JULIA BIRD / 13 「風呂、追い炊きにしとくから取り敢えず体暖めて来いや。着替えとかタオルは適当に置いといてやるから」 玄関に入ったきり三和土から動こうとしない土方の肩を押して、無理矢理風呂場に放り込み一方的にそう命じてから、返事──らしき反応──を待たずに銀時は廊下に出た。背中に突き刺さる、と言うよりは縋る様な視線は感じたが、振り切って寝室へと向かう。 押し入れの中の衣類ケースを引っ繰り返す勢いで探せば、濃紺に白襟の長着が出て来る。大分昔に仕舞い込んだきりになっていたものなので少しばかり樟脳臭かったが、普段土方が好んで纏う色彩に似ているものは、銀時の憶えている限りこれしかないのだから仕方がない。 「……いや別に着物なんて何色着てたって同じだけどね?俺のこのいつもの奴貸してもいいけど同じだと何か白くて落ち着かないじゃん?それにほらアイツだって俺とお揃い括弧はぁと括弧閉じとか厭だろうし?何より一つ屋根の下の同じ空間で同じ着物とかキャラ的なものとか色々カブるかもだし??」 何処へとも解らない言い訳めいた内容をぶつぶつとぼやきながら、銀時は引っ張り出した件の着物と揃いの角帯を抱え持ち、次いで箪笥から熨斗紙の巻かれた侭になっている贈答品の湯上げタオルを取り出した。その封を無造作に破りながら風呂場の方へと取って返す。 風呂場の脱衣籠には畳まれた洋装が収まっていて、変な所で律儀な野郎だなと思えば、僅かに間を空けてから銀時の顔には呆れや諦めめいたものが浮かぶ。 「オイ土方ぁ、着替えとタオルここに置いとくぞ。タオルは使い終わったら洗濯機に放り込んどきゃ良いから。隊服の方は皺になっちまうとアレだから掛けとくな」 そう断りを入れれば、浴室の中に膝をついて座った姿勢で、じっとこちらを伺っていた土方の影が困惑した様に身じろぎした。返事を返したかったが出ないのでどうしようかと狼狽えているのだろう。 返事を出来ない当人にはさぞ困ったものなのかも知れないが、惑う影の挙動や間から言いたい事は何となく解る。わざわざ戸を開けて頷くのを確認する必要もないのだし、と、銀時は土方の応えらしい応えを待たずに、脱衣籠から隊服を取り上げ、代わりに持ってきた着物とタオルとを置いた。衣服の下に隠す様に置かれていた下着は、流石に替えも無いし替える必要も無いだろうと思ったのでその侭にしておく。 「湯船に浸かったら十分間は出て来ちゃ駄目だかんなー。隣の屁怒絽さんが怒って殴りに来るからね」 気持ちをリラックスさせてやろうと茶化す様に一声掛けるが、戸の向こうの土方の気配が和らぐ事は無かった。ツッコミを入れたくても言えなくて苛々しているだけ、であれば良いのだが、じっと磨り硝子越しに表の様子を伺う様子は大凡そんな暢気なものを原因としている訳では無さそうだ。 (まあ大体想像はつかんでも無ェけど) 取り敢えず浴室で天照になっている訳でもないのだし、今すぐ問い質せばならない事でもない。まあ追々訊けたら訊こうとあっさり決め込むと、銀時はその侭風呂場から離れた。 廊下に戻ればそこにはいつも通りの静かな夜が横たわっている。玄関に一組増えたショートブーツ以外は、銀時のよく知るいつもの我が家の光景でしかない。その感覚を裏打ちする様に、納戸の押し入れの中で夢の世界の住人になっている神楽が起きて来る気配も無さそうだった。 (………なんでこんな事になってんだっけ?) 抱えた隊服の重みが、今更の様に生じた疑問を裡から押し出す。銀時は不愉快な状況と不可解な現状との狭間で疑問符を揺らしながら、寝室の鴨居に上着とスラックスとを掛けたハンガーを引っかけた。ふと気になってポケットを叩いてみるが、携帯電話の入っている様子はない。財布か身分証らしい感触だけが上着の内ポケットにあったのみだ。 「マジで着の身着のままフラっと出て来た感じかコレは」 今や生活にも警察の任務にも欠かせないのだろう携帯電話は、確かに今の土方には殆ど不要と言えるものかも知れないが、メールと言う通信手段や居場所の特定に用いる事は出来る。実際先日の事件の時も土方は携帯電話を所持していたし、位置特定にも使われた。 それを所持していないのは、果たして態と置いて来たからなのか、思い立った侭に出て来たが故に忘れて仕舞ったからなのか。 或いは自嘲の可能性もある。どうせ使えないから。どうせ使う用事もないから。 「……俺が居なかったら、つーか何なのアイツ危機感無さ過ぎじゃね?手前ェの軽率な行動を責められてまた軽率に丸腰で深夜歩き回るって何なの馬鹿なの?」 呆れか苛立ちかも判然としない感情の侭に音高く襖を閉めると、銀時はそれから思い出した様に居間の電気を灯した。 こんな時間だと普段ならわざわざ灯りなど点けないのだが、明るい方が土方も少しは安心するかも知れない。暗いよりは明るい方が人間の精神衛生には良い筈だ。多分。 壁の時計を見遣れば、時刻は零時を大きく回って一時に差し掛かろうとしている所だった。呑みに出て帰って来るのには確かに遅いが、銀時の帰宅には別段珍しいと言う訳でもない時刻だ。突発的な驚きに酔いが冷めていなければ、今風呂で思い切り湯を浴びていたのは銀時の方だっただろう。 (酔ってた気がもうしねェっつーか…、逆に冴え冴えしてるっつーか…) 二日酔いになりそうなぐらい呑んだと言うのに結構な事だ、と自棄の様に考えながらソファに腰を下ろす。廊下の先の浴室からは、小さいが湯や桶を使う物音がして来る。どうやら本格的に夢でも幻でも無さそうな実感に、何だか居た堪れない様な心地を憶えて銀時は小さく首を竦めた。 * 土方が風呂から出て来たのはそれから五分経ったか経たないかと言うぐらいの時間だった。そうだね、十分浸かるとかぬるま湯でも無ければキツいよね、とぼんやり考えながら、銀時は濃紺の流しに居心地悪そうに包まれて居間の入り口に佇む土方の姿へと視線をただ無言で走らせた。 促されていると感じたのか、土方は少し躊躇う様な足取りで居間へと入ると、銀時の向かいのソファにおずおずと腰を下ろした。一応は他人の家と言う事に遠慮の様なものがあるのかも知れない。思った銀時はだらりとソファの背もたれにふんぞり返る様に姿勢を崩した。 それをどう言う意味と取ったのかは知れないが、土方はほんの少しだけ俯き加減になっていた顔を起こした。寄る辺無さげに居た瞳が銀時の姿を漸くまともに捉える。 その様は先頃路地裏で見た時よりは、体温が暖まり血行も良くなったからか、大分精彩を取り戻している様だった。感じた様な弱々しさはそのお陰でか幾分払拭されていたが、それでもまだ常の尊大さには程遠い。 「何か飲むか?つーか水しか無ェけど」 一応は最低限の礼儀と思って投げた言葉に、土方は無音でかぶりを振った。ジェスチャーでの意思表示には随分と慣れて来ている様だが、無意識なのか唇が『いい』と言葉を刻んでいる。声が出ていたら聞こえただろう、聲が。 鼻の頭にともすれば寄りそうになる眉をなんとか動かさず堪え、銀時はほんのりと緊張感を孕んだ息をそっと吐いた。 「まず最初にはっきりさせときてェんだけど」 そう切り出せば、土方の表情には忽ちに翳りが落ちる。こちらは堪える事もなく眉間に寄せられた皺が沈痛さを雄弁に示しており、酷く苦しそうにも見える。 口がきけたらもっと解り易く「何も訊くな」と言うのだろうと思うが、生憎土方からその機能は失われている。だからこそ生じる可能性も幾つかあった為、銀時は傷口に刃をこじ入れる様な心地で続けた。 「ゴリラ達はこの事を了承済みか?この事ってつまり、深夜お前が万事屋に来てるって事な」 ある意味で核心でもあっただろう銀時の問いに、土方は俯き加減に戻した頭をそっと左右に振った。今度は唇は動かない。言わなければならない答えを真っ当に持っていないからなのか、それとも銀時に話す必要性を感じていないからなのかは解らないが。 「……プチ家出?」 反抗期の女の子みたいな。そう冗談めかして言えば、流石に土方は憤慨したのか、反論をしようと口を開き掛け──然しそこで声が出ない事に思い当たったのか、唇を悔しげな形に噛み締めて俯いて仕舞う。 膝上で拳を握り、項垂れる土方の様子を見ながら銀時は、大体の顛末の想像を組み立ててみる。 警察や真選組の細かい事情は解らないが、今の土方の扱いが微妙でデリケートな所にあるだろう事は、本人もあの事件の折りに『言って』いたのだから、銀時にも多少は知れている。 そうでなくとも、音声を手足同様に日常的に扱っていた者から奪うのだから、その不便さや不自然さぐらいは想像にも易い。その上土方のそんな状態は極力隠匿されねばならないのだとくれば、身を守らせるにも秘密を守らせるにも、それこそ箱入りのお姫様よろしく閉じ込め囲っておくのがベストだろう。 だが銀時の想像した通りに、件のお姫様は大人しく護られている様な性格の人間ではなかった。その挙げ句に民間人一名を巻き込み、見廻組の厄介な事情を引き摺り出し、民間人を庇って負傷までして帰って来たのだ。 こうなれば最早お姫様当人の意思がどうだろうが、ちょっと大人しくしてろ、と叱りつけたくもなろうものだ。と言うかなるだろう。少なくとも銀時ならばそうしたくなる。銀時でなくともそうしたくなる筈だ。 つまり、近藤らの預かり知らぬこの、土方の外泊(未満)は、そう言った環境や状況に堪え難さを抱え過ぎて遂に破裂したと言った所だろうか。 (…………だ、としたら確かにプチ家出だわな) ばつが悪そうに視線を落とした侭の土方を前に、銀時はやれやれと深く息を吐いた。 経緯は想像でしかないが、概ねは外れてはいない様な気がする。隊服の侭だし、刀も持っていないし、肉体的と言うより精神的に疲弊しきっている様だし、何より土方が、敬愛する大将である近藤に何も告げずにこんな所を訪っているのだ。ついでに言うと山崎へ連絡されるのも厭だと既に意思表示している。 真選組では晴らせない、直ぐにでも飛び出したくなる様な鬱屈が何かあったのだろう。逃げる様にここまで来たと言う理由は恐らく、声の出ない経緯を真選組の連中以外で知っている唯一の人間がここに居るからだ。 縋るものの無くなった土方には、それは藁以下の可能性であったに違いない。それを身勝手だとか甘えだとか斬り捨てる程残酷な心地にはなれそうもない銀時なのだから、面倒だろうと思おうが呆れが浮かぼうが、端から白旗を上げるほかあるまい。声を掛けた時点で、家に上げた時点で、それは最早確定事項だ。 何より、ここで下手に気の乗らない素振りを見せたら、変に頑な土方の事だ、臍を曲げて出て行きかねない。行き先も宛も無い癖に。 自尊心の高い男が万事屋を縋る藁として、事情知りであった事も一因だろうが、選んだと言う事自体がそもそも青天の霹靂と言って良い事態だ。少なくとも銀時の想像の中の土方ならやらないだろうと断言出来た。……今までならば。 命をどこから狙われていてもおかしくない男が、刀も持たず誰にも居場所を告げずに深夜ひとりきりで歩くなど、軽率もいいところだ。 「……足手纏いだとでも言われたのか?」 少し慎重にそう問えば、土方の顔がゆっくりと持ち上がった。噛み付きそうな目を向けられるかと想いきや、向けられた視線には責める様な力はない。ややして、躊躇う様な首肯。続け様開かれる唇に銀時はじっと注視した。 「『現場、から、ずっと、離れさせられて、る』。……まあそれはやらかした事を思えば仕方無ェんじゃね?つーかよ、声が云々より、その事で俺を庇おうとして怪我した、って事のが真選組(連中)には問題だったんじゃねェかと俺ァ思うけど」 当事者の言う事でもないか、と思いながらも銀時がそう正直な所を言ってやれば、土方は虚を衝かれた様にぱちりと音のしそうな瞬きをした。 やっぱ此奴解ってないのか。銀時はその事実を前に少々項垂れかかりつつも、唇を尖らせて少し強い調子で言う。 「上司の近藤や護る対象じゃねェだろ?幾ら民間人でも、元攘夷志士の万事屋なんてお前らから見りゃ犯罪者に半分足突っ込んでる様な連中な訳だろ? つまり、お前は冷徹な鬼なんて大層なもんじゃなくて、いざとなったら目の前のもん庇うのに躊躇しねェ奴だろうと判断されたって事だ。 それがそこらの一兵士ならまだしも、真選組(てめぇら)にとって必要不可欠な副長がやらかしてんだ。危なっかしくて放っておけねェだろ普通」 例えば乱戦中に狙われている部下がいたとして。声ひとつ上げて注意を促せれば、敵は狙いを悟られた事を知って動きが鈍るし、部下の方もそれに対して身構える事や回避行動が取れる。無論全てがそうと当て嵌まる訳ではないが、声を上げる事がその侭救援に繋がるのは間違いない。 土方は、その『声』が上げられなかった為に、自らの身で銀時を庇いに出た。 もしも乱戦の中、同じ様な状況に部下が陥ったらどうするだろうか。声を上げようとして出なかった、だから見捨てるしかないと言う選択肢が土方には無い事は、銀時の代わりにその身に受けた銃弾が物語っている。 銀時が民間人だから、巻き込んだから、そんな理由があっても無くても、実際に土方は『そう言う行動を取って仕舞った』のだ。声が出ないその代わりに、最も望ましくないだろう選択肢を選んだ。 土方を現場から遠ざけると言う命令を出したのが近藤かその上かは知らないが、その命令の意味合いは戦力外通告であるのと同時に、自重を知れと言う厳命でもあるだろう。 「そう言うのは、てめーみてェな人間が一番やっちゃいけねェ事だろ」 やんわりと──然し急所を突き刺す様な一撃に、土方は少し驚いてから奥歯を噛み締めて俯いた。その表情の成分は悔しさで出来ている。一体何が悔しいのだろうかと銀時は憐れみに似たものの混じった不可解な心地で考える。 まもれない、のか。 軋る歯の隙間から、そんな『声』が聞こえた気がした。それは銀時の見間違い──或いは聞き間違いかも知れぬが。 膝の上で固く拳を握りしめている土方の姿を何となく見てられなくなり、銀時は努めて自然な動作でソファから立ち上がった。寝室の襖を開くと押し入れから客用の布団を引っ張り出す。 客と言っても押しかけなのだし、ソファに寝かせようかと一瞬思うが、起きて来た神楽や出勤してきた新八と遭遇した時が面倒な事になりそうなのでやめておく事にした。 客用の布団を部屋の隅に敷いて、逆の隅に自分の布団を敷く。その侭、布団の間に挟んである寝間着代わりの甚兵衛に着替えてから、寝室をぐるりと見回す。 二組の布団を並べても余裕のある部屋面積から見ると少々不自然な距離は空いているが、まあ犬猿だし野郎同士だしこんなものだろうと一人納得してから居間を覗き込む。果たして土方は未だ俯いてはいたが、先頃までの瞋恚の気配は遠く、悄然としていた。 「まぁこれ以上野暮な事訊く心算は無ェが、泊めてくれって言うなら、最低でも明日の朝一番にはゴリラにちゃんと連絡を入れる事。真選組副長の誘拐だの拉致だのの容疑者にはなりたかないんでね」 「………」 一応念を押す様にそう言えば、土方は俯いた侭で小さく頷いた。 「俺がお前の代わりに電話で言葉伝えてやっから。アイツらに言いてェ事あんなら、ちゃんと考えとけよ」 いよいよ本格的に、家出娘とその保護者との仲介人の様だなと思いながらも土方を見遣れば、彼は困惑気味の表情を持て余して銀時の方をじっと見つめて来ていた。 何でお前がそんな事を、と問いている様に見えたが、銀時はそれには気付かぬ振りをして、敷いたばかりの客用の布団の方を示してみせた。 そこで漸く、時刻が深夜も良い所である事を思いだしたのか、土方は大人しく寝室に入ると襖を閉めて、壁際の布団の上にぺたりと座り込んだ。枕に手を伸ばして、形を確かめる様に軽く叩く。 癖か無意識か、ぽんぽんと、頭の乗る位置を凹ませている姿を横目に、銀時は居間の電気を消しに戻ってから、寝室の天井から下がる電気の紐を掴んだ。 「電気消すぞ」 そう言い置けば、首肯と言う解り易い動作ではなく、『ああ』と独り言の様な返事が返る。届いていても居なくてもどちらでも良いと思ったのだろうか。或いは、届いていると言う確信でもあったのか。 紐を強く三度引けば、蛍光灯が一つ消え、全部消えて豆球が灯り、最終的に真っ暗になる。銀時の夜目は利く方だからか、一瞬のブラックアウトの後は直ぐに部屋の輪郭が見え始める。 布団を掴んでその中に潜り込む寸前、土方の方を見てみた。すれば土方は、枕は叩いていないものの、布団の上に正座した侭、なんだか綺麗な姿勢で俯いていた。 「……おやすみ」 一応、礼儀だろうかと思ってそう声を掛ければ、返るのは沈黙でしかない。当然だ。声の出ない人間には返答は出来ないのだから。 然し、銀時には『聞こえ』た。確信があった。だから、きこえた。 土方はきっと、言っただろう。返しただろう。 『おやすみ』と。 。 ← : → |