ハコの中の空 / 11 成程、こうなる訳か。 最初に浮かんだのはそんな、どこか暢気でさえある様な感想、或いは得心であった。 白い壁に白い天井、そして時間の感覚さえも喪失させる様な無色の無機質な灯り。意識の途切れる前と何ら変わる事のない室内をぼやりと見回しながら、銀時はゆっくりと身を起こした。 この空間に居着いて以降、特に定位置と決めていた訳ではないが、二人の人間が横たわるからどうしたって寝台の左右のどちらかに寄って眠る事になる。その位置でさえも全く同じ。『眠る』その以前と恐らくは同じ。 喉元に手をやるが、そこには何も無かった。指の腹で幾ら撫でてみようが、いつも通りの己の皮膚の感触が返るだけだ。 貫かれ、血を飛沫かせた筈の孔など無い。痛みも。傷も。辺りの血痕でさえも。 「……」 夢だったのだろうかと寸時思う。土方が突如として銀時を殺めようと──否、殺めた、その出来事が夢か妄想だったのかすらの判別は、少なくとも銀時の意識や感覚の上だけではつきそうもない。 ただひとつだけ、部屋の隅で膝を抱え俯いて座している、土方の姿とその鬱々とした様子とだけが、恐らくは銀時の記憶とも夢ともつかぬ事が、紛れもない『事実』だったのであろうと無言で物語っている。 「…………」 額を両膝に押し当て蹲る土方だが、銀時が起き上がった動きに気づいていないと言う事はあるまい。眠っている訳でも、況してや泣いている訳でもないと、直感で解る。自己嫌悪とか、徒労感とか、そう言ったものを飲み込むに失敗し蟠らせた侭でいるのだと、そんな気がしていた。 もう一度喉元に触れてみる。矢張り、何もない。鋭い痛み、肺に行かない呼吸の苦しさ、喉で泡立った血、冷えて暗く落ちていく脳の感覚まで、はっきりと覚えていると言うのに。 「…なぁ、どうして殺したの」 痛苦が残っていなければ、後はただの、怖気のする様な不快と狂気との狭間で憶える惑いしか目の前には無い。だから銀時は浮かんだ至極当然の疑問を、気づいた時には口にしていた。 びくり、と土方の両肩が僅かに跳ねた。恐れに竦んだのだと、矢張りこれも直ぐに解った。 恐れるとすればそれは、死んだ──殺した筈の者が生きていると言う事そのものよりも、矢張りそれまでの過程にある。そうでなければ何度でも殺そうとする筈だ。恐れているのならば尚更に。 だからきっと土方が抱える膝の、強く押し付ける額の、その中に押し込めようとしている感情の正体は、罪悪感なのだ。 その選択をした事に対する、後味の悪さばかり募らせた、然し後悔には至らない事実の羅列、の先に凝った感情。 「俺、なんかした?」 痛みも無ければ事実さえも無かったのだ。憤る感情でさえ湧いて来ない。 その正直な感覚の侭に土方を安心させてやりたかったのか、それとも平然と振る舞う事で責めてやりたかったのか。判然としない侭に重ねる銀時の問いに、土方は顔も起こさずただかぶりを振るのみで答えようとはしない。 (まぁ、何かしら状況を打破する事を模索したってだけなんだろうが…、一度『死んだ』って思うと、ぞっとしねェもんはあるわな…) 傷のない傷は、然し事実そのものや、罪悪感や衝撃をも消してくれる訳では無論、無い。 土方がこの『筺』の事件の例として挙げていた男女も、互いに殺し合って恐れ合ってそこにやがては憎悪や嫌悪に至る鬱屈を構築したのだ。それだけ、『死んだ』、『殺した』と言う衝撃は強い。何一つ事実として形を残さなかったとしても。 或いは、罪悪の形が心にしか残らないからこそ恐ろしいと思えるのか。 やがて沈黙の中で、かた、と音がした。銀時がその音に誘われ視線を向けると、蹲っていた土方が立ち上がった姿に出会う。その左の手には鞘に納められた侭の刀。 一度は確かに銀時の命を奪ったのだろう、その刀の、柄がそっと差し出される。 鞘を持った土方は未だ俯いていたが、それでも憔悴しきった様子は伺えた。 その由来するところは、知己を殺めた罪悪感か。単に他者を殺した後味か。 「?」 疑問符を浮かべる銀時の眼前に、なおも柄が突き出される。あからさまにではないが、僅かに震えているのは解る。その手の、先。 「………『元に戻る』とは言え、てめぇを『殺した』のは事実だ。だから──、」 そこで土方は一旦言葉を切り、顔を起こした。疲労と憔悴の濃さに形作られた表情は、然しどこか決然としている。刀を差し出すその態度は、諦めとも投げやりとも取れるものではあったが。 「…報復する権利はあるだろ。勿論得物(これ)を使わねェ方法もあるだろうが、禍根は少ねェ方がお互いの為だろうし、俺も、てめぇも、そこまで趣味は悪くねェ筈だ」 「………」 つまりは殺害方法は任せると言う事だ。潔いのだか単にどうでも良くなって仕舞っただけなのかは解らないが、土方の大真面目な言い種に向けて銀時は溜息をついて返した。突きつけられている刀の柄をとんと軽く押し返す。 「やんねぇよ、意味もねェし。それこそお互い後味悪くしてどうすんだよ」 「…………」 銀時の言葉を果たしてどう取ったのか。嫌味とでも取ったのかもしれないが、土方は押し戻された刀の鞘を、ぐっと握りしめた。小さな、軋む音。 「おめーが、まぁ勿論『元に戻る』ってのが前提にあったとして、どっちかを『殺す』って行為が何か打開策にならねェかって思ったんだろうって事ぐれェ解ってら。 単に精神的に参りきって『殺す』なんて安易を、憂さ晴らしに試した訳じゃねェってな」 「……………」 土方は何も答えずに再び俯いた。刀を持った侭の腕を力無く落とす。恐らくは銀時の指摘通りなのだろうが、自分から「本当に憎くて殺そうとした訳ではない」などとは余程に厚かましくなければ、本音だろうと到底言えまい。 それに、もしも仮に、どちらかを殺す、などと言う簡単な条件が解放の鍵なのだとしても、それが提示されていないと言う理由はないだろう。寧ろ殺し合いをさせる事、どちらかが死ぬ事が目的なのだとしたら、余計に隠し立てする必要は無い筈だ。 出られない部屋。閉ざされた筺。鍵穴は扉に執拗に掛けられた無数の錠前にのみ。だが、それをひらく鍵は存在していない。 それでも、条件を達成するまでは終わらない。 戻るのだ。全ては元に。命でさえ。罪悪感を残しても。倫理観や道徳感を排除しても。 ──これは『何の為の』『誰の為の』筺なのか。 その望みを。誰に。口にしたのか。 「土方」 吐息と共に呼びかける。罪悪感を募らせ、人としての、警察としての、道理や倫理を踏み越えて仕舞った己を恥じる、『坂田銀時と言う知己を殺して仕舞った』土方十四郎と言う人間を。 「もう寝ちまおう」 「…てめぇは今まで眠っていただろうが」 笑って欠伸を噛み殺す銀時を、土方は言い難そうではあったが少しばかり不満そうに見て返す。 だから銀時は切り込んだ。そこを目掛けて、的確に。 「いやね?『死んで』目覚めるって、実際生きててもだよ、何か気分が悪いっつーか」 「………」 罪悪感と言う、急所に。突き立てる。 果たして土方は、咎める理由も立場でもないと思ったのか。大人しく寝台に腰を下ろした。 靴を脱ぐ為に置いた刀に視線を向けもせずに銀時は素早く手を伸ばすと、鞘を押さえて刀身を抜いた。土方が驚いた様な反応の一切を見せるよりも早く、その喉元を掴んで馬乗りになって押し倒す。 「っ!」 先程──先程、と言える時間かどうかは解らないが──とは逆に、土方の方が銀時を見上げている。頚に抜き身の刃を突きつけられて、ごく、と喉が動くのが、掴んだ手のひらの下で解った。 『殺される』と思ったのだろう、寸時強張った土方の体は、躊躇う様な間の後にやがて弛緩した。諦めでもついたのか、目を閉じる。 「抵抗しねぇの?」 刃を頚の皮膚にぴたりと当て、僅かも揺らがせない侭に銀時がそう問えば、土方は瞼を閉ざした侭で眉間に僅かに皺を寄せてみせた。 「……さっき、俺自身がやった事だろ」 自嘲。強張りかけていた口元が皮肉げに歪んだ弧を描いて、わらってはいないのに、嗤う。 「…てめぇに言うのも馬鹿馬鹿しいが、なるべく楽に頼む」 互いに、殺すと決めた相手を仕留め損じる事などは無い程に、腕には覚えも自信もある。それをして信頼と言うのはおかしなものなのかも知れないが、少なくとも、死を待つ者の介錯を誤る事は無いだろうと、土方は銀時に向けてそう願った。 「……」 恐らくはどこかで、解っていた様な気はしている。 (…成程。こうなる訳か) 二度目の得心は朧気な理解と共に落ちて来た。 銀時は、掴んだ土方の喉が時折震える動きを、生きている証とその体温とを感じながら、ゆっくりと身を屈めていった。刀を頚に水平に宛行ったその侭で、引き結ばれた唇に口接ける。 「──、?!」 瞼が見開かれた。至近で黒瞳が困惑と驚きとに揺れるのとほぼ同時に、反射的に体が藻掻こうとして、跳ねそうになった頚に刃が食い込んだ。柄越しに皮膚に刃が食い込む手応えを感じた銀時が咄嗟に刀を上へ退けると、土方の頚にじわりと赤い筋が浮かび上がった。 「っぶねぇなぁ」 斬っちまったらどうするんだよ、とぼやきながら刀を鞘に納める銀時の姿を半ば呆然と見上げていた土方はそこで我に返ったのか口元を慌てた様に拭う。 「っ誰の所為だ、」 「だから、やんねぇって言ったろ」 腕に信頼はあっても、そこに信頼はないのか、とひねて思いながらも、納刀した得物をぽいと寝台の外へと放れば、土方は狼狽した侭の表情で、然し露骨に安堵した様にほっと息を吐いた。 頚に一直線に、首飾りか何かの様に纏わせた赤い筋のところどころに宝飾品の様にぷくりと浮かんだ血の小さな雫を、銀時は指先で乱暴にぐいと拭った。傷口に触れられた痛みにか土方が顔を顰めて、己に馬乗りになった銀時を押しやろうと手を伸ばすが、気づかぬ素振りで、皮膚を薄く切った筋を、つい、と指の腹で辿る。 「何か打開とか試行とかアクションをするってんなら、血みどろで後味悪ィより、こっちの方がましだろ」 「っな、…はぁ?!」 舌を出して頚を汚す血を舐めつつ、銀時は土方の襟元へと手をやった。シャツの釦をひとつふたつと外していくと、漸く察したのか土方は思い出した様にじたばたと抵抗を始める。 「いや待て、訳解んねぇだろ!何で、」 「こちとら一偏死んでんだよ?おめーも一人で後味悪ィより、お互い後味悪くなっちまった方が楽だろ」 藻掻こうとする土方に軽い調子で振るった言葉の刃は、恐らくはこんな状況で無ければ筋も意味も通っていない様なものだったに違いない。だが、互いに、と言う言葉に気勢を削がれたのか、それとも頷けるものでもあったのか。単に、報復として意味のある事とでも思ったのか。土方は困惑した様に声を上げはしたものの、殴ってでも銀時を止める様な激しい抵抗は止めた。 「後味悪いって事に、気まずいってのが追加されるだけだろうが…!」 最早意図を隠さずに体を這う銀時の手の動きに、ぎ、と奥歯を軋らせながらも返す土方に、銀時は意識して投げやりな声音を作って言った。 「……どうせ『元に戻る』んだろ」 「…………」 無かった事には、ならない。…筈だった。だから決して、本当の意味では元には戻らない。 血を纏わせた銀時の指が、白いシャツを汚して、着衣をずり下ろした下肢の皮膚にそっと触れる。 土方は、戦いた様にしながらも、返す言葉を寄越さずに、躊躇いながら、諦めながら、目を瞑った。 罪悪感と。或いは、何の足しにもならない様な義務感とがそこにはきっとあった。己のした事を前にすれば──命を奪ったと言う行為を前にすれば、多かれ少なかれの報復ぐらいは貰うも当然なのだと。 銀時が偶々に、殺すと言う事を選ばなかったと言うだけで。 それを見下ろしてから、銀時はちらりと視線を、背後の扉へと向けた。 内側から鎖と錠前を渡して施錠された扉。 存在しない鍵。 閉じ込められた『筺』。 何の為の。誰かの為の。 蟠って拗らせて噤もうとしていた恋心を、酔いが発端としても確かに口にしたのだ。偶然に飲み屋で会った、見たこともない、疲れた風情の天人に。 軽いつもりの銀時の言葉を、彼は真剣に耳を傾けて、聞いていた。 (……そういう、事か。だから、こうなった訳だ) 容易く湧いた劣情に背を押されながら、銀時は自嘲めいて苦く笑った。 。 ← : → |