愛する人よ(真実は)誓わずにいよう / 08 庭は広く、庭木も余り無くて──手入れが大変だったので無くしたそうだ──落ち着かなかったので、家の門から外に出た所で、十四郎は塀に寄り掛かって天を仰いだ。運動の疲れもあって自然と肩がかくりと下がる。 古風なつくりの門に看板は出ていない。看板のあった様な痕は残っているが、通り過ぎただけではこの屋敷が剣術道場をやっているとはそう知れないだろう。ご近所にもわざわざそれを通報する様な人間はいないらしい。 これなら恐らく、この間の近藤とか言う男がここまで辿り着いた所で、ここが探す剣術道場であるとは思わないだろう。 (……いや、まだ連中がこの道場を探してる、って決まった訳じゃねェが) 楽観的に思いかけてからかぶりを振って、十四郎は舌打ちをした。不審な攘夷志士が出入りしている剣術道場ならば、充分『探す』対象になっておかしくはないだろうと、訝しみながらも思う。 あの幕臣風の二人組がどう言った用件で剣術道場を探していたのかは知れないが、銀時が攘夷志士であるとなれば、話は不穏な想像になる。 これで、銀時が攘夷志士の仲間を増やすべく道場で指南でもしていれば未だ納得も出来るのだが、生憎とそう言った気配もない。潰れかけた道場で、気紛れに、新八にただ頼まれたからと指南役を引き受けた。本当に裏も何もない、それだけの顛末にしか思えない。 (…………やっぱり、益々解らねェ以前の問題だ) あれだけの強さを持つ男が、ただバイトで剣術の指南をする。そんな意味も解らないが、通りすがりの厄介者を拾って家に置く理由も矢張り解らない侭だ。 疑心ではない。もう銀時の人間性を疑う様な心算は十四郎にはないのだが、ただ『解らない』不快感がある。まるで、唐突に茫漠とした砂漠にひとりきりで放り出されたかの様な不安定な感覚にも似て、それは十四郎の裡でゆらゆらと燠火の様に揺れる。惑いと、その正体とを解らせない様にするかの様に。 「オイ、そこの」 横合いから不意に飛んで来た声に、十四郎は天へ向けていた顎先を慌てて引き戻した。涼やかな声は先日の幕臣風の男とはまた違う、不可思議な焦燥を煽る質のものに聞こえて、ぎくりと鼓動を跳ねさせる。 門を挟んで、左右。十四郎の寄り掛かる壁と反対側の壁に、いつの間に其処に現れたのか、寄り掛かっていた男からは煙と香の臭いがした。 「……誰だ?」 まるで最初から其処に居たかの様に、口元にほんの僅かの笑みを乗せて佇む男は、片手に持った朱色の煙管をゆらりと、応える様に軽く揺らしてみせる。 「通りすがりさ」 長めに伸ばした黒髪の隙間から、琥珀の色をした眼だけがゆるりと十四郎の方へと動いた。 その瞬間──男の視線に捉えられた瞬間、十四郎の背筋が総毛立った。笑う男の眼球と緩やかな弧を描く唇は、まるで十四郎のそんな畏れを感じ取ったかの様に揺れる。喉を鳴らして、笑う。わらう。 くわえた煙管から昇る煙。花街帰りの様に漂う香の甘さ。そんな甘ったるさとは裏腹に、獰猛な獣が獲物を見つめる様な冷えた眼差し。 その齟齬にではなく、男の存在そのものに何故か本能的な忌避感を憶えて、十四郎は身構えた侭壁に背を押しつけた。ある筈のない腰の得物を探りながらも後ずさろうとしていると知れる、己のそんな行動に寸時驚きながら、唇を噛んで男の方を睨む様に見遣る。 何か言葉を発しようとすれば、喉が酷く痛んだ。そこにまるで孔でも空いたかの様に、上手く息が出来ない。 「…どうした。具合でも悪ィのかい?」 硬直した十四郎に向かってそう言うと、男は自らの背を預けていた壁からそっと身を起こした。 若い男の輪郭を覆う長い黒髪。隙間から覗く、野獣の様な眼と、真白な包帯。酔狂にも感じられる派手な柄の着物は、然し何故か男の佇まいに酷く合致している様に見える。 酷く、妙な。強い違和感を何処かに憶えるのに、矢張り上手くそれを言い表す事が出来ない。 「い…、や」 なんでもねぇ、とかぶりを振って、十四郎は一度ぐっと目を閉ざしてまた開いた。両足がしっかりと地についている事を確認しながら、強張って戦きそうになる全身を叱咤し、なんとか壁の支えなく立つ。押さえた掌の下、喉が、痛い。 十四郎が姿勢を取り直すのを見て、男はふう、と小さく息を吐いて煙を吐き出した。 「通りすがりのお節介かも知れねェが。てめぇ大分顔色が悪ィぜ?」 「……大事無ぇ」 自覚のある冷や汗と、そうさせる訳知れぬ緊張感をなんとか飲み干して、十四郎はずきずきと痛む喉を強く押さえた。指の下、薄い皮膚の下でどくどくと頸動脈の立てる血流が聞こえて来る。貧血にも似た極彩色の眩暈に合わせた心音のリズムを指で感じながら、もう一度強く目を瞑って、薄く開く。 門を挟んだ反対側に立っていた男は、暫くそんな十四郎の様子をじっと観察する様に見ていたが、やがて諦めたのかどうでも良くなったのか、草履の擦れる音を立てて歩き出した。 十四郎の目が追うに任せる様に、男は悠然とゆったりとした歩調でその目の前を通り過ぎる。ふわりと漂う香りが益々に嘔吐感を深めるのに、十四郎は思わず顔を顰めずにいられない。通り過ぎ様にほんの僅かだけこちらに視線をくれるだけの男は、まるでそれに頓着した様子もなく、ただ小さく一言。 「そうかィ。ま、大事にな。俺は煩ェのが来る前に退散するとすらァ。じゃあな、人斬りさん」 「──、」 まるで何か内緒話を打ち明けるかの様に、唇をほんの少しだけ歪めてそう言い残す男を、十四郎は今度こそはっきりと身構え見遣った。が、その時には男の姿は既に間合いの外。手には得物がない。なまくらの一本ですら、無い。 煙管から立ち上る煙を燻らせながら、男の姿はあっと言う間に塀の先を曲がって消えて仕舞う。 「………、野郎、」 「おーい、十四郎?どこいった?」 吐き出した瞬間、喉がはっきりとした呼吸の方法を思い出したかの様に、眩暈がぴたりと止む。それと同時に門の中から聞こえて来る銀時の声を一瞬振り返るものの、十四郎は今し方感じた、何と形容したら良いのかも解らない怖気を両腕に抱えて立ち尽くしていた。 恐怖。否。畏怖だろうか。呼吸を忘れた喉の痛みが、何かの警鐘を頭の中でがんがんと鳴らす。 ここ数日に出会う見知らぬ人間たちの、何れにも何かを感じた。だが、こんなにも何か──忌避したい、と思った相手は恐らくは初めてだ。 勘ではない。まるで経験則の様に。 (そんな、訳は無ェだろう、が) 何かの夢か、それとも幻想か。それならば、直感とでも言った方が余程マシな気がする。 見知らぬ相手を畏れたり、勝手に評価するのは狭窄的な人間のものの見方であると教えられた事がある。それには確かに賛同するのだが──、これは果たして『何』なのか。『何』が忌避感を伝えようとしたのだろうか。『何』に対して? (………馬鹿馬鹿しい) 「十四郎?」 かぶりを振った所で、門から首をひょいと覗かせる銀時の顔に出会う。どうやら急に道場から姿を消した十四郎の事を探していたらしい、少し寄った眉の間には訝しむ様な表情が乗っている。 「……ああ」 頷いて思考にもならない惑いを振り切る。そう、これはほんの数瞬の白昼夢の様なものに違いないのだから。理性とは何か別の所で、感覚が勝手に何かを思い違えて困惑している。ただそれだけの、それだけの錯覚。 「通りすがり、だとよ」 ぽつりと呟きながら門に向かえば、そこに佇んでいた銀時が「へ?」と疑問符を浮かべて──次の瞬間にはひくりと鼻を動かすと、まるで咎める様に十四郎の肩を掴んだ。 矢張りあれは通りすがりなどではなかったのか、と何処かでその顛末を予想しながら、十四郎は目を眇めて、忽ちに柔和な表情にあからさまな不快感を浮かべている銀時の事を見上げて言う。 「お節介だとも言っていた」 「…………」 銀時は何も問わなかったし、頷きもしなかった。ただ鼻の頭に皺を寄せた侭、そっと十四郎の肩から手を離したのみだった。 その侭十四郎を軽く促す様な仕草だけを寄越し、道場の方に戻る銀時の背には陽炎の様な──怒り?にも似た空気が纏い付いている。 怒りだろう、と十四郎は直感的にそう思ったのだが、実際のところその正体を知りたいとは思わなかった。 逆鱗にも似た。『そこ』に触れる事は、きっと赦されはしないのだろうと。『知っている』。 波立たない湖面の底に、どの様な澱みを隠しているのか。銀時の背を無言で見送りながら、十四郎は一度立ち止まって、通りすがりの男の去った方角を見遣った。 男は、人斬り、と十四郎の事を呼んだ。 男の指した、ひと、とは。 天人、と言う様に、聞こえたのだ。 つまりあの男は、十四郎が天人を斬って来た辻斬り犯であると、知っていると言う事だ。 * 銀時は十四郎に、香の主の事を問おうとはしなかった。ただ、通り過ぎた残り香に不快そうな表情を表しただけで、それ以上には、何も。 だから十四郎も何も言わずにおく事にした。近藤たちの事も、煙管をくわえた男の事も。彼らに相対し憶えた、胃の腑が縮む様な得体の知れぬ感覚も。 ……そして、己が天人を殺め続けている、辻斬り犯である事も。 眠れぬ夜に真新しい布団の中で転がっては、魂に刻み込まれた様な憎悪と衝動とを持て余す。 枕元にはなまくらの刃。手に取って、抜いて、奴らを斬りに行きたい。 殺意の名を得た憎悪は、既に十四郎の裡で習慣的な毒の様になっていた。義兄夫婦の無念も、世界への詛いも、求める購いも、全てこの刃でなければ払えない。報えもしない。 だが、起き上がっては刀に手を伸ばす度、同じ屋根の下で寝息を立てる銀時の気配が、それを押しとどめる。或いはそれは理性と言うものであったのやも知れない。 本能的に恐怖を避ける、獣の理性。……そう、躊躇いとは何かしらの恐怖に直結するものなのだから。 銀時も天人を殺める事に躊躇いのない人間だとは、思う。攘夷戦争に参戦していた名のある志士であればそうだろう。実際、十四郎を助けた時の様子はそうであった。あれは躊躇いも慈悲もない、いのちを断つと言うひとつの作業の様な業だった。 だから、夜な夜な十四郎が天人を殺しに出ようが、それは銀時に『何』と思わせるに足るものではないのだろうと思う。十四郎が銀時に全く気取られず夜毎の『悪事』を成した所で。それは同じ筈だと言うのに。 (それじゃあ、何かが、変わっちまう、様な…、) 戦いでも護りたいのでも仕合いたいのでも。銀時と共に居たいと言うその願いが、そこで破綻して仕舞う様な気がするのだ。 おかしな話だとは思う。攘夷志士として生きて来たのだろう、あの男の本質を何処かで理解していると言うのに──それとは反した事を選ぶ事こそが正解である様な、そんな気がしているのだから。しかも、勘以下の錯覚で。 十四郎は戦う為に剣を選んだ。それが憎悪に由来する発端であったとしても。それは恐らく『間違ってはいない』。 だが銀時は、十四郎が憎悪の侭に天人を斬りに行く事をきっと望まない。 ……はっきりとそう断じられた訳でもないのに、何故かはっきりとしたそんな確信があったからこそ、或いは十四郎は銀時の居る方を選ぼうとしたのだろうか。誘蛾灯に灼かれる愚かな羽虫の様に、分を弁えずあの背を追ったのだろうか。 それでも憎悪が消えないから、夜毎にこうして葛藤に苛まれるのに。復讐は己で肯定していたが、ここに留まり眠って仕舞う途も、忌避出来ない。 殺害された天人に対し囁かれていた、同情的な人間たちの声。何と言っていただろうか。出稼ぎだとか家族が居たとか親切にして貰っただとか気の良い天人(ひと)だとか──きっと、そんなありふれた話。人間たちの間で囁き交わされるものと全く同じ、そんな話だったのだろう。 十四郎は己の怨みが虚無である事を知っている。仮に、本当に義兄を殺めた犯人である天人へと復讐が叶ったところで、その孔は埋まりなどしないのだとも。知っている。 魂に巣くった怨念の鬼は、既に十四郎の一部となっているのだから。己の命数が尽きた瞬間にしか、十四郎の裡からその怨みが消える事は無いのだろう。 (………) 悩んで。そして今日も結局、十四郎は枕に頭を押しつけた。 兄の復讐と、銀時の傍に居る事が叶わなくなる事とが、比べようのない天秤の様に揺れている。 あの男の様に強くなりたいと思った。 ただの一振りの刃の様に。復讐も後悔も斬り捨てる、心もない刃の様に。空虚の明日と無為の復讐とに怯えず、ただ純粋にそう在りたかった。 (そうだ。そうすれば、きっと──、) 護れた筈だ。 知る事が出来た筈だ。 俺の知らないお前は、どんな夜叉だったのだろう? 。 ← : → |