JULIA BIRD / 9



 痛みはやって来なかった。
 ただ、真っ赤に灼けた鉄棒でも押しつけられた様な熱さが肩に空いた穴を焦がし、その熱が却って土方の意識を何処までも明瞭に研ぎ澄ませる。
 「ひじか、っ──」
 喧噪を割いて耳へとはっきりと届けられた呼び声に、見えはしないだろうが嗤う事で応える。
 左肩へと向けられた黒い銃口。その内の螺旋の溝さえくっきりと見えそうなぐらいに澄んだ視界の中でゆっくりと、射手の表情が恐怖に歪んで行く。
 きっと鬼か死神でも見ているのだろう。左の肩から血の尾を引きながら、両腕で振り上げた白刃に己の死に顔を映した、そんな男の姿に。
 悲鳴も無く地面に色々なものをぶち撒けた射手を、達成感も感慨も無しに斬り捨てた刃を直ぐに引き戻した土方の視界の端では、今にも舌打ちをしそうな表情を作りながらも自らの眼前の敵へと向かう銀時の姿があった。
 聲が出せた訳ではないのに。きっと届いたのだろうと、土方は小さくわらった。
 こんな凄惨な亡骸を前に、こんな血と硝煙に満ちた夜の中で、こんなにも安堵する様な事があるとは思っていなかった。
 受け取って貰えたのだと言う確信は、きっと今の己が最も欲していたものだ。己の油断と過ちとを原因として、音声と言う、他者と繋がる手段のひとつを失った、愚かで役立たずの木偶であっても。
 未だ。こんな感覚を得る事が出来たのか。
 ちゃんと護れた。そして、護られていると『伝え』られた。
 悲鳴の無い人間を労り思い遣って、護ろうとなどしないで。目の前の敵を、離れ戦う土方を、信じる事で、護ってくれた。護られてくれた。
 (たすけてくれ、なんて──思った事は、無ェんだ)
 山崎の気遣い。近藤の労り。沖田の嫌味。部下たちの、ただ無心に案じる眼差し。
 声が出ないこのひとを、助けなければ。護らなければ。そんな思い遣りは、土方にとっては最も不要なものだった。
 それは最も無様に己の瑕を知らしめるだけの優しさだ。そしてそれはきっと正しい事なのだ。己の愚かさを直視し向かう事しか出来ない土方よりも、周りの人間たちの感情と行動の方が、正しい。
 理性はそれを解っていても、土方は未だそれを呑み込み堪えられる程に達観出来てはいなかった。現実を直視する己の目は、他者に己の現実を知らしめる事を最も怖れている。
 故に土方は悲鳴なぞ上げない。聲があろうが無かろうが。
 ただ──、護れないことだけが、辛い。
 やめろ。危険だ。逃げろ。そんな言葉たちが伝えられない事だけが、
 己の為に斃れるかも知れない、誰かを護れない事だけが。
 己に、何も護れない現実だけが。

 「   、」

 聲も無く土方は嗤う。血の滴を散らした刀を次の標的へと滑らせながら。
 無造作に首を撫でた刃に、眼前の男がごぼりと血を吐き出し絶命する。次、と流れ作業の様に土方は腕を振るおうとするのだが、肉を綺麗に割いた刃は然し左腕の重みに負けて上手く動かない。いつもならばこんなミスは犯さなかっただろう、骨に食い込んだ刃が抜けない事に、土方は寸時動きを止めた。
 それは何百分の一の空隙だった。骨に噛まれた刃をその侭押し出すべきか引き抜くべきかを土方が躊躇ったのは、左腕から不意に力が抜けたからだ。肩の灼熱はほんの分秒の間で、見事な赤い大輪の花を黒い上着に咲かせていた。
 土方はまず刀から右手を離した。本当は同時に離す筈だった左の手は、強張った様に刀の柄を握った侭動かない。
 刀をくわえ込んだ侭の亡骸を忌々しく蹴り飛ばそうとしたその時、先に刀を手放していた右の掌に激痛が走った。今度は熱だとは思わなかったから、土方は酷く冴え冴えとした眼差しで、がくんと後ろに僅か引っ張られる様な慣性を齎した、己の右手と、そこに綺麗に突き刺さった短刀をただ見た。
 (んだ…、銃器なんざ扱うと思ってたら……、こんな忍みてェな芸当のある奴も居るんじゃねェか)
 状況が状況なら口笛でも吹いてやりたい心地になりながら、土方は利き手を奪われて絶体絶命に程近い状況にある筈の己に、全く悲観も絶望もしていない昂揚感を抱えた侭で、当初の予定通りに眼前の亡骸を蹴り飛ばした。軋む左腕の握りしめている刀が、骨から漸く抜けて自由になる。
 右の掌を貫いている刃は、抜いた所でどうとなる様には思えなかった。指に上手く力が入らないこの状態では、到底刀など扱えはしないだろう。
 左腕でも戦えない事は無いが、絶対的不利である現状は覆し難い。風穴を空けた左肩が痛みを思い出したらそれで終わりだ。
 土方を囲む敵は、土方が悲鳴ひとつ上げない事で、到底目の前の男が手負いだとは思えていない様だった。至近での致命としての確率を考えたのだろう、油断なく懐から拳銃を取り出すと銃爪に指をかける。
 以前の見廻組との一悶着に端を発する訳ではないのだが、土方の卓越した反射神経と危機察知能力は、同じ刃を相手にするよりも寧ろこう言った一撃必殺の可能性を秘めた無粋な玩具にこそ真価を発揮する性質であった。
 黒い銃口が己の方を向いた瞬間には土方の意識は既に疾っている。鈍い左の腕での斬撃ではコンマ何秒か間に合わぬと践んだ無意識が理解より先にその足を動かし、銃を手にした男は足払いをされた形になって仰向けに転倒した。銃爪に掛かっていた指が動き、倉庫の高い天井へと虚しい銃声を吠えさせる。
 「土方!」
 銀時の声に促される様に、土方は横合いから再び投擲用の短刀を投げようとしていた男を斬りつけるが、矢張り普段の膂力からは大分欠けるその一撃は僅かに浅く、致命には至らない。とは言え直ぐには持ち直せないかも知れない。追撃か転進か。だが、増えた余計な選択肢に解答を出すより先に、銃を持った侭転倒した男が土方の腹を蹴り上げて来た。
 「、」
 やぶれかぶれの様な靴先は、然し偶々に土方の横隔膜を痛打していた。寸時呼吸が止まり、酸素と胃酸とを押し出す様な湿った咳と共に、土方はその場に倒れ込んで仕舞う。
 肉体は痛みをやり過ごす間を必要としていたが、然し土方の危機意識は戦意を喪失せずにいる。起き上がらなければ命が無い。そんな本能で地面についた左手が血で滑るのを見る間も無く、土方は獲物を確実に仕留めに来るだろう敵を見定めるべく、身体を仰向けに転がした。
 その視界一杯に飛び込んで来る、真っ直ぐに頭部目掛けて振り下ろされた刃先を、寸での所で頭を捩って躱す。頭部のすぐ横、眼前の床に刃が突き立つ、その血塗れた表面に映る鬼の笑み。
 土方の上に馬乗りになった男が、床に刺さった刃を引き抜く。それと同時に、刃の行く先を追って仰向こうとしたこめかみに、ごつ、と押し当てられる鉄の感触。
 ぴたりと押し当てられた髪の毛を焦がす様に熱い鉄。先程の銃だと理解はするのに、土方は酷く落ち着いた侭、遠くから近付いて来るパトカーのサイレンの音を聞いていた。
 見廻組であっても真選組であっても、こうなった以上大差はない。罵声も、遺言ですら出ない侭、土方は己の頭の上で、かちりと弾倉の回る音を聞いていた。
 『……遅ェ』
 そう、唇の動きだけで呟いた瞬間、土方のこめかみに銃口を突きつけていた男が吹き飛んだ。
 「悪かったな。これでも急いだんだよ」
 ぜぇ、とらしくもなく息を乱した銀時が、木刀を振り払ったその侭の姿勢で嘆息する。土方はそれを見上げながら、展翅盤に虫を留めたピンの様に右の掌を貫いていた短刀を無造作に引き抜いた。肉と骨とを直に擦る感触に肌を粟立て、忽ちに傷口から溢れだす血を、ほどいたスカーフで押さえつける。
 漸く思い出した様な痛みに顔を顰めていれば、傍らに膝をついた銀時が土方の背を支えて上体を起こさせた。肩の銃創が貫通している事を確認すると、自らの着流しの裾を裂いて止血を試みてくれる。
 銀時のするが侭にされながら、土方はゆるゆると頭を巡らせて倉庫内を見回した。概ねは銀時と土方で制圧出来ている。人数と亡骸を簡単に数えるだに幾人かはサイレンを聞きつけて逃げた様だったが、出口の限られた埠頭では逃げ場もそう無いだろう。応援──かどうかはさておき──が来た以上はそちらの心配はしなくても良さそうだ。倉庫内にも未だ、無力化されて転がる幾人もの呻き声が血臭に混じって聞こえて来る。捕り物は当初の潜入じみたものから、大分その規模を拡げて仕舞った様だ。
 (取引は防いだし、生存者の逮捕が出来りゃ組織を芋蔓式に引っ張るも容易だ)
 見廻組の人間が裏切り者として関わっていたかも知れない、その確実な証拠は掴むには至らなかったが、上手く利用すればこの手柄を真選組のものにするも叶うやも知れない。
 (まあ……、俺と言う最悪な弱味が此処に転がってる以上、難しい話だろうが)
 声が出ない事は、いっそ気絶した振りでもしていればやり過ごせるだろうし、銀時とて誤魔化す程度の協力はしてくれるだろうとは思う。が。
 結局何が得られたか、と言えば、何も得られていない、としか言い様がない。この組織かはたまた取引相手かを引っ張れれば、件の薬物についての情報を些少なりとも得られる見込みぐらいあるかも知れないが。もう余り期待はしていない。
 『……痛ェな』
 思わずそう唇が動くのに、傷口近くを縛っていた銀時の手つきに力が籠もる。白い布地が瞬く間に紅くなって行く様をじっと見下ろしながら、やがて銀時は苛々とした様子で呟いた。
 「…………俺が、気付くべきだったんだよな」
 それは後悔と言うよりは自責の響きに聞こえて、土方は痛みに顰めていた顔一杯に不可解さを乗せて銀時を見た。
 あれは、土方が声を出せなかった事が原因だ。あの距離で、乱戦の中で己に向けられた銃口に──しかも致命とは言い難い狙いだ──気付くと言うのは容易い事ではない。
 だから土方はかぶりを振った。お前の所為じゃないだろう、と言おうとするが、「違ェ」と先にそう遮られる。
 「おめーの声が出ねェのは知ってたんだから、俺が離れるべきじゃなかったんだ。どうせ無茶するのなんざ解ってたってのに」
 「……」
 いや、お前の所為でも何でもないだろうそれこそ。お前はそもそも巻き込まれただけの一般人なんじゃなかったのか。
 頭の中ではそんな軽口が浮かんだが、銀時の真剣な眼差しを前に、土方は言葉を文字通りに失ってただ茫然と、心底に苦しそうにしている男の姿を見つめる事しか出来なかった。
 「………………悪ぃ。護ってくれた、んだよな」
 「…………」
 小さな声がぽつりとこぼすのに被さる様に、パトカーが停車する音。沢山の靴音。その制服の色が黒かった事を土方はぼんやりと緩慢に認識したが、安堵は別段湧いては来なかった。
 終わったのだ、と。静かな認識だけが胸の裡の脆い部分に落ちて来るのを感じる。辛うじて未だ砕けはしない、意地の様なもの。
 「副長!」
 声を上げて駆け寄って来る山崎と、わらわらと現場に散って生存者を手際よく確保にかかる部下たちをゆるりと見回した土方は、緊張に身を固くしながらその場に立ち上がる。失血感に眩暈を覚える身体は、傍らで同じ様に立ち上がった銀時が軽く支えてくれた。
 「遅れて済みません。捜査区域の管轄がとか揉め事がちょっとありまして…、」
 だろうとは思った。言葉にしないが溜息で返してかぶりを振る土方が、事の原因を知っているのだろうと判断したらしい山崎は何か問いたげな表情を作ったが、
 「ンな事より出来れば救急車」
 形になる前に銀時に素っ気なくそう遮られ、そこで我に返った様に土方の負傷度合いを見てから慌てた様に頷いた。
 「救急車を呼ぶより直接病院に向かった方が早いです」
 「………」
 こちらへ、と促す山崎の後に、銀時に押される様にして土方は無言で続いた。現場を囲む警察車輌と、待機する真選組隊士らの目に曝されながら、血の足跡を引き摺って歩く。
 反論はあった。言いたい事も、命じたい事も。あった。
 だが、声は出ない。
 筆談をしようにも、右手も左肩も穴を空けて自由にならない。
 だから土方には無言で従う事しか出来なかった。






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