JULIA BIRD / 19



 編纂し直した資料をファイルに収めて綴じ紐で括る。今回のものはなかなかに面倒な作業だったが、一冊の『形』に仕上げて仕舞えば何とか無事一仕事を終えたと言う実感と達成感がそこにはっきりと残される。
 (取り敢えずこんなもんか)
 思ってファイルを卓の上にそっと倒して一息つく。山崎の運び込む残務の量は、今まで副長の業務として土方が片付けて来たものに比べると、一日辺りの配分は大分少ない。一般的な事務仕事の量から見ればそれなり多いのかも知れないが、慣れた身にとっては然程に負担にもなりはしない程度の分量でしかない。
 仕事(すること)が無くなれば手も頭も空く。それを避けようと無意識の判断でも働くのか、土方は我知らずの内にペース配分を計算する様に、調節しながら仕事をこなす様になっていた。殊更にさぼる訳では無論無いが、休めると思った時には迷わず休む様にしている。
 そっと肩を回してみれば、ここの所すっかり机仕事ばかりをこなす事に慣れきった腕は肩の重みを受けて少し怠い。首を傾けると筋に沿って背が音を立てそうなぐらいに強張っていた。こう言う時は普段ならば軽く体を動かす事で幾分はマシになるのだが、生憎とその自由は今の所はききそうもない。
 兎に角『真選組副長』を万事屋に単身預ける事、に対して厳命されたのは、その身の安全なのだ。幾ら土方自身から采配能力が喪われたとして──或いは戦闘技能でも構わないが──、その公的な身分と役割とが負っていた『名』はそうそう消えるものではない。戦場で無価値な存在であったとしても、首級としての意味が見出せる以上は易々殺される様な事があってはならない。
 街を単身歩いた所で易々と殺される気は土方とて無いが、声の出ない事実が外に漏れる事も宜しく無いし、応援や助けを必要とした所でそれも叶わぬ事は、死かそれに近しいものに繋がりかねない。攘夷浪士に知れれば身の危険、老獪な幕臣連中に知れれば組の危険。どちらであっても土方にとっては『最悪』の結果になるだろう。
 尤も、そんな懸念以上に、この間の土方の無茶な単独行動などが未だ尾を引いているからこその厳命であるのも間違いないのだが。
 自らを出来得る限りで護るのは土方に残された義務だ。間違っても無謀な行動になど出て、巻き添えにした民間人を庇って負傷するなどと言う愚かしい間違いなぞ、二度とは犯してはならない。
 そしてその点を指摘されれば反論が出来ない自覚が土方にはある。
 自嘲の混じった苦笑をふっと窓の外へと逃がしてから、壁にかかった時計を見遣る。時刻はそろそろ十三時になる頃。そう言えば昼食がまだだったのだと気付くなり、僅かに空腹を訴えて来た胃を着物の上から軽く撫でて土方は立ち上がった。
 水場に設置されている鏡で軽く身なりを確認してから、朝方に銀時らを見送った玄関へ下りて草履を突っ掛けながら外に出た。良く晴れた空が、ずっと机の上の書類と格闘していた目には少し眩し過ぎる。軽く眇めた目蓋の裏で白黒の残像がちらつくのを堪えつつ、もう慣れた足取りで階段を下りて行く。
 暖簾のまだ上がっていないスナックの戸は施錠されていない。銀時の話では、営業時間外でも閉まっている事は滅多に無いそうだが。そんな所謂『準備中』の薄暗い店内に居た無機質な機械(からくり)の眼差しがこちらへと向けられるのを感じて、土方は挨拶の代わりに軽く肩を竦めてみせた。
 《こんにちは、土方さん。どうぞお掛けになって下さい》
 店内をモップ掛けしていた、小綺麗な顔立ちの機械人形はぺこりと綺麗な姿勢で会釈すると、カウンターの椅子をそっと指して来る。『ああ』と声にならぬ唇の動きだけで応えながら、これももう慣れた席に腰を下ろす。
 万事屋一行が関わった事件で拾って来たらしい機械人形だ。ターミナルのクーデターなぞをやらかした欠陥且つ違法とされた品の残りで、違法か合法かと問われればばっちり違法なのだが、もうその点については土方も特に言及する心算は無い。この機械の身元引き受け人(便宜上そう呼ぶ)のお登勢の人柄に信頼が大きかったのもあるが──、この街では清濁問わずこう言ったものが自然と人に受け入れられて融け込んで、そしていつかは一緒くたになって仕舞う、そんな印象があるのだ。
 たま、と名付けられたこの機械人形とて同様だ。機械やその機能に善悪は無い。仮に危険な存在であると何者かに糾弾されたとしても、拾った万事屋達は勿論、この街がそんな『彼女』に手を伸べぬ事なぞ無いのだろう。
 違法な品も合法な品も、危険物もそうではないものも、脛に傷ある危険人物も、全て扱う者次第と言う事だ。ある意味非常にシンプルで解り易い、そう言う意味では土方はこの雑多なかぶき町と言う場所が嫌いではない。雑多過ぎる余りに軽犯罪の類が後を絶たないのは警察としては迷惑極まり無い話である事も否定出来ないのだが。
 それらに程良く均衡を保たせ、清にも濁にも偏り過ぎる事のない『平和』を維持するのも、警察の役割であると自負している。在るが侭にあらゆるものを受け入れるこの町が、テロの思想や天人絡みの犯罪の温床に染まって仕舞う事が無い様にと。
 《お登勢様。土方さんがいらっしゃいました》
 「ああ、ちょいと待っておくれよ。これを運んでおかないと邪魔になって仕様がないからねぇ」
 機械人形の呼びかけに応えた声は、カウンターの奥の方で何やらごそごそと身を屈めて動いているお登勢のものだ。土方が首を擡げて覗き込んで見れば、どうやら酒瓶の詰まったビールケースを動かそうとしている様だ、と知れたので、思わず立ち上がってカウンターを回り込む。
 《その様な事は私が、》
 土方が動いた意図を悟ってたまが進み出ようとするのを手で軽く遮り、カウンターの裏に膝をついたお登勢に近付く。声を掛けられないから肩でも叩こうかと思った矢先、お登勢が先に振り返った。
 「なんだい、年寄りの代わりに運んでくれるのかィ?」
 妖怪も真っ青になりそうな笑みと共に言われ、ひょっとしなくても上手く乗せられたのかと思ったが、まあ構うまいと口の端を気障に片方だけ釣り上げてみせながら、土方はその場を退いたお登勢が格闘していたビールケースを持ち上げた。まだ中身が入っているだけあって重量はあったが、土方にとっては何と言う事もない。機械のたまにとっても軽いものなのかも知れないが、女の細腕と言う外見がこんなものを運ぶのは余り気持ちの良いものでもなさそうだと、そんな事を何となく思う。
 「キャサリンがいたらやらせたんだが、生憎と買い物に出しててねェ。ああ、そこの隙間に入れといとくれ。そうそう。ありがとう、助かるよ」
 他には?と振り返ってみれば、席に戻る様に示されたので、土方は手を軽く叩いて元通り席へと戻った。真っ昼間のスナックのカウンターに無言で供される湯飲みを受け取って軽く喉を湿らせるその間に、お登勢は奥のキッチンで調理を始める。
 ネコミミ従業員のキャサリンは買い物中で留守で、たまは再び掃除に戻り、お登勢が背を向けて仕舞えば、然程に広大な訳でもない店内は窓から僅かに差し込む昼の光を受けて何だか静かで異様に思える。夜の薄暗い、酒の映える店内灯りの下では別段どうと言う事もない飲み屋なのだが。
 そんなスナックの女将は、営業時間には早い今は、日頃酒を注ぐ手で食事を作っている。土方がそれについて問うまでもなく──或いは疑問が顔に出ていたのか──上の連中にも時々作ってやっているのだと、お登勢が自らそう話してくれた。未だここに来て日の浅い頃の話だ。
 そうは訊いても、手を無用に煩わせて仕舞っている様な心地が拭い切れずにいた土方の心情を察したのか、「アンタは銀時と違って金払いもきっちりしてるからね。安心出来るよ」などと、嘘とも冗談ともつかぬ笑顔で言われたものだった。
 「ほら、出来たよ」
 ぼんやりと物思いに浸っていた土方の前に、やがてことりと湯気を立てる皿が置かれた。見れば、焼き魚にレタスを敷いた卵焼きと白菜の漬け物が添えられたものがそこに出来上がっていた。味噌汁と白米の椀、それとマヨネーズ一本がその横にそっと付け足される。
 「ご飯のお代わりはあるからね。遠慮しないでお食べよ」
 着物のたすきがけを解きながら煙草を噴かせて言うお登勢に、土方は素直に頷くと食事に手を合わせた。思い出した様な空腹の命じる侭に箸を動かし始める。
 屯所の食堂の飯と然程に変わりは無いだろうメニューは、本来スナックであるこの店の供するものではない。それでもお登勢が面倒がる事もなく、幾ら食費を銀時から受け取っているだろうとは言え、わざわざ一人分の食事を作って出してくれる事には純粋に感謝を憶える。誰もが顔を顰める土方のマヨネーズの嗜好にも別段何も口を挟んだりしない。余計な事も特には言わない。
 これも、元々はマヨネーズをと言い出せずにいた土方を見かねた(?)たまが、《お登勢様。土方さんはマヨネーズが大層お好きだとデータに入っています》と言い添えてくれたお陰でもあった。
 おまけにたまは機械なだけあって土方の唇の動きから、本来発せられていたであろう言葉をほぼ正確に『読む』事が出来るので重宝している。幾ら女の外見をしているとは言え、彼女が機械である事は、余計な気遣いも無用な詮索も無い為に、土方としてはたまとの相対は酷く気が楽なものだった。
 尤もそれはたまばかりではない。神楽や新八もそれに近いものがある。仮令土方が上手く『言葉』を伝えられなくとも、彼らに対して気負う所は少なく、また二人とも土方に対して無用な萎縮をしたりはしないのでこれもまた気が楽なのだ。
 ネコミミ従業員は喧しいし鬱陶しいが、基本スルーで事足りる。時折斬ってやりたくなる事もあるが、大人気ないと己に言い聞かせる精神修練と思えば何とかなる。
 総じて、土方にとって今の──万事屋での生活は酷く『気が楽』なものだったのである。
 『ごちそうさん』と言って、箸を置いて立ち上がる土方の動きを、お登勢の視線がそれとなく追って来る。
 「また、仕事の続きかい?」
 紫煙と共に投げられる、お世辞程度の問いかけに軽く顎を引く事で答えれば、「そうかィ」と、ただそれだけが返って来る。それ以上の問いも詮索も気遣いも無用なのだと、土方の硬い横顔から読み取ったのか。お登勢は溜息にも似た呼気を吐いて、
 「余り根ばかり詰めるんじゃないよ」
 そう、出来の悪い子供でも宥める様に言うものだから、土方は寸時どう言う表情を返せば良いのか悩んだが、結局浮かんだのは自嘲めいて乾いた苦笑だった。
 『ああ』
 もう一度そう、頷きを返して手をひらりと振った土方は、お登勢の視線とたまのお辞儀とに見送られて店を出た。強い日差しがまた視界をひととき灼くのに目を細めながら空を見上げる。
 昼の町の、そうは大きくないざわめきがその前を行き交い、各々の仕事や役割や目的へとそれぞれ動いて行く。つい少し前までは、己もそれらに混じる様にして歩いていた筈だ。誇りと矜持を以て纏った隊服を翻して、歩けていた筈だった。
 それが今は、散々馬鹿にして来た万事屋の稼業にさえ劣る。土方は今の己が無価値で無意味な存在に成り果てたその事実を誰よりも痛い程に認識していたし、その状態を脱する唯一の方法も理解していた。
 それは、真選組の副長である事を──少なくとも、土方の求むる形の『副長』であることを、諦める事だ。
 (……副長である事が、手前ェ自身と等価なもんだとばかり、思ってたんだがな)
 ここでは、その途を感じる必要性がないから。だから、気楽なのだ。
 部下と相対すれば、土方の言葉を必死で聞き取らねばならぬと言う義務感と気負いとを否応無しに感じずにはいられない。そして土方も、伝える責務が届かぬ事に焦燥を憶える。
 互いに、叱責と苛立ちとを挟んだ『会話』とは、遠くて、無力で、そしてもどかしい。
 死の匂いを鼻先に感じる様な空隙の中では、そんな僅かのものが生死を分けかねない。責任感が深まる一方で、責任を正しく負う事の出来ない己に失望する。
 真選組の副長で在りたいと思うと言うのに、真選組の副長でなくとも良い場所に安堵を覚える。そんな酷い矛盾を孕んだ猶予期間は、土方の心持ちを『覚悟』へと運ぶ役に果たして立っているのだろうか。それとも、余計に甘えが生じて益々動けなくなるだけなのか。
 無様な己を酷く不愉快に感じると言うのに、ここの居心地の良さばかりを探して、覚悟を先送りにして。
 ただ、ひとつだけの未練が、不相応にその足を踏みとどまらせる。安堵に浸って、諦める事を怖れさせる。
 たったのひとりに、『真選組の副長』では無くなった己がどう映るのかを考えると、心がひやりと竦む。
 あの男に、どう思われるのかが。怖い。
 『……情けねェ』
 唇から滑り落ちた罵倒は形にならず雑踏の中に融けて消える。己の耳にさえ届かぬ、無意味で、無意味な言葉。
 





 :