JULIA BIRD / 20



 若い頃の土方の世界は厭世観と自罰と渇望とで満たされていた。生に対する執着ではなく、己の無力さが許せないばかりでひたすらに危険な事を繰り返しては傷ついて生き延びて来た。己が傷つく事を怖れぬ事をこそ強さだと思っている節もあった。
 まあ、言葉通り──青(わか)かったのだろうと思う。そんな土方の世界を変えたのは近藤の存在であり、真選組の存在であった。近藤の夢と志とを護り、彼を大将と仰ぐ事が土方の生きる上での最上目標となり、糧ともなったのだ。
 だから、土方は自らから『真選組』を除いて考える事など出来ない。『真選組の副長』ではない己など、想像もつかない。それは部下や、他者が見たイメージや役職ではなく、単純に土方の全てが『真選組の副長』で在るべく特化して仕舞っているからだ。
 己に在る他の可能性を全て排除し削ぎ落とした所にただひとつ残っていたのが、土方十四郎の──鬼の副長と呼ばれる男の有り様だったと言う事だ。それを己から取り除く事など、考えようもない話だった。………少し前までは。
 寝室の襖を閉じて、畳に座り込んだ土方は笑みの抜けた苦さを表情筋に残して、ずるずると寄りかかった壁を背で滑っていく。
 昼過ぎの日差しが灼けて黄色になった畳の上に投げかけて来ている。きらきらと光の反射を受けて舞う埃が何だか眩しくて、瞼を投げ遣りに閉じた。
 気分はまるで冴えないと言うのに、不安も焦燥も最早何も感じなくなって仕舞った己を怠惰なものだと思う。
 焦燥は、諦めを、と感じた瞬間にこそ大きかったが、今では思考には焦りも嘆きも無くただただフラットだ。だが、諦念に達したか、と言えば、こうして諦め悪くだらだらと考えている辺りで、未だ、なのだろう。恐らく。
 焦りや嘆きを失って、諦め──とは言えないが──に至れた理由は、事実として、万事屋でのこの『諦念』の為に費やされるべき時間が、土方にとってはあらゆる重荷を身の上に感じずに済むと言う意味では、酷く気が楽なものだったからだ、と言うほかない。
 真選組の事を思えば、未だ未練たらしく焦りも苛立ちも思い出した様に沸き起こる。そこに自分が、副長としての己が居られない、その事実に確かに疵と虚無とを憶える。何故ならばそれは土方がどうした所で決して棄てる事の出来ぬ半身──或いは魂──の様なものだからだ。
 声にならぬ嘆きは、然しここに居る限りはただの無為だと知れる。
 ここでの土方は、真選組の副長ではない。万事屋に置かれた依頼内容でしかない。
 だから、気が、楽で。
 だから、楽にはなれぬと、知る。
 真選組の副長ではない己に、果たしてどの様な意味があるのか。
 (…………………無ぇ、な)
 答えは苦笑も自嘲もなくするりと裡から涌いて来た。端から解りきっていた。それもその筈、"これしかない"──否、そう在るべく様に特化して来たのだから。
 『それ』を取り上げられて得たものはと言えば、雑務を日々黙々と片付けて、供された食事を噛み締めて、気の楽な相対の中で微睡むだけの生活。
 そんな男は、真選組の副長ではなく、土方十四郎でもない。
 万事屋での生活は、酷く気が楽だ。刻む日々に怖れも嘆きも既に潰えたし、苛むものは己の裡にしかないのだから、苦しむのも腹立たしいのも全ては己ひとりだけで事足りる。
 だが、幾らこの場所が気楽である事で、相反する罪悪を抱える事になろうとも、それを己の在るべき正しい姿であるとは到底思えない。早く諦めて仕舞った方が楽になれるのだと、囁く悪魔はいつでも裡に居ると言うのに。
 土方が未だ諦めに至れないその理由は、『真選組の副長』ではなくなった、その役割を失った、望む己ではもう在れないと言う現実に対する怖れもあったが、それ以上に──、そんな己が他者の価値観にそぐわぬものへと変わり果てる事への失望もあった。
 近藤は、見捨てないでくれるだろう。何かと土方に、それが重荷であろうが、役割を与えて長らえさせようと尽力してくれるだろう。そう言う人だ。
 沖田は、副長職が自分のものになったと勝ち誇った様に言いながらも、土方に関わり続けるだろう。
 山崎も、鉄之助も、他の部下たちも。真選組に関してはその確信がある。土方がどんな無様な足手纏いになろうが、自らその手を離す時まで、彼らはきっと『真選組の副長』を見捨てはしない。
 ──だから。土方が失望として怖れる所は、銀時がどう思うか、と言う一点のみにあった。
 銀時は──万事屋たちは──土方にとっては護るべき対象の一般人だ。主義、信条、価値判断、あらゆるものが己とは異なる男の事を土方は最初の頃の様な嫌悪感では既に見ていない。彼らは警察として護る対象であり、世界である。ただ、折り合いだけはいつも妙に悪くて、それで突っかかったり衝突し合う事など以前までならば日常茶飯事と言う程にあった。
 そこに生じていたのは心地の良い確信。喧嘩や言い合いをしながらも、背を預けるに躊躇いは全く無い。人生に関わりが無くとも、刃の先の意識は互いに違えず交錯する。そんな、歴戦の戦友にも似た存在。ただ刃で繋がった、疑い様の無い縁。
 今更、侍として、とか、警察として、とか。良く思われていたいなどと矮小な期待など抱く余地も無いぐらい、決定的に何もかもの異なった、本来交錯などしない人生のひとりとひとりだと言うのに。それでも土方は、銀時に何らかの期待を見出していたのだ。他の誰でもない、己の認めた『侍』に。
 だからこそ、土方は銀時にだけは失望されたくはなかったのだ。『真選組の副長』では──土方の望む己自身では足り得なくなった、そんな負け犬をあの男は、土方の『聲』をいつも正しく聞き取ってくれる、あの男は。どう思うのだろうか。
 刃の事には確信がある筈なのに、個人の感情など全く解り様もない。意志の疎通が出来ても、感情の共有は出来ない。
 組の為を思えば、土方は出来る限り早く、己を今まで通りの『真選組の副長』で居られる事を諦めるべきだ。沖田にでもそれを任せ、全権を委任する支度を整えて、己は刀を置いて机仕事に従事する職務にでも就けば良い。
 でも、理屈ではない、感情がそれを許せない。沖田が副長職に相応しくないと言うのではない。己が権力にしがみつきたい訳でも無い。
 "真選組の為"に、己を切り落とす覚悟など、ずっと前から出来ていた筈なのに。
 あの男が、土方十四郎を知ってくれた。認めてくれた。解ってくれた。聞いてくれた。その事実こそが、土方に──真選組副長の土方十四郎に、意味を与えてくれた。
 あの男が、真選組の副長と、己をそう認識してくれていた事が、お偉い幕臣様や将軍様に認められ讃えられるよりも余程尊いと思えた。
 ……それは土方が長いこと、認めるには些か業腹だった事実だ。
 あの男の生き様や『侍』としての姿に、己と異なる点を見出し反発するのと同時に、酷く憧れていた。
 だから、
 (野郎の、前では…、侍で居てェ)
 こぼれた感情は弱音にも等しい。──ただの矜持で意地だ。『真選組の副長』は土方が必死で得た名であると同時に、己を己たらしめる唯一の寄る辺だ。土方にとっての『侍』である為に必要なものだ。
 このちっぽけな意地だけが、怖れを前に立ち竦んでみっともなく悪足掻きを続けている。
 譬え己がどれだけ無様な姿を晒そうとも、諦めて仕舞えば、止めて仕舞えば、もう元には──『ここ』には戻れないのだから。
 土方の『言葉』を聡く聞き取る癖、未だ慣れぬ様子でどこか距離を空けて『依頼』を淡々とこなすばかりのあの男にとっては、きっと今の『土方十四郎』は、無遠慮に己のテリトリーに座り込んで膝を抱えている、酷く厄介で持て余す存在になりつつあるだろう。
 解ると断言はしないが、推し量る事は出来る。確信は無いが、確信に近いと思えるぐらいには、土方は坂田銀時と言う人間を見誤ってはいないだろう。
 基本お人好しの男であっても、事件に巻き込み、深夜に押し掛けた挙げ句にその侭『依頼』と言う卑怯な権利を振り翳してここに逃げ込んだ土方の事になど、『依頼』と言う名が無ければ関わりなどすまい。
 これが過分な関わりであると断じるに理由は充分に足りている筈だ。それでも銀時が土方の事を放り出せずにいるのは、適度な距離を保って『助け』てくれるのは、これが偏に『依頼』だから、だ。
 そう。面倒くさがりな面をしつつも、万事屋稼業の男は基本的に人に──知己に対する情が厚い。だが、だからと言ってその『情』が全てに分け隔てなく与えられる無責任な優しさなどではない事を土方は知っている。これが、同情には満たぬ様にする男の分別なのだとも。
 男の、そんな部分に付け込んで逃げ続けたい訳ではない。ただ──、
 ………ただ。
 『……それ、を。彼奴には…、いや、彼奴にこそ、解って貰いてェんだろう』
 今ばかりは、声が出なくて良かったと、口にして仕舞ってから土方はそう思った。
 真選組の鬼の副長であった己を、銀時にだけは憶えていて貰いたかった。
 これから己は『そう』では無くなるが、己が己の望んだ『侍』であった事を、己が『侍』と認めた男にだけは、忘れて欲しく無かった。
 失望しないで欲しい。解って欲しい。悔しかったのだと、諦めたくなどないのだと、知っていて欲しい。
 『言葉』は要らない。だから。土方の『聲』を聞いてくれるあの男にこそ、伝わりはしないだろうかと思い、諦めきれずに待っている。
 そう。諦めて仕舞えば『ここ』には居られない。戻れない。諦めて仕舞えばもう二度とはこの聲は届かない。
 伝わりはしないだろうか。伝えなければ聞こえないだろうか。伝えるにはどうしたら良いのだろうか。喪われたこの声以外の『何』が。言葉以外の何が。残されているだろうか。
 (……そんな、腑抜けた思考に至るとは、な)
 声が出なくて良かった。声が出ない事が悔しい。そんな矛盾し破綻した願いは、声が出なくならなければ得る必要の無かった鬱屈。
 馬鹿だろう。声にならない罵倒が無意識に喉から滑り落ちて、土方は久方ぶりに憶える悲嘆の味をそっと噛み締めた。
 
 *
 
 夕方に差し掛かる頃、あれだけ晴れていた空は俄に曇り、瞬く間に雨が降り出した。朝の天気予報で雨の注意は促されていただろうかと記憶を手繰り、多分していなかっただろうと思って土方は素早く立ち上がった。気象予報士が何と言っていたかは実のところ憶えていなかったが、出掛けていった三人が雨の備えを全くしていなかったと思い出したのだ。
 窓を開け、洗濯物を手早く取り込む。慣れない仕事は勝手が解らないが、だからと言って折角乾いた洗濯物を雨ざらしにしておく訳にも行かない。新八の日頃の行動を思い出しつつ、乾いているものは一旦洗濯籠に放り込み、少し湿って仕舞ったものは衣紋掛けに吊った侭で長押に引っかけておく。
 それから少し考えてから、洗面所に仕舞ってあるタオルの山から数枚を引っ張り出して玄関に置いておく事にした。
 唐突な雨はひととき激しくざあざあと降り注ぎ、少し経ってから落ち着いた雨量をぱらぱらと散らす物に変化した。窓硝子を打つ雨音を耳のお供に、土方は取り込んだ洗濯物を畳んだ。勝手が解らないから自己流だが構わないだろう。
 全て片付け終える頃、外階段を駆け上がる足音たちが聞こえて来る。玄関を開ける音、賑やかな声。どうやら家主達のご帰還の様だ。我知らず口元に浮かんだ笑みには気付く事もなく、土方はそちらへと向かった。
 『おかえり』。それと、『お疲れさん』。
 言葉は無いけれどきっと届いている、そんな確信を抱きながら。
 
 *
 
 早すぎる風呂から上がれば自然と溜息が出た。
 この季節の雨は体を冷やす程のものでは無いが、水浴びには早すぎる事に変わりない。濡れ鼠の状態から抜け出し温まれば人心地もつく。
 これでビールでも煽れば最高なのだが、生憎と買って来たばかりの缶ビールは冷蔵庫で出番待ちだ。況して買い置きなど万事屋にそうそうあるものでもないのだから致し方あるまい。
 最初に風呂から上がった神楽は自分の髪もまだ湿らせた侭、定春の毛をタオルで拭ってやっている。次に入った新八はすっかり着替えた姿で、帰りに寄ったスーパーでの買い物を検分していた。家にあるものと賞味期限を確認しつつ、夕食に使う材料を取り分けている。
 そして最後に風呂から上がった銀時は濡れて幾分まとまりの良い髪の水分をタオルに吸わせながら、襖の開け放たれた侭の寝室を覗いてみた。すれば、壁際に寄せられた卓の前にはいつも通りにそこに向かう土方の姿がある。
 『いつも通り』。ごく自然にそう思っていた事にはもう余り驚きは無い。たかだか十日と少し。その時間の間だけでもそこに収まって仕舞った男の存在感を改めて思い知る心地に、銀時は『慣れない』と言う言葉で片付ける事の無謀さを苦虫と共に噛み潰した。
 「調子はどうよ」
 途方に暮れそうな思いを隠しながらそう、当たり障り無く取り敢えず問いてみれば、それが挨拶の様な意味の無いものだと理解していたのか、土方は視線だけをちらりと向けて寄越した。その唇が言葉を紡ぐ事はなかったが、是と言うニュアンスなのだろうとはなんとなく解る。
 「飯は。食った?」
 返るのは頭を僅かに傾ける首肯。控えめな動きだが、これもまた是と言う事だろう。
 「……………」
 続くそれ以上の問いを失って、銀時は居心地悪く横目に視線を流した。
 いや別に何かを言う必要も問う必要も無いと言えば無いのだが。過干渉はしないと決め込んだ以上、銀時は土方に不必要に関わる気は無い。その心算で居た。
 だが。思って見遣った先には、畳まれた洗濯物が置いてある。
 雨が降って来たから取り込んで畳んでくれたのだろう。そればかりではない。玄関に用意されていたタオルは、雨の中帰って来る銀時らの為に用意されたものだ。
 「………、」
 礼を言った方が良いだろうか。良いだろう。幾ら居候に近い依頼人とは言え『お客様』と言う訳ではないのだから、そのぐらいしてくれて当然だろうと思う気持ちと、慣れない事をさせて申し訳ない様な妙な心地と。その双方がいつもは達者な銀時の口を濁らせている。
 不意に土方が頭ごと銀時の方を振り仰いだ。音声で意思の疎通が出来なくなってから、『言葉』で他者とコミュニケーションを取ろうとする時、土方は意識して顔を相手にぴたりと向ける様になった。向けられたその目が、悩みには満たぬ迷いに黙り込んだ銀時の顔をじっと見つめ、それから唇がゆっくりと、然しはっきりと一つ一つの言葉を紡いでいく。
 外に余り出ていないからだろうか、精彩の良くない顔色に宿った翳り。ここに来てから払われた事の無い憂い。
 それらが『ここ』で取り払われる事は無いだろうと言う理解が銀時にはある。諦念を見据えて、そこには辿り着くまいと足掻く、必死で無力で歪な──机仕事に従事し、雨が降ったら刀を掴んでいた筈の手で洗濯物など畳んでいる──生活。
 そんなものが、『真選組の副長』である男に合致する筈もないと言うのに。
 (……『すまない』?)
 言葉を読み終えて、銀時は当惑も顕わに土方を見下ろすが、土方はそれよりも早く視線を、不自然な程に早く逸らす事でその場から逃がれた。
 「…………」
 何が?、と喉から出掛かった問いが、疑問が、柔く解ける糸の様に消えて行く。つながる先を失った意識が思考を放棄して雲散霧消する。
 問いた方が良かったのだろうか。良かったのだろう。だが、その機を見失った言葉は、気まずさにも似た空気に無遠慮に吐き出すには躊躇われて出てはいかない。聲があるのに言葉に出せぬ愚かさと、聲を失って言葉を尽くす悲壮さを思って、銀時は何か己が誤った事をして仕舞った様なもどかしさに駆られた。
 「あ、のさ、」
 その衝動に押し出される侭に銀時は、この少しの間で何だかぎこちなくなって仕舞った口を開いた。冷蔵庫に先頃押し込んだ缶ビールの存在を何かの光明の様に思いだせば、振り返る土方の表情に拒絶の色が乗っていない事に安堵して言う。
 「な。今日久し振りに飲まねェ?ビール買って来たんだが、一人酒ってのも何か淋しいんじゃね?みたいな…」
 予想通りに。土方がきょとんと目を開かせるのを、極力愛想を乗せた顔で見つめ返しながら、銀時は余りの馬鹿馬鹿しさを心の中だけで笑った。
 過干渉はしないと、そう決めていた。そんな事は無理だと、不可能だと、解りきっていた事ではないか。
 解り易い義憤と、計り知れないもどかしさ。悔しくて、腹立たしい。絶望と見なした『そこ』で『ここ』に近付いては項垂れて離れる、土方の自分勝手な甘やかな絶望が、
 (…………何で、解ってやろうだなんて思っちまったんだろうな)
 解って仕舞ったから、放り出せなくなったのだ。身勝手と理解している願望を抱きつつも、押しつけつつも、一度自覚した感情は収まる鞘を求めて身の裡で静かに荒れ狂う。
 何で、
 (好きになんて、なっちまったんだろうな)
 困惑を隠さぬ顔で、然し土方が何とか小さく頷くのを見て、銀時は残酷だと思いながらも、満たされた心地になるのを止められなかった。
 



本当は20で終わってる予定だったとは言えないけど言う(小声

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