ハコの中の空 / 10



 黙ってはいたが、静かでは決して無かった。否、誰も言葉を発しないからこそ、普段ならばそれこそ気にも留めない様な物音、息遣いひとつでさえもよく響く。
 溜息。舌打ち。苛々と頭を掻く音。腕の筋肉が強張って拳が握られる音。がつん、と壁を殴る無意味な音。振動。溜息。舌打ち。
 何度目だろうか。
 脳が勝手に耳から入る情報を処理しようと働く。体や意識の方はそれに対して何のリアクションも取りたくないと言うのに、勤勉な事にも。
 どうやら人間の脳と言うのは、常日頃は余程に膨大な情報量を処理していたらしい。目に映るものや考えねばならぬ事があればそちらに裂かれていただろう膨大なリソースは、なにひとつ代わり映えのしない空間の中ではその役割を持て余すほかにない。
 日頃暇を持て余している事の多かった銀時でさえそう感じられるのだから、日頃から膨大な職務をこなしていた土方の、空白となった思考の隙間はもっと大きく感じられる事だろう。
 だからこそ彼は苛立ちを抱え込む。空白の何処にも向ける思考が存在していないから、己の裡に向けて考え続けた挙げ句、憤る事しか出来ないのだ。
 そしてそれはやがて外への攻撃へとなって、壁や床や扉へと向かう。向かって、己を傷つける。
 天井の方へと向けていた視線をちらりと動かすと、壁によりかかって座った侭、後ろ手に壁を殴ったらしい土方の拳には血が滲んでいた。白い壁にも赤い汚れがついている。
 幾度同じ様な動作を繰り返していたのか、手の傷は痛々しい。だが、銀時は口を開こうともしなかった。
 最初に殴られた頬の痛みは無くなったし、土方の刀の刃毀れも治っていた。だから、土方の拳が血を流そうが折れようが壊れようが、それもきっと直に治る。気づいた時には、治っている。
 最初の内は銀時も「治ったとしても痛みはあんだろ」と言う様な事を宥める意図で口にしたものだが、『どうせ治る』と言う結果の前に捨て鉢になった土方は段々と反論をする様になって、そうやって何度か喧嘩になった。殴り合う事にはならなかったが、何れそうなるのも時間の問題だと思われた。
 だから銀時はもう何も言わないし止めもしない事にした。『どうせ治(もど)る』と言う事実がその方向性に拍車をかけたのは確かだが、こんな状況下で常識めいた説教を口にするのは矢張り馬鹿馬鹿しかった。
 冷静であっても、異常下での冷静さとは間違いなく摩耗を引き換えに構築されているものだ。それが自分たちの精神衛生上に良いとは到底思えない。思えないが、どうにもならない。この閉塞感がどうにもさせてくれない。
 『筺』の裡で一体何日が経過しているのかすら既に解らなくなって仕舞っていた。元々カウントする事にはそれ程肯定的ではなかった為にすぐにどうでも良くなった。
 唯一守られているのは、就寝時間だけだ。そのタイミングは合わせようと言う銀時の、いつかした提案だけが辛うじて、この秩序も理性も常識も倫理もなにひとつ不要な空間の中で保たれている。
 とは言えそれも銀時が土方に合わせて号令を掛けているだけに過ぎない。土方は自分からもう話しかけようともして来ないから、彼が眠そうに見えたタイミングで、銀時は「そろそろ寝るか」と声をかけるのだ。
 食事も排泄も時間感覚も喪失した中で、ただ感情だけが疲れていく。
 会話は「寝るか」と声をかける銀時の言葉ぐらいで、土方は無言で頷くか小さく呻くぐらいだ。
 扉を閉ざした錠前も鎖も血で汚れた壁も、気づいた時には元に戻っている。肉体の負う損傷も代謝も全て治る。元に戻る。
 銀時が土方に「寝るか」と声を掛けるのも、辛うじて人間らしい体裁を保っていたいと言う、この『筺』と言う状況に対する一種の抵抗であって、後はただ決定的に互いが壊れて仕舞わない様にする為の箍でもあった。
 「…寝るか」
 だから、そう言われて銀時は少し驚いた。血の筋を引き摺る己の拳をちらと見た土方が、多分初めて口にしたそんな言葉に。
 何か意味があるのか、と斟酌する必要など恐らくは無い。
 この『筺』の裡で取り決めたのは、眠くなったら同時に寝て、起きたらもう一人を起こす。ただそれだけだ。どちらが声を掛けると言う決まりなど無かったし、土方も恐らくは、自分の眠いタイミングを見て銀時が声を掛けている事ぐらいは気づいていた筈だ。
 だから、土方が眠りたいと思った所でそう言い出すのも、何らおかしな事でもなんでもないのだ。
 「…おう」
 幾度か瞬きをしてからぎくしゃくと頷いて銀時は立ち上がった。寝台に先に腰を下ろした土方が靴をぽいと脱ぎ捨てて、壁に向かって横になっている姿をちらちらと見ながら、自分もブーツを脱いで横たわる。
 起きてから足元に畳んで仕舞う布団を引っ張り上げるのは、後から横になった側のやる事だ。何度か眠って起きてをしている内にいつの間にかそうなっていた。
 銀時も壁に向かって──互いに背を向け寝台に横になって、布団を肩まで引き上げる。土方がもぞもぞと自分の寝心地の良い様に布団を整えている音が暫し響いて、やがて静かになった。
 薄ら明るい『筺』の部屋は、これから眠りますと言う明るさではない。それでも慣れて仕舞った。片腕を枕にした銀時は、瞼を下ろして眠気が近づいて来るまでの間をぼんやりと緩やかに、役にも立たない様な思考を巡らせながら過ごす。
 最早思考する事も尽きた。淡い恋心を抱えた、楽しかったり面倒臭かったりした記憶の中へと心が逃避しようとするのを止める理由もない。
 だから銀時は殊更に己の裡で育った、土方への恋心をよく追った。そうする事で、苛立ってばかりで己に傷をつけていく彼の愚かな行動をも受容し許容したかったのかも知れない。
 知らされた限りの『筺』の犠牲者の中には、互いに苛立って憎み合って、それで破滅した者たちも居た。憎み合って破滅し合った、酷い末路だった。
 そうはなりたくないと思う。
 ごろ、と仰向けに転がって、灯りにともすれば開きそうになる瞼を固く結んだ侭、銀時は小さく息を吐いた。諦めにも似ていた。
 口喧嘩するのも、時には下らない事で殴り合うのも、忌憚なく振る舞うのも、腹は立ったが楽しかった。互いに互いで呆れても、決定的に憎み合う様な事は決して無いと、どこか感じた同じ匂いから確信していたから。
 しがらみなく共有する過去も無く、かぶき町に流れ着きさえしなければ多分に一生出会う事も無かった様な、生きる場所も目的も何もかもが異なった人間。
 親友ではない。仇敵でもない。家族でも無く真っ当な仲間でもない。
 だけど、信頼があった。だから背を任せても安心していられた。
 (……心地、良かったんだよなぁ…)
 それが恋と言う感情に値するのかは解らなかったが、好意には類する良い感情だと言う事は理解していた。
 もっと単純に、喧嘩したり飲み合ったりする共有時間がもっと続けば良いのにとか。その程度の願いしかない様なものだった。
 欲しいと思った事はあるが、それは相手の全てを独占したいと言う様な強欲なものでは無かった。
 相手の人生ごと貰って、与えてやれる様なものがこれに値するとは思っていなかったから。
 ただ、本当にただ、少しでもこの時間が続けば良いのに、ぐらいの思いしか無かった。
 (だから、飲み屋で呑んだくれて、うっかり通りすがりの見た事もねぇ野郎に、恋バナぶち撒けるぐれェ拗らせちまうんだよ……)
 初めて店に来た、世慣れもしていなさそうで草臥れた風体の天人だった。注文するにも困り果てている姿を見て、字が読めないのかも知れないと思って、何となく声を掛けて色々教えてやったら、その礼に奢ると言って来た。
 高級な銘柄の酒をわざと吹っ掛けても気にした様子なく楽しそうにしていて、まるで初めて他人に親切にされたみたいな顔して、酔っ払いきった銀時の愚痴や戯言を真剣に聞いてい、、、
 
 「────」
 
 思考の淵で鞘走りの鋭い音は聞いたかどうか。
 明るい部屋の風景に見えたのは、己の胸の上に馬乗りになった土方の手にした刀が──衝撃と共に頸に刺さった刃毀れひとつない鈍色の刃が、飛沫く血の尾を引きながら抜けて飛ぶ様子。
 途端に溢れ出した血が喉でごぽ、と溺れる様な音を立てる。呼吸が漏れる。声が出ない。
 急激な血圧の低下で脳から意識が遠ざかる。視界が暗くなる。耳鳴りがする。
 「ちく、しょう」
 土方の呻く声が最期に聞こえた。まるで泣きじゃくっている時の様な、湿って濁った音声だった。
 
 『殺され』たのか。
 そう自覚したのは、スイッチでも切れる様にして意識の途切れたその後だった。





回収。そして周回。

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