愛する人よ(真実は)誓わずにいよう / 06 戦とは人が本能で生きるのを止めた時からの宿命の様なものだと思う。 生き食って繁殖して死ぬ、獣の本能には『戦』と言う概念は存在していない。在るのはただの互いの遺伝子の存続を懸けた闘争のみだ。 戦とは謂わば、己自身ではなく、己の信ずる世の為に『敵』を殺す。殺人の為の争いの事だ。 人に牙は無い。その代わり二本の足で立ち上がって腕を振るった。拳で相手を殴殺せしめた。或いは棍棒で。石で。 そして、人が鉄を鍛え鋼を鍛造した時に『戦』は生まれた。命を断つ刃。叩き潰す錘。『武器』の形はより明確に他者を殺める為のものとなり、それをより効率的に体得すべき技が磨かれ鍛え抜かれていく事となった。棒術、槍術、弓術、そして剣術の様に。 技術は本能に依るものではない。生きながら得る、自らの身に叩き込む戦いの為の技倆の事だ。 それが、平安の長い治世の中で磨かれ育ち発展していったとは皮肉なものである。刃を振るうべく『敵』の──『戦』の疾うに失われ久しい二百六十年余りの江戸幕府の時代は、然し逆にそう言った戦の技倆を一つの文化として存在させたと言う事だ。 真っ当な道場剣術をいくさ場に持ち込む馬鹿は居ない。かと言って道場での習いが無意味と言う訳でもない。実際名のある剣豪たちには攘夷戦争の初期にその名を数多くの敵の首級と共に挙げた者も居る。 では、平和の直中の道場で学ぶ『剣術』とは何であるのか。 それは、剣の取り回しや型ばかりではない。経験値。覚悟。間合い。見極め。体捌き。観察力。知識。そして何より、慣れ、である。 ふ、と軽い呼気に乗せて、正面上段から打ち込まれた竹刀を無造作に弾き上げる。「わ」小さな声が相手の面の向こうから上がる。隠しもしない狼狽の気配。 相手は篭手でしっかりと握りしめていた竹刀を取り落としはしなかったが、逆にその事で、弾き上げられた自らの両腕を『敵』に対する攻撃の手段として失って仕舞った。それを悟った故の狼狽である。 面の向こうの少年の目がぎゅっと瞑られるのを見ながら、銀時は然し最後まで相手に油断も余裕も見せる事なく竹刀を手元で翻し。次の瞬間には、ばしん、と乾いた音と共に少年の面に竹刀を打ち下ろしていた。 目も瞑っていたし歯も食いしばっていた。身構えがある以上それ程の衝撃ではなかった為、ふらふらと後ずさった少年の表情が苦笑いに転じるのは早かった。 その侭少年は少し後ろに下がり、銀時に向けて行儀良くぺこりと頭を下げる。竹刀を自らの肩に軽く乗せた銀時も顎を引いてそれに応える。本来は不作法だが、もういつもの光景なので少年自身も、周囲で同じ様に仕合いを続ける他の門下生たちも特に気にする様子はない。 「やっぱり銀さんは強いですね。僕じゃまだ一本なんて取れそうもないや」 面を外し汗を拭いながら言う眼鏡の少年。名を志村新八と言う。未だ十代の彼は一応この道場の主なのだが、何処か気の抜けた態度で佇む銀時に負かされた事にも不満らしきものは抱いていない。柔和そうな面立ちに含羞むに似た苦笑を乗せるばかりだ。 それもその筈、新八自身が銀時に道場の指南役を願い出たと言う経緯あっての事である。その縁は、数ヶ月前にたちの悪い天人に絡まれていた彼を通りすがった銀時が偶々救ったと言う件に由来する。 銀時曰く本当に通りすがっただけの些事なのだが、以来この少年とは恩義を感じただとか強さに憧れただとかで、何かと関わる様になった。定職の無い銀時に、新八が自宅の道場の指南役をバイトとして斡旋して来たのもその一環である。 「んな事ァねーよ。まぁ確かに銀さんは超強いけどね?お前の眼鏡だって負けちゃいねェよ。もうちょい頑張ってその眼鏡からビームとか出せる様になる頃にゃ、立派に強くなってるさ」 「何で眼鏡限定なんですか。ビームなんて出せる訳ないでしょ。つーか出たら真っ先にアンタを貫きますよ今の僕なら」 しみじみと言う銀時にぽつりと突っ込みを投げ、新八は大きく息を吐きながら道場の隅へと移動して行く。銀時は周囲をぐるりと見回し、門下生がそれぞれ稽古に就き、こちらに指南を求めて来そうな気配が無いと知ると、竹刀を肩から下ろして新八の後に続いた。 「だって眼鏡からビームだよ?目からじゃなくて眼鏡から。そんなんもう俺勝てる気しねーもん」 「幾ら銀さんに勝てるかも知れないからって、眼鏡からビームとか御免です」 猶も続いた銀時の軽口に慣れた様子で斬り返すと、新八は銀時の背中越しにぐるりと道場を見回してみせた。道場の中には六人ばかりの門下生が打ち合いや素振りをそれぞれでしている姿があるが、それはこの広々とした空間には余りにも少なくちっぽけに見えた。それを具にじっと見つめる、眼鏡の向こうの眼差しには何処か寂寥に似たものが乗せられている。 江戸の直中にしては中々に立派な規模の道場である。道場だけではなく、中庭を挟んだ屋敷の方も大きく広い。剣術の隆盛の時代にはさぞや賑わっていたのだろう様子がそこかしこから伺える佇まいだ。 が、廃刀令の発布以降の世では、剣術なぞ前時代の遺物であると言う事以前に、犯罪の気配を持ち合わせた危険な代物であると見なされており、剣術を学びたがる者も、学ぶ必要性のある者も減った。故にこの道場も、表にそれと解る看板を出さず、知った門下生だけが未だ通う程度の場所と成り下がっていると言う。 武家の嗜みとして剣を学ぶ事も。剣を以て戦う事も。剣を選ぶ意志も。徐々に失われつつあるのだ。それが徹底して天人に隷従した幕府の行った政策であると言う事実を示して。 この家も、道場も、広いばかりで閑散とした空白が目立つ。それは新八のたった一人の家族である姉が道場主として嘗て色々と苦労した結果でもあるのだが、銀時にはそれは時代の趨勢と同じ、今まで在った何かの変容していく虚無の凝縮である様にも映った。 『戦』を失ったこの国は、平和の末に『戦』に負けて天人の蹂躙を赦した。故に、今のこの国には『戦』は無い。剣術を学ぶ理由も選ぶ必要性も矢張り、無い。 それでも振るえば剣は何かの武器になる。『剣術』は何かの強さになる。『戦』が無くとも、人が争う事を止められぬ以上、その強さには意味が無ければならない。意志が宿っていなければならない。そうでなければ力なぞ単なる暴力でしか無いからだ。戦う技倆なぞ、理不尽な弑虐の手段でしか無くなるからだ。 (……慣れってのァ、怖ェな) 何かの奪い奪われる『戦』の世にも。何も取り上げられる事のない安寧の世にも。 剣術を学ぶ事そのものに大義を失った世である以上、この道場を存続させたいと言う新八の願いは虚しくも叶わないものだろう。技も志も意味も──『戦』も。何れは衰退し消え行く。 それを無理矢理刻み遺したいとは、銀時は思っていない。だが、そうではない者も居る。 そして、銀時の見立てでは昨晩拾った男──十四郎もまた『そっち』側の人間だ。天人と、天人の存在を赦した世を憎み、剣を以てそれに抗う事を選んだのだろう。平和と安寧と変化への恭順を良しとは思えなかった、そんな何かの理由をそう言った人間は皆抱えて燻っているのだ。 戦の世が終わっても、未だ。終わらせられても、猶。 ここの道場主である新八は、戦火の及ばぬ江戸の出身である事と、戦末期の生まれと言う事もあり、彼らの様な燻る感情を持て余してはいない。街に混じった天人の存在も普通に受け入れている。故に、彼が剣を選んだ理由は後ろ暗いものでは決して無く、道場剣術本来の在り方に似た、向上心の様なものが殆どの様だった。 だからこそ、日々減る門下生、看板すら出せぬ、木刀を帯びる事すら出来ぬ──大っぴらに『侍』を標榜する事の出来ぬ──現状を歯痒く、悔しく思うのだろう。広くなった道場の空白へと思い出の残滓を描く様に、まだ青(わか)い眼差しは何処か寄る辺なく漂っていた。 「…さってと、」 寂寞の波間に溺れ沈みそうな空気を払う様に、銀時はわざとらしく声を上げて肩を鳴らす仕草をしながら竹刀を壁際に置いてある竹刀立てへと戻した。もう稽古は終わり、としか取り様のない銀時の様子に、新八はぱちくりと瞬きし、思わず壁の時計を見遣る。 「あれ?今日はもうお仕舞いですか?いつもよりちょっと早いですけど…」 時計の指す時刻は、日頃銀時が帰宅の途に着くには一時間ばかり早い。新八も一旦休憩を取っただけで、もう一勝負、ぐらいは考えていたのだろう、どこか拍子抜けした調子で言って来る。 防具は篭手一つ身につけない為に、片付けと言う片付けは竹刀ぐらいのものだ。あとは手拭いを風呂敷に軽く畳んで仕舞い込めば、あっと言う間に身支度は整う。 「ああ。今日はニ○リ寄って帰んなきゃなんねーんだわ。だから悪ィが早引けさして貰わァ」 風呂敷を身体に斜めに巻いて、道場の出入り口へと向かう銀時に新八も律儀に付いて来た。指南役の撤収に気付いた門下生たちが、練習の手を一旦止めて見送りに頭を下げて寄越すのを横目に見るとも無しに見ながら、草履を突っ掛けて庭へと出る。 「?」 新八の浮かべた疑問符は、立ち寄る場所についてのものではなく、何をしに、と言う所を正しく指している様に見えたので、銀時は自らの後頭部をがりがりと掻きながら「んー」と考える様な風情で空を見遣った。 日のそろそろ傾き始める頃合いだ。人々が家路に着くにはまだ少々早いが、寄り道をして行くにはまあ丁度良いだろう。 家で待つ者が居るなら。遅すぎる訳でもなく、不自然に早く感じられる訳でもなく。丁度良いぐらい時間になる。 早すぎれば警戒されるだろうし、かと言って余り遅すぎると心配されるのを通り越して、巣穴から逃げて行って仕舞いかねないのだし。 「猫拾ったから。……あー、いや。…犬?…いや、やっぱ猫か…?」 そんな事を考えて、歯切れのどうにも悪くなった銀時の答えに、新八は更なる疑問符を浮かべて、眼鏡の向こうの目を不可解そうに細めた。 「拾ったって…、食費も厳しめとか言ってたじゃないですか、そんなんでペットなんて飼えるんですか銀さん。て言うか結局何なんですか、猫?犬?どっちなんです?」 少し顔を厳しめに顰めて見せる新八の言い種は、ペットを飼うなら最後まで責任を持たないと駄目ですよ、そんな調子を孕んでいる。 ひょっとしたら説教されかかってるのかな、俺、と苦笑に乗せて考えながら、銀時は脳裏に当事者である『ペット』の黒い後ろ姿をそっと描いてみた。 気紛れで懐かぬ猫か。主命に忠実たる犬か。それとも──狗か。 「………」 頭に浮かんだ、思考に差し挟まった感覚は、何処か懐かしい感慨にも似て見えて、銀時は何故かそれを直視してやる気にはなれなくなって、目蓋をゆっくりと下ろした。 切れ味の悪いなまくらを振り回していた、痩せた身体の輪郭。触れてみたくなる様な黒く長い髪。そのかたちに押し込まれた、何かの歪。幼い頃からきっと抱いて来たのだろう、燻る平淡な憎悪の感情。 あいつは、『戦』を望むのだろうか。 それとも、『戦』を鎮める事を求むのだろうか。 「んー…、そうだな。──……狗になれなかった猫、かな」 その歪のない何かの岐路がもしも彼にあったならば。或いは……──? 得体の知れぬ思いつきにも似た思考は然し、確信である様に銀時には感じられた。 それは勘でも幻想でもない、夢にも似た何かでしか無いのだろうけれど。 ふ、と我知らず浮かんでいた笑みを向ければ、新八は何か気まずい所に触れた子供の様に、居た堪れない様子で黙り込み、それ以上の問いは重ねてはこなかった。 また明日な、と手を振って、銀時はその侭ざわめきの濃い雑踏へとふらりと吸い込まれて行った。 * 家の壁に背を預けて、身体を丸める様にして十四郎は座り込んでいた。 そろそろ日暮れも近い時刻だ。地面や木造の壁はじわじわとその温度を下げ始めてはいたが、未だ寒いと感じる程ではない。それでも両手で膝を抱え、その中に顔を埋めて十四郎はじっと蹲っていた。 まるで迷子か何かの様だが、どう言った訳か、並ぶ長屋に出入りする『隣人』たちの姿には全く遭遇してはいない。因って、迷子か、とか、どうしたのだ、とか。十四郎にそんな声を掛けて寄越す人間は誰ひとりとしていなかった。尤も十四郎とて誰かに声なぞ掛けられたくてこんな所に座り込んでいると言う訳では無かったのだが。 昨晩銀時に連れて来られた、彼の棲む長屋の一角だ。錠を下ろした扉の直ぐ横、無造作に置かれた水桶や木箱の隙間に小さくなって座り込んで、十四郎は動かない。 鍵は出がけに財布の中へと放り込んである。紛失した訳ではない。 家人は未だ留守。鍵を開けて扉を開いて先に戻っていればそれで良い。筈、なのに。 「………」 居心地の悪い躊躇いが、寄り掛かった壁の冷たさと、己との間に隔たっている。それは恐らく感傷めいた感情がそう感じさせるだけの事なのだろうけど。 昼間、近藤と別れてから十四郎は昨晩の『現場』へと足を運んでみる事にした。目撃者がいるかも知れないから普段ならば現場に戻る様な愚行は避けるのだが、今回は何故か妙に気に掛かり、気付いた時にはそちらに向かって歩いていた、と言った風ではあったが。 まず、銀時に助けられた──人間を補食すると言う、想像するだにおぞましい天人に遭遇した方へと向かったのだが、そこには人ひとりが食われかけたのだと言う痕跡なぞなにひとつ見受けられなかった。水の様に溶けた天人の残骸は、地面に染みひとつ遺してはいない。 十四郎が叩き付けられた木材の崩れた跡と、付近に僅かに滴った血の跡。雨でも降れば簡単に流されて仕舞うだろうそれと、路地裏に十四郎自身の放り込んだ蓆とだけが、昨晩確かに己がこの『現場』に居たのだろうと確信出来る名残だった。 深夜と同じく辺りにひとけは殆ど無い。遠くには確かに街のざわめきが聞こえていると言うのに。 街の片隅の誰も知らぬ死。仮に十四郎が銀時に助けられる事なくここで食われていたとして、それに気付く者も恐らく居ないのだろう。……そう考えるとぞっとしない。 不快感を振り切る様にした十四郎は、続けて最初の『現場』──己が天人を殺めた場所へと向かった。 そこは先と同じ様な路地裏ではあったが、深夜とは異なり人の行き交いがちゃんとあった。なんとなく胸を撫で下ろして、そこに出来ている僅かの人垣の隙間から覗いてみれば、警察や同心らしき人間たちが規制線を張っていた。天人の亡骸が既に片付けられている所を見ると、証拠の採取などを行っているのだろう。 天人は天人の同胞に対する被害に、幕府に何らか働きかけを行っているだろう、とは言え。同心たちの職務態度は何処か不真面目──と言うより事務的な『処理』の様である。天人様の為に自分たちが骨を折らねばならぬ事に不満を抱えるその故に。 天人を狙った辻斬りを本気で捕らえようと思う人間なぞ、そう多くは無い筈だった。のだが。 見慣れぬ黒服の、警察らしき人間たちの動きはそれらとは少々異なって見えた。 ほぼ黒一色の洋装姿の、数人の男たち。皆一様に腰には刀を帯び、物腰も何処か堂々としている風情だった。これが、今度新設されると噂の警察組織なのだろうか。思って、彼らの形の歪さに、十四郎は苦々しい思いを密かに吐き出す。 与えられた身分としての『侍』が、忌々しく感じられる筈だと言うのに──然しそれを直視出来ない。嘲笑できぬその理由は、彼らの態度が、ただ幕臣として威張り散らすのではなく、ただ事件現場の捜査と言う職務に真剣に務めるだけの有り様であったからなのか。 あのゼラチン質の天人たちは人間を補食するイレギュラーな存在だったと言うから、急に姿を消したからと言って誰が心配する訳でもないのかも知れないが、ここで死んだ天人は別だったのかも知れない。人垣の半数近くは物見の風情であったが、幾つか『被害者』へ向ける同情めいた声も聞こえて来ていた。 十四郎は意識からそれらの『音』を締め出し、通りすがっただけと言った様子で人垣をするりと離れて街路を再び歩き出す。当然、不審に思った警察が後を尾けて来る事も無ければ、職務質問を受ける事も無かった。 「……………」 今更、己のした事──している事──に胸が悪くなった訳でも、後悔を憶えた訳でもない。 ただ、何かが歪で不快で。何か憶えの無い責を問われている様な感覚は胃に酷く重く、十四郎は足早に雑踏の隙間を抜けて歩いた。いつもならば人々の噂話に耳を欹て歩くのに、今日は何故かそんな気にはなれず、気付いたら出発地点である長屋へと戻って来ていた。 そこらで適当に摘もうと思っていた昼飯も摂る気にはなれず、酷い疲労感を背負った侭壁を背に座り込んで──それから何時間、こうしてじっと蹲っていたのだろうか。 それこそ、寄る辺のない迷子の様に。そんな年齢でもあるまいに。 どうしたら良いのか、何を選ぶ事を感じたら良いかが解らなくなって、動けなくなるだなんて。 「……十四郎?」 ふと頭の上に陰が差した。上方から降って来る、懐かしい呼び名に。十四郎は俯いた侭目蓋だけを持ち上げた。 はっきりとしない意識の空隙に、その声だけは不思議によく響いて届いた。 顔を上げればそこには、銀色の髪の男が居る筈だ。十四郎の事を義兄と同じ様な、然し全く違う眼差しで見つめる男が。 「鍵、無くしちまったのか?」 続く問いに、膝に額を押しつけた侭かぶりを振る。 違うんだ。鍵はある。失くしたのは、鍵ではなくて── 「じゃあ、一体どうしたの」 ざり、と衣擦れの音がして、銀時が目の前にしゃがみ込む気配がした。十四郎はもう一度かぶりを振って、袂の財布から鍵を取り出し、掌に握りしめた。 こんなものが必要だった訳ではない。 こんな、扉の開かれる事を実感する為のモノが欲しかった訳ではない。 迎え入れてくれる『家』を探したかった訳ではない。 尽きない復讐心に何か意味を求めた訳ではない。 虚しくて良い。修羅道など、其処に堕ちた事にすら気付かぬもので良かった。 どの道、潰える虚構ならば。もう同じ思いなど味わいたくない。信じるだけ信じて、浸らせるだけ浸らせて、そうして結局誰もが消えて行くなんて、非道い話だ。 「…………俺は、誰かに護られてェ訳じゃ無ぇんだ」 やがて、時間をかけてぽつりと十四郎の吐き出した声音は、吹かれずとも消えそうに弱々しいものだった。頼りがないと言うよりは、実感の酷く稀薄な、何か──『与えられた』台本の様な、確りと根付かない脆そうな質。 「……、多分、そうだった。何かを護る側に居たかったんだ。それが与えられたお題目であろうが、手前ェの為じゃない信念を貫き通す為のものであろうが、俺は、」 『 』を、護りたかったのだ。 (それが、どうだ。今は、護るなんて事何ひとつ出来ちゃいねェ) 今、は? 否。今も、だ。 「…………佩刀した幕臣風の野郎が、剣術道場を探してるって言ってた。確信じゃ無ェが、てめぇのバイトしてる道場の可能性は高い。てめぇが何者かなんて俺ァ知らねぇし、攘夷志士であろうがなかろうが関係無ぇ。だが、」 捲し立てる様にそこまで一息に紡いでから、十四郎はおずおずと顔を上げた。目前の銀時はいつもの穏やかな面にほんの少しの驚きを乗せて、十四郎の事をじっと真っ直ぐに見つめて来ていた。 「……だが。…………気を付けろ。攘夷志士を狩る為だけの警察組織ってのも、いよいよ本格的に動き出して来てるみてェだし。謂われなんざ無く逮捕される事だって、あるかも知れねェ」 今日の捜査の様子を見るだに、天人を狙う辻斬りの確保もまた、彼らの任務になるのだろう。易々辿り着ける痕跡が残っているとは思っていないが、十四郎とて既に追われる身である。 そして銀時も、ただの燻る破落戸紛いの攘夷浪士、などと言う存在ではないだろう。剣の腕も身のこなしも天人殺しに慣れた手際も、少なからず彼が何らかの名(意味)を残す攘夷志士である可能性は高いと十四郎は見立てている。 そんな男の、枷になりたい訳ではない。 そんな男を、護れるだなどと思い上がった訳でも、無い。 「……………だから、ここに居ても良い理由が無いと思った?」 心をまるで読んだ様なタイミングでそう、吐息に乗せて銀時が問いて来たのに、十四郎は不思議そうな表情を銀時へと向けた。心なぞ読む力が無くとも、この男ならばきっと解るのだろうと言う己の荒唐無稽な考えに賛同しながら、ばつの悪さを抱えて頷いた。 はっきりと断じられた、護れない、と肯定されるも同然の言い種に、然しどこかで安堵を覚える。無力だと認める事で逆に救われる事もあるのだと、十四郎はこの時始めて知った。 「俺に護られんのは嫌?」 宵に沈み始めた空の下、そう言った銀時の眼差しは少し寂しげに見えた。まるで──考えるも妙な感覚ではあったが──そんな事は考えた事も無かったとでも言う様な。 「……そうじゃ、ねぇ、…が、癪には障る」 何処をどう取っても悪態にしかならない十四郎のそんな返しに、銀時は然し何か凄いものを見つけた様に嬉しそうに笑った。馬鹿にしている訳でもなく、嘲笑っているのとも違う。 「じゃ、お前もさ。持ってる刀で俺の事を護ってくれりゃ良いだろ。互いに背中さえ護ってりゃァ、後は眼前の敵を斬るだけで良い──、戦ってなァ、そんな単純なもんだ」 「…………」 「言ったろ。俺ァ俺のしたい様にするって。お前を信じんのも、俺のしてェ事だから」 手にした刀は切れ味の悪いなまくらだ。だが、剣を選んだ意志をこそ、戦おうとした十四郎の怒りをこそ、銀時は尊重してくれたのだと──慰めるでもない、ただの余りに素直な信頼を示して寄越す言葉からは、そんな気がした。 銀時は十四郎が昨晩自らあの天人らに挑んだ事は知らない。挑んで返り討ちにあったのだとは、恐らくはまだ知り得てはいない筈だ。 だからそれは、単なる憶測でしかない筈なのに。それだと言うのに、銀時の言葉には何かに裏打ちされたかの様な確信が潜んでいる。そして同時に十四郎もそれをまるきり疑ってなどいないのだ。 歴戦の戦友に掛ける様なそんな信頼を、この男からどうして己なぞが受け取れようか。 そう、理性では思っていると言うのに。 十四郎は握りしめていた手をこわごわと開いた。剣胼胝の目立つ掌の中ではすっかり体温で温まった鍵が、その役割をただじっと待っていた。 「……」 その場に立ち上がった十四郎は、銀時に背を向けて、玄関戸に掛けられた錠にそっと手を伸ばした。招き入れられ庇護されるのが望みではないのならば、きっとこれが正しい事なのだろうと思って。錠をかちりと解く。 迷惑になるかも知れない。無用な危険を招くかも知れない。天人を狙った辻斬り犯。幕臣らしき男との会話。十四郎が此処に留まる事が、銀時に何らかの損失を生じさせる事になるかも、知れない。 だが、ただ押し込められて護られるも厭で。此処からまた宛も目的もない虚しい復讐心だけを抱き続けるのも厭で。 この男を信じて、信じられて。この男の向かう方角に在る、標を見たい。そちらに進みたい。選ばなかったものも選べなかったものも知りもしなかったものも、全てを悔いて曇天に嘆くぐらいならば。この侭。 から、と横に開いた戸の向こうには、家人の帰りを待っていたささやかな暮らしの痕跡。 それを掻き乱して良いと言われ、掻き乱すも、覚悟。 此処に居たい。この男の元に居たい。知りたい。強くなりたい。護られたい。 ……護りたい。共に戦ってみたかった。 土間に一歩だけ進んで、十四郎は背後の開けた扉をゆるりと振り返ってみた。残照の眩しい世界が、切り取られた四角い外界から飛び込んで来るのに目を眇める。 「……………お帰り」 何と言おうか迷って、少しぶっきらぼうな調子でそうぽつりと十四郎が言うのに、銀時は──恐らく、笑っていた。逆光の中でよくは見えない口元が、震える様に揺れながら紡ぐ。 「ただいま。十四郎」 WJ本編の高杉が強すぎて、置き去りにどんどん他が前倒しになってて後が怖い。 ← : → |