそんな孔がぽかりとそこに開かれると同時に、外の騒ぎや喧噪がたちまちに近くなる。
 流石に呆気に取られる十四郎を振り返り、草履を履く様促しながら「非常口」と銀時は戯けた様な仕草で言うと、そこから長屋の裏手に出た。
 狭すぎる隘路は乱雑に物が置かれている所為か、見張りが立っている様子はない。人ひとり通れるかも危ういスペースのそこに、十四郎も慌てて銀時を追って出る。水溜まりを跳ねさせる程度の雨量が、ただでさえ明瞭ではない夜の風景を更に不透明に滲ませていた。
 そうする間にも表からは炸裂音の様なものと、その対処に追われる真選組のざわめきや怒号が響いている。
 「銀時、こちらだ」
 不意に降って来た、押さえてはいるが喧噪にも負けぬ硬さを纏った男の声に顔を上げる。すれば、銀時曰くの『非常口』を出た所の、隘路を挟んだ向かいの家屋の屋根に、闇に溶ける様な黒装束の男が佇んでいるのが見えた。
 「おう、ヅラ、面倒かけたな」
 「ヅラじゃない桂だ。早く来い。ああ見えて連中はなかなかに訓練された犬の様でな。表の陽動もそう長くは保たん」
 桂と名乗った黒装束の男はそう言うなり、梯子をその場に掛けて寄越した。銀時は十四郎を促して先に梯子を登らせ屋根へと上がると、梯子も一緒に上に上げてその辺りに放り出す。
 雨で滑り易くなった木貼りの屋根板を何とか男の後に付いて進み、長屋の裏向かいの更に反対側の地面に次々下りる。と、そこには運送会社の名前の書かれた小型のトラックが停められていた。それが脱出の手段なのは問うまでもないが、昼間銀時が出ていって仲間──この桂と言う男も含むだろう──と『連絡』を取った、それから取れた準備としては破格の用意の良さだ。思わず舌を巻く。
 その頃には長屋の表の陽動らしい音は止んで仕舞っていた。桂は、ち、と舌打ちをしながらも、銀時と十四郎とを車輌に乗り込ませ、最後に自分も続いた。
 軽トラに三人の男が詰まると流石に狭いが、運転席に着いた銀時の邪魔はしない様に十四郎は何とか身を縮めた。
 エンジン音は喧噪の静まった夜にはさぞ響くだろう。雨音など気休めにもならない。だが、陽動も終わった今、家がもぬけの空となっている事は知れている筈だ。何にしても急いでこの場を離れるのが得策だろう。
 桂に向けて小さく頷くと、銀時は車のエンジンを掛け、一気にアクセルを踏んでハンドルを切った。夜の闇に響き渡るその騒音に、「こっちだ!」「表に回れ!」などの声が辺りから次々湧き出す。
 すれば桂は助手席の窓から軽く身を乗り出し、手にしていた丸い拳大の球体を次々放った。三人の真ん中に挟まれた形になっている十四郎には背後を振り向く余裕なぞ到底無かったが、後方でどんどんと音がしているのを聞いた限り、爆弾や煙幕弾の類だろうと推測しておく。
 銀時は狭い道から広い、未だ煙る様に明るい繁華街に向けて出ると、他の車輌の群れに紛れる様に走り始めた。その侭郊外方面へと続く国道をのんびりと進んで行く。
 「検問の準備とかされてなくて良かったな」
 「あの狭い地区で、車で逃走する事は想定外だったろうよ。そもそも攘夷志士が車の運転技能を取得しているなどと言う可能性も、連中の考えの埒外だったのだろう」
 「…まぁな。俺も別に普段から車乗り回したりはしてなかったしな」
 前時代の遺物の最たる例の様な攘夷志士が、車を運転して逃げるなど確かに想像もつかない話だろうと、横耳で聞きながら十四郎がそんな事を考えていた時。
 「……で。銀時。てっきり俺はお前一人を迎えに行けば良いものだとばかり思っていたのだがな?」
 「………」
 暗に。これは誰だ。何だ。と問いたげに顔を顰めた桂の視線に、車の狭さと居心地の悪さもあって十四郎は気まずげに銀時の方へと視線を泳がせた。
 そんな桂と十四郎とをちらりとだけ見て、銀時はただあっさりと一言。
 「土方十四郎。『俺の』。……そんだけで足りるだろ」
 そんな風に、反論も質問もし難い調子で言い切ったものだから、何がお前のなんだ、と言いかけた十四郎も、何が足りるんだ、と言いかけた桂も、何だかそれ以上を問うも言うも、気が削がれて仕舞ったのだった。







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