JULIA BIRD / 23 閃く刃の軌跡が狙い違えず己の首へと向かうのを僅かの動きだけで躱して、続く相手を迎え撃つ。振り下ろされる刀を刀では受けず見送って、極力ダメージを減らすべく体勢を低くしながら腕を振り上げれば、上へと向かった切っ先は易々喉を切り裂く。ぱ、と血の雫を散らし蹌踉めく男を蹴り飛ばして、土方は包囲の破れた方角へと移動し刀を構え直した。 勘も体力も衰えてはいないだろう自信はあったが、多人数相手となると立ち回りには慎重さが求められる。競り合う愚も、背を取られる隙も晒せない。 さてこれで二人目。残りは暫定三人だ、が。 左肩をじわりと濡らす、雨だけではない水分の存在を視線では確認せず意識だけで追って、小さく舌打ちをする。 今し方回避し損ねた創傷だ。毒など塗ってはいまいと踏んでいたから、回避出来たら上々と言う心算で多少の傷ぐらいは覚悟はしていたのだが、思いの外深く入られている。偶然だろうが、あの大捕物の最中に銃弾の貫いた傷痕と全く同じ位置だった。下手人は喉を裂かれて雨の中に俯せに倒れているが、賞賛などくれてやる気にもなれない。 一対多。お座敷剣術よりも野蛮で実戦的な、不利な状況下の喧嘩慣れをしている土方にとっては決して苦手な状況ではないが、現場を離れて二週間少々の気の緩みに加え、自分自身でも解る、八つ当たりじみた自棄っぱちな動きと心情。冷静だが理性的ではない戦い方は、己が身を削る愚行にほかならない。 じわじわと体力を奪う雨と失血は、酒に温まっていた体を容赦なく冷やし続けている。奪い取った刀も余り質が宜しくない。触れたら斬れる程に怜悧な刃ではない得物は、取り回すのに酷く体力と技倆を使う。 増援が来なければ残りは三人だ。次の交錯で連中が減るか、土方が傷を増やすか倒れるか。何れにせよ長くなるものでもないし、味方の援軍が見込めない中での長期戦は己を不利にするだけだ。 これでは、遠からず負けるのは己の方になるだろう。そう判じた途端に音もなく笑みがこぼれ、揺れた肩がずきりと痛んだ。 銃創が痛んだのか、それとも刀傷が痛んだのか。痛ェ、と思わずこぼそうとして堪えて──どの道声など出ないのだから、憚る必要などないかと気付いて嗤う。 声は無いのだ。だから、何でも言える反面、何にも言えない。 悲鳴も罵声も出ない。言い訳も、瞋恚も、謝罪も。言葉を尽くして伝える事の叶った僥倖は慥かにあった筈なのに、それをずっと無駄にして来た。 ひとりなら言葉が無くとも何も問題はないのに。 それでも人はひとりでは居られない。 人と何かをしようと思うと、人と繋がろうと、解り合おうと思えば思うだけ、何一つ通じる事など無いのだと思い知るばかりだった。 解ってくれていた様な気のしていた銀時でさえ、結局は土方の裡の想いや感情になど気付いてはくれなかった。 否。 『言おう』とすらしなかったのだ。 諦めたくない。だが、諦めるしかないのなら。そんな、内心の苦悩や葛藤を、土方は誰にも打ち明けなどしなかったのだから。言葉も、想いも尽くさずに居て、それでは誰にも何にも伝わる訳もない。 迷惑をかけて済まなかった。その一言でさえ上手く言える事なく過ぎて仕舞ったのに。他にもっと紡ぐべき、紡がなければならない言葉ぐらいあっただろうに。 お前に憧れて、焦がれていたんだ。 だから、お前が、『真選組の副長をしているお前以外は想像がつかない』──そう言ってくれた事で、本当に救われた気になったんだ。 お前にとっては他愛もなく意味もない、世間話の延長の様な『言葉』だとしても。今はその術すら持たない俺にとっては、何よりも欲しかった『言葉』だったんだ。 言いたかった。言えば良かった。どうせ伝わらないのだと早々に諦めなければ、こんな、 益々に強くなった雨粒を切り裂く様な一閃を半歩下がって避け、横から懐に飛び込もうとする切っ先に身を委ねる甘美に寸時嗤うと、土方はその場に留まり今度は身ではなく刀身で刃を受けた。 遺言も遺せない身なのは癪だが、こんな三下に殺られるのはもっと癪だ。自らの聲で何も伝えられぬ侭終わって仕舞う事など考えたくもない。 ならば、生き残るしか選択肢は無いだろう。生きて、それから伝える以外に方法はない。 尽くす言葉が何処にあるのかは知れない。だが、裡から溢れ出るこの衝動は、悔しさとか未練とか叱咤とかそう言うもので出来ているのだ。出ずる聲が、それを誰かに伝えたがっている。原始的に、本能的に。 鍔迫り合いは長くは続かない。土方は相手の押し出す力に合わせて自ら後退し、橋の逆側の欄干に背を向け下がった。だが、素早く二者が左右から追い縋る様に近付くのを牽制しようと踏み留まったその時、 『!』 ずる、と草履が水溜まりに足を滑らせた。どうやら落ちていた枯れ葉か何かを踏んだらしい、大きく体勢が崩れるのに、咄嗟に左手で欄干を掴むが、肩の傷の痛みに思わず指が解けて落ちる。 極力衝撃を堪えようと全身に、そして直ぐ次の行動に移れる様に足腰に力を込めながら、土方はその場に尻餅をついた。見上げた、雨と痛みとに煙る視界には、好機に飛び込んで来る刃の姿。 「 !」 罵声の様なものを叫んでいたのだろう、上下した口に苦々しい雨の味が飛び込んで来る。 振り下ろされた刃を、土方は座り込んだ不利な姿勢の侭横向きにした刀身で何とか受けるが、この拮抗が長く続く筈もない事ぐらい直ぐに解る。両手の塞がった土方の右側から刃を振りかぶって迫ろうとするもう一人の、喜悦に歪んだ顔をちらと見ながら、なんとか眼前の相手を退けようと力を込めたその時、手の中でばきりと乾いた音が鳴った。 右手で柄を握り、左手を刀身に添えた刀が、上方向から掛けられる力の負荷に耐えかね罅割れたのだ。 折れる。そう認識するのと同時に、土方は咄嗟に眼前の男の足を払った。思わぬ不意打ちに、がく、と姿勢を崩した男が前のめりに倒れ込んで来るのと同時に刀身が半ばから二つに折れた。振り解いた刀の折れた切っ先を、覆い被さる様になった男の喉へと躊躇わず突き刺す。 「──、」 土方と男とが重なる形になった事で、同士討ちを恐れたのか、右手側から迫っていた男は刀を退いて動きを止めている。それを横目に、土方は断末魔の悲鳴さえ漏らす事の無かった男の亡骸を乱暴に体の上から退けた。どしゃ、と仰向けに転がる男の喉からは殆ど柄しか残っていない刀が生えていた。 判断の甘い。そう嘲りに似た感想を抱きながら、土方はゆるりと立ち上がると残る二人の姿を交互に見遣った。残った二人は互いにちらちらと視線を交わし合っていたが、得物を失って佇む土方を見て勝利を確信したらしい。絶対的な王手と言える状況だが、彼らは未だ油断は見せず、じりじりと距離を詰めて来る。 「これまでだな…」 呻く男の片方の声には、怒りよりも感嘆めいたものが乗っていた。表情は苦虫を噛み潰し過ぎた様なものであったが。 流石に仲間が立て続けに三人やられたと言う事に対する動揺や怒りはあっただろうが、だからこそその犠牲を無駄にはすまいと言う強い決意がそこには込められていた。 立派なものだとは思う。その志が反社会的な思想や犯罪に向いていなければ良かったものを。 『……』 今し方倒れた男の手にしていた刀は、競り合いを解いた時に遠くに弾かれている。遺体の喉に突き立った刀の刀身は十糎程度しか残っていないので、何とか抜けたとしても武器として使うのは難しい。致命の兇器にはなったが。 その侭ぐるりと、残り二人と、その向こうに拡がる雨の重たい緞帳とをゆっくりと見回し、土方は小さくわらった。今度のそれは、溜息にも似た苦笑。 これを、言葉で伝えてやれないのを、これ以上なく勿体ないと思いながら。 『悪ィが、替えが来ちまった。剣がこの手にある以上、俺ァ戦わなきゃならんのでね』 そう『言って』土方が無造作に持ち上げた右手に──横合いから飛んで来た刀が収まる。 その瞬間に土方が憶えたのは、凄まじい歓喜だった。安堵よりも増して、『それ』を酷く喜ばしいと思った。 これを。 土方が真選組の副長であると望む、その全てがこの手の中に在る。 必要としたから、これは器物ではない。望みを経た具現だ。『こう生きたい』そんな土方の希望を叶えて至った、誰より己の望む生き様なのだ。 柄を確りと握って鞘に手をかける。そこで漸く、土方の手に収まったそれが得物であると気付いた男たちがぎょっとした表情を形作って振り返るが、既にその眼前には、刀を放り投げた直後に自らの木刀を抜き放って迫る銀色の侍の姿があった。 直ぐ横に立っていた仲間が木刀の一撃に飛ばされるのを茫然と見つめていた男は、その背後で鳴る鞘走りの音を死刑宣告の様に聞いた事だろう。言葉よりも何よりも、雄弁な音で。 * 倒れている男の着物を使って刀身を拭い、鞘に納める。その鞘をいつも通りに帯に差し入れてから漸く土方は息をついた。 『……組に連絡入れて、此奴らの処分を任せねぇと』 そう『言った』のが聞こえたのか、聞こえていなかったのか。木刀を納め近付いて来る銀時の姿から目を逸らしたくなるのを堪えながら、土方は落ち着きなく刀の柄を指先で叩いた。 掴んで、馴染んだ感触を確認するまでもなく解る、紛れもない土方の愛刀である。空手で飛び出した土方を流石の銀時も案じた、のだろう所までは良いとして。ちゃんと刀を持って来てくれた辺りは感謝すべき点なのかも知れないが、またこんなトラブルを招くと見透かされていた様でどことなくばつが悪い。 そしてそれは──意は違えど──銀時の方とて同様だったのか。彼は一歩の間を置いて土方の真正面に向かい立った所で、何度かふよりと視線を泳がせては戻した。何か言葉か意味かを探す様に。 不意に、ある一点へ視線を固定させた所で銀時が顔を顰めた。問われるでもない、左肩の傷だ、と気付いた土方は益々ばつの悪さを抱えながら左の二の腕を右手で掴んだ。隠したかった訳ではなかったが、刹那的な衝動で飛び出しておいての為体を咎められている様な心地になる。 銀時の表情は明かに、説明か言い分を求めている様な質であったが、土方は気付かぬ素振りを決め込む事にした。どの道見ただけで明白な現状以上に聞き出せる事なぞあるまい。そう考えた土方と同じ結論に達したのか、やがて銀時は、はあ、と大きな溜息をつくと、すっかり濡れそぼって常よりまとまった銀髪をぐしゃりと掻き上げてみせた。何かを切り替える様に。 それから、怪我の程度を見る為にか──手を引こうとする仕草を向けられて、土方は制止を促す様に掌を向ける事でそれを遮る。 無言の拒絶に差し挟まれた間は少し長かったかも知れない。そう感じただけかも知れない。土方が、伸ばされた手を拒否する姿勢をおずおずと解除する頃、漸く銀時が口を開いた。 「……帰るのか?」 真選組に。そう問う銀時をまじまじと見返してから土方は、それが先頃の己の発言に由来したものであると気付いて、かぶりを振った。 万事屋に預けられた身でありながら襲撃を受けた事で、契約はもう不履行になるのだろうか。そう思いはするが、解らない。解らないが、少なくとも土方は近藤に己の決断を伝えなければ帰れない。それを近藤が是とするまでは、終わる事は出来ない。 『依頼が終わるまでは、帰れねェ。お前にとって今の俺がどんなに無様に見えるものかは解っているつもりだが、』 泣き言めいた言い分を投げかかって、土方はもう一度かぶりを振った。言いたいのはそんな事ではない。そう思ったのが通じた訳ではあるまいが、銀時が何だか怒ると言うよりも悲しげな目をした事が気に掛かって、真っ向から顔を持ち上げてゆっくりと『言う』。 『殴って、すまなかった。八つ当たりみてェなもんだ。てめぇらに…、てめぇに甘え過ぎて、いい加減どうかしちまってた』 「違うんだ」 謝罪の気持ちと無様さとで居た堪れなくなり、頭を下げようとする土方を遮る様に、銀時が声を上げた。土方が目を逸らせないぐらい強い眼差しは、寸時浮かんだ躊躇いや惑いの色を自ら振り払って、続ける。 「俺が悪かったんだ。俺が、お前の事を解った気になって、勝手ばかりを抜かしちまった。多分、お前に殴られて当然の事を言ったんだろう、俺ァ。その癖、その理由さえも未だ解らねぇんだ。……酷ェ奴だろ」 切々と訴える様な銀時の言葉に、土方は然程にショックは受けなかった。ただ、解って貰えていると思う事、そんな己の傲慢さに、自分でも解る程はっきりと失望は憶えた。 解って貰ったと、貰えていると、どうしてそんな思い違えをしたのか。 否。ある一側面でこの男は土方十四郎と言う人間の事をはっきりと理解していた。それだけは変わらないからだ。 ただ、それが土方にとって、全てには近いが、生憎と『全て』では足り得なかった、と言うだけの事。 『真選組の副長』であった土方の事だけは、銀時は理解してくれていたのだ。だからこそ、今こうして、雨の中飛び出した男を捜す為に何故か刀まで持って来てくれている。 それは理解ではなく、確信であったのかも知れないが──この場合は理解と呼び替えても差し支えはあるまい。 足りない残りは、知り得ない感情は、自ら口にする以外にどうして伝えられよう? だから、 「だから、出来れば拳じゃなくて、お前の言葉で直接、何が障ったのかを教えて貰いてェ。自分勝手に解った気になって思い違える様な馬鹿はもうやらかしたくねェんだ。だから土方──、」 だから、言わせて欲しい。 声ではない、この感情を。伝えさせて欲しい。 声が出ない男の、言葉が欲しいと──そう、言葉で、表情で、感情で、全身で訴えて来る銀時の事を、土方は茫然と見つめ返した。 言葉を、通じる事に労したとしても。それで伝える以上の『何』が求められ、或いは与えられると言うのだろうかとは思う。 ──だが、きっとそれこそが、今まで各々感覚で理解していた様な、信頼や確信に似たものの正体なのだろう。 不意に土方は、目の前の男の勁さや優しさを感じた。世辞や上辺だけではない、人を真っ向から見据え肯定或いは否定してくれようとする、それは理解や通じ合う事を願う真摯な感情以外からは生じる筈もないものだ。 真選組の皆は、土方の言葉を理解しようと心を砕いてくれていた。だが、土方にはそれが苦しくて、上手く伝えられぬ己が腹立たしくて、堪らなくなって早々に諦めを選んでいた。 その度に己の愚かさの招いた自責を憶えては苛立つばかりで。聞いてくれぬ他者にではなく、伝えられぬ己がただただ無様で赦せなくて。 だから、能動的に『何か』を叫ぶ事をしなくなっていた。届かない。伝わらない。否、それ以前にそんな資格などないのだと思い込んで、口を噤み続けていた。 言いたい『言葉』など、尽くせぬ程に存在していたと言うのに。 そんな土方に、教えてくれ、と銀時は言うのだ。お前のことばを尽くして、話して欲しいのだと望む。理解を得る事などとうに諦めきって、感情の乗ったコミュニケーションを避け続けて来た土方にとってそれは、何よりも必要なものだったのかも知れない。 感謝と僥倖とに押し出される様に、土方は己をじっと見つめている銀時に真っ向から向かい立った。 『俺は、』 震える唇がゆっくりと開く。 『真選組の副長で居たいんだ。てめぇにそう思われる、『俺』で居たかったんだ』 俺の焦がれたお前の様に。 お前らを護る事の出来る、侍で居たかったんだ。 。 ← : → |