JULIA BIRD / 5 「 」 癖の様に。指先で触れた喉から一音を紡ぐ。 開く唇。動く舌。通る酸素。震える声帯。それでも、出ない音声。 喉に当てた指先が感じる、何の意味も為さない一音。時折、何かの拍子に聲が戻りはしないかと期待してはこうして繰り返すが、最早惰性の様なものだ。そして今回も期待通りの結果にはならない。確かに声を発している筈なのに、喉奥から出て来るより先に掻き消されている様な感覚だ。全く宇宙は広いと言うか、どこの種族とは知れぬが、天人もよく解らぬ薬物を作ってくれたと言うか。 苦々しい心地でかぶりを振って、土方は予期せずトラックの荷台に共に積み込まれる経緯となった男の姿を暗闇に窺った。いつもなら鬱陶しいぐらいに騒がしい事の多い男にしては、今はやけに口数も態度を表す行動も少ない。 土方の知る銀時の性質なら、なんだかんだと難癖を暫くの間は嫌味に乗せてつらつらと唱え続けるのだろうと思っていたし、実際山崎と通話を始めて暫くの間はそうだった。 然し何の気紛れか、金の匂いでも嗅ぎ付けたのか、それとも時折万事屋の連中が垣間見せる人情的な一面が湧いたのか。応援が駆けつけるまでは協力的にする事を半ば一方的に宣言すると、それきり無駄口も文句も呑み込んで大人しくしている。 バッテリーも有限だからと、何かまた動きがあるまで、と通話を切ってからは、そうやって銀時は退屈そうに木箱の一つに無言で寄り掛かって目を閉ざしていた。本来は積荷を置く事のみを想定した空間なのだ、幌を被った荷台の居心地が良い筈はない。実際揺れるし動くしで、じっとしているだけでも身体には無意識に力が入るので結構に疲労する。 だが、眠っている訳ではあるまいが、銀時はただ無言でじっとしていた。なまじ煩くされてもバレる危険性があるし、言葉に出して言い返せない事情もあって土方のフラストレーションが溜まるだけだっただろうが。 それにしたって、らしくもないぐらいに静かなのはそれはそれで気持ちが悪いものだった。 銀時の急な心境の変化──協力的な態度は、ひょっとしたら土方の身に進行形で降りかかっている『声の出ない』事情に対する同情の様なものだろうかとは、思う。だとしたら──だとしなくても、だが──実に忌々しい話ではあるが。 土方は己の身に起きた事情を銀時に敢えて説明する必要性は感じていなかったし、銀時もそれをわざわざ問いたい様子でもない。土方は己の過失が原因であると言うことをむきになって隠し立てしたい訳ではなかったが、出来る事ならばぺらぺらと喋りたい様な事でもない。無論、問われたら答えねばなるまい、と言う義務程度の事は感じてはいたけれど。 仮に。経緯を知った所で、感情以外の実用性と言う意味ではそれが何の役にも立たないと言う事を、銀時は聡く感じているのだろうと思う。同情でもお節介でも何でも構わないが、経緯の説明の果てにそう感じたとしても、それは少なからず土方にとっては負い目以外の何にもならなくなるものだ。 ふと、沈み掛けていた意識に、ぱちん、と小さな音が聞こえた。視線を上げれば、銀時の顔が暗闇の中にぼやりと照らし出された所だった。預けっぱなしになっている携帯電話を開いた所らしい。 「なぁ、コレLEDとかだけ点灯させてェんだけどどうやんの」 液晶のバックライトの薄ら青白い光の中で手招きされ、土方は揺れるトラックの振動に気を遣いながらも立ち上がり、銀時の向かいに膝をついた。携帯電話をその手から取り上げると、メニューからライトの点灯を選んでその侭返す。 何をする気だ。出ない声で土方がそう問うのを横顔で受けながら、木箱に寄り掛かる様にして立ち上がった銀時は「これ」と答えて、積まれた木箱の隙間に無造作に置かれ──と言うよりは落ちていたものを指さして見せた。上から覗き込んだ土方へと、そこを照らしておく様に指示を寄越しつつ携帯電話を手渡してくる。 「上に乗せてあったんだろうけど、さっきカーブ曲がった時落ちて来たみてーで。何かなと」 携帯電話のLEDライトに照らし出される箱の隙間。そこに腕を突っ込んだ銀時は暫くの間狭所と自らの腕の太さや長さと格闘していたが、やがて何とか一冊のファイルを拾い上げる。 ごく普通の事務所にありそうなファイルだ。まとめた者の仕事は余り丁寧ではなく、パンチの穴がいちいちずれているのが土方的には気に食わない所だが、今はそんな事を気にしている場合でもない。 取引先の帳簿か何かの様だが、そんな重要なものが果たしてこうも都合良く転がっていて良いのだろうか。訝しみつつも土方は、銀時の手からファイルを受け取るのと交換に渡した携帯電話のLEDライトに手元を照らして貰いながらその紙面に記された内容を慎重に読み進めて行く。 「こんな所に帳簿転がしとくとか、どんだけ無造作なんだよコイツら」 運転席の方を見遣る仕草をしながら呆れた風に言う銀時に、土方も同意して苦笑を浮かべる。全くだ。だが、今はその無造作さが逆に好都合かも知れない。 取引相手を示すのだろうアルファベットと、取引をした物品を表す符丁。数量。日時。詳しく分析…と言うか解読してみない事には未だ何とも判断は出来ないが、取り敢えず見覚えのある様なお偉いさんの名前は無さそうだ。真選組が大っぴらに追っても問題の無い事件であるに越した事はないのだ。飼い狗の身には何かと不便が付き纏うものなのである。 ともあれ、このファイルをその侭頂いて仕舞う訳にもいかない。写真だけ撮って山崎に送っておこうと思い、掌を差し出せば携帯電話がほいと返却される。 辺りが暗いのでLEDライトは点灯させた侭、なんとか判読可能な精度で撮影を行う。かしゃりと鳴るシャッター音は暗闇の中ではよく響いたが、トラックや他の車の走行音に紛れ外には届きはしない。 撮影した写真を一通り確認すると、土方はこちらへと向けられた銀時の手にファイル本体を手渡した。銀時がそれを元通りに箱の上に乗せるのを横目に、手際よくメールに写真の分析を任せる旨を認めて送信する。 送信完了の画面を見届けると、土方は元通り閉じた携帯電話を銀時へと放った。何かあった時に、直ぐに言葉を発する事の出来ない土方よりも、銀時が持っていた方が役には立つだろうと言う判断だ。 特に取り決めた訳ではないが、先頃までも当然の様に携帯電話を預かっていた事を思えば、銀時も土方と同じ考えだったのだろう。 飛んで来た携帯電話を受け取って袂に放り込む銀時のその表情にも、行動にも矢張り澱みは無い。理解が早いのは有り難い。久々に感じられる気さえする、他者との緊張感の無いコミュニケーションに思わず表情を緩めかけた所で、土方ははたと気付いて自らの喉に触れた。 (……あれ?俺、喋ってたか…?) 「 、」 思って発声しようとするが、矢張り声も音も何も出ては来ない。 メモ帳は胸ポケットの中。声は無い。暗がりで距離があれば互いの表情でさえ窺うのも危うい。筈、なのに。 (なんで、解るんだ) 土方は惑いの表情も顕わに銀時の顔を見上げた。 行動も、携帯電話の投げ合いも。何の疑問もそこに挟む事もなく、まるで土方の『聲』を得た様に動いた男は、土方のそんな困惑でさえ正しく解した。 「テレパシー。……いや嘘ウソ。そんなマジ顔しないで何か恥ずかしくなるから。 なんつーの、お前の行動を注意して見てりゃ、まあ多少はね?勿論完璧に解ってやるって訳にゃ行かねェから、出来れば脳内で一方的に理解求めないで口パクぐらいはして欲しい所」 そう、何でもない様な調子で、何か気恥ずかしかったのか早口で言うと、銀時の視線は土方の方をじっと見つめて来る。どうやら答え待ちの様だ、と数秒経過してから気付き、土方は呻きながら──少なくとも自分ではその心算で──唇をのろりと開いた。 「『……わかった。それでも、たすかる』。……オーケイ。善処はするけど銀さんも万能じゃねェから。いちいちガン見するけどあんまそこには触れないでね」 思ったより気まずいつーか何か恥ずかしいなコレ、とぼやく銀時の横顔に、土方はそれでもほっと胸を撫で下ろした。 メモに書いたり掌に書いたりする『言葉』が無くとも、伝わる、理解しようとしてくれる、その相対が酷く嬉しくて、頼もしく感じられたからだ。 例えば部下であったらこうは行かない。彼らは土方の『言葉』を理解する事に緊張感とプレッシャーで向かうし、土方も無論全力で彼らに伝わる様、通じる様に努めてはいるが、どうしたって生じる理解の齟齬に、互いに苛立ちや萎縮を憶えずにいられなかったのだ。 だが、それは銀時の観察眼や理解に寄せる努力と言った要素が大きいだけであって、部下が悪い訳では決して無い。土方は改めて己の不甲斐なさと無力感、そして自分とは異なる意識を持つ他者に思考の理解を求める事の難しさを思い知る。 それを、真選組の一員でもない、巻き込まれただけの一般人が。相性の大凡良いとも言えない男が。真っ当なコミュニケーションさえ難しいだろうと思っていた相手が。土方の思考を当たり前の様に『聞いて』──或いは『聞こうとして』──くれた事に、こんな状況だと言うのに奇妙なぐらいに穏やかさを伴った安堵を憶えずにいられなかった。 でも、と唇の動きをはっきりと続けるのに、銀時の視線が吸い込まれる様に戻ってくる。 「『ほんかくてき、に、きけん、に、なるまえ、には、にげろよ』。……まあそれは状況次第じゃね?ンな心配しねェでも巻き込まれて名誉の殉職する気はさらさら無ェっての」 如何にも軽そうな風情で手をひらりと振って見せるこの男が、そう思いながらもそうは出来ない性分なのは生憎と知っていたから、土方は精々苦々しく見えるだろう表情を作った侭、 (殉職じゃねェだろ、自営業無職が) そう胸中でだけ小さく悪態をつく事しか出来そうもなかった。 それすらも『聞いた』のか。銀時が小さく喉を鳴らす音が、土方に音の無い穏やかな吐息を許した。 巻き込まれる。それさえも、仕方がない、と割り切って仕舞う男なのだろうと、土方は万事屋一行が渦中に関わった──『巻き込まれた』──と思しき事件の端々に、書類の上の事とは言え、触れる度にそんな事を思っていた。 『こうなった』事こそ不覚と言う他無い状況ではあったが、土方とて、警察と言う身分を笠に着せて傍若無人に振る舞う事で徒に一般人を巻き込んだ訳ではない。巻き込みたかった訳でもない。あの場では兎に角他に時間も良い思いつきも無かっただけだ。運転手の男たちが戻ってくる前に土方が咄嗟に隠れ果せたとしても、銀時の様な見てくれからして怪しい男がトラックの周辺を彷徨いていたらそれだけで彼らは警戒をするだろう。況してあの状況で何の説明も無しに、銀時が素早く黙って立ち去ってくれるとも到底思えなかった。 結果的に『巻き込む』としか言い様なく、責められるほかにもないこんな状況になった訳だ。その事については土方としては純粋に申し訳の無さを銀時に感じている。だから極力、これから先のステップに進む前には逃がすなり遠ざけるなりをしてやりたい所なのだ。 銀時はいつもの木刀はちゃんと所持しているし、判断と決断の計算も早い。立ち回りもそこいらの人間より余程上手い。腕も立つ。『協力』してくれると言うのであればそれは警察としても土方の個人的な利便にしても、申し分無い以上の有り難い話では、ある。 だが、普段から趣味も主義主張も合わない男と今の土方とが、有事にも対応し得るだけの高度なコミュニケーションを取れるとは正直思い難いと言うのが正直な所だった。因って生じていたのは、心強さよりも寧ろ泥の様に重たい不安。 剣を互いに打ち合わせる『戦場』であれば、言葉など無くとも、自然と研ぎ澄まされ過ぎた己の感覚が相手の動きを『読む』。示し合わせも話し合いも無く背を預けられる程度に信頼も確信もある。 然し生憎と現状向かうのは戦場ではない。密やかで速やかな判断を求められる、潜入にも近い状況である。そんな緻密な思考や行動とを、碌なコミュニケーション手段も持たずに一般人と即興で行えるとは、仮令冗談や気休めであっても思えなかった。 それだと、言うのに。 (頼もしくなんざ、思うべきじゃ無ぇのは解っている) 久しい、気楽ささえ伴う理解の心地よさに場違いにも少し浮き立ちそうになった心を宥める様に、土方は胸の裡に生じかけていた一厘の可能性──期待、かも知れない──を無理矢理吐き出した溜息で吹き消す。 そう。手助けは、本来であれば有り難い所だが、今の土方にはそれを正しく扱える自信が無い。銀時の口にした「応援が来るまで」と言うのがどの程度までの状況になるのか、までの想像はつきそうもないが。土方としては幾ら銀時と意志の疎通が出来ていたとしても、叶うならば速やかに現場から離れさせるべきだと思うのだ。 巻き込んでおいて、と罵られるも仕方の無い話なのだが、矢張り土方にとっては警察として一般人(一応は)の安全を確保する事こそが、時に任務よりも優先しなければならぬ事項なのである。銀時には彼を案じる従業員や飼い犬と言う扶養家族めいた存在が居る。顔見知りでもある彼らに、真選組と関わったからこうなったのだ、などとは思われたくはない、と言うのは、隠さぬ土方の本心でもあった。 今更市民相手に良い面をしたい訳ではない。子供相手に真っ当そうに見える正義面をしたい訳でもない。ただ、彼らと関わる生活を経て、関わった時間の長さと密度とを抱えて仕舞った事から生じた、なけなしの矜持の様なものが土方に不思議とそう思わせるのだ。 勿論、銀時も含めて。彼らは彼らで、馬鹿みたいに騒いだり下らない依頼をこなしたりして、その侭で行ける所まで在れば良い、と。 馬鹿馬鹿しい感傷だとは思う。だが、警察として江戸の平和を護ると言う事は、結局はそう言う願いがあってこその大義なのだと、いつの頃からか土方はそう気付いて仕舞っていた。 近藤を護る、近藤を大将と仰いで彼の志に従う、ただそれだけでは曖昧にしか見えていなかった『警察』と言う存在の職務の意味を──護るべき人々や平和の名をしたものたちを。今更の様に『そう』なのだろうと認識出来て、受け入れる事が叶った。 馬鹿みたいな連中が馬鹿みたいに笑って生きていける世界。 後生大事にしておきたい、などとは思わない。ただ、いつかは得難く思うものなのだろうと、漠然とした理解だけはある。 だから、それまでは護り通したい。間違っても、己の愚かしさがそれを損なう様な真似だけはしてはいけないのだ。 後悔は繰り言より猶重い。だがそれこそが土方に覚悟を促す火種になる。使命感だなどとご立派な事を抜かす心算などない。理解されずとも構わない。当事者には余計な世話と断じられるのだろうが。この、厄介事遭遇率係数が警察である土方を遙かに凌いで高い一般人はどうせ、「速やかに逃げて欲しい」などと言う願いなぞ大人しく聞き入れてくれる様な質ではないのだ。 だから尚更。どんな形であれ巻き込んで仕舞った以上は、何がどうなろうと護り通す事に全力を尽くす。それが土方に出来るせめてもの筋の通し方だ。 声が出ない。ただそれだけの事が、巻き込まれた一般人の瑕疵になる様な事があってはならない。 だが、おかしなもので。きっと声が出る状態だったとしても、きっと土方は『そう』である事を銀時に告げたりはしなかっただろう。人を巻き込むんじゃねぇと文句を言いつつ何だかんだ、容易に抜けられない所まで付き合って仕舞うのだろう規格外の一般人を──或いは一般人たちを──護りたいなどとは、口になぞするまい。 ではここには、聲なぞ不要なのかも知れない。意志の疎通の確認が無くとも、各々が勝手な事を考え勝手に己が裡の何かに従って動く。それが互いに間違ったものにはならぬと言う確信だけがある、それしかない、ここには。 「…… 、」 土方は奇妙な心地になって、落ち着きなく指先を自らの喉に当ててみる。喪われたのは、誰かに何かを伝えるのに不可欠な『それ』。その筈だと言うのに。 言い返す言葉も他愛もない軽口も無い、ただ静かなだけなのに信頼にも似た感覚だけが存在している。そして、それだけで全く問題が無い。個々に完結している、ひとりとひとり。 徹底的に自己を──或いは自己以外の他者を、しか見ない人間だからこそ、そこにそれ以外の感情を通す手段など必要ないのではないだろうか。尤も、己や銀時の様な極端に何かが振り切れた人間なぞそうはいない上に、そんな両者が偶々狭いトラックの荷台に押し込められて行き先が同じになるなどと言う事自体がそうそう起こり得ない事なのだろうが。否、そうそう起こっても困るのだが。 時系列は無視ですが、入れ替わり篇を経た後っぽい心境。 ← : → |