愛する人よ(真実は)誓わずにいよう / 04



 「手当してやるから付いて来いよ」
 坂田銀時と名乗った男は、負傷の経緯は疎か名前すら十四郎に問う事もせず、血の滲む右肩を軽く示すと、答えも待たずに歩きだした。その足下で天人だった物体の残骸がぐしゃりと無造作に踏みにじられる。
 「……ぁ」
 思い出した様にじわりと血を滲ませる右肩を軽く押さえて、十四郎は少しづつ遠ざかる銀時の背中と、地面に転がる残骸とを数瞬の間見比べておろおろと視線を落ち着かなげに彷徨わせた。
 銀時の申し出に直ぐに飛びつかなかったのは、無論警戒もあるが、それ以上の躊躇いを抱かせるだけのものを男のその背に感じたからであった。
 天人を、そうと知って殺め踏みにじろうと言う物好きなど、十四郎の様に天人に恨みを抱く者か、攘夷志士ぐらいしかいない。だから、十四郎は銀時が己を同心の元に突き出すとは考えもしなかった。寧ろ、
 (お前も同じなのか。天人を殺したい人間なのか──?)
 そんな同族意識と、男の圧倒的な強さとは、茨の様な十四郎の警戒を容易く払い取り、憧れに似たものと含羞とを同時に抱かせた。
 十四郎が僅か逡巡する、その間にも銀時の背は遠ざかって行く。早足ではなく、然し躊躇うにも逃げるにも充分な速度で。銀時にとっては、十四郎が付いて来ようが来まいが恐らくはどうでも良く、助けた事を別段恩に着せる心算も無いのだろうと確信させる、そんな動きだった。
 迷うは自由。悔いるも、悔いぬ様逃げ出すも、自由。十四郎は己に与えられたこの僅かの思考の空隙だけでそれを選ばなければならなかった。
 得体の知れぬ男に従う危機感と疑念。得体の知れぬ男がこの侭立ち去る焦燥感と懸念。それと他の幾つかの判断材料を、然し己の判断の天秤には乗せぬ侭、十四郎は決断した。
 即ち、直ぐ様に男の背を追う事を。
 畏れより怯えより。またこの侭明日も無為の日を過ごすよりも、目の前に現れた灯火にも似た存在を追う事を十四郎は選んだ。
 それは愚かしく軽率な結論だったやも知れない。だが。此処であの男の背を見失い、無間地獄の様な無意味の生を、ひたすらに天人への憎悪を膨らませ歩き続けようとは思えなかった。
 なまくらの得物の鞘を拾って納刀すると帯に差し、蓆を丸めて辺りの路地に放る。銀時に、その蓆は何なのかと問われた時に上手く説明出来る気がしなかったのだ。場所は憶えているのだから必要ならば後で取りにくれば良い。
 二十代の男が夜道で物乞いの様な扮装をして、なまくらとは言え刀を持っていた。これだけの材料が揃えば容易く、十四郎が昨今の、天人を狙った辻斬りであると言う事ぐらい知れて仕舞う。
 だが、なまくらの刀だけならば、護身用だとでも言えば良い。廃刀令は知っているが、夜に一人の身にはどうしても必要だったのだと言えば、今までに数度だけあった、十四郎の刀を見咎めた連中は曖昧に納得を示して何れも引き下がった。
 要する所、夜鷹の振りである。十四郎自身としては些か不本意な話であるものの、長い髪と整った貌の若い男と言う形ではそのぐらいしか良い辻褄を思いつかなかったのだが、これが逆に功を奏したらしく、曖昧な物言いでも他者を誤魔化す事が出来たのだ。
 田舎から出て来て、食い詰めた哀れな若い男。そうして自らの身を売り歩く事しか出来ないと言う『話』は──概ね十四郎の話を聞いた相手が勝手に想像しているだけなのだが──、護身用の武器を持つに足る理由にも、適当な身の上話としても、大層都合が良かった。
 銀時にもしも素性や、夜道で天人に襲われていた理由を問われたら、その『話』を返せば良い。欺せる。誤魔化して済ませられる。自らにそう言い聞かせる事で心を落ち着けつつ、十四郎は小走りで銀時の背中を追った。
 
 
 結局、少しの後には、十四郎は銀時に連れられて彼の住まいだと言う長屋に居た。
 五軒繋がった長屋の一番端の部屋で、隣家はもう休んでいるのか静かだった。生憎の曇り空で解り辛いが、もう子の刻に差し掛かる頃だろう。当然だ。
 ちょっと水汲んで来るから待ってろ、と言い置いて、銀時は十四郎ひとりを家に残して出て行った。何処へ行くのだと訊けば、少し行った所に水場があるのだとあっさりと答えて寄越す、彼の様子にも態度にも悪いものはなく、十四郎は僅かでも彼を疑いそうになった己を素直に恥じた。
 銀時は十四郎が思い抱く『侍』の体現の様である様に見えた。袴も穿いていないし、毛玉の様な頭髪の長い襟足を軽く尻尾の様に結んではいたが、髷らしいものは結っていない。どころかこの国の人間なのか疑いたくなる様な癖の強い銀髪と言うそんな形だったが、十四郎は自然と銀時の事を、侍なのだ、と頭の中で認定していた。
 それこそ嘗て義兄の口にした通りの、侍とは心の在り様なのだと言う奴なのかも知れない。直感でしかないが、形は兎も角として、あの勁い男は『侍』に相違ないのだろうと──そう思いたかった。
 そんな『侍』が、十四郎の事を罠に填め、同心を連れて来る、或いは奉行所に突き出すなどと言う事をする筈がなかった。
 己も佩刀する男が、騙し討ちの様に卑怯な手管で十四郎を捕まえる、そんなメリットは無い。それに何より、銀時にかかればそんな策なぞ弄さなくとも、十四郎如き簡単に仕留められるだろう。
 (そもそも、俺が件の辻斬りだって事も未だ確証は無ェ筈だし……別に疑ってる様子でも無ェし、な…)
 自分でも首を捻りたくなる程に意外な話なのだが──十四郎は出会って間もない他者の事をどうやら信用したいらしかった。それは銀時が『侍』であったからなのか、強い男だったからなのか、命を救ってくれたからなのか。何れとも知れないし何れでも無い様な気はする。
 落ち着いた事で脳内の痛覚が働き始めたのか、今更の様に右肩がずきずきと痛み出すのを、掌で着物の上から軽く押さえて堪える。創傷自体は然程酷くないのか血は止まっていたが、打撲の方が響いているらしい。
 見れば、黒い着物がべたりと傷口に貼り付いているのが解る。先頃脱ごうとしたら、止血になるから取り敢えずその侭にしておけと銀時に言われたので、詳細な具合は見て取れそうもない。骨を痛めた様子はないから、もう刀を持てないなどと言う事にはなりはしないだろうが、暫くは『辻斬り』も難しくなるかも知れない。
 もしも銀時の助けが無く、そして辛うじて十四郎があの天人らから逃げおおせたとしても、この怪我はその後の徒になっただろう。
 (『その後』、とやらが、あったとして……だがな)
 我知らず浮かんだシニカルな笑みの下で、十四郎は『その後』の無為を想像しようとして──直ぐに止めた。そう先は長くなく、今宵の様に天人に返り討ちに遭うか、新設される警察組織だかに斬られて終わりと言った所だろう。愚かな仇討ちを愚かに実行した愚かな田舎者の手にしたなまくらの刃なぞ、所詮はその程度の意味と力しか持たない。
 では、今此処で生き長らえたら、それも変わると言うのだろうか。何か、別のものに。別の意味に。例えば、あの男の様な『侍』として。
 ちらと思考を過ぎりかけた、感傷に似た不安感がずしりと胸を重くした。急く様に鳴る鼓動は、胸に触れてみずとも解る程に大きい。
 (何だ、これ、)
 早い血流と、得体の知れない何かへ感じる酷い焦燥感とが胸を叩いて、頭の奥で激しい警鐘を鳴らす。ざわざわと皮膚を走る『何か』。きっと、と痛み出した頭の中でその何かが酷く冷静に告げて寄越すのが聞こえる。
 きっと、これが岐路。得たかった何かの。或いは得られなかった何かの。
 これを恐れて、これを求めて、銀時の背を追ってここまで来たのだ。無為で無惨な復讐の生を棄てて、選ぼうとしたものが、これなのだ。
 あの男は、十四郎の得たいものの『鍵』だ。義兄の仇討ちと称して、夜毎に繰り返す『辻斬り』行為などでは決して得られなかっただろう、選択への。
 傷が急に熱を持った様に熱い。十四郎は手近な壁に背をとんと預けて、薄ら汗ばんでいた額を拭った。
 なまくらの刀を買った時よりも、その望みは恐ろしいものである様な気がした。
 だが。
 (……あの男みてェに、なりてェ)
 侍と言う、刀を手に戦う者と言う形代が、欲しい。
 何かを──例えば、天人に膝を屈した幕府を。斬る、その為だけの。刀に、なりたいと。
 (そうすれば、きっと──)
 握り締めた拳の中に、そう囁きを落として、十四郎は遠くなる意識に逆らわずそっと目蓋を下ろした。
 
 *
 
 程なくして、水を張った手桶を提げて戻って来た銀時に揺すり起こされ、十四郎は怪我の手当を受けていた。
 着物を傷口から剥がして水で丁寧に洗い、清潔なガーゼに軟膏を塗ったものを患部にぺたりと貼られ、その上から包帯をぐるぐるとキツめに巻かれる。一連の作業を数分足らずで終えた銀時の手際は実に手慣れた者のそれで、十四郎は正直な所痛みに不平などをこぼす暇も無かった。
 「ま、暫くは清潔にして、包帯も毎日変える事。面倒臭がってると治りが悪くなるだけで良い事ァねーからな。……返事は?」
 「あ、あぁ…、」
 綺麗にくるまれ、血の滲む気配すらしない包帯をまじまじ見つめる十四郎にぴんと人差し指を突きつけてそう言いつけると、銀時は一応は返事らしきものが返った事に「よし」と何やら大儀そうに頷いて見せた。そうしてから徐に立ち上がり、部屋の隅に畳んであった布団を抱えて戻って来る。
 「客が来る様な我が家じゃ無ェから、今日の所は悪ィが布団一枚で我慢してくれや。で、掛け布団と敷き布団とどっちが良い?」
 ぼす、と眼前に置かれた、煎餅と言う程ではないがそれなり年季の入っていそうな、畳まれた布団一組を見て、十四郎は思わず「は?」と声を上げていた。
 「だから、掛け布団か敷き布団か。どっちでも上に掛けりゃ暖は取れんだから似た様なもんだろ」
 いやそうじゃなくて。
 さらりと言って、布団を拡げると掛け布団と敷き布団とを別々に分け始める銀時を、「ちょっと待て」十四郎は何とかそう声を振り絞る様にして止めた。
 「布団の話じゃ無ェだろ、何か他に──、」
 言う事とか、訊く事とか。あるのではないだろうか。何しろこちらは深夜刀を持って、天人に捕食されそうになって居たのだ。どう考えても普通の状況ではない。
 偶々襲われて護身用の刀を抜いたのだ、などと言う当初吐こうと思っていた白々しい嘘でさえ、尋ねようとしないとは。
 言いながら、これは益々に立場の不安定な己の首を絞めているのではないかと十四郎も気付きはするのだが、どうしてもこう言う事は是正しなければ落ち着かない性分なのだ。仮令吐き出す『事情説明』が嘘でしかない事であったとしても。
 そうでなければ、十四郎は銀時の事を疑わずにはいられない。助けておいて、何も訊かずに傷の手当てをして、泊まって行けなどと抜かす──そんな上手い話が、この世界にはある筈などないのだから。
 己を安心させる為に、嘘を吐きたい。こんな、嘘を聞き入れる迄もなく施される無償の優しさなど、知らないから──怖い。
 然し十四郎の疑問を受けても、銀時は、ふ、と僅かに笑んだのみだった。
 「明日になったらニ○リ行って、布団もう一組買ってきてやるから。今日の所はまぁ我慢してくれや」
 「っそうじゃねェ、何の、──、何のつもりなんだ、テメェは一体、」
 「お前はさ」
 ぱふ、と音を立てて布団を拡げながら、銀時は十四郎の言葉を遮る様に、やわく笑ってみせた。その表情が──笑みとしか言い様がないものの筈なのだが──何故か酷く痛々しく見えて、十四郎は虚を衝かれ黙り込む。
 「多分、今までこんなのを知る事も出来なかったのかも知れねェけど。お前にとっての世界ってのはお前に優しくはなかったのかも知れねェけど。
 信じて良いものは、この碌でも無ェ世界にだってちゃんとあるんだぜ?」
 拡げた掛け布団を、固い表情を崩さず座り込んでいる十四郎に押しつける様に渡すと、銀時は自らも布団を体に巻き付けて無造作にその場に横になった。
 隣と言うには遠く、全くの余所事と言うには近く。そんな距離を空けて、固く掛け辛そうな敷き布団の下に潜って仕舞った男を暫くの間じっと見て、十四郎は手渡された掛け布団ごと拳を握りしめた。
 「……それが、テメェだとでも、言うのかよ」
 軋る様に吐き捨てられた小さな声はしっかりと銀時の耳に拾われたらしい。布団山が少しだけ揺れる。
 「そこまで思い上がったり恩を着せるつもりは無ェよ。実際『どう』なのかは、お前が決めると良いさ」
 ほんの少しの柔らかみを内包した声からは、嘘や、騙そうと言う悪意を感じる事は出来ない。だが、それを全て本当と捉えて楽観視が出来ぬ程には、十四郎の心は疑り深かった。
 人間不信だったと言っても良い。餌を貰いながらも警戒を隠さない野良猫の様に、十四郎は世界のあらゆるものを疑っていたし、そこから優しさや労りと言った感情を見つける事が苦手だった。
 義兄が死んで、それからずっと、こうだった。十四郎にとって人間は厭うもので、天人は憎むもの。その価値観が形成されたのはもう随分と前の話になる。今更その性情を変えろと言うには難しい。
 銀時の強さに憧れたのは事実だ。だがそれは、銀時からの無償の情を何ら受け取る理由にはならない。だから十四郎は戸惑う。信頼したい本心がそこにあるのに、刺々しい警戒心を隠せず、銀時から見ればいっそ滑稽な程に怯えて牙を剥き出しにして吠えている。
 (……こいつを信じたいのは確かだが…、『これ』は…違うだろ)
 傷の手当てをしてくれるのと。得体の知れない厄介者を一晩とは言え屋根の下へと招くのとでは、全く話が違う。信じたい、恐らくそう思って惹かれ近付いた。だが、それは飽く迄十四郎だけの得た感情の運びであった筈だ。
 そして十四郎にとって最も奇妙に感じられる事は、そう易々と十四郎を受け入れた銀時の態度にあった。
 今日日、どんな日和った人間でも、見知らぬ他人の横で無防備に眠ったりはしないだろう。況して十四郎はなまくらとは言え刃物を所持しているのだ。
 (……………そんだけ、自信がある、って事、か……?)
 例えば、夜道で天人に傷を負わされていた男を善意で助けて、その男が本当は夜盗の類であったとして。危険を感じれば飛び起きて、逆に相手を返り討ちにするだけの、自信と実力とがあるから、なのか。
 「ま、お前がどう思うかはさておいて。俺ァ、手負いの野良猫をその辺に放り出して行ける程に人でなしじゃ無ェんだよ」
 「………………」
 じっと布団越しに背中を見つめる十四郎の疑問と警戒とを感じたのか、眠気の混じった声がつらつらとそう言い──そして程なくして、穏やかそうな寝息がそこから聞こえ始めた。
 十四郎は暫くの間遣り場を失った問いかけや罵声に似たものを辺りに漂わせたが、やがて「くそ」と吐き出す様に呻いた。
 「……馬鹿じゃねぇの」
 思わずこぼした悪態に返る返事はもう無い。
 刀を抱え直して、十四郎は部屋の角へ向かうと渡された布団にくるまって、壁に背を預けて座り込む。
 少し離れた位置ですやすやと寝息を立てている敷き布団の膨らみも。傷口を丁寧に覆った包帯も。銀時の強さや、彼曰くの『善意』らしきものも。
 全てが十四郎にとっては初めて感じるものだからこそ、居心地が悪くて苦しい。
 それを疑う事も。疑わずにいられぬ己の性情も。
 (…………単に、強さに惹かれた、ってだけじゃ…、こんなん、収まる訳が無ェだろ…)
 銀時の寄越した行動も言葉も、どう言う形でどう言う意味を得て受け取れば良いのかが、十四郎には解らない。嘘も真実も問いてくれぬ者へと、何を以て相対すれば良いのか。解らない。
 ただ、その勁さに強烈に惹かれただけだと判じて良いのかが──解らない。
 この侭委ねたい本心と、そうはすべきでないと訴える本能とが鬩ぎ合う。それが何故かくるしい。己の望みたいことは確かに『ここ』に在る気がすると言うのに。
 「………………馬鹿じゃねぇの」
 すん、と鼻を鳴らしてそう呟くと、十四郎は抱えた膝の中に顔をそっと埋めた。
 体に巻き付けた薄い掛け布団からは、日溜まりの様な懐かしい匂いがした。だから。こんなに惑って、感傷的になるのは、きっとその所為だ。







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