愛する人よ(真実は)誓わずにいよう / 05



 うとうとと眠りに揺蕩っていた十四郎を起こしたのは、朝餉の匂いだった。
 「ぅ、ん…、」
 布団の寝心地の所為ではなく、緊張と困惑もあってなかなか寝付けなかった分、眠気が尾を引いて全身と頭の働きとを重たくしている。そんな風にのたのたとした仕草で目を擦って呻く十四郎へと、喉を鳴らして笑う声が飛んで来る。
 「お早う、黒猫ちゃん」
 「………猫じゃねェ」
 軽い声に仏頂面で返して、十四郎は自らの身体に巻き付けていた布団を、埃を立てない様にして除けた。そうして土間を見遣れば、巫山戯た挨拶を寄越して来た男は、竃の前に立って魚の干物を焙っている。
 「朝飯、直ぐ出来っから。先に顔洗っとけよ」
 言いながら銀時は食事の支度の手は止めぬ侭、くい、と顎で玄関付近に置かれた水桶を指してみせた。「ん、」まだ眠気に重たい頭をふるふると振って十四郎は大人しく頷くと、冷たそうな水の張られた桶の前へと向かった。
 想像通りに冷たく綺麗な水を両手で掬って顔にばしゃりと叩き付ければ、身の締まる様な思いと共に意識が眠気を漸く手放す。
 桶の縁に掛けてあった手拭いで顔をぐしぐしと拭うと、頭頂付近で結っている髪を一旦解いて結び直す。もう髷が当たり前と言う訳でもないご時世なのだがら、いい加減さっぱりと短くしようと何度も思ってはいたが、結局実行には移せていない。もう背中にかかる程と、随分と長いのだが。
 そうして軽く身支度を整えた十四郎が視線をやれば、その先に居る銀時は、焙り終えた干物を皿の上に乗せている所だった。竃の上には味噌汁の鍋が温かな湯気を立てている。
 「…………」
 魚は二匹。用意された不揃いの碗と箸は二人分。それが銀時と己の分なのだろうとごく自然に受け止めてから、十四郎は不可解さに眉を寄せた。深夜拾った得体の知れない男に一晩屋根と布団を貸したばかりか、朝飯までを供するとは。一体この坂田銀時と言う男はどれだけお人好しなのか。
 「な、暇なら釜から飯移しといてくんねぇ?」
 味噌汁の鍋の上で豆腐に包丁を入れながら、銀時はまたしても顎で、土間に置かれたお櫃としゃもじとを示して言って来る。その言う調子には強制するものはなかったが、じっとしているのも落ち着かなかった。指示に従う事にして十四郎はおずおずと立ち上がると、竃から下ろされたばかりの釜の蓋をそっと開けた。中身は想像通りの炊いた白米で、これもまた優に矢張り優に二人分以上はありそうである。
 「…………」
 恐らくは夕飯の分までまとめて炊いたのだろう。分量からそう判断すると、十四郎は言われた通りに二人分の朝食に足りそうな分だけをしゃもじで掬い、お櫃へと移した。残った量が丁度、二人分×二食分で割り切れそうな具合なのに、どう反応して良いのかが解らない。
 「悪ィけど、膳は無ェから」
 困惑と疑惑と惑いの数だけ眉間に皺を寄せる十四郎の前へと、朝食の一式を並べながら銀時は少し申し訳無さそうな声でそんな事を言う。確かに卓袱台や一人分の膳は家の中には見当たらなかったので、床に直接食事を準備して行っているのだが──、気にするのは寧ろそんな所ではないだろうと十四郎としては言いたい。
 「ん?魚苦手だったか?」
 抗議にも似た反論を呑み込んだ事で冴えなくなった表情から勝手にそう判断したのか、暢気そうに言われるのに、「いや、」とかぶりを振って、十四郎は正直な朝の空腹感と、銀時のよく解らない行動とに大きな溜息をついた。
 ほれ、と白米をよそった茶碗を手に押しつけられ、「いただきます」と銀時は両手をぱんと打つなり、箸で摘んだ魚の干物を食べ始める。
 そんな男の姿を暫し見て、十四郎もまた溜息混じりに小さく「…いただきます」ともごもごと呟くと、温かな白米を口にした。何処か懐かしい気さえする味と温度とに、我知らず安堵に似たものを憶えそうになって──
 「…………おい、」
 絆されて思考停止をしそうになる己を張り倒したい気持ちになりながら、箸と茶碗とを床に戻して、十四郎は漸く口を開いた。
 「どした。口に合わねえ?」
 「じゃなくて。何で寝床どころか飯まで出してんだよてめぇは。普通、何時間か前に会ったばかりの見知らぬ野郎にそんな真似しねェだろ」
 ちゃっかり布団を借りた挙げ句食事まで口にしておいて言えた台詞でもないか、と思いながらも、十四郎がそう正直に口にした疑問に。銀時は「ああ」と得心がいった様に何度か頷くと、こほん、と態とらしい咳払いの仕草をして寄越した。
 「まず、お前はもっと食わねーと駄目。痩せ過ぎだっつぅの。昨日抱えた時にも軽さにビックリしたけど、肩の手当した時は銀さん薄さにたまげたよ?今時どんな欠食児童だよホント」
 「は」
 「幸い、今時食い詰める事もそうそう無ェんだ。もっと人の親切とか気遣いちゃんと受け取って、ちゃんと食って、栄養しっかり摂れ」
 びし、と行儀悪くも箸の先で指され、十四郎はまるで年長者の世話焼きの様に銀時の次々口にするその勢いに思わず鼻白んだ。何を言われているか解らない程愚鈍ではないが、何を言われているのか解らないと心底に思いながら、苛々と舌を打つ。
 「何か…、目的でもあるんじゃ、ねェのか」
 そうして零れ出たのは昨晩と何ら変わらぬ、猜疑心に満ちた子供の刺々しい警戒と拒絶。こんなものはとんだ恩知らずの吐く暴言だ。
 銀時が何を考えているかなぞ知れないが、お人好しを通り越した馬鹿である事なぞ、昨晩寝床をと言って来た時の態度から既に知れている。それでも猶疑わずにいられない己が、酷くちっぽけで狭量な存在の様に思えて、十四郎は居心地悪く身を縮めた。
 「何も?……まあ、理由が何か俺にはあって、それでお前が落ち着くってんなら良いけど。……そうだな、」
 大仰に考え込む素振りで首を傾げる銀時をまるで睨む様に見つめながら、十四郎は肩の傷がずきりと痛むのを感じ、顔を僅かに眇めた。痛いのは本当に傷なのかどうか。……どうでもいい。
 親切を仇にする馬鹿な男だと、見限ってくれたらいっそ楽なのに。
 (疑いたいのか、信じたいから裏切られたくねェのか、信じる気なんざ端から無ェのか…、)
 そこまで考えてから不意に気付く。
 (ああそうだ。信じたいのに、焦がれたいのに、それが裏切られるのが、崩れ消えちまうのが怖いから、)
 そんな事は無いのだと、言って貰いたいのだ。
 怖がらなくても、これは、夢では、無いのだと。
 「──」
 何か言葉が喉をついて出そうな衝動に襲われ、然しそれは形になる前に、ひゅ、と空気を呑む様な音になって消える。罵声なのか、追い縋りたかっただけなのか。今となっては最早解りもしないけれど。
 (解らないから、『てめぇ』を、知らないから、だから、)
 その優しさが、親切が、言葉が、魂が。嘗て近しかった人に感じた様な信頼を置いて、良いのかが。
 解らないから。知らないから。嘘かもしれないから。
 『これ』が虚構であると知る、それよりも先に。
 (信じて、いいのだと……、云って呉れ)
 恐怖にも似た衝動に、引き攣り強張った様になった十四郎の横頬へと不意に銀時の手の甲がそっと触れて来た。その先にある男の表情は、何処か泣きそうに顰められている。
 「拾った野良猫ちゃんを護ってやりてェから、かな。世慣れしてねェ危なっかしさは見ててハラハラするし、懐いてくれたら嬉しい、って打算も多分に含めて」
 銀時は辛抱強く、ややこしく面倒臭い思考回路を展開していた十四郎に、その心の期待していた言葉に近しいものをそっと与えてくれた。
 恐らくは期待した、その通りに。
 「………………だれが、野良猫、だよ」
 「おまえ」
 十四郎のやっと紡いだ悪態を、ふわりと優しい声音で躱すと、銀時は軽い笑い声をそこに乗せて言う。
 「疑っても良い。信じられねェなら信じなくったって良いさ。ただ、俺ァ俺のしてェ様にするだけだから、お前もお前のしたい様にしててくれりゃ良い」
 何かを信じるのは難しい。何かに裏切られた時、傷つかずにいるのも難しい。酷い猜疑心と世界への忌避感で出来ていた十四郎の世界は頑なに凝り固まった侭、その厭世的な価値観の原因となった義兄の死から一歩たりとも進めてはいない。
 そこにやんわりと、甘ったるいケーキでも切り分ける様な無粋さで、銀時は手を伸ばそうとしてくる。そうするべきなのだと、まるで識っているかの様に。躊躇いもなく。
 「…………てめぇは、随分と強ェんだな」
 長い沈黙を挟んで漸く出た言葉は、大凡誉めるにも評すにも正しくはないものだったのだろう。銀時は困惑混じりの苦笑を浮かべながら、ぽん、と十四郎の頭部を軽く叩いた。
 「諦めが悪ィだけだ。さ。飯冷めちまうだろ。血ィ結構出してんだ、しっかり食っとけ」
 するりと離れて行く銀時の手を目で追いながら、十四郎は眼差しでだけ応じて、それから箸を取る前に口を開いた。
 「…十四郎。土方、十四郎だ。……野良猫じゃねェ」
 言葉を出し惜しみする様なぶっきらぼうさで告げられたそんな名乗りに、然し銀時は気分を害した風でもなく、うん、と相好を崩して微笑んだ。
 「十四郎」
 謳う様な声に、十四郎の全身がぶるりと震えた。その名前を、響きを、こんなにも大切そうに呼ばれた憶えなど──、いつ、以来だっただろうか。
 名を預けるだけの信頼。たったそれだけの事が、この男には何かそれ以上の意味を与えて仕舞った様な気がして、然し十四郎は直ぐ様それを気の所為だと振り払った。
 
 
 *
 
 
 「じゃ、俺ァちょっと出て来るわ。夕方までには戻るが、出掛けるんでも出て行くんでも好きにしてて良いから。まあ盗られるもんは無ェだろうが、戸締まりだけはしといてくれな」
 ささやかだが、十四郎にとっては久々の温かで穏やかな食事であった。そんな朝食の時間を終え、手際よく食器を水桶に漬けて片付けを終えた銀時が手を振って水気を飛ばしながらそう言うのに、十四郎は思わずぱちくりと目を瞬かせた。
 「何処へ行くんだ?」
 「仕事。あ、ニ○リは帰りにちゃんと寄って来っから」
 十四郎の疑問に答える間にも、銀時は身支度を整えて行く。然程目立たぬ無精髭をさっと剃ると袴を履き直し、風呂敷を身体に巻き付けると、尻尾の様に結んだ後ろ髪をぴんと弾いてみせる。どうだ、と言いたげな様子にも見えるが、取り敢えずコメントのしようが無いので流し、十四郎は単純な疑問の方を掬い上げる事にした。
 「いやニ○リはどうでも良いが……仕事?」
 こう言っては何だが、今の銀時の風体は胡散臭い浪人そのものだ。仕事に行く、と言って支度を整えていた割には、最も問題の様に思える『胡散臭さ』が僅かも解消されていないのだが。
 じろじろと不審げに全身を見遣る十四郎の視線は不躾と言って差し支えないものだったが、銀時は特に気にした風でもなく軽く口の端を持ち上げて言う。
 「そ。近くの剣術道場で、バイトだけどな、ちょっとした指南役みてーなのを」
 そのあっさりとした答えに、十四郎は再びきょとんと瞬きを繰り返す。
 剣術道場は嘗て江戸の至る所に存在するものだった。江戸幕府の治世に因る長きの平和は、民から戦場を奪い、他者を殺す技能を損なう事でもある。そんな平和の中で、男は強き存在である士に憧れを抱き、士は己の技能を体系化し遺したがった。他者とその技能を『平和』の世界で競いたがった。研鑽させたがった。
 敵のいない時世でそれはただの『技能』だ。幕臣が刀架に置くお飾りの刀剣と同じ、ただ合理的に剣の技を習得する為の道場剣術が幾つも生まれ、まるで何かの流行りの様に存在していたのだ。
 然しそれも、廃刀令が出て以降風向きが変わった。
 剣術道場では実際の刀を──廃刀令に抵触するそれを用いる事はほぼ無い。大概は刀に見立てた竹刀や木剣を用いる。そしてそれらは、持って歩く限り、ただ振り回している限りでは廃刀令の取締の対象にはならないのだが、『剣術を学ぶ』その事自体が問題だと取り沙汰されるケースも少なくなく、結果、場末の剣術道場などからは厄介事を避ける為にか、門下生の姿は無くなった。奉行の難癖で、攘夷浪士の誹りを受ければそれだけで首が飛ぶご時世である。致し方のない話だ。
 行く行くは、剣など形骸化されたお飾り、侍と言う存在など過去の遺物となる時がきっと訪れるのだろう。
 そんな、すっかり廃れて久しい剣術の道場が存在する事。バイトとは言え、指南役などを請けようと言う所には、銀時の酔狂さの様なものを感じる。否、そもそも胡散臭い形そのものである銀時を雇おうと考える方も酔狂と言うべきか。
 銀時に感じる胡散臭さが途端に倍になった様な心地がして、十四郎は眉間に皺を寄せた侭黙り込んだ。強さ、と言う一点以外では、『仕事』も、『仕事と言い切る』事も俄に信じ難い。
 かと言って別段疑うと言う程でもないのだが──、まあ疑った所でどう、と言う訳でもない、のも確かである。
 「じゃ、行ってくっから」
 何処に疑問と誰何とを差し挟むべきか、言う程図々しいのもどうだろうかと十四郎が悩んでいた寸時の間に、銀時は草履を突っ掛けると戸口でひらりと手を振って、徐々に賑わい始めた朝の街へと出て行って仕舞った。
 そうして後に残されたのは、ひとりきりの家と、そこに自由に置かれた野良猫が一匹。
 「……信用しすぎじゃねェのか」
 一番言いたかったのはそこかも知れない。そんな事を苦々しい心地と共に思いながら、十四郎は手持ち無沙汰に周囲を見回した。
 一人や二人の住まいでなら不自由も特に無さそうな家。十四郎が日々身を預けるあばら家同然の宿や野宿から比べれば断然に真っ当だ。水道やガスなどの設備はまだ行き届いていない様だが、特に衣食住に不自由も無さそうである。
 手持ち無沙汰になり、なんとなく、昨晩二人して眠るのに使った掛け布団と敷き布団を綺麗に畳んで部屋の隅へと除けておいた。干そうかと思ったが、それは流石に勝手が分からないので断念する。
 そうやって十四郎は暫く落ち着きなく家の中をうろうろとしていたが、何をするでもない、して良いでもない中ではどうにも落ち着かず、昼寝でも決め込もうかと思ったが結局寝付けずに起き上がった。
 そんな事をする内に気付けば結構な時間を使っていた。昼には未だ少し早いが、街に人も増え、街で天人などの情報を密かに得るには良い頃合いになって来ているだろう。
 やがて十四郎は意を決して、立ち上がると簡単に身なりを整えてから袂に財布がある事だけを確認し、外に出る事にした。玄関には最近よく見る真鍮製の南京錠が掛けられる様になっており、その鍵は玄関の壁に釘を一本打って引っ掛けてあった。
 錆びた釘から鍵を抜き取ると、外に出て錠を掛け、財布の中に鍵を放り込んでおく。
 (戸締まり……は、した)
 銀時の念押しを思い出しながらもう一度ちらと玄関を振り返ってから、十四郎は袖から腕を抜いてふらりと歩き出した。
 他の長屋から住人が顔を覗かせる様子もない。何本か道を離れた街路から聞こえる雑踏に導かれる様にして、十四郎は大通りの方へと向かって足を進めて行く。
 と。途中、広場の様になった所に井戸があるのを発見し、思わず足を止めて仕舞う。井戸は、昔はつるべだったのだろうが、今はポンプのものになっており、さっきまで誰かが使っていたのか、地面には未だ乾ききらぬ水溜まりが残っているのが見えた。恐らくこれが昨晩銀時の言っていた水場とやらなのだろう。
 家から然程離れた所と言う訳ではないが、夜中に、十四郎の怪我を手当する為にわざわざあの男はここまで来たのか、とそんな事をどこかぼんやりと現実感無く考える。
 ……もしも、この侭戻らなければどうするだろうか。銀時は、姿を消した十四郎を迷子の様に思って探そうとしてくれるだろうか。それとも、居着かなかった野良猫だと諦めて忘れるのだろうか。
 「………」
 そもそもが、あの男だけにあった奇妙な性質か性格か──、そんなものの起こしたほんの些細な運命の気紛れの様なものなのだ。そうでもなければ、普通はしないだろう。大した理由もなく、大凡真っ当とは思えぬ様子で怪我をしていた男を家まで連れ帰って、水を汲んで来て、手当をして、布団を分け与えて、朝に朝食を供して、好きにしていて良いと宣って家を簡単に空ける、など。
 今までの、十四郎にとって二十年をほんの少し過ぎたぐらいの生涯で、ひょっとしたら一度も得た事が無かったかも知れない、全くの他者からの『親切』は──それをくれた男は規格外に過ぎた。
 不安と猜疑心を溜息にしてそっと吐き出せば、ポンプから垂れ下がっていた水の滴がぱたりと落ちた。それを契機に、十四郎は詮のない思考を打ち切って再び歩き出そうとして──然しこちらに向かって歩いて来る気配に気付くなりぴくりと振り返る。
 警戒心剥き出しの振り返り方をした十四郎に、歩いて来ていた男は、ひょっとしたら驚かせて仕舞ったかと思ったのか、恐縮したと言う態度を大柄な体躯で示して見せながら、警戒心を解く事を促す様に軽く手を挙げて笑いかけて来る。
 「よぉ」
 「………」
 相手に見覚えは無い。余り上等なものではないが、袴をきちんと穿いた大柄な男だ。年齢の頃はそんなに大きくは変わらないだろうか。太っているのではなく、どっしりとした体つき。人懐こそうな笑顔を形作る精悍な顔つき。髷は結っていないが、腰には刀が佩かれていた。
 この廃刀令のご時世に、好きこのんで刀などを持ち歩くのなど、攘夷浪士かそれに近い破落戸、或いは──幕臣しかいない。
 咄嗟に男を警戒する事にした十四郎は油断無く、人好きのする笑顔を、何か動物に似てる気のする面に浮かべている男の事をじっと睨め付けた。その視線から明かに敵対視されている事を解っているのかいないのか、男は「いやすまん、ちょっと訊きたい事があってな」などと笑い声混じりに言って寄越してくる。
 「実はちょっと道を尋ねたくてな。この辺りに剣術道場があると訊いたんだが…」
 所在を知らないか、と男が続けるのに、十四郎は表情にならない程度に目を眇めて、肩を竦めてみせた。
 「…悪ィが、俺はこの辺りの人間じゃねェんでな。道案内が出来る程達者じゃねェ」
 尖った声でさらりと言って、本来なら背を向けたい所であったが、まだ油断する気にはなれなかった為、男に向けて身体の側面を見せる様に十四郎は身体を動かした。
 そんな十四郎の明かな拒絶の態度に、男は残念そうな表情を浮かべて頭を掻いた。小さく溜息。
 「そうか。なら仕方がないな。……とは言えどうしたものか」
 困った様に天を仰ぐ男の腰で、かしゃりと刀が揺れる。十四郎の持つなまくらとはまるで異なった、それなりの業物と知れる品だ。そして、実用的に用意された代物だ。
 男の雰囲気は大凡破落戸や攘夷浪士と言った風情でもない。と、なると矢張り幕臣だろうか。幕臣が何故、剣術道場などを探しているのか。
 (この辺りの剣術道場、なんてのが、そう幾つもある訳ァ無ェよな。この時世に)
 十四郎は胸中で密かに呻いた。この大男が目指す道場とやらは、朝に銀時の向かう先と言っていた道場である可能性は高い。
 「…………いきなり不躾ですまんが、お前さん、怪我をしているのか?」
 「………」
 奇妙な合致に眉を寄せていた十四郎は、不意に男の放ったそんな問いへと思わず睨み付ける様に返していた。ただの問いと言うには探るものの篭もったそんな突っ込んだ内容に、警戒の気配がじわりと滲み出る。
 敵愾心を益々剥き出しにする十四郎の反応を見て、然し男はどこかおろおろとした様に続ける。
 「いや、その。詮索のつもりや悪気は誓ってない。ただ、肩を庇っている様に見えたから、気になっただけだ。職業柄な」
 だから、すまない、と、仰々しい仕草で頭を下げる男に、十四郎は流石に鼻白んだ。「いや、別に…」と呻くが、同時に、機嫌を損ねたと思われたならそれで良いんじゃないかと言う声も脳裏を過ぎる。どうにも居心地が悪い。収まりが悪い。
 落ち着きの無さ……?或いは罪悪感?そんなものを憶える謂われなど無い筈なのだが。
 「……職業?」
 仕方なしに、十四郎は男の放った言葉尻を捉えて問いを重ねる事にした。何だかどんどん宜しくない方角にハンドルを切って仕舞っている予感はひしひしと感じるのだが、それの正体が己にとって『何』であるかが判然としない。害になるものか、それともそうではないものなのか。
 十四郎の問いに、男がぱっと笑顔の様なものを浮かべた。
 「ああ。実は俺は──」
 「近藤さん、こっちに目撃者がいやしたぜィ。早く来て下せェ」
 と、そこに街路の方から第三者の声が割り込んで来る。
 見れば、路地の向こうには手をぶんぶんと振っている、栗毛色をした短髪の少年の姿があった。幼さの残る面立ちのその少年の腰にも、立派な拵えの刀がある事に十四郎の目は聡く気付く。
 「おお、解った、直ぐに行く」
 男の浮かべた笑みは、譬えるならば自信に近いものを一杯に湛えた質であった。歓びや使命感、自負に満ち溢れた、何か尊くさえ感じる、正しき志を信ずる様な者の。
 刀を堂々と佩く者たち。大きなのから、幼いのまで。屈託のない真っ白な志を胸に抱く事の赦された者たち。
 彼らの様は、違法に入手したなまくらを振り回して天人を夜毎に斬る事しか出来ない十四郎とはまるで異なったものだ。
 そう認識した瞬間、胸の底に重たい棘の様なものがじくりと刺さり疼き出す。それが嫉妬か羨望か願望かなどとは、斟酌する気にもなれない。ただ、只管に不快な心地が澱の様に堆積する。その不快感に任せる侭、十四郎は男の姿から視線をすいと逸らした。
 「……っと、済まなかったな本当に。じゃあな」
 男は白い歯を見せて、屈託も鬱積も知らぬ様な笑顔を十四郎へと向けると、手を軽く振って背を向けた。先頃少年の手招いていた街路へと消えて行く。
 (…近藤、とか言ったな……。余り育ちが良い様にゃ見えねェが……、幕臣、か)
 そう胸中で呟いた途端、胃の底で蟠っていた不快感はみるみる内に嫌悪を孕んだ憎悪へと変容する。それは十四郎にとって、士の名を借りた、幕府の──天人の先兵も同義の存在であった。士の身分を得るべく幕府に阿る、卑しい者ども。
 同じ様に刀を帯びていても、銀時を目にした時に感じた憧憬にも似た感情とあの連中とでは、まるで真逆の存在であると思う。幕臣。天人に与する侍。だが、双方共に何か勁さを──勁い、澄んだ志を感じる。
 いや、と十四郎は直ぐ様かぶりを振った。『あれ』は直ぐに通り過ぎて忘れるべく『敵』であるのだと強く感じ、己の裡へと警戒を促す。
 全く、この一日程度の間に経た奇妙な邂逅は一体何だと言うのか。今までの平坦で目的の単一で未来の途切れた世界に、急に思い出した様に降り積んで行く、名前と形のある連中。
 最も厭うべき存在のひとつと、刃の様な煌めきとが、互いに全く異なった形で十四郎の胸底に静かに落ちて留まって。そして、どちらも当分は消えそうもなかった。
 
 
 *
 
 「どうだ総悟、何か有力な証言は出そうか?」
 「いえ、残念ながら今の所は。まあ目撃者の記憶次第ですかねィ」
 栗色の髪の少年は肩を竦めながら言うが、然し余り芳しくない事実に痛痒を感じていなさそうな素振りである。小走りで駆け戻った近藤は「そうか…」と眉間に皺を寄せながら、少年を促して歩き出す。
 沖田総悟。近藤が故郷の道場から伴った門下生の一人であり、門下生と言うより弟分の様な存在である。余り仕事に熱心とは言えないのが難点だが、まだ若いのだから仕方がないと近藤も仲間たちも最早諦めている。
 ただ、腕だけは自分たちの中で最も立つと言っても良い。そんな事実も手伝って、この幼げな少年が自分たちが侍であるべくお役目をこなす為に必要な人材であり、存在であるのは間違いない。
 その沖田が、近藤の半歩先でふと足を止めた。ちらりと近藤の肩越しの風景を見る様に視線を滑らせ、目をさも不快そうに細める。
 「随分と血腥ェ野郎でしたねィ」
 血腥い、と反芻して、近藤は首を捻った。沖田が指すのが先頃道を尋ねた男の事だとは直ぐに解ったが、ちなまぐさい、と言う言葉には己の憶えた印象は余り合致しそうもなかったのだ。
 線も、身体の芯もどこかほっそりとした男。整った面に乗っていたのは、確かに些か好戦的で刺々しささえ感じる苛烈で鋭い眼差しと気配とではあったが。それだけならば、血気盛んな若者と言うだけで足りる。
 「そうか?まあ怪我をしていたみたいでな、着物に血の染みがまだ残っていたが…」
 「大凡、真っ当な人間とは言い難ェですぜィ、アレは」
 沖田が続ける言葉には、近藤の言う意味と彼の認識とは違うのだ、と言う意味が込められている。その侮蔑にも等しい言い種に、近藤はまたしてもううむと唸る。
 沖田が人間の好き嫌いの多い性格なのは知っているが、初対面の、しかも遠目に見ただけの人間にここまで嫌悪を顕わにする様な物言いをするのは珍しい事と言えた。と言うより、余りそれは宜しくない事の様な気がする。
 「……まあ、人にはそれぞれ色々あるんだろうさ。余り知らない人間の事を悪く言うのは良くねェぞ、総悟」
 年長者の忠告めいた調子で言いながら、大分下に見える沖田の頭をぐしゃりと掻き混ぜて言えば、沖田は「やめて下せェよ」と小さく笑った。
 だから近藤は、聞き分けてくれたのだろうと思って安堵した。これからお上に仕える侍となる人間が、人の好き嫌いを外面でも呑み込めないと言うのは些かみっともない話である。否、侍であろうがなかろうが、人間として。
 然し沖田は、近藤の言うその意味は聞き分けたものの、まだ納得はしていた訳ではなかった。
 「血と、死の臭いでさァ。生粋のひとごろしの臭い。……あの野郎は危険ですぜィ」
 俺と同じで。
 そう聞き取れるか取れないかぐらいの声音をぽつりと零した沖田を──その昏い能面の様な表情に、近藤は今度こそ何も言う事が出来ず黙り込まざるを得なかった。





近藤さんパートはやるつもりなかったんですが…、高杉が強敵過ぎたのでちょっと回り道。

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