JULIA BIRD / 14 声が届かない。 土方の身に突如として降りかかった、その実感を得る事は銀時には到底不可能な話である。目が見えないにしても耳が聞こえないにしても足が動かないにしても、健常な人間にはその労を想像する事は出来たとして、それ以上の感情は客観めいた同情でしか描き起こせない。 もしも。想像すれど、不便だな、とか、大変だな、とか、面倒だな、とか。その程度の所で大概が終わる。それ以上を思い描いても詮無き事であるのだし、所詮我が身で感じられぬ事には察して余りある憐憫以外のものは沸かない。 健常な人間にとっては五体や五感とは酷く当たり前の様に扱い存在するものだ。だから、その機能を喪ったと言う想像は、憐れみであると同時に恐れと絶望にも繋がる。 嘗ての戦場ではそう言った欠損を生じる者も珍しくはなかった。戦の最中であればこそそれはより深い死と言う実感を伴った絶望になってその身を襲うし、仮に戦を無事終えたとして、平和になった世を享受するにも呪うにしても、喪った代償は余りに大きく後の人生に影を落とすだろう。 幸いか銀時は五感も五体も満足に生まれ、激しい戦でもそれらを損失する事は無かったが、今後がどうなるとは誰にも知れない事だ。世が平和でも戦が無くとも危険な職に就いていなくても、事故や病気はいつ何時身に降りかかるか知れない事象なのだから。 だが、そうは言った所で、具体的にそんな己を想像してみようとは思わないのが人だ。そんな絶望は、日常生活をただ惰性の様に過ごして行く中での、ほんの一時の仄暗い感情にしかならない。僅かの絶望の味を舌先に乗せた所で、溶かし飲み込んで忘れて仕舞う。 いつ何時起こるかも知れないと言う未知の恐れは、或いは起きなければ不要な想像遊びでしかないが、本能的にその絶望感を忌避するからこその恐れでもあるのだ。 だから銀時はその想像を僅か十秒もしない内に止めた。今の土方の様に、己から声が喪われたらどうなるだろうか、と題を振った所で直ぐ様に馬鹿馬鹿しくなって、止めた。 ただ、想像を止めた時に、『馬鹿馬鹿しい』からと『それ』を止める事の出来た己とは違い、土方の『それ』は変わらず彼を苛むのだろうと思えば、何だか酷く悲しかった。否、正確には『悲しい』訳ではなかったのだが、虚しさとも憐れみともつかないその感情は、抱えれば抱えるだけ酷く重苦しくなったので、『悲しい』訳ではないが、それに程近い種のものなのだろうとは思う。 現場から遠ざけられたと土方は言っていた。 戦力として『使える』か否かよりも、単純に土方の焦燥は彼にとっても真選組にとっても危険なものになりかねないと恐らくは判断されたからこそ。 銀時は言う程に土方の事を良く知る訳ではない。だが、彼の大凡の人間性やその性質が抱える生き様は知っている。 幼い頃の思い出も趣味も癖も起床時間も食以外の好みも女の趣味もお気に入りの煙草の銘柄も何一つ知らないが、そんなものたちとは関係の無い、もっと大きな、土方十四郎と言う人間のディティールは良く知っている心算だ。 故に『今』の土方の感じる焦燥感が、どれ程に彼の心身を苛んでいるかは、声が出なくなったらどうだろう、などと言う無責任な想像よりも易く理解が出来る。 声の次には刀が奪われた。それは土方にとっては音声の次に腕を奪われるにも等しい絶望感だったに違い無い。 そこで縋った藁に──藁以下の存在に──『何』を求めたのか。それは知れないが。問いても良い事なのかさえ、解らないが。 そこまで考えて行くと、銀時は土方の事を然程に嫌ってはいない己に気付かされる。 反りが合わない、と周囲に認知される事柄は概ね、合いすぎているからこそ生じる一種の同族嫌悪に近い。 互いに雁字搦めになる様な責を負い合うでもない、『今』の坂田銀時の得た、程良い距離感を知る友でさえあると思える。理解に至らない共感同士がほんの少しの差異や棘を聡く感じ取って互いに喧々とぶつかり合う、気安さしかない関係。表層的に仲の良さや愛想を取り繕う必要性など全く無く、自分が牙を剥くのに相手も応じて牙を剥く様な、埒もない喧嘩相手。 尤もそれは銀時から思う感想であって、土方の方はどうであるかは知れない。町中でも何らかの騒動の中でも、万事屋一行の姿を視界に認めるなり黙って目を逸らすか露骨に厭そうな表情を浮かべて睨んで来る様な男だ。銀時の感じている様な、好意的と言う訳ではないが決して否定的ではない、それと同種の感情を抱いているだろうとは、仮令気休めであったとしても思えない所だが。 (……だ、としたら、ここを選ばざるを得ないってのは……、どんなもんだったんだろうな) 怒りに血を昇らせやすい土方だが、理性では存外に冷静に物事を判断出来る男だ。殊、真選組に関わる様な事柄に対しては。 ……それは、生きる根を損なわれた感覚に近いのかも知れない、と思う。 真選組に己が不要と判断したならば、自らでさえ斬り捨てる事を、土方は躊躇わないだろう。あの男が真選組に、近藤に懸ける思いは魂であり生き様そのものであるからだ。 だが、もしも第三者から、己が不要と言われたらどうだろうか。そして土方自身も、声の出ない己を足手纏いと強く感じていたとしたら。 或いは、それを告げたのが、誰あろう近藤だったとしたら。 「………」 確証もない、無責任な想像でしかない事は解っていた。心算だった。 だが、それでも銀時はその想像に、その状況下に置かれた土方に、酷く苛立ちを憶えた。 軽く枕の上で頭を横に転がしてみれば、闇の中に綺麗な姿勢で座す男の姿が薄らぼんやりと伺える。その視線の向く先、夜の部屋の壁に何を描いているのかなぞ、到底見えはしないのだが。 「……、」 声を掛けようとして、然し続く言葉が見つからない事に不意に気付いて、銀時は音の無い息を吐き出した。殊更に無味な表情を取り繕おうとして、見えもしないし見てもいないのだと思い直す。 言葉も紡げるし声も放てるのに、何を言ったら良いのかが解らないと言うのも、何かを言いたいと思うのも、全く不便なものだ。 寝返りを打つ振りをして布団の中でごろりと体を横に倒す。完全に背中を向ける形になったので、土方がこちらを見たのかは解らない。だが、ややしてから布団にもぞもぞと潜り込む音がしたから、漸く『おやすみ』の言葉を履行する事にしたらしい。 (完全に睡眠時間足りてねェレベルだが、新八が来る前に起きねェとな…) 銀時も実用的な方角へと思考のハンドルを切って、意識して閉じた目の間から力を抜いた。酔いなど残っていなくても眠気はあるし、眠れないと言う事はないだろう。問題は起きる方である。 土方の問題や心情がどうであれ、家主の負う役割は何も変わりはしないのだから。 考える内、意識の輪郭がぼやりと闇に向かって溶け出して行くのを感じる。 そう言えば、新八と神楽にはどう説明したものだろうか。 適当な言い訳でも何でも考えなければ、と思うのに、睡魔は己の役割が短い時間だけである事を正しく理解しているかの様に、迅速で深い眠りへと銀時を誘って行くのだった。 土方も、こんな風に眠れるのだろうか。 そんな事を思ったか、思わないかの所で、銀時の意識は眠りに完全に沈んでいた。 * 銀時が目を醒ましたのは常の起床時間よりも大分早い、六時の少し前だった。二日酔いは引き摺っていなかったが、睡眠が足りていない所為で頭の中が酷く怠くて重い。 土方はと言えば、銀時が目を醒ますより早く起きており、布団を部屋の隅に畳んで、細く開けた窓辺にぼんやりとした様子で座っていた。 煙草でも吸っているのだろうかと思って問えば、最近控えている、と言う、晴天から今にも雨の降りそうな事を言われたので正直驚いた。 「あー…、喉に悪いかもとかそう言う?」 ふと思いついてそう言ってみれば、無言でただ頷かれた。 この煙草とマヨネーズから生まれた様な男が、喉に良くない"かも"知れない、それだけで、その片方を削いでいると言うのだから、その原因である、音声が出ないと言う症状に対する土方の鬱屈は相当のものらしい。 (これはいよいよ本気で、藁でも藁以下でも縋りたくなった、て訳か) 呆れ、と言うよりは驚き混じりに思いながら、銀時は取り敢えず顔を洗ってから、冷蔵庫に貼ってある、マグネット式の小さなホワイトボードを剥がした。以前、冷蔵庫の中身の伝達事項用に、と百均で買ったものだ。確か神楽とプリンの取り合いになった時、低レベルな争いを見かねた新八の提案で購入したのだが、結局使っていない。消えるペンで所有権を主張した所で、所詮万事屋の食料争いでは先に食べた者勝ちなのだ。 そんな曰く付きのホワイトボードと一緒に、キャップ部分にクリーナーが付いているペンも持って寝室へと戻る。 途中それとなく納戸の方を伺ってみたが、神楽はまだ健やかな眠りの最中らしく静かなものだった。新八が来るにもまだ時間も一時間以上はある。 「何か言い辛い、伝え辛かったら取り敢えずソレで。……で、」 ホワイトボードとペンとを渡して短く言い置くと、銀時は普段は束ねてある電話線を解き机の上に置いてある黒電話を手に取り、それを土方の方へと向けて置いた。土方はほんの僅かだけ顔を顰めそうに表情筋を動かしたものの、大人しく窓を閉じて畳の上へと座った。黒電話を挟んで銀時と土方とが向かい合う様な体勢である。 「言いたい事は決まったか」 銀時の問いに、土方は唇を動かさず、然しはっきりと頷いた。 * 呼び出し音が二度鳴る前に、電話は取られた。 《……》 だが、電話の向こうの相手は無言で居る。まあそれはそうだろう。仮にも真選組監察筆頭の所持する携帯電話に、見知らぬ番号から着信があったのだから。間違い電話か、悪戯電話か、番号を知る仲間の緊急連絡か、それとも敵かと、無言の中でひたすらに電話の主の出方を待っている。 別に間違いでも悪戯でもないし敵でも(多分)ない。緊急連絡、ではないがそれに近いと言えば近い。土方が直接自らの意志を伝えたいと言うのに、近藤の所で無くて良いのか、と銀時が問えば土方は、『まずは確実に出る所にかけた方が良い』、と浮かない表情で短く書いて寄越したのみだった。 言い訳はそんな所だったが、直接近藤に話すと言う事が土方に気後れの様なものを感じさせているのではないかと、淡々とペンを動かす俯き加減の顔にそんな事を思う。 「あー、」 無言でじっと通話相手を伺う受話器の向こうに、何だかばつの悪い思いを感じながらも、銀時は口を開いた。さて何からどう言ったものか。そもそも真選組サイドは土方の姿がない事に気付いているのか、いないのか。 「朝早くに悪ィね。万事屋ですけどー」 出来るだけ軽くそう名乗れば、受話器の向こうで地味顔が(恐らく)きょとんとした顔で間抜けな声を上げた。 《…え?旦那?どうしたんですこんな時間に…、じゃなくて、どこでこの番号、》 「……」 銀時は噛み損ねた僅かの沈黙で土方をちらと見た。スピーカー機能などない旧式の黒電話の遣り取りは、向かいに座す土方の耳には届いていない。だが、銀時の態度から、どうやら電話の向こうの反応を察したらしい。見るもあからさまに曇らせた表情に自嘲めいた笑みを刻んで、ふっと視線を逸らして仕舞う。 どうやら、山崎のこの様子からするに、土方が深夜屯所を一人出て行った事にはまるで気付いていなかったと言う事だろう。土方の傍に居る山崎がそれを知らないと言う事は、近藤や沖田や鉄之助も、或いは部下の誰一人も、気付いてはいない筈である。 少なくとも誰かが、土方の姿がどこにも見えない、と気付けば、それは直ぐに彼らの耳に入る筈だ。武装警察の副長が、それも謹慎中(の様なもの)に外泊届けにサインなど出来る訳もないのだから、少しぐらい姿が見えなくとも野暮用だから気にしない、などと言う道理がある筈は無いのだ。 (声が出ねェから、部屋を訪ねる事も無ェって訳かね) 土方の失望や自嘲を目の当たりにして、銀時は受話器の向こうの暢気な連中に対して怒りを覚えずにいられない。彼らにとって土方は、大事な副長ではなかったのか。 「だからいつまで経ってもてめぇは地味なんだよ、って切りてェ所だけどよ。生憎そうも行かねェから本題な」 《何でいきなり地味とか朝から言われにゃならんのですか…》 その苛立ちがその侭声になったが、山崎とて流石にただの悪態だけで銀時がわざわざ電話なぞかけて来る筈もないと解っていたのか、不満そうに返しながらも大人しく続きを待つ。 成程、最初に切り出す相手に近藤ではなく山崎を選んだのはこう言う聡さに期待したから、でもあるのだろう。思いながら、銀時はもう一度土方の顔を見た。伏し目がちに畳に向けられていた眼差しがゆっくりと戻ってくるのを待ってから、続ける。 「お宅の副長さん、誘拐したから。身代金を──、」 言いかけた所で、憂いに傾いていた土方の目がぎろりと銀時を睨むと同時に、突き出された拳が傾けた頭、耳の僅か横をひゅんと通り過ぎる。 《え?》 「……いや今のは嘘ウソ。えっとな、」 何だか酷く久方振りに目にした気のする、土方の短気で冗談の通じない、怒りと苛立ちとが綺麗にブレンドされたそんな表情にどこか安堵して仕舞いながら、銀時は短く息を吐いた。顔のすぐ横の拳をやんわりと押し戻しながら、一体何事なのだろうと沈黙に疑問符を乗せている山崎に向けて、現状の説明をしてやる。 要するに、土方が今万事屋に居る事と、 「──で、暫く書類仕事ぐらいしかどうせ無いから、暫く屯所の外で仕事が出来るならばそうしたい、だとよ」 銀時に『話し』てくれた、土方の今の望みを伝える事だ。 電話の向こうは、暫く呆気に取られた様に黙りこくっていたが、ややしてから大仰な程に声を上げた。疑問と驚きと否定的な意見とで構成された喚き声は、予め耳から受話器を遠ざけていた銀時の耳には碌に届きはしない。 聞こえているのかいないのか。土方は慣れない痛みを堪える子供の様に、じっと目を閉じてそれからゆっくりと顎を上向かせた。 噛み締められた唇が、その裡の懊悩を何よりも解り易く伝えてくれている。 飲み込む必要などないのにと思う。唇なぞ噛んで堪えていないで、罵声でも悲嘆でも悪態でも、何でも良いから、言えば、いいのに。 この諦めきって慣れきって仕舞った様な表情を、叶うのならば止めさせたい。そんな事を不意に、苛立った心の中で思った銀時はそんな己の反応に当惑した。 だが、直ぐに打ち消して、受話器の向こうに向き直る。未だ、土方の言い分を言葉で『伝え』はしたが、それだけだ。話は未だ終わっていない。 銀時とて、言いたい事は次々沸いて来てはいたが、それは呑み込んでおく。 これは、土方に必要な『言葉』には不要な、ただの、個人的な感情でしかないのだから。 。 ← : → |