JULIA BIRD / 17



 その日の午後、万事屋に車で乗り付けた山崎は、先払い分の依頼料の入った封筒の他、ひとまずの土方の身の回りの品と幾つかの書類ボックスを万事屋へと運び入れた。
 「副長もお解りでしょうけど、部外秘の類は屯所から持ち出せませんので、飽く迄当たり障りの無いものばかりですが…」
 言われて、ファイルを開いた土方は成程と納得する。その中身は殆どが雑務も雑務で、現在進行中の事件に関するものなどは当然だが一切含まれてはいない。これらは、暇な時にでも下っ端や見習いの隊士が宛がわれる、古い書類の書き直しや校正と言った所謂書類整理と言う類のものだ。
 まあそんなものとは言え真選組の仕事と言えば仕事なのだし、屯所を離れた土方に、警察内の部外秘の事件の資料や会議の要綱が渡される筈もないのだから仕方があるまい。
 閑職に追い込まれた幕閣と言うのはこんな気持ちなのだろうかとぼやりと思いながらも、土方は銀時に明け渡して貰った寝室の卓袱台の周りにそれらを運び込んだ。
 筆記具も警察手帳も、山崎が土方の着替えなどを入れて持って来た鞄の中に収まっている。引っ越しと言うには余りに簡素な荷だが、これだけで土方の周囲は概ね、日頃真選組屯所の副長室に居る時となんら変わらない環境になって仕舞うのだから、どれだけ己の生活が『真選組』と言う一所に集約していたかが知れる。
 「依頼料の他に必要経費の請求がありましたら、その都度帳簿にまとめて頂ければ助かります」
 「ああ。俺ァ面倒だからやんねェけど、アイツが自分で経費の計算にはノリノリみてーだからそれで良いだろ」
 乾いた、感慨の何も篭もらない溜息をその場に落とした土方が居間に取って返すと、丁度銀時と山崎とが机を挟んでそんな遣り取りをしている所に出会う。
 ちら、と向けられた遠慮がちな山崎の視線に、肯定の心算で頷いておけば、「ああ」と何だか妙に理解のある表情をされた。山崎の癖に何だその面は、と土方は寸時思ったが、言葉は出ないので露骨にむすりと不機嫌面で睨んでおく。大方、数字の鬼だとか帳簿の鬼だとか思っているに違いない。
 「副長の方が安心ですのでお任せします。
 で、旦那、他に何か必要なものや不都合はありますか?暫くの間は毎日俺か代理の隊士が書類の引き揚げなどで夕刻にお訪ねする予定ですんで、前日に言ってくれば翌日には用意出来る様にしますよ」
 そう言って銀時の方に向き直ってメモを取り出す山崎の姿から、土方は逃げる様に視線を逸らした。
 急ぎでもない書類整理に期限など無いのだから、一日で引き揚げねばならない必要はない。だから、書類の引き揚げと言うのは土方の様子を確認しに来る為の理由付けに過ぎない。
 恐らく、時間の有り余る身となれば、今日持ち込まれた分の仕事ぐらい土方なら一日と待たずに終わらせて仕舞うだろう。そうなれば再び時間と焦りとを持て余す事になるのだから、終わらせた仕事を持って帰って新しい仕事を持ってきてくれるのは純粋に有り難い話だ、が。
 (………結局、)
 声が元通りに出る様になるまで──そんな時が来るのかは知れないが──、土方を苛む焦燥の日々は尽きないのだ。解りきってはいたが、安易に仕事に没頭する事で全てを遠ざけていたいと言う幼稚な己の願望をこうして思い知らされれば、嘔吐が出そうだ。
 日時は進む。症状は変わらず。戻らねばならない、戻れない、戻りたい、焦りを抱えた侭の土方になど構わず、真選組は動いて行く。
 万事屋とて時が停滞している訳ではないのだが、少しでも楽だと思った。
 それは、『解る』『解らねばならない』必要の無い相手との『会話』など、意味も埒もなくて構わないものだからだろう。命と組とを抱えた真選組での『会話』ではそうはいかない。意思の疎通が叶わぬ事は、自らの苦痛や部下の萎縮だけではなく、時に命をも脅かすのだ。
 近藤は、土方が一時でも楽ならば、と納得した上で、土方の決断を了承してくれたと言う。
 それは決して『見捨て』ると同義のものではない。その確信は、近藤との付き合いの中で得た彼への信頼に因る確たるものであり、土方は想像ですら抱くには至らない。
 だからこそ、一日に一度は誰かに様子見をさせて、仕事の面でもケアをしようとしてくれているのだ。
 ……或いは、だからこそ。土方の裡の焦燥感は無力感と等価になって燻り仕舞われ続ける。
 こと、この事に於いて土方は己に全面的な非がある事を強く感じていた。無論、違法且つ試作サンプル程度の薬をいきなり人体に盛った女も法で裁かれて然るべき犯罪者だが、土方の油断と過失とが積み重なって現状を築き上げて仕舞った事に変わりはないのだ。
 それでも誰かに、何かに累が及ぶ。己の愚かしい過失が全てを招いた、忌々しいぐらいに正しい悪循環だ。
 態とらしく視線を逸らした土方に、山崎も銀時も気付いてはいる様だったが指摘も問いも特に紡ぐ事もなく、話を続けている。
 机の上にはぶ厚い封筒。万事屋にとっても真選組にとっても、これが『依頼』であると言う簡単で解り易い契約の履行の形。ともすれば自嘲や皮肉が形作りそうになる表情筋を堪えて、手持ち無沙汰に立ち尽くしていた土方はソファの端に腰を下ろした。
 「はい。経費についてはそう言う事で良いですね。それと、副長」
 ぼんやりと遣り取りを聞き流していた土方の耳にふと自らを指す単語が飛び込んで来る。顔を上げるなり「これを」と、どこか恭しい手つきで、山崎が差し出して来たものを見つめる。
 それは刀だった。今は鞘に収められている土方の愛刀だ。
 暫しの間茫然とそれを見返してから、土方は手を伸ばして刀を受け取る。昨晩衝動の儘に屯所を出た時には己が刀を佩いていない事にすら気付けなかった。思い返せど俄には信じ難い事だが、今こうして手渡されている事は紛れもない現実だ。
 「旦那たちが仕事で留守にする事もありますし、念の為に。まあ副長が万事屋に居るなんて事自体、誰にも掴まれちゃいないでしょうし大丈夫でしょうけど」
 無いと落ち着かないんじゃありません?と最後に茶化す様な言い種で付け足されるのに、土方はふんと不機嫌そうに鼻を鳴らして応じる。全くどいつもこいつも、肝心な言葉以外の所でばかり聡いのはどう言う事なんだ。
 「…それで、件の薬物については未だ研究中なんですが、そう言った違法薬物の売買や製造の捜査は継続していますので……、その。…余り思い詰めんで下さい」
 まだ望みはありますから、と続く言葉は、今度は軽口にもならない。山崎は土方の向けた沈黙から己の失敗を悟ったのか僅かに口籠もるが、口先だけで謝罪を紡ぐ様な愚は冒さなかった。
 「……それじゃあ、俺はもう戻りますね」
 「おー」
 曖昧な苦笑を浮かべてそそくさと暇を告げる山崎へと、椅子に腰掛けた銀時が気も無さそうな様子で手を振った。失言と言う程ではないが、地雷に足を乗せて仕舞った気配ぐらいは察したのか、気怠げにどこか同情的な視線で黒い背中を見送っている。
 晴らし難い倦怠と不審とに包まれた溜息をついた土方は、玄関の外に出た山崎の足音が遠ざかるのを聞いてから、無言で立ち上がって寝室へ向かった。銀時の視線は土方の背中をも追って来ていたが、無粋に後を付いて来たりはしない。当然だろう。山崎と同じで、土方も『依頼』の対象であるとは言え、万事屋一行にとっては余り好きでもない他人なのだから。
 卓袱台の上に幾つか書類を取りだして置く。煙草は控えているから灰皿も無い。本当に喉に良いとか悪いとか、そんな事は最早信じてもいないが、惰性の侭に続けている。荷物の中には煙草も少量だが入れられていたが、今は探し出して一服する気にもなれなかった。
 "残念ながら全く進展はありません"──昨晩立ち聞きして仕舞った声と全く同じ声が、"まだ望みはありますから"と真逆の様な言葉を口にする。
 眼前に否応無しに横たわる事実から目を背ける心算は無いが、酷い気鬱をもたらす。気休めですら最早何の役にも立たないと解っているのに、今更何にどう期待をかけろと言うのか。単なる、気遣いから出た偽は本心であったとしても、無意味で、そしてやりきれない。
 己の『言葉』に変わる『声』を、いよいよ本当に必要としなければならないのだろうか。
 土方の『症状』は奇妙で、そして未知だ。喉は疎か、身体の何処からも『声が出ない』のだ。音声と言う音律だけが身体からどうやっても出て行かない。その理屈は現代の地球の医学でも科学でもはっきりとはしていないと、最初の頃に受けた検査で既に知れている。
 声を出す機能自体は身体から一切削がれてはいない。ただ、声を出すと言う意思だけが通らない、のだ。それこそ山崎の推測通り、薬物が脳に直接作用している可能性は高い。或いは呪いの様な現実的ではなく信じ難いものであったとしても疑う余地もない。
 (治らねぇ、のが、解っていても)
 密やかな吐息に乗った憂いが煩わしくなり、先頃諦めた煙草を思わず手で探る。荷物の中に果たして目当てのものは直ぐ見つかったが、ふと、ここのところすっかり用無しとなっていたものをその傍に見つけ出し、土方は煙草ではなくそれを思わず手に取った。
 「……」
 それは土方の携帯電話だった。外回りに出て行く事が無くなったのもあって殆ど不携帯状態で部屋に放り出してあったのだが、『念の為』に山崎が入れておいた様だ。
 呼び出しなんざどうせ無いんだろうが。そう少しひねた思考を流しながら、二つ折りのそれを開いてみる。電源は入っており、充電も充分。
 (留守電、?)
 バッテリーのアイコンの傍に点灯しているマークに、土方は眉を顰めながらも、手順通りに留守番電話センターへと発信した。
 《新しいメッセージが 一件 あります ──》
 機械(からくり)でさえ紡げる、平淡な機械音声を聞き流しながら待つ。録音された日時は──今朝。
 思わずぱちりと瞬きをする土方の耳に、やがて聞き慣れた男の声が届く。
 《えーと…、トシ、元気にしているか?って、昨日会ったばかりだったっけ?……まあそんな事は良いか。
 直接言ってやれないのが惜しまれるが、俺が万事屋を訪ねると、流石に攘夷浪士とかにバレるかも知れないから止めた方が良いと山崎に注意されてな。こんな形ですまん》
 耳朶に直接届く、懐かしいのに遠い音声に、土方の口元は自然と弛み掛かる。然し、毎日の様に耳にし、そして応えていた『声』に安堵を覚えると同時に、電話越しの録音音声と言う距離を離れている己に対して失望めいたものと、近藤に対する申し訳の無さとが寂寞たるその胸中に沸き起こる。
 《こっちの事は心配するな。頼りねぇかも知れねぇが、なんとかやってみるさ。お前は自分の身体を労ってくれ。なぁに、今までが働きすぎだったんだ、丁度良い休みみたいなもんだと思えば良いんだ。あっでも万事屋に感化されて無茶な事とかするんじゃないぞ》
 『するかよ』
 屈託のない声に思わず相槌がこぼれた。目を細めて音もなく、土方は笑う。
 《焦らなくても良い。落ち着いたら帰って来てくれよな。俺も、トシが戻って来た時怒られ無い様になるべく仕事は溜めておかない様に……、うん、努力するから》
 自信なさげな声が尻すぼみに消えて行く。笑みをこぼす土方の耳に、近藤が別れの言葉を告げて、録音の再生は終わった。通話を切った携帯電話をぱたりと閉じて、それを鞄の中に再び放り込んで仕舞えば、そこは近藤や仲間の言葉をどれだけ望んだ処で叶う筈もない、居慣れぬ万事屋の中へと戻る。
 ここに居るのが現実。ここを選んだのも現実。刹那的な感情の錯乱が、逃げる事と逃れる事とを土方に確かに選ばせた。決して安息を得たかった訳ではない。楽になれると短絡的に感じた訳でもない。
 ただ少し、時間が欲しかっただけだ。届かぬ声に嘆く必要の無い、そんな者の居る場所で、羽を休めたかった。何も誰にも感じずに居たかった。
 人は諦めに時間を要する。土方の場合音声と言う機能であり、それに付随する事柄は余りに多すぎたと言う事だ。諦めるに足るものは余りに膨大過ぎたと言う事だ。
 (……………だからこれは、諦めの時間、なんだろう)
 真選組を諦める事は、土方には出来ない。仮令どんな足手纏いになり果てようが、どうせ死ぬなら何らかの形で組に尽くして死にたい。
 そう思えば、我知らず苦い笑みが口元に宿る。
 下らない書類の整頓でも、面倒な会議の資料の作成でも。何でもいい。
 それを奪われたら、その時が己の『死』なのだろうと、土方は罅割れかけた己の思考に苦笑を深めた。
 この場所に焦燥は感じない。この場所には、甘い期待も激しい自責も、尽きせぬ想いも、応えるものも存在しないからだ。真選組の副長である必要の無い場所。
 ……ただ。ここでは。これでは。護れないものがある。
 近藤も、部下も、仲間も、真選組も、──危険に首を突っ込む馬鹿なお節介焼きの一般市民も。
 聲の喪われた己には、何もできない。怠惰に希望を抱き続け、焦っては心配してくれる他者に当たり散らす事以外には、何も。…………なにも。
 真選組の副長として在ろうと願えば願うだけ、それの叶わぬ事に失望を重ねる。真選組の副長である必要の無い世界には、一時の安堵があれどそれだけしかない。
 体は動くのに。頭も動くのに。剣も扱えるのに。ただ、真選組の副長としてだけ、生きる事ができない。
 ──この先にあるのは、そんな『明日』を迎える己の姿。

 「      」

 叫ぼうと思ったのか、喚き散らそうと思ったのか。開いた口蓋も喉奥も、掠れた空気を吐き出すばかりで音声を紡いでくれる事は一切無く。
 土方は脇に置いた刀の鞘を痛いぐらいに強く握り締めて項垂れた。
 音声が無いのに、叫んだ後の様に喉が痛くなるのが何だか可笑しくて。また音も無く密やかに笑う。
 





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