ハコの中の空 / 8



 「その後だ。今日──って認識が正しいものなのかは解らねェが、さっきここで目ェ醒ます直前の記憶からは、少なくとも一週間程前だった。件の『筺』創りの天人を取り調べる事になったのは」
 それも単なる偶然でしかなかった事だと、土方は心の中でだけそう付け足す。別件の事件の捜査中に希少な術を扱う天人が匿われていると言う話に偶々行き着いて、偶々隠れ家の外から戻って来た天人(かれ)が大人しく、隠れ家の家探し中に遭遇した真選組の前で両手を挙げただけの事であった。
 取調室で己の『筺』の能力を説明したその天人は、酷く疲れた顏をしていたと言う。
 曰く。彼が創る事が出来るのは一度にひとつの『筺』だけ。そして『筺』を創れてもその先、『筺』のキャンセルも干渉も出来ない。だから、己のした事がどんな結果を生んでいるかは考えなかったし、考えても仕様が無いと思っていた。
 ただ、『依頼』を聞く度、それを持ち込む者らの、依頼人の、醜悪な顏が嫌で堪らなかった。残酷な結末を夢想するその心が恐ろしくて堪らなかった。
 己の『筺』を用いて誰かを不幸にする。そうはっきりと感じた時に憶えたのは紛れもない苦痛だったと、そう彼は言った。
 だが、そうするしか生きる術は許されていなかった。
 閉ざされてはいたが安全ではあった居住区では、彼は死亡した者として届けられていた。身代わりの死体まで用意されていたと言う。
 彼の居場所は何処にもなかった。行き場所も、生きる場所も目的も術も。
 己こそが『筺』に閉ざされていればよかったのだと嘆く彼にかけられる言葉はなかった。利用されていただけとは言え、彼もおぞましい犯罪に関わった一人でしかないのだから。
 それよりも問題は、『筺』事件と言う、都市伝説じみたものがひとつの犯罪として立件出来るのか、と言う事の方だ。
 ──恐らくは無理だろう。何しろ殆どの被害者が死ぬか狂うかしている。依頼人が誰であったかを聞き出す事も出来ない。
 土方の目にした男女の悲劇の調書もその僅かひとつの例に過ぎない。実際はもっと胸の悪い話が、探せばごろごろしているのだろうが。
 法で裁くことが出来ない以上、果たして彼は何を以てその贖罪とすれば良いのか。
 「…で、死んだってさっき言ったよな?その天人」
 「……あぁ」
 銀時の声が不意に耳に届いて、土方は思考の淵から戻った。身じろいだら指先に刀の柄が触れてかちゃりと音を立てる。
 まるで刀が、己の刃毀れの酷さを抗議でもしている様だと思いながら鞘に収めた所でふと、己の格好を改めて見下ろす。隊服。刀。朝見た時と同じ三本だけ残った煙草。本当にただ朝見巡りに出た時の侭の様だ。その侭この『筺』に入り込んで仕舞った様な有り様だが、入り込んだ理由も原因も思い当たらない。そもそも起こり得る筈が無いと思っていたからと言うのもある。
 「その天人は厳重な監視下に置かれたが、捕縛から二日後には収監房で死んでいるのが発見された。死因は喉を、食事の際に使ったスプーンで裂いての自殺」
 「…オイオイ。そー言うの気を付けんのがおまわりさんのオシゴトだろ。不祥事って奴じゃねーのそれもう」
 自然と語る口調が重くなるのに、銀時は呆れた様にそんな事を寄越して来る。心底に見下している故の台詞ではないと、何となくだが理解出来て仕舞う自分の無駄な聡さが厭なのだと土方が思うのはこんな時だ。
 坂田銀時は何だかんだ言って筋の通った男だし、気心の知れた相手やからかったり焚き付けたりする意の無い時、理由もない時に他者を貶める様な物言いをする様な性格ではない。性根は色々と腐ってはいるが、人間としてはそれなりに真っ当なのだとは、癪に障る事だが、土方は既に確信して仕舞っている。
 だから、銀時が先頃から投げて来る挑発的な言葉も、決して心底に業腹な感情から出ているものではない。寧ろどちらかと言えば、土方が苛立ったり落ち込んだりしかかる時に助け舟の様に出されている。
 (その割にはフォローとしちゃド下手クソに過ぎて、本気で腹立たしくなる訳だが…)
 大人になれ土方十四郎。
 そっと胸の裡へと幾度かそう言い聞かせて、土方は態とらしい咳払いを挟んで思考を切り替えた。
 「はっきりとした書類には残っちゃいねェし証拠もねェのが難点だが、奴さんの食事に出されたスプーンは夕食の後ちゃんと厨房に戻っていたし、個数を何度数えてみた所で他にスプーンの紛失は無かった。自殺の道具になったって言うスプーンの出所は何処なのか。だがそれを確かめるより先に、上から来た別の部署が遺体共々に検屍の為と言って持って行っちまった」
 「……うげぇ」
 態とらしさを更に増して鷹揚に言ってやる土方の顏を伺い見た銀時が、舌を出して呻く。これだから役人ってやつは、と小声でぼやいているが、土方に向けても仕様のない棘とは解っているのだろう。
 「…つまり、その天人を利用していた奴そのものか、その客とか協力者に、ちょっと偉い奴とかが混じってて、口封じに…、って事だろ?」
 「俺の見解はてめぇと少し違うが、まぁ大体はそんなもんだ」
 「じゃ、おめーの見解って?」
 軽く払う様に言う土方の言葉に、どう言う訳か銀時は食いついて来た。てっきり、興味などないと肩でも竦めるだけだと思ったのに。
 「……」
 土方は少し考えたが、この場でならばそんな話をした所で別段問題は無いだろうと言う結論が程なく返る。この『筺』の中ならば、ある意味何よりも安全ではある。
 「遺体を持ち帰った──いや、処理したのは、異能の天人に対抗するとかなんとか、そんな名目の部署らしいが、実態は全く解らねェ。幕府の直轄だとかで、とっつァんでも詳しい事は知らねェそうだ。
 まぁそれで逆に確信は得たがな。そいつらの体に八咫烏の刺青があったとしても驚かねェさ」
 土方の、出来るだけ軽く紡いだ筈の言葉に、銀時は目で見てはっきり解る程に目を瞠って驚きを示した。その表情を見ているだけで前途の多難さを感じて仕舞う気がして、土方はかぶりを振る。
 「……、それって」
 「…とにかく、今の問題は遺体を処理したその連中の詮索じゃねェだろ。件の天人が死んじまった事で、もう二度と『筺』事件は起こらないだろうって思われてたし、実際俺もさっきまではそう思ってたんだ」
 『筺』がもう存在しないのであれば、そこに閉じ込められる被害者が出よう筈もない。況して事件とは全く無関係の立ち位置にある土方がそうされる理由がない。
 嘗て携わった数々の事件で恨みを持った攘夷浪士が居たとして、連中ならもっとシンプルに首を取りに来るだろう。
 銀時の方は、万事屋などと言う怪しげな職業をやっているのだから、何処かで変な恨みを買ったと言う可能性は無くもないだろうが、基本的にそう言った底暗い感情と相容れる様な男ではない。
 「……互いに、筺(こんなところ)に閉じ込められる理由も思い当たりも、少なくとも思いつく限りでは無ェ。そして、『筺』の創り手は既に死んでる。更には、『筺』を解く条件提示も無ぇと来たもんだ」
 銀時の指摘した通り、度々上司の命を狙う部下こと沖田と言う不確定過ぎる要素はあるが、幾ら沖田でもこんな冗談にもならない様な事をやらかしたりはしないし、何より『閉じ込められた』などと言うシチュエーションならば土方のすぐ横でその動揺や狼狽を楽しむ事を選ぶだろう。
 (……分析しといて何だが、果てしなく厭な話だな…)
 思うが、その見立ては間違ってはいないと確信出来る。出来るから逆に厭なのだが。
 沖田は土方を殺したいと言うよりは苦しめたい質だ。殺すにしても散々甚振ってからにする。だから、もしも土方を監禁と言える状況に追い込んだとして、それを特等席で堪能する筈である。
 入念に調べて、部屋の中には監視カメラや記録装置の類は見受けられなかった。そして、出ようにも出る事が絶対に出来ない。
 完全に、話で聞いていた『筺』の符号に合致している。解放条件が無い、と言う一点さえ除けば。
 「……確かに、てめぇの言う通りにこれはフェアじゃねぇ。件の天人が、解放条件の存在しない『筺』を創れるのかは解らねェが、生憎唯一の『筺』創りの出来た、奴さんは死んでる。他にそうそう『筺』みてぇなもんを創れる様な奴が居る訳もねェ。それでも始末された以上、そいつは相当にリスキーな存在だってのは間違いねェからな」
 言葉尻に自然と深い溜息が続いた。土方は立てた膝に額を押し付けて呻く。涙は出ないが、泣きたくなる、と言うのはこう言う思考の混乱を引き金にするのだろうなと思った。
 どうしようもない、と。両手を上げて喚いた挙げ句に不貞寝でもして仕舞いたい。無意味だと解っていながらも、現実逃避をしたい。
 「……………つまり、さっぱり現状解らねェ上に、詰んでるって事だよな?」
 「察しの通りだ。協力とやら、する事に反対する気はねェし、俺の知ってる事は全部話した。それで、何をどうしたら良い?」
 耳に届く銀時の声にも、脱力や失意と言ったものを感じる。捨て鉢に返した言葉にも反論や諦めの悪い言葉は返って来なかった。
 「………まぁ、その被害者の男女もだけど、苛々しちまうってのはスゲー実感したわ…」
 答えが、解放される鍵が置いてあってすら、かの男と女は永い時を苦しんだと言うのだから。鍵が無ければそれこそもう、どうしたらいいかすら解らない。
 「…土方」
 暫しの沈黙の後。膝を抱えてうずくまって、答えのない絶望から思考を遮断しようとしていた土方の耳に、不意に銀時の声が聞こえた。気配を辿ると、思いの外近い距離にしゃがみこんでいる様で少し驚く。
 そっと肩に手が置かれた。一瞬身体が強張るが、ぽん、と叩くそれは友達でも励ます様な仕草だった。
 犬猿の仲と言えど、至近で知己がらしくもない落ち込み方をしている姿など目の当たりにして、捨て置ける様な性格ではないのが、坂田銀時と言う厄介な男だ。多少乱暴に殴ってでも、一喝してでも、無理矢理に叩き起こして来る。
 現実を逃避する様に頭を抱える事しか出来ない己がみっともなく思える。だが、土方のその感情こそがきっと刃になる。無意味な暴言を投げて仕舞いたくなる。銀時がそれをきっと「土方(おまえ)らしい」と肯定すると解っている。
 そんな惨めな情けは欲しくない。少なくとも今は、この状況では、そんな有様が露呈される事は避けたい。何れ外部から救助されて助かるにしても、朽ちて果てるにしても。
 「……てめぇと俺じゃ、口を開けば口論になるだけだ。協力しようもない現状じゃ、出来るだけ不干渉で居る方が良いだろうが」
 肩に乗せられた銀時の手を払ってそう言うが、銀時は諦め悪くも今度は土方の腕をぐいと掴んだ。引っ張る膂力に、抱える膝に爪を立てて抵抗する。
 「わぁったって、協力っても全部に於いて合わせろとかそう言う事ァ言わねェって。たださ、俺も、なんつうの?やっぱり凹んでるし、どうしたら良いのか解らねェってのも同じだろ?」
 天岩戸の前で踊り楽を奏でる様に。或いは頑是ない子供に言い聞かせる様にか。困り果てて、それこそ泣きそうな声音でそう一息に言ったかと思うと、次の瞬間には土方は何かの力に拘束されて、浮かんでいた。
 「っ、は?!」
 抱えていた膝が腕からずり落ちて床に爪先が触れる。銀時に真正面から抱え上げられ、持ち上げられたのだと気づくのに少しの時間を要した。
 よ、っと掛け声と共にその侭土方を抱え上げた銀時は、多少よろよろしながらも前に進んで、寝台の上へぽいと背中から土方の体を落とした。反射的に飛び起きようとするが、額をぐいと頭ごと鷲掴みにされてシーツの上に後頭部が収まる。
 「よ、ろずや…っ、てめ、!」
 「寝よ」
 「喧嘩するってんなら…、………は?」
 言葉と同時に、額を掴んでいた手が、視界を覆う様に優しく置き直された。暗い視界いっぱいに拡がるごつごつとした手のひらを前に、土方は瞬きを何度も繰り返す。
 「散々暴れて疲れてるし、取り敢えず寝よう。そうしよう」
 仰向けに寝台に転がる土方と、そのすぐ横に俯せに転がる銀時。その手のひらだけが伸びて、寄せて、乗せられて、遮って、いる。白々とした光と、その照らす四角四面の無機質な空間が見えぬ様に。
 「互いにあんま不干渉でも構やしねぇけど、床の上で膝抱えて寝るよか、ちゃんと柔らかい寝床で横になった方が絶対に精神衛生上は良いっつぅの。折角ご親切に置いてあんだ、ごろごろ使い倒しちまおうや」
 「…………」
 寝てどうにかなるのか、とか。反論は湧いた。だが、土方の口は一瞬戦慄いただけで大人しく閉じて、銀時は欠伸混じりにわらう。
 「な。寝よ」
 それこそただの現実逃避だ。利には適った事を言っているのかも知れないが、実用的な意味はない。──ない。
 (…………何の状況だよこれ…?)
 眠い訳でもないのに、寝れる気なんてしないと言うのに、手は重いし、汗ばんだ感触も不快だと言うのに。
 それでも腕を退ける気には何故かなれず、土方はやっぱり泣きたくなった。







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