JULIA BIRD / 12



 酒は多めに、腹は八分目に。足下はふらりふらりと千鳥足。
 今日は久々にパチンコが良い様に当たったので、気分も懐具合も上々だった。こんな時は景気よく祝杯を上げるに限る。それで財布を空にして帰って二日酔いに苦しんで、居候の娘の呆れ混じりの視線を受けながらまた気怠い朝を迎え、うだつの上がらない日々を過ごす。
 生産性は無いが無駄ではない。惰性ではあるかも知れないが。
 ともあれそれが銀時の365日の中の八割を占める日常生活のサイクルだ。トラブルに巻き込まれたり、厄介事を拾ったりして迷惑を被る事などそう滅多に起きる事でもない。
 酒を呑んで、腹を満たして。平和な夜の町を憶束ない足取りで帰路に着く事の出来る贅沢。
 夜の町は、煌びやかな繁華街を一歩離れれば暗い闇をそこかしこに潜ませている。だが、それは誰彼構わず襲いかかる様な類ではない。何だかんだと日々犯罪が起これど、政治がどう動けど、市井は押し並べて平和なものなのである。
 ぼんやりとした眼差しで見上げた、切れかけで点滅する街灯の向こうには雲間に霞んだ月がぽかりとその口を空けていた。明日の天気は余り良く無いのかも知れない。
 上空は風がある様だが、地上はそうでもない。寧ろ暑いぐらいだ。それはアルコールの仕業で早くなった血流の仕業なのかも知れないが。少なくとも凍死の出来る陽気でも無ければ溺死の出来る天候でも無い。まあだからと言って、歩くのも億劫になった足を止めて路地裏に転がって寝てしまおうなどとは到底思えない。
 そんな風にとりとめの無い事を思考に転がす内、繁華街を抜けて、抜けて、日中の賑わいとは裏腹に静まり返った市街地に出る。何処かで雄猫が喉奥を震わせる様な声を上げて鳴き合っているのがひととき已んだかと思えば、続け様に世闇に響く、派手に喧嘩しぶつかり合う音。
 (猫は大変なもんだ。人間ならその辺の店で払うもん払えば良い話だってのに)
 ゴミ箱を蹴倒したらしき音に肩を竦めてそんな事を思う。尤も銀時の場合は常に素寒貧な生活が続いている為、そんな店ともすっかりご無沙汰であったが。
 (あーあ、どっかに旨い儲け話でも転がって無いもんかね。出来るだけ楽でヤバくなさそうな類の)
 呑むにも打つにも然程には困らぬ生活ではあるが、社員への給料と居候の娘と飼い犬の出費──主に食費──が時折負債となって現れる事も最近では少なくない。塩や味噌まで舐め尽くす程困窮する事もある辺りはなかなかに笑えない話なのだが、だからと言って呑む分打つ分を減らそうとも思わない。だから願わくば収入が欲しい所。だが、間違っても流血沙汰になる様な依頼やトラブルは出来れば御免被りたい。
 金と言えば、何週間か前に巻き込まれた真選組の捕り物で、迷惑料プラス依頼料だと言って地味顔の持ってきた封筒は何処へやっただろうか。万札が大量に並んでいるのは確認したが、何だかその場では使う気にはなれず抽斗か何処かに放り込んだ……様な。
 実際土方は銀時に『依頼』とは言わなかった筈だが、迷惑料と言う名前だけだと何かと角が立つのだろう。チンピラ警察組織の『迷惑』料の相場なぞ知らないが、封筒の中身が銀時の被ったと感じられた『迷惑』の度合い以上の額面だった事は間違い無い。
 (口止め料、も込みって意味なんだろうけどな)
 携帯電話の向こう側でもずっと低頭低姿勢で居た地味声も、迷惑料を持って来た時の地味顔も、敢えてそうとは口にはしていないが、まあそう言う事なのだろう。
 真選組の刀と頭脳の機能が欠如したと言う風聞は、彼らにとって組織的な面でも、攘夷浪士にとっての戦力的な面でも、知られる訳にはいかない事の筈だ。
 (……まあ、肝心のお姫ィ様が、大人しく護られ飾られてられる様な質じゃ無ェのが問題なんだよな)
 思って銀時は数週間前に、近過ぎる程の距離で相対していた男の横顔を脳裏に描いてみた。焦りと苛立ちと悔しさに満ちた表情は、少々の危険な橋ぐらい平然と駈け渡りかねないものだった。
 だから、その危なっかしさを何となく放っておけなくなって、慰謝料だなんだと声高にごねる事も止めて手を貸す事にしたのだ。
 (………………だから、か。迷惑料だって言われても、何か受け取る気しねェと思えたのは)
 抽斗の底に仕舞われたのだろう万札の束を思い浮かべながら、銀時は口の両端を下げた。巻き込まれた経緯の原因は確かに土方にあるが、その後も大人しく巻き込まれ──否、付き合ったのは銀時の自主的な判断であった。
 しかも、最終的には土方は負傷して。銀時は迷惑料と言う名の口止め料を渡された。
 (普段なら、何であれ臨時収入だってんで大歓迎な所だがよ──、後味?的なもんがなんか悪ィっつーか…)
 罪悪感を憶えた訳ではないが、何となくすっきりしなかったのは事実である。それならいっそ同じくすっきりしないもの繋がりで、さっさと家計の足しにして仕舞った方がまだ良かった気がする。
 そうすれば、そう出来ていたのなら、酔いに任せた埒もない思考でまで、金回りが良くならないかなどと呻く必要も無かっただろう。尤も、地に足の付いていない臨時収入など一週間足らずで走り去って仕舞っただろうとは想像に易いが。
 とっ散らかった思考同様に頭髪が野放図に散らばった後頭部を引っ掻きながら視線を前方に戻せば、もう辺りは見慣れた一帯だった。スナックお登勢の暖簾はもう下ろされているし、看板に灯も入っていない。と言う事は時刻は日付が変わってから大幅に過ぎている頃だ。
 新八はとっくに帰って仕舞っているし、神楽も定春も夢の世界の住人に違いない。まあこれはいつもの事だが。
 灯りの点いていない家を下から見上げて、外階段のある路地裏へと向かう。ここらの辺りはかぶき町四天王のお登勢のシマ──本人は面倒臭そうに否定しているが──と呼ばれているだけに物騒な輩などはいない。静かな夜の静かな隘路。
 だから、無造作に停車してあった愛車の原付の横に黒いものが見えた時、銀時はそれをゴミか野良犬かとしか思わなかった。
 「………」
 階段に向かいかけていた足を止め、酔った眼で件の黒い物体を眺め回す。原付の横や傍にこんな大きなものを置いた憶えはない。野良犬の類にしては大きすぎる気がする。
 譬えるならそれは、人間が膝を抱えて蹲っているかの様な。形に近かった。
 「……イヤイヤイヤイヤ」
 思わず左右にぶんぶんと頭を振った銀時は、階段に乗せていた足を下ろすと、黒い、人間らしき物体の方へと恐る恐る向かった。暗がりの中、全容が見えれば間違い様など最早無い、黒くて、黒くて、黒い形の、人間の、男!
 一応は警戒しながら近付けば、恐らくはそれが見知った銀縁の隊服を纏った、見知った人間なのだろうと確信は直ぐに得られた。もっと早く気付けなかったのは、この男が刀を佩きもせずこんな所に蹲っている姿など大凡見たことも無かったから、で。
 後は、銀時の知る現状が変わらぬ侭なら、この男がこんな所に一人きりで泥酔している筈などある訳がない、と言う理性的で客観的な判断。
 「ちょっと税金泥棒さーん、こんな所で泥酔しないで貰えます?一応ここ俺ん家…いやババアの家?まあ何でも良いけど、他人様の敷地内で眠りこけるとか不法侵入的な何かになるんじゃねーのコレ、」
 言いながら暫定知り合いのチンピラ警察の前にしゃがみ込んだ銀時は、その肩を軽く揺すってみた。すれば、立てた膝の上で交差させた腕に顔を埋めていた男は、ゆるりとその顎を持ち上げて来る。
 「オイ、土方」
 果たしてそれは想像した通りの男の顔だった。だがその面相に浮かぶ表情は、薄暗い隘路と言う環境を抜きにしても酷く精彩が無く弱々しい。眉尻を上げて威嚇でもする様に視線を向けて来るいつもの顔は、草臥れた様に萎れている。
 眠っていたのか、目蓋を持ち上げる目は億劫そうに眇められて銀時の姿をぼんやりと見上げてきている。本当に泥酔していたのだろうか、と思うが、土方の身体からは酒の匂いは全くしなかった。銀時の様に酒をたっぷりと飲んで体温が熱い訳でもない。どころか、どれだけ長い時間ここに居たのか、黒い装束もその裡の身体もすっかりと冷え切って仕舞っている様だった。
 「〜オイ、これ何のイヤガラセなの、何やってんのお前、」
 「    」
 もう一度その身を揺すろうとした銀時の腕が引かれて止まる。止めたのは土方が伸ばした冷たい手だ。追い縋る死者にも似たその動きに思わずぎょっとなって見遣れば、土方の口がぱくぱくと酸欠の金魚の様に上下する。そこに漸く生じた理解の様なものに、銀時の肚の底はざっと冷えた。
 (そうだよ、コイツは今声が、)
 『よろずや』
 繰り返された、魚の喘ぎの様な動作は然し今度ははっきりと意味を持って『聞こえた』。動作ではなく言葉だ。聲だ。
 そう『呼ん』だ土方は、そこで口を噤んで視線を躊躇う様に泳がせた。縋る様な眼差しが寸時戻って来かけてはまた離れて行く。強い理性で何かを留める様に、堪えようとしては失敗して項垂れる。
 何かに葛藤し苦悩している様な様子で、酒の匂いや気配は疎か、声も無く刀も無く。供も無く。どうしてこの男が、こんな時間のこんな場所にこうして草臥れ果てた様に座り込んでいるのか。
 (らしくねぇだろ、こんなん…、いや、らしいとかそう言う問題でも無ぇわ、)
 まず銀時が思いついたのは、何かがあったのではないか、と言う事だった。それも危機的と言っても良い様な状況か何かが。例えば襲撃を受けて武器を失って此処までやっとの思いで逃げて来たとか。だとしたら傷を負って蹲っていると言う可能性も有り得る。
 「オイ土方、お前どうしたんだよ、何やってんだ、何か言えって!」
 埒の開きそうもない土方の腕を掴んで、思わず銀時は強い調子で迫った。取り敢えず血の匂いはしない様だが、だからと言って『何』も無ければこの男がこんな所で。こんな風に、力なく、座り込んで、弱々しく自分を見上げるなんて事が。ある筈が。
 苛立ちと共に絞り出された言葉と感情とをそこで一旦飲み込んで、銀時は力の加減もなく掴んでいた土方の手首をそっと放す。
 己の勝手な印象や感情から勝手に相手に苛立ってどうするのだ、と酔いと困惑とでぐしゃぐしゃになった頭を何とか落ち着きを取り戻して振り払い、一時沸きかけた内圧を溜息と共に鎮めて、銀時は目前に座っている土方の顔を覗き込んだ。
 「何か事件でもあったのか?お前らの所に……ジミー辺りに連絡した方が、」
 だがそんな銀時の提案の最後に辿り着く前に、土方はかぶりを振った。重たげではあったがはっきりと首を左右に。
 よろずや。
 唇の動きがもう一度そう『呼んで』来る。力の無い眼差しが奈辺を漂い損ねた様に落ちて来て、目元が痙攣するに似た震えを起こす。
 泣きそうな面だと思って、苛立った。駄目だと思った。なんで此奴が、なんでこんな面を。なんで俺の前なんかで。
 違うだろう。お前はもっと自身満々でいつも傲岸そうに振る舞っている男だっただろう。己の進む途の正しさを、世界よりも大義名分よりも雄弁に翳して誇り高く在るそんな侍だっただろう。
 声が出なくとも、トラックに乗っての尾行と捕り物とに巻き込む形になった銀時の事を、職務だと言う素振りをしながら庇って護ろうとして、無謀な途の前だけをただ見ている、そんな、人間だった筈だ。
 怪我を負って、僅か数週間で。掴んだ土方の両腕の抵抗は弱く、向ける抗議めいた眼差しも弱く、『呼ぶ』声も何かに縋る様な『響き』になる、そんな事が──まるで別人の様に変容して仕舞う様な事が、何か、あったとでも言うのか。
 現実味がまるでない、目の前の男の姿を銀時は茫然と見下ろした。侮蔑ではないが失望は混じっただろうそんな視線に晒されて、土方は自嘲めいたシニカルな表情を作った唇を震わせて『言う』。
 『とめてくれ』
 その単純な五文字の言葉に銀時は益々困惑して眉を寄せた。止め?停め?泊め?どの字面もこの土方の状況に合致しそうもない。否、合致させられる想像は僅かに浮かんだが、上手い事繋がらないのだ。
 『金なら払う』
 「……いや、金とかそう言う問題じゃ無くてだな、」
 続けてそう言われるのに、思わずこぼれた呆れ混じりの声の侭で銀時は頭を抱えた。字面はどうやら『泊め』が正解の様だ。と、なると、真選組の屯所で何かがあって飛び出して来たと言う事だろうか…?
 だが一体『何』が起これば、誰よりも何よりも遵守するべき大将の居る『家』を、こんな深夜に刀も持たずに土方が出て来る、と言う行動に結びつくのか。
 「………」
 訳が解らず、繋がらずに呻く銀時をあの弱々しい眼差しでじっと見つめていた土方が、やがて顔を俯かせた。その黒髪の頭頂部を見下ろして、思いの外の小ささと頼りなさをふと憶えた銀時の裡に過ぎる解答の可能性。
 他に縋るべき藁が、見つからなかったのだろうか。だから此処を選んだのだろうか…?
 居る場所に居られぬと感じられ、何かに縋りたいと思う様な事が今の土方に起こり得るとしたら、それは彼が声を喪った事に起因する理由だろう、恐らく。
 そして、本来土方の在るべき真選組の中には、彼が縋れるものがなにひとつとして無かったとすれば。
 「……とにかく、こんな所じゃ落ち着いて話が出来る訳でも無さそうだし、お前もスゲー冷えてるし…、えーと、泊めるとか金払いとかはこの際置いといてだ、一旦上がれ。な?」
 宥める様にぽんと肩を叩いて立ち上がった銀時の姿を、土方はのろのろと頭を持ち上げて、見つめた。縋る色を確かに潜ませている癖に、それをこぼして良いのかと躊躇い、駄目だと葛藤しながら、どうしたら良いのかも解らない様な頼りない表情で。
 (迷子の子猫を前に困り果てるお巡りさんみてーな画じゃね?いやお巡りさんあっちだけど)
 「な?俺も酒引いて寒くなって来たんだよ」
 そう態とらしく震えてみせれば、土方は申し訳なさそうに一度俯いてから、ふらりと立ち上がった。黒い、闇の色と同化した様な隊服と頭髪とに縁取られて、手や顔の不健康そうな白さがいやに目立つと思う。
 土方に何があったのかは知れないが、今の様子は大凡平時のものとは言い難い。真選組を飛び出して、泊めて欲しいなどと言うぐらいなのだ、帰りたくないにしても何にしても、普通では無い。
 その辺りの安宿を選びたくとも、声が出なければ部屋取りも容易ではない。自動の機械受付のラブホテルなどと言う案は──日頃利用する様な男には見えないし──咄嗟には思いつくまい。況してや誰もが知るチンピラ警察の隊服姿だ。頼れる場所など限られるだろう。
 それで、声の出ない事情を知る銀時の元を選んだのか。選ぶ他無かったのか。
 たった一つの縋る藁の、家には然し誰の気配も無く。電話にも出る者も無く。出たとしても意思の疎通は無理だっただろうが。だがそこで銀時の帰宅を恐らくは待って、路地裏に蹲って。此処ならば危険は無いと知っていたのか、刀を持たぬ身で無防備にただじっと。
 銀時が原付の方に視線を遣らなければどうだったのだろうか。或いは酔い潰れて家に戻らなかったら?土方はあの侭明け方までじっとひとりで、夜風に身体を冷やしながら其処に留まり続けただろうか。
 (…………………多分、居た、だろうな)
 階段を昇り始める銀時の二歩後ろを、無言で同じ様に付いて来る土方の気配を感じながら。銀時は苦虫を噛み潰し過ぎた様な表情で、心の中でだけ盛大に溜息をついた。
 厭だったのではなく、何だか酷く腹が立ったのだ。……何かに。






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