愛する人よ(真実は)誓わずにいよう / 09 未だ陽も昇らぬ早朝、目を醒ました銀時は音を立てずに布団からそっと這い出した。 部屋の反対側で、新しく柔らかな布団の中に子供の様に丸くなって眠っている十四郎の姿が、今日もちゃんとある事に密かな吐息をつく。 十四郎が、夜中に何度も寝返りを打って、枕元の刀をじっと見ている事には気付いていた。 余りにも思い詰めた様子で居るから、いつかはこっそりと出て行って、そして血の匂いを引き摺って帰ってくる、そんな日が来るのではないかと密かに疑っていたのだが、今の所未だそんな気配は無い。 (……最初は、攘夷志士に罪をなすりつけようとしてる悪ガキかと思ってたけど) 到底本人には言えたものではないが、実の所銀時は当初、人間を補食する天人から十四郎を助け出した時にはそんな可能性を考えていたのだ。 だが、直ぐ様にそれは払拭された。 居慣れない野良猫の様な態度、強さを求める羨望にも似た眼差し、なまくらの刀一本を信じて戦おうとする苛烈な精神性──そんなものたちをあの痩せた身体の内側に覗き見て仕舞い、銀時は己の疑いを間違ったものであったと知る。 十四郎の、天人への強い怨みが『何』から出たのかは知らない。だが、相当のものを覚悟しなければ、刃に因る戦いも購いも望みはしないだろう。 そして今は、夜毎恐らく酷い葛藤に苛まれながらも、結局朝まで堪えて眠っているのだ。これもまた、相当のものを抱えていると見て良い。 勁い心だ、と、我が子の成長でも見つめる親の様な心地で思いながら、細い息遣いに小さく上下している布団を見つめ、銀時は物音ひとつ立てずに玄関へと向かった。軋む戸を静かに引き開け、朝靄に濡れる町へとそっと滑り出る。 日の出は遠い。薄暗い町は昼間の喧噪を忘れて寝静まり、人っ子一人歩いてはいない。 静寂の中へと無遠慮に踏み出した銀時は、水場の方へと向かった。日中は誰やかれや利用者の居るそこも、静まり返った朝同様に静かに佇んでいる。 じゃり、と草履の音を立てて近付けば、陰に紛れる様にして井戸端に腰掛けていた男が、目深に被っていた笠を指で持ち上げて見せた。ほんの僅か覗く唇が、にたりと笑う。 「……やっぱてめーか、高杉。何の用だ」 この場に十四郎や新八が居たら思わず驚いていたかも知れない。そのぐらいに銀時の声音は酷く冴え冴えとした、剣呑な響きを纏っていた。 抜き身の刃で触れられる様な声は、静かではあったが──否、静かであったからこそより一層凶悪な気配を際立たせている。そこいらの破落戸程度であれば、訳も知れず背筋を冷やす声音に直ぐ様に逃げ出した事だろう。 だが、銀時のそんな様子が、巣穴を護ろうとする獣の威嚇程度のものだと、高杉は聡くも見抜いていた。怖じるどころか退く気配も見せぬ侭、くつくつと肩を震わせて笑う。 「何の用、たァ随分だな。随分とお楽しみみてェだからよォ、邪魔すんのも野暮かと思ったんだが…、良い子の舎弟に無垢な野良猫。情が移っちまったら気の毒なんじゃねェかと思ってな?」 「下らねェ牽制の理由はそれか?ったくテメェは昔ッから人のもんばっか欲しがるガキで困らァ」 「そりゃてめぇの方だろ。執着して独占して渡したくねェからって壊す。とんでも無ェ餓鬼だ」 わらう高杉とは対照的に、銀時は全く笑みをみせずに吐き捨てるのだが、そうしたら更に笑みを深めて返された。 静かな憤慨にぴくりと眉間を震わせる銀時をちらと見上げて、高杉は手にしていた煙管を軽く振ってみせた。下らない応酬は止めだとでも言う風に。 「てめェの帰りが遅ェもんだから、ヅラがいい加減やきもきしててな。仲間ン中にも、よもやてめェがこの侭逃げ出しやしねェかと懸念する声も上がって来てる。何せ『前科』があるからな、無理も無ェ話だが。 だから仕方も無ェかなと、昔馴染みの老婆心で『迎えに』来てやる事にしたんだよ」 親切ごかして言う高杉の口元から笑みは去らない。高杉の言い分も充分に予想出来ていた銀時は、煩わしげな仕草で頭を掻いた。 「………もしも、逃げるっつってたらどうするよ」 「殺すだけだ。ヅラが止めた所で他の連中はそうは行くめェ。坂本に続いて手前ェにまでおめおめと落ちられたんじゃァ、俺らの立つ瀬も無ェからな」 あっさりと物騒な事を答えながら、高杉が指先でくるりと回す煙管に火は入っていない。鞘から抜かれた刀に似ていると、何となくそう思って見ていた銀時の視線の先で、突如その煙管が消えた。 「、」 咄嗟に銀時の打ち払った手が、座った侭の高杉の手から投じられた煙管を眼前で叩き落としていた。カン、と地面に落ちて何処かへ転がって行く朱色。高価そうなそれに、然し投じた高杉自身はまるで頓着した様子も見せず。 「……逃げる心算なんざ無ェ癖に抜かすんじゃねェ。白夜叉? これを始めた俺らにゃ、責任がある。散った仲間の想念背負って、奴らの無念を晴らす義務がある。じゃなきゃ奴らは浮かばれねェ。奴らを駆り立てたものに報いれねェ」 「………」 指先の動きだけで煙管を、投擲刃の様に投じた高杉の眼は、腐爛しきった憎悪を瞋恚の炎が焙り続けて、猶昏い。 十四郎の裡に眠るそれよりも余程に完成し完結し、そして揺らぐ事ももう無いその眼差しには、世界に対する明確な復讐の願望と購いの希求とがただ凝っていた。 応えない銀時に何を思ったのか。やがて高杉は僅かの衣擦れの音と共に立ち上がった。 「平和な暮らしに寝惚けててェんなら、両手に余る荷を背負うもんじゃねェな?」 「……………」 再び目深に被り直す笠の隙間から、最後に銀時の事を睨み付けていく瞳は炯々と。 それを睨み返す銀時もまた。爛々と光る野生の眼差しを向ける。 憎悪には足らない、これは嫌悪。互いを認め合うからこそ出来る、火花の散りそうに凶悪で剣呑で熱の無い、慣れた感情の遣り取り。 銀時の怒りから、未だ鬼の焔が消えていない事を知った高杉は、忌々しく思う内側に安堵の様なものを感じ取って満足した。 「あの野良猫ちゃんはよォ、銀時。てめぇの与えようとする腑抜けたお為ごかしなんざより、余程俺らに近ェ。感情の侭に飼ってやりゃァ、さぞや切れ味の良く従順で──綺麗な刃になるだろうよ」 それは銀時が十四郎の細い身の裡に感じ取ったものと、恐らくは同じ意を指すもの。 高杉もまた、己と同じ憎悪の獣をあの裡に見たのだ。 だが、銀時は。 憎悪に叫び出したくなる無為の夜を、与えた布団の中で丸まって堪えている、十四郎の苦悩を知っている。 彼の望みが、ほんとうはそこにはないのだと、きっと何処かで知っていた。犬にならず狗になれない途でも何かを求めて苦しんだ、声無き声を、きっと知っているのだ。 だから。 だから、護ってやらなければいけないと思った。今度こそ。 「……手ェ出すなよ。あれァ俺のもんだから」 己の決意にも言葉にも何の疑問も無い様に言う銀時に、高杉は短くだったが声を上げて笑った。 「……………………そうかィ」 そして次の瞬間には、酷く冷えた弾劾の声に変わる。 「哀れなもんだ」 * 戦の勝敗に、勝ちの出目のある未来を最初に諦めたのは桂だった。 既に戦局は停滞の一方にあり、負けないだけの戦いが日々だらだらと続けられている。当初は侍狩りを楽しむ天人の多かった『敵』陣営も、末期には、決した戦を続ける動きは内紛にさえ満たぬ暴動でしかなくなり、その鎮圧に当たるのは幕府の──『人間』たちであった。 幕府の為。国の為。侍としての大義の為。或いは失った誰かの為。そんな志は、人で人を殺す消耗戦に段々と行く。鑢で心を削る様な苦痛の日々と、何れ遠くない敗北の見えた未来とは、攘夷志士たちから希望を緩やかに奪っていっていた。 桂の最初に言い出した『敗走』の決断に、高杉は猛然と突っかかっていった。協議の場が今にも刃傷沙汰になりそうな怒声に包まれる中、銀時は酷くどうでも良い心地でそれを聞き──そしてその晩には姿を消した。 桂の様に、戦いの気運をどうの、などと大層な事を思った訳ではなく、解散と言われたから解散で良いだろうと、淡々と思っただけである。 案の定、数ヶ月後には江戸近郊の町をぶらついていた所を桂に見つかり、散々説教を食らった。居なくなった事そのものより、黙って出て行くな馬鹿者、と言うのが論点だった辺りは桂らしい。 銀時の去った後、桂は高杉と怒鳴り合い話し合った結果、これは敗走ではなく戦況を建て直す為の転進であると説いて、仲間を含めた全員を何とか納得に至らしめたらしい。 終戦間際、天人らとの嘗ての戦場で発見した古い戦艦があった。記録では初期の攘夷志士の猛者らに襲撃されて沈没した事になっているらしいもので、誰もがそんな存在を忘れ放逐されていたものだ。それを反撃の為の旗艦とすべく、現在急ピッチで修理中であると言う事。そして、その艦を用いて幕府へと最後の抗いへ出る事。 ……つまり、桂の提唱した『戦局の建て直し』とは、玉砕に成り得る手段の提示の事である。敗戦した侍の成れの果てにはいっそ相応しいぐらいに鮮やかな。 尤も桂はそれを諄く、玉砕ではなく反撃の一手だ、と繰り返してはいたが。高杉や、血気盛んに戦に打ち震える者らはそうは思わなかったのだろう。 再び合流する事を半ば無理矢理承諾させられた銀時だったが、艦の修理には未だ当分時間がかかると言われ、それなら、と思い立ってぶらりと江戸に出てみた。 そこは、もう少し後には、自分たちが破壊するかも知れない町だ。 そこでじっと太平享楽の平和な世を見つめてみても──そこには達成感も虚無感も復讐心も、何も無かった。何だか考える事にも疲れた銀時が呆っと何日も同じ場所に座っていたら、通りすがった傘を差した天人の少女に酢昆布なんぞを差し出されて。 ……そこで漸く思い出した様に周りを見れば、これが戦の無い世界の意味なのだろうと知れた。何もない。それこそが。 そうして銀時は『待ち時間』を江戸でぶらぶらと暮らしてみる事にした。貧乏長屋に落ち着いてみたり、剣術道場の主だと言う少年を偶然助けたり、天人に襲われていた男を助けたりしながら。 だが、そうする裏で、戦艦の修理は着々と進んでいる。 この風景を火の海にしようとする仲間たちが居る。 彼らや高杉の言い分は理解出来るし、止める気はない。止めるに値するものなのかも、解らない。 何も無いもの。何も感じないもの。虚無ではなく、何か違う可能性を描けそうな空白の世界。 何かが変わるだろうか。何かを変えられるだろうか。例えば、憎悪と言う名の誤りに沈みそうな男を一人、助け出す事、とか。 背を向けて逃げる事は別に恥ではない。 だが、背を向ける英断が出来なければ護れないものもあるのだ。 だから、もしも『そう』と望まれたとして、望まれなかったとして──、護りたいと思った。 そうじゃねぇだろ、馬鹿が。 きっとあの男はそう言うのだろうけれど。 。 ← : → |