JULIA BIRD / 11 書類の山が嵩を減らす速度は速い。 明けて暮れて、その狭間で手を動かすだけの一日が酷くぼんやりと稀薄に過ぎて行く。 指の間で弄ぶペンの先が引っ掻く紙には、音声としては出ない感情と義務感の仕事、その作業感だけが次々刻まれ、次々流れる。仕事は滞る事も無く、書類の一枚一枚は緩やかだが確実に消えていく。 手を伸ばした書類ボックスに触れるものはない。既に今日の仕事は終わった。今日ばかりか、明日明後日か、いつかに回そうと思っていたものでさえ、最早何も残っていない。 空の箱の底を指でなぞってから、土方は漸くペンを置いた。ペンだこが出来る程に強張った指先は連日の仕事に疲労はしていたが、逆にその身の内の体力は殆ど減らしてはいない。疲労感は運動の後などの心地良さは与えてくれず、ただ泥の様な虚無感だけをそこに蟠らせていた。 「………」 煙草に伸ばしかけた手を引っ込めて、土方はそっと息をついた。音声が出ない事とは関係無いだろうが、煙草は控えた方が良いのでは、と言われたのもあって喫煙量は以前までの比ではない程に少ない。煙草を控えれば喉にも良いかも知れない。そんな確率以下の可能性に縋りたい程に、今の土方の精神は参っていたと言えよう。 勤勉なきらいは元よりあったが、基本的に土方は机仕事よりも実戦が好きな質だ。どんなに忙しくとも鍛錬や巡察は極力欠かしたくはない。なんでかんでと言い訳を付けてでも身体を動かしていたいのだ。 だが、連日その手は刀を握らずペンを握り、足は街を歩かずに畳ばかりを踏んでいる。一応は謹慎──と言うよりは自粛、と言いつけられてはいたが、それは土方のあらゆる行動を制限する類のものではない筈だった。 然し退院以来、土方が屯所の自室を食事や厠や風呂と言った生活習慣以外で出た事は、無い。 出来るだけ大人しくしとって下さい。山崎がそう言いながら、退院したばかりの時に溜まっていた机仕事の山を運んで来た時から、身体を自由に動かしていたいと言う土方の本来の性質はなりを潜めて仕舞っている。 外に出ると『言え』ば恐らく、山崎か沖田か誰かが付いて来るのだろうとは思う。放り出された訳でもないし、幾ら己の不始末が迷惑を撒き散らした所で、誰もが土方の事を煙たがる様な事にはならない。それは解っている。だから殊更に己を卑下する様な心算は土方にはない。 己の出来る事でもしも最善を、と言うのであれば、それは聲が元に戻るまで、焦りに駆られ短慮を冒すまいと言う決意にしかない。そしてそれを実践するには、こうしている事が最善なのだと土方は己をある意味で正しく理解していた。 どうしたって、侭ならぬ己には焦燥感しか得ない。ふとした瞬間にそこに音声が出ない事は恐怖と隣り合わせの失望しかない。そこで足掻けば己以外のものを煩わせる。そうして益々に己の現状が赦せなくなる。 出来る事は最早何も無いのだと、既に知った。ある意味で最も痛い形で突きつけられた。 退院した時、土方が松平から直接に告げられたのは、実戦に出る事を禁じる命令だった。松平は、これ以上真選組(じぶんたち)の傷を拡げんな、と言い添えては来たが、それは土方にとっては事実上の『厄介者』扱いの実感であった。 実戦とは、討ち入りや捜査活動、刀や手足を動かす戦の事だ。真選組に於いてそれはほぼ日常の事でもある。大なり小なり捕り物は毎日の様に起こるし、そうでなくとも唐突に命を狙われる事もある。手にした刀が人を実際に斬るのはそうそう無いが、常に抜ける程度の緊張感はそんな日々に必要なものだ。 適度な緊張感、或いは昂揚感は、ともすれば不毛な犯罪の撲滅や、単調な書類の遣り取りと言う日常生活の内のスパイスの様なものだ。意識と刀とを研ぎ澄ます事は、警察としての己の職務であると同時に、土方から欠かす事の出来ない『生活』だったのだ。 実戦の無い生活は、間違いなく己を鈍らせる、と、土方は鍛錬で刀を取り回す度に強く実感する。周囲の人間から見れば、強さも技能も全然変わっていないと言う評価が下されるだろうが、土方は己の事だけにそう暢気に構えている気にはなれなかった。 腑抜ける精神と、鈍る腕。思う様に斬れぬ刃。侍として、警察として在る事を選んだ土方にとって、戦う事を已めた己と言うものは、得も知れぬ恐怖の対象でさえあった。 指揮官として現場に出る事までは禁じられはしなかったが、それも飽く迄後方からの指示のみと限定されている。 前線の様子をその場で瞬時に把握出来ねぇ指揮官なんざ何の役にも立たねェ。土方のそんな反論は沖田の「声も上げらんねぇのに前線に立ってる指揮官なんざ邪魔でしかねーですよ」と言う、正直過ぎて悪意にすら該当しない当て擦りひとつでやり込められた。 結局のところ、戦となる時に土方の出来る事は、安全な警察車輌の中か会議室で出せるならば指示を人づてに飛ばすと言う事のみと限定されたのだった。 捕り物の度に苛々と報告をただ待ち、何事もなく作戦行動は成功したと言う報告を受け取る事に安堵を覚えながらも、己の存在の意味を思い悩む。 何も出来ない。何も届かない。佩いた刀は杖にも指揮棒にもなりはしない。その無力感と絶望感とは、刀と力とをただ無心に信じ抱えて来た土方にとっては、手足をもがれるに等しい事だった。 刀の代わりにペンや筆を握り、采配を振る代わりに書類を片付ける。鈍になって行く己を実感しながらも、それを止める方法がわからない。 手は動くのに。足も動くのに。頭も回っているのに。目も耳も意識も何もかもが、普通に在るのに。 無い聲だけが、その嘆きでさえも誰に伝える事も出来ぬ侭、そこでずっと蟠り続けている。深い澱の中で土方の四肢を絡め取って、その焦燥を嘲笑い続けている── 本調子では無くなった生活は、一定の忙しさを保っている癖に酷く静かに凝っていた。静かな屯所の空気を肺に溜める度に、まるで蚊帳の外だと実感させられずにいられない。 果たしてもう幾日、部下に直接指示を出していないのか。もう何日、部下を怒鳴りつけていないのか。近藤や山崎とは筆談を交えた遣り取りは交わすが、侭ならぬまどろっこしさにうんざりとさせられる。それは相手も同じ事なのか、単に前線に出ない土方には必要がない話だと判断されているだけなのか、その頻度も今までと比べ大分少なくなっていた。 埒もない、下らない冗談交じりの会話さえ、随分と長らくしていない気がする。日常見慣れていた筈の近藤の笑い声も、困り顔も、ここ暫くの間は目にしていない。 沖田も日常習慣の様な襲撃の悪戯を行おうとはして来ないから、土方の周りは音声の有無を除いても随分と静かであった。襲撃を行わぬ理由は土方への心配でも何でも無く、曰く、悲鳴が聞こえないから楽しくない、からだそうだが。 そんな厭な日常行事に寂しさを憶える、などと言う事は無い、とは思うが。 「…………」 先頃一旦は手を引っ込めた、煙草の箱をそっと指先で引っ張り起こす。一本を取り出せば、慣れた手の動きが当然の様に火を点け、口中に蟠り続けている感情を濁った色の煙にしてそっと吐き出す。 凝った鬱屈は、煙と違って吸っても呑み込めない。既に胸の裡は焦燥の火花が散って今にも弾けそうだった。 溜息をひとつ吐くと、土方は煙草をくわえた侭、まとめてファイリングした書類を抱えて立ち上がった。近藤に提出する会議用の資料だが、まだ期日には早いからと放り出してあったものだ。 近藤に向かい、忌憚なく気易い会話を愉しめなくなった己を実感させられる事に忌避感を憶えていた土方は、そんないつになく逃げ腰な己を酷く嫌悪する。 期日だなんだと、言い訳をしている事自体が、全くらしくもない。 (どうせする事も無ェんだ。厭だとか思ってんなら、早い内に終わらせろよ) 己に向けた叱咤が自嘲でしかないものであると気付いてはいたが、特に否定もしない侭、土方はファイルを抱え直して部屋を出た。この時間ならば近藤は自室にいるだろうと考えながら、歩き出す。 * 消灯時間には早いが、居住空間を通らなかった事もあって、誰にも会う事も擦れ違う事もなく、土方は近藤の部屋の前へと辿り着いていた。 そして、襖に手を伸ばした所で、その動きを停止させていた。 断じて、意識して聞いた訳ではない。耳を澄ませて疑いながら立ち聞きをした訳ではない。 それでも、土方の動きを思わず止めさせたのは、室内から聞こえて来た会話の内容に偶々、己を表す言葉が含まれていたからだった。 「それで…、トシの症状はどうなんだ」 別段潜められてもいない近藤の問いに、ほんの少しの間が返る。かぶりを振ったのだろう。続く言葉は問いに込められていた期待を一縷の望みも残さず斬り捨てる内容であった。 「残念ながら全く進展はありません。医療も科学的な現象も、副長に今までと同じ様な声を戻すのは無理の様です、と言わざるを得ません」 山崎の言葉は慎重ではあったが正直でもあった。恐らく土方が近藤と同じ答を求め問いた所で、全く同じ事を答えただろう、そのぐらいに迷いの無い断定だ。 「薬物のサンプルの研究結果も同じ様です。恐らくは『声を出す』意識をする脳に直接効果が出ているのではないか、と言う話ですが、経口摂取した薬物が一体どう作用すればそうなるのか、どうすれば治せるのかは──、今の地球では正直解明のしようがないでしょう」 紡ぐ山崎も、聞く土方も、きっと胸中は酷く冷静であった。 だから、土方は震える手を思わず己の喉に触れさせていた。呼吸に乗せる様にして紡ごうとした『言葉』が、声帯を震わせる事もなく出て来ない事を、冷静に、淡々と事実として受け止める。 (…………本当に、脳がどうの、ってレベルだとしたら、) それは最早対処のしようのない現象となる。元より治療など見込む必要性のない効能の薬物なのだから、治るなどと考えていた事が、期待を捨てきれずにいた事が、或いは愚かしい事であったのやも知れないが。 「医者に言われた通り、音声以外での意思の疎通方法を受け入れる様、副長に進言すべきだと、俺は思います。今の侭治る見込みの無い現状を放置し続ける事は、あの人の心を酷く苛んでいます。この侭だと真選組にも、副長にとっても良い事にはならんでしょう」 山崎の、恐らくは最善を考えたのだろう苦渋の進言に、近藤が低く呻くのが聞こえる。 この二人は、今きっと本気で土方の事を案じている。そうして気に病んでいる。土方から喪われた聲が、音声には留まらぬ事を理解していて、 「──」 襖から、強張った手指が外れた。抱えた書類に爪を立てながら、土方は足音が鳴らぬ様に一歩、後じさった。震えそうになる足の指先にまで意識を向けて、一歩、また一歩と、近藤の部屋から──そこで交わされている、土方へ向けられた優しい心配と冷徹な憐れみ、向き合わねばならぬ残酷な現実から、少しづつ距離を取って行く。 何ひとの噂してんだよ。そう笑い飛ばしてやればいいだけだったのに。入るぞ、と言うだけで。良かったのに。 声さえ出れば、それで、良かったのに。 喉が震える。音が出ない。唇が戦慄く。言葉の形にならない。ことばがかたちにならない。 「──、──、」 離れる一歩一歩の距離。踵を返し、迫る現実から遠ざかる様に離れて行く土方は、己がきっと酷く混乱しているのだろうと感じていた。 戻らぬ声。でもその代わりになる手段がない訳ではない。 だが、それは土方が己の機能の喪失を認め受け入れると言う事でもあり、もう『それ』を諦めると言う決断を取らねばならぬ事でもある。枷となった己を受け入れて、それをころす為の儀式の様に。 戻らぬなら、棄てろと。 仮令、棄てたものしか、己の意志を完璧に伝える『聲』を持たぬとしても。 「 、 、 」 非難めいた自嘲の呟きが、空気を震わすこともなく消える。己の意志を言葉に代える手段が失われれば、言葉など役立たずでしかないと雄弁に突きつけながら。 ふらふらと部屋に戻った土方は、机の上にファイルを置くと、フィルターしか残っていない煙草を棄てた。座布団に元通り腰を下ろしかけて、矢張り止めて、落ち着きのない獣の様に部屋をぐるりと歩き、それから再び廊下に出た。 庭に面した廊下は冷たい夜風が寂しく吹き抜けるだけの暗闇だ。土方の部屋の周囲は一般的に執務を執り行う様分けられた一角である為、防犯の意もあって丈の低い庭木は茂らせていない。疎らな樹木の葉たちは風に揺られてざわざわと煩いぐらいに騒ぎ立てているが、そんなものは人の声ひとつ遮る事も出来ぬ程の環境音でしかない。だが、己の声はそのざわめきにさえ掻き消され何処にも届かない。静寂の筈の夜の、何処にも。誰にも。 届かない。通じない。消えて。この不平も不満も鬱屈も悲鳴も、己でさえ聞く事が出来ない。 混乱しているのだろう、ともう一度客観的にそう思う。 思いながらも部屋を出て進む足は止まらず、隊服の侭で土方は屯所の裏口を潜っていた。 叫び散らしたい、声は出ない。言葉にならぬ感情を喚いて泣きたくとも、それが出来ない。 特に明確な目的地を考えていた訳ではない。ただ、己が己でなくとも良い様なものが酷く欲しかった。声が無くとも困らない、真選組の副長でなくても良い、部下の目も上司の気遣いも無い、そんな何処か。何か。 そうして、土方の足は無意識に、夜の町を歩き出していた。 その向く先に『何』が在るのか。理解したとしても足が止まらぬ様に、何も考えない様にして。 夜も深まり雑多に賑わっているだろう町の方へと。 。 ← : → |