ハコの中の空 / 2



 朝か、と言う感覚は直感的なものだ。意識のスイッチが入った時に体が横になっていれば、目を開かずともそれが目覚めのタイミングだとは解る。スイッチの入った理由が、寝心地が悪いと感じただけであろうが、尿意を覚えただけであろうが、眠り過ぎて脳が疲れただけだろうが、兎に角それは目覚めて良いタイミングである事は間違いがない。
 眠って途切れた記憶を目を閉じた侭で反芻する。夜で、眠くなって、床についた。極めて普通の記憶の手応えが返るのを感じながらも、銀時はどこか違和感を感じていた。
 目蓋の向こうには光を感じる。だが、音が聞こえて来ない。朝と言う時間帯ならば窓の外から鳥の賑やかな縄張り争いの囀りが聞こえるのが普通だし、何かしら人の営みを感じる環境音も聞こえて来る筈だ。幾らかぶき町がその性質柄、早朝は比較的に静かな場所であるにしても、余りに静かに過ぎる気がしてならない。
 (つーか…それ以前に、)
 銀時は意識して、寝返りを打つ様な仕草で体を横向きに転がした。その動作によって、きし、と音がして、体に触れている布団が揺れる。明らかに弾力のある音と、動きだ。
 (これ…、どう考えてもウチの煎餅布団じゃねぇよな…?)
 そもそもにして畳の上に敷いた薄ぺらい布団は、きし、などと軋む音など立てる訳もない。ますます眉を寄せた銀時は、突然異世界転生をしたなどと言う突飛なものから、これ自体が夢の中だと言うものまで、様々な可能性を模索しつつゆっくりと目蓋に力を込めた。
 「………………」
 ぱちぱちと瞬きを数回。
 「………………」
 瞬きとは眼球の乾燥を緩和する為の機能である筈だ。然し、何度繰り返しても眼球は酷く乾いて仕舞う。見開いて、閉じて、見開いて、見開いて、閉じて、見開きっ放しになる。
 「………………」
 だらだらと嫌な汗が流れた。これはあれだ、起きたらラブホで、誰かと同衾していて、布団をめくったらその正体は階下の大家だった、と言う時以来の衝撃に相違ない。否、或いはそれ以上の衝撃だったかも知れない。
 いやいや、と銀時は頭の中でかぶりを振った。動作にすることは出来ない。何しろ全身がマネキンにでもなった様に硬直しきっている。僅かでも動いたら死ぞ。本能がそんな事を囁いているのが解る。
 深呼吸をしようと鼻を膨らませれば、つんとした煙草の匂いが鼻をついた。
 (いやいや、イヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤ)
 現実逃避とは解っていたが、脳内は否定の言葉一色を無意味に繰り返している。だって、そんなことがある筈がない。ある理由が解らない。そもそも眠った時からの記憶に何一つ繋がって来ないのだ。嘘か夢か冗談か嘘か気の所為か幻想か嘘か夢か、兎に角その何れでしかない。そうとしか思えない。
 全身にどっと冷や汗をかいた銀時は、見開いた侭の眼球にゆっくりと目の前の光景を映す。
 至近。目の前。そこに自分以外の人間の顔があった。
 「………」
 残念ながら鏡でもなければ写真でもない。幻と言う可能性はまだ捨て切れないが、兎に角自分以外の人間が目の前で、横を向いて転がる銀時と同じ様な姿勢で、居る。
 「………」
 眠っているのか、大凡今までに見た事もない様な、余り緊張感のない表情をその整った面相に乗せて、すやすやと寝息を立てている。
 銀時が、今ではすっかりと平和ボケしたオッさんに成り果てていようとも、さすがに、幾らなんでも、眠っている所を動かされたり、誰かが同じ布団に入って来たりして全く気付かない、などと言う事は無い。──…だろう。多分。無い筈である。
 (落ち着け、落ち着け俺ェェ…!)
 硬直し膠着しかかっていた脳が、現実の様に見える光景を前に、段々と活性化しようとするのを感じる。そうなると俄然動揺と焦燥と混乱とが裡から裡から、疑問と共に沸き起こって来る。
 駄目だ、これは錯乱して無意味に叫び散らしたくなるやつだ。
 目眩のしそうな困惑の坩堝の中で、銀時は冷や汗で一杯になった頬を歪めて、口だけを動かした。声に出す度胸はない。
 何で。
 無意味な呟きに、付け足す。
 (何で、土方が俺の目の前で、寝てんだよォォォォォォ!!!?)
 幸いにも声にはならなかった。ただ、喉の奥が引き攣る様な音を一瞬鳴らしただけで済んだ。ひく、としゃっくりの様に出たその小さな音は、然し銀時自身の耳にはまるで悲鳴の様に聞こえた。何にせよ本来上げたかった絶叫とは程遠い。
 「……」
 落ち着け。状況を整理しよう。ウン。
 悲鳴や絶叫など上げた所で何の意味もない。それは解っている。だから銀時は再び目蓋を下ろした。視界が、見慣れた顔から暗闇へと変わっただけで随分と落ち着いた気がした。気だけ。
 (えーと…、昨夜はテレビ観てたら寝落ちしちまって…、その後なんとなく一杯やりたかったけど止めて…、そんで寝た。普通に。至極普通に。いつも通りに普通に)
 無論自分の部屋で、自分の布団である。安物で使い古しの煎餅布団だからか、冬はなかなか寝しなが冷える。いつもの事だ。
 (………イヤイヤイヤ。確かにそりゃあね?独り寝だからどうとかぼやきはしたかも知れねーけど、定春とか、抱き枕とか、もうちょい挟むワンステップがあっても良いよね?いきなり二人寝はちょっとインフレ酷すぎだよね?バルザック飛ばしてキングレオ現れたぐらいの衝撃だよね?)
 しかもそれが恋患う対象の姿形をしていると来たら、それはもう、いっそ夢とか幻とか、そちらの方がまだ気が楽だ。何だよ、銀さんマヌーサにかかって恥ずかしい幻見ちゃってェ、とか笑い飛ばせるだけまだましだ。後から憂鬱になるかも知れないが、その方が。多分。
 「……」
 目を閉じた侭、銀時は布団の中で身じろいだ。寝ている場所が、明らかに布団と畳の上ではない感触しかしないそれが、幻や夢であったらある意味で凄い。どれだけリアルな妄想なのか。
 また寝返りを打つ様にして今度は逆に転がれば、ぎし、とスプリングの軋む音がした。ああもうこれは夢ではない気がするぞ、と半ば諦めの心地で目蓋を開く。
 (………………マジでか)
 呻く。背中から聞こえる寝息の主の顔を見ているよりは多分にこちらの方が冷静になれたと言えるのだろうが、ともあれ銀時は見慣れぬ光景を前に、寝転んだ侭で途方に暮れた。
 視線を動かすと、どうやら今己(ともう一人)とが眠っているのが、矢張り畳でも布団でもない、寝台の上なのだと知れた。シーツの端が四角い角を描いて途切れていて、その先の床は明らかにこちらより低い。寝台のサイズは正確には解らないが、二人の成人男性が密着する事もなく眠っていられるのだから、ダブルぐらいの大きさはありそうだ。
 手のひらで探るシーツの感触は、よくあるラブがつくホテルに多い、艶があったり妙な色彩をしたものではない。ごく普通の、白い色をした布だ。特別皺が付き難そうとか、寝心地が最高だとか、そう言ったものでもなさそうだ。
 部屋は、目を覚ました時に感じた通りに明るい。だが天然光ではなく無機質な白色灯の様だ。電気が点いていると言う事は、実はまだ夜なのか、音がしない点を思えば窓の無い、或いは窓が開かず防音のしっかりとした部屋なのか。
 (……や。だからラブなホテルって雰囲気じゃねぇんだよなあ…)
 寝転んだ侭に視線だけをぐるりと巡らせて、銀時は取り敢えずその結論にしがみつく事にした。依頼やバイトでそう言った施設に入った事は、住んでいる町の性質上、全く無い訳ではない。だが、己の記憶や感覚で感じる『そう言った』ものとは違うだろうと、それだけは断じられた。
 (少なくとも。記憶はねーけど、うっかりラブホに野郎二人で入ったとか言う、食パンくわえて登校中にイケメンと衝突並の、古式ゆかしいテンプレ展開じゃねェな。ウン)
 かと言って、ビジネスホテルと言う感じもしない。なんと言うか、見える範囲の様子だけでも解る、酷く無機質で、客を迎える様な雰囲気が全くしない空間なのだ。
 見知らぬ部屋に、ダブルのベッド。寝台の軋む音と寝息以外は聞こえない。白い壁に温かみのない白色灯。温度は寒くもなく暑くもない。適温と言えば適温だ。
 「……」
 極力、寝台を揺らさない様にして銀時は寝台の淵へと手を伸ばした。ずりずりと端まで移動して下を見れば、床はそう遠くも無い。フローリングの冷えそうな床だ。足を先に降ろして床がそこにある事を確認してから、そっと起き上がるのと同時に立ち上がる。
 (……よし…!)
 思わずガッツポーズを作ってから、一体何と戦っているのだろうと自分に軽くツッコんで、銀時は今し方まで己の寝転んでいた寝台を振り向いた。そこには、矢張り先頃見た時と全く変わらない、布団を肩まで掛けて眠る男の姿があった。
 「………」
 取り敢えず夢でも幻でも無さそうである。どっとのしかかる訳の解らない疲労感にガッツポーズを崩されて、銀時は一旦そこから目を逸らした。そこに触れるのは一番最後にしておこうと思って、辺りを見回す。
 部屋である。端的に表すならそうとしか言えない。何の変哲もない、一室。広さは結構にある。万事屋全体の床面積よりは狭いが、居間と寝室を合わせたぐらいの広さはありそうだ。天井まで壁と同じ白い壁紙が貼られていて、古い事務所や店舗に使われる、今日日余り見なくなった細長い蛍光灯が六つ、埋め込まれる様にして取り付けられている。
 見た目は、二辺の長い、長方形の部屋だ。そこの一辺に寝台の頭方面が付いている。四方の壁と床と天井以外に広い空間に遮るものはなく、そこから左右は壁まで何もない。寝台の足元側には廊下と言うか、扉を嵌め込んだ空間が出っ張っている。
 扉と言う事は、この空間の出入り口と言う事だろう。銀時は、特に何も考えずに扉へと向かった。
 「………ナニコレ」
 思わず乾いた声が出る。扉が開くかどうかとか言う以前に、開けるなと言わんばかりに、チェーンがかかっているのがまず目に入る。
 チェーンと言ってもよく普通のご家庭で見る様な一本の短い鎖で扉と壁とを繋げるそれではない。壁から壁、扉から壁、鍵から壁、把手から壁。複雑に、幾重にも交差した鎖が、扉に触れる事すら躊躇わせる程に、執拗に絡みついているのだ。
 鎖の箇所箇所には南京錠やダイヤル錠が繋がり、鎖の端はしっかりと溶接されている。これでは仮に鍵が開いていたとして、鎖に阻まれて扉など開かないだろう。
 それでも一応扉の把手を掴むが、がち、と何かに引っかかる様な手応えが矢張り返った。鎖が巻き付いて把手自体も回せないが、鍵もかかっているのかも知れない。
 否。寧ろこれだけ厳重に鎖を巻いておいて、鍵がかかっていないなどと言う方がおかしい。
 「…どこの静岡?セキュリティとか言うレベルじゃないよねもうこれ」
 ここが何の建物か、部屋なのか解らないが、少なくともお洒落なインテリアと言う趣は感じられない。寧ろ怖気の様なものを感じる。絡まった鎖は実用的な意味よりも異様な意図を持っている様で、呻いた銀時は扉から数歩下がった。
 白い壁。白い天井。フローリングの床。蛍光灯。大きな寝台が一つ。寝ている男が一人と、途方に暮れている男が一人。記憶は繋がらない。意味も解らない。
 何も解らない事が解った。観察して得た結果をそう投げやりに締め括ってから、銀時は寝台を見つめて頭を抱える。
 結局は、もう一人を起こして見なければ解らない。少なくとも銀時には全く現状の理解が出来ないのだ。
 結果、二人して同じ混乱を繰り返して、二人して頭を抱える事になろうとも。







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