愛する人よ(真実は)誓わずにいよう / 15



 いつしか、見上げた曇天の銀色を割いて、雨が降って来ていた。
 近藤たちの姿も、爆発音や喧噪も、ターミナルのシステムでさえもそこから消え失せており、辺りは瓦礫と焔とに満たされ酷く昏い。
 死者たちの臭いに囲まれた侭、十四郎は宛どなくふらりと歩き出す。

 「土方」

 だが、不意に耳に届いた馴染み深い声と響きとに思わず足を止めて振り返ってみれば、そこには黒い洋装の上から白い着流しを纏った銀髪の男の姿があった。
 重たげな目蓋と、僅かに歪められた口元。刃の様に煌めく銀色の髪。切れ味の悪そうな木刀を携えた、侍の姿だ。
 「………誰、だ」
 見覚えのある銀時の。然し見慣れぬ姿。見慣れてはいけなかったのかも知れない姿に、十四郎は泣き笑いにも似た誰何を上げた。

 「十四郎」

 続け様、反対側から同じ声が違う響きを紡いで呼ぶのに、十四郎がぎくしゃくと首を動かして振り向けば、そちらでは白い夜叉が手を伸べて佇んでいる。
 「ぎん…、、」
 反射的に手が伸びた。指の間から刀が落ちて、静かに微笑む夜叉の──十四郎が、土方が本来知る事なぞ無かった男の、絶対的な安堵を保証してくれるだろう姿へと。手が。
 「……──、っ」
 然し、震える指は伸びた手の先で拳を作った。
 土方の視線の向こうで、白い夜叉は静かに微笑んでいた。
 「…………」
 ちがう、と、呻きながら土方はかぶりを振った。
 これは、『 』で、『 』で、己の望みの形作った願いの帰結で。
 それを知って猶望むのは。
 
 「……………………、」
 伸べかけていた手が、力を失ってぱたりと落ちる。
 鈍い銀色をした天へと求める様に伸ばした手。届けと、届きたいと、近づきたいと、無我夢中で伸ばした己の、弱い手だ。
 結局、何にも触れる事の叶わなかった。護ることさえ叶わなかった。手だ。

 これは、夢で。偽で。己の望みが形作っただけの世界で。
 そこに身を任せるのは、穏やかな死でしかないものへの肯定だ。
 
 土方はゆっくりと、白夜叉の反対側に佇む銀髪の男を振り返った。
 男はこちらに手なぞ向けてはくれていない。優しく微笑んでくれてもいない。ただそこで、土方が自ら選択を決するのを待っている。
 待ってくれて、いる。
 
 「……万事屋」
 
 そう、紡ぎ慣れた言葉が喉を震わせた瞬間。
 土方の喉はぱくりと裂けて、そこから溢れ出した血が瞬く間にその身を染め上げた。
 
 
 *
 
 
 「副長!」
 「しっかりして下さい、副長!」
 「副長、」
 「副長!」
 
 悲鳴の様な声たちが、きん、と鳴った耳を猛烈に打ち付けて響き渡る。
 俺は大丈夫だからそんな狼狽えてんじゃねェ、と怒鳴り返してやりたかったが、裂けた喉からは不自然な音が漏れるばかりだった。
 山崎が土方の喉に布を押し当て、止血を試みながら、医療班の要請を何度も叫んでいる。かと思えば部下たちを掻き分けて走って来たらしい近藤が、血相を変えて山崎の叫び声を継いだ。
 大丈夫だから、と笑おうとするが上手く行かず、土方は酷く冷えた自らの体温にぶるりと身を震わせた。辺りは未だ焔と喧噪とに包まれていると言うのに、失血の所為だろうか、寒くていけない。
 近藤が泣きそうな顔で名前を呼ぶのに。沖田が苦々しい表情でじっと見つめて来ているのに。山崎の血塗れの手が喉にぽかりと空いた傷口を強く押さえ続けているのに。
 ──走り去った銀髪の男の姿がそこに居ない事に。
 土方は漸く、己の見た夢が醒めた事を実感したのだった。
 
 *
 
 発端は、高杉一派の起こしたターミナルへの襲撃だった。
 戦艦を直接ターミナルへと特攻させると言う荒い手段に、防衛の対策なぞされていなかった江戸は忽ちに地獄の様相へと変わりつつあった。
 幕軍と共に真選組もターミナルへと向かい、事態の収束に尽力する最中、土方は銀時に遭遇した。
 土方と密かに体を重ね心を通わせる関係でもあった銀時は、真選組や土方をそこから遠ざけようと軽薄な嘘を投げて来たが、それで容易く騙されて仕舞える程に、土方は銀時の事を安く見てはいなかった。
 高杉を止めに来た、と明言された訳ではないが、連中の過去の柵を思えば、その心算なのは最早疑い様もない事態だったと言える。だから土方は銀時の後を半ば独断で無理矢理に追って、そうして。
 無様にも、ターミナル中枢で待ち構えていた河上万斎の『糸』に首を捕らえられ、高杉と相対した銀時の人質の様な形となったのだった。
 銀時と高杉は、土方には理解出来ぬ、触れる事の赦されぬ時間の因縁を向け合い、そして刃を向け合った。彼らには、止める正当な理由と、止められてはならぬ正当な理由とが存在していて、そこには人間の作った法律も、警察の役割もなにひとつとして不要なのだとは、傍観者でしかなかった土方にも知れた。同時に、己が枷になり銀時が満足に戦えぬ事にも気付いた。
 己の護るものを貫かんとするあの侍を遮る障碍にだけは、土方はなりたくはなかった。
 同じ場所には決して立てぬ悔しさと不甲斐なさ。歯痒さ。届かぬ痛烈な痛み。ただの枷でしかない侍の形骸たる己自身。
 遂に土方は、銀時に向かって叫んだ。振り返るなと、願った。
 そうして自ら糸に首を裂かせて、枷の身を逃れた。
 どうしようもない程の血を噴き出した己の頸をぼんやりと見つめながら、土方が最期に見た光景は──何処か満足そうに嗤いながら去る高杉の背と、こちらを一切振り返りはせずにそれを追い掛けてくれた銀時の姿だった。
 土方の、願った通りに。
 自らの作る血溜まりに倒れながら、土方は安堵と同時に、ほんの僅かだけ。
 きっと、望んで仕舞ったのだ。
 虚構に夢を見る事を。
 叶わぬただの、虚妄でしかない夢を。
 彼らに届く世界を。あの男の過去を背負える世界を。
 そんな世界を赦せぬだろう己にさえも赦して貰える、そんな世界の夢を。
 
 
 「………」
 自嘲に揺れた喉は、最早何も言葉を紡ぐ事もなく、ただ無常の如く命を傷口から吐き出し続けていた。
 知りもしない癖に見た夢には、結局肯定も否定も無かった。ただ、土方の裡にあった、高杉の何処か破滅的な思想への理解にも似た感情と、望んでも叶う筈もない銀時からの尽きせぬ情しか見る事が出来なかった。
 夢に望んだ事でさえ、届くには足りなかったのかと思えば、余りに馬鹿馬鹿しくて笑えて来る。
 全く、愚かしい。
 死ぬ前に見る夢なら、もっとマシなものでも望めば良かったのに。
 もっと身勝手に、あの男の勝手に抱えたものを、護らんとする全てを否定して、立ち向かってやるだけの気概でも見せれば良かった。
 銀時は、土方の願った通りに振り返りも立ち止まりもせず、己の護るべきものを護る為に去った。
 その癖、土方の夢の中であの男は、どこまでも護ろうとするその手を退きはしない侭だった。
 それは、こんな所で土方が死ぬ筈がないと願う信頼なのかも知れない、が。
 (夢、って言うよりは、都合の良い走馬燈、みてェなもん、かね)
 銀時と同じ途を歩き、今の己にある大事なものたちが全て無い、銀時の為にだけ生きてもよい世界。あの連中の過去に関われて、追い掛け止める資格と追い掛けられ戦える強さを欲した、そんな願望の見せた夢だったのだろうと、土方は緩慢になり始めた意識の隅っこでそんな事を考える。
 近藤の、山崎の、部下たちの声が遠くなる。
 寒くて眠い。引き留める様に叫ぶ声たち。もういいと言ってやりたいのに、喉からは命を溶かした様な血しか出て来ない。
 見上げた曇天の雲間に向けて、動かない手を伸ばそうと藻掻く。
 そこに、応える様に割いて降って来るのは、銀色の光。
 
 「土方!」
 
 薄らぐ視界に、見慣れた銀色の輪郭が飛び込んで来るのが眩しくて、土方はそっと片目を眇めてそれを見た。
 もう都合の良い夢なら見終わったんだ。構わねェでとっとと行けよ、馬鹿が。
 裂けた喉でそう紡ぐのに、息を切らせて走って来た銀時はゆっくりとかぶりを振って返した。
 「土方。俺も見たんだ。慥かにあれは、どうしようもなく幸せに思える夢だった」
 ぼんやりと、焦点の合わぬ眼差しを彷徨わせる土方に向けて、傍らに膝をついた銀時は手を伸ばすと、血を纏わりつかせて冷たくなったその掌を、そっと握ってくれる。
 「……、でも夢だった。だから終わった。
 頼むよ土方。俺はそんな理想みてェな夢じゃなくて、もう一度、俺の為になんざ生きてくれやしねェ、そんなお前に会いてぇんだ」
 だから、死ぬな。
 希う銀時の、見たこともない様な弱く強張った笑みに向けて、土方は──





物凄い省略モード。

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