五棺桶島 / 11



 翌朝、土方は陽の昇る前に目覚めた。一睡も出来ないだろうと思っていたのだが、どうやら知らぬ内に少し転た寝をしていた様だ。疲労感は残留した侭だと言うのに意識だけは昨晩からの流れを断たず鮮明で、眠気の類は一切感じられず睡眠を妨げられた不快感も無い。
 陽が入って来ない所為で辺りはほぼ夜並に暗かったが、身体の感覚や空気感でなんとなく今が夜明け前頃だろうとは知れた。
 頭の裏で潮騒がずっと響いている気がして、江戸に戻ってもこの侭だったらどうしようかと埒もない事を考えて土方は苦笑した。もう帰る事を考えているとは自分の事ながら気の早い話だ。
 屯所であれば、いつもより少し早い時間に目覚めて仕舞ったとなれば、顔を洗った後に軽く身体でも動かしている所だが、生憎とこの手狭な洞穴の中では素振りは疎か体操ひとつ出来そうもない。
 土方はまだ眠っているらしい、シュラフにくるまって芋虫か何かの様に丸くなっている山崎に動き出す気配が見られない事を確認すると、そっと音を殺して立ち上がった。潮位の少し下がった波打ち際を通って洞穴の外へと出てみる。
 水平線を見遣った途端、真っ平らに拡がった海と空との狭間から太陽がその姿を覗かせた。眩しい筋状の陽光を、掌で庇を作って目を細めつつ見つめる。
 岩場は巣作りに適しているのか、昨晩は見受けられなかった海鳥が崖の周囲を飛び交って喧しく縄張り争いに鳴き交わしている。どうやら岩壁に巣があるらしい。小さな雀程度の囀りなら何とも思わない所だが、大きな海鳥の大群となると流石に少々煩い。
 昇り始めた太陽に、鳴き交わす鳥たち。それだけならただの朝の風景でしかない。江戸であれど孤島であれど、世界の何処であれそれは同じだ。
 土方は足下に気を付けながら軽く両腕を上に伸ばした。不自然な姿勢で座っていたのもあるだろう、伸ばされる筋が思い出した様に慣れない痛みを訴えて来る。
 その侭軽く両腕だけストレッチをしてから、土方は洞穴へと戻った。と、丁度山崎の入ったシュラフがもごもごと動き始めた所だった。
 監察の職務で日頃から不便な睡眠環境に慣れているのだろう、昨晩散々歩き回っただろうに、山崎は目を擦ると疲れも眠気も見れぬ淀みない動作でさっさと起き上がり、元の位置に戻って座った土方に「お早うございます」と挨拶を寄越して来る。
 「はよ」と口を開けば、己ではっきりと解るほど疲れて掠れた声が出て土方は顔を顰める。水でも飲めば恐らくは治るだろうが、島逗留一日目で既に疲労困憊と取られるのは癪だ。
 手を出せば、察した山崎に水の入ったペットボトルを手渡される。土方は未開封のそれを捻って開けると夜気に軽く冷えた水でゆっくりと喉を潤した。更に、土方が水を飲み終えるのを待って、小さめのタオルが手渡される。
 「ずっとこんな所に居ると潮っ気で気持ち悪いでしょ?すっきりしますよ」
 「……だな。確かに朝は顔でも洗わねェとすっきりしねェ」
 顔を擦る仕草と共に提案され、土方はペットボトルの水を少しタオルに染み込ませてそれで顔や手足を拭い、ついでに身支度を整える。本当は全身隈無く拭いたいぐらいだが、痕の一つぐらい残されていそうな身体をこんな所で晒す訳にも行かないので諦める。
 それでも、潮風でどこかべたついた気のする顔を冷たい水で拭うと大分すっきりした。眠気が残っていたと言う訳では無いが、ただ気持ちがしゃんと締まる心地がする。
 それから同じ様に顔を拭った山崎が昨晩と同じ様に朝食の携帯食料を用意し、それなりに空腹でいた腹を満たした。
 それらが全て終わる頃には、時間帯は早朝から朝へと転じ、洞穴から出て外を見れば太陽が少しづつ上へと移動していくのがよく解った。
 島民の『仕事』が農作業なら動き出す時間帯も早いだろうと判断し、時間にして大凡九時を回る頃まで待ってから二人は二日目の行動を開始する事にした。
 
 *
 
 山頂の社は明るい場所で改めて見てもやはり、酷く小さくそして荒れ果てていた。鳥居は半壊し、扉は傾いて大きく間口を開きその用を最早為していない。外観には雑草が生い茂り蔓草の類が遠慮無く蔓延っている。霊験灼かかと問えば誰もが間違いなく首を横に振るだろう。寧ろ社と言うより少し変わった廃屋と言った風情ですらある。
 それだと言うのに、定期的に島民がそこを訪れている形跡は周囲にも社にもありありと残されていて、そこが土方にも山崎にも引っ掛かる点ではあった。
 道中も社の周囲でも踏まれた雑草の量は多い。ここ二日三日以内のものなのは確実な新しい足跡もある。然し普通は人間が定期的に歩く道ならば雑草も生えなくなるものだ。歩き辛いからと抜く事だってあるだろう。この場所を定期的に訪れる意味が島民にあるとして、攘夷浪士一派がこの島に渡り潜んでからの年月を考えれば、草も生えぬ道の一つぐらい出来ていても普通はおかしくない。
 そもそも、社と言う建造物の役割を思えば、そこを訪れる理由は『神様』に手を合わせに来ていると考えるのが普通だ。それを、こんな風に荒れ果てた侭にしておくだろうか。
 古くからここに奉じられていた神様にせよ、はたまた最近島に入り込んだ天人の『神様』にせよ、雑草だらけの壊れかけた社にそう言った存在が相応しいとは思えない。
 島民たちもそう思わない筈は無いだろう。雑草にまみれ半壊した社に手など合わせた所で、そこに宗教的な意識や結束が芽生える訳が無い。
 殊に人間は見た目のイメージに囚われ易いイキモノである。崇め奉るなら華美で小綺麗な物か、或いは歴史ありそうな古く威圧感のある物か。そう言った解り易い灼かさを求めるものだ。
 直す余裕が無いにしても、せめてそれなりの体裁は整えるだろう。山崎の報告して寄越した、奇妙な宗教的習慣があるらしい島民ならば猶更に。何しろこの社の壊れ具合からして、少なくとも数年単位での劣化なのだ。今までこの状態で放置しておく理由がない。
 朽ちた木材に腰を下ろす気にはなれず、社の前に立った侭土方は、灼かどころか解り易い廃屋でしかないその建物を観察していた目を周囲の茂みへと向けた。山崎が中を調べる間、土方が念の為周囲警戒をする分担にしていたのだ。
 日の高い内に外に出たのは、上陸してからこれが初めての事になる。着いたのが昨晩なのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、真っ暗な山林を歩いたり薄暗い洞穴に潜んでいるよりも余程に健全で、正直なところ土方は少しの解放感を憶えていた。お陰で意識がどうも散漫になりがちだ。
 山崎は、傾いて外れた戸の隙間から差し入れた半身でもぞもぞと内部を伺っている様だったが、古くなった床板を踏み抜いて仕舞いそうな心配があるらしく捗っている様には見えない。
 「御神体ぽいものは見当たらないですが…、ここにも人が入り込んだ痕跡は見受けられますね。比較的新しい足跡があります」
 周囲の木々へと視線を向けながら、土方は浮かんだ当惑の侭に眉を寄せた。今は入り口にしゃがみ込んでいる山崎も恐らくは同じ様な顔をしているだろう。
 「元社としか言い様の無ェ廃屋を訪ねる理由?」
 「……さぁ。宗教的な意味へ想像を向ければ可能性はキリが無いですよ」
 土方が自ら疑問を口にしてかぶりを振ると、山崎も肩を竦めてそれに応じた。お手上げ、のポーズを取って続ける。
 「もっと詳しく調べれば何かが隠されてるとかそう言う事も、」
 あるかも知れない、と恐らくはそう言いかけた山崎に、土方は制止の意を込めた掌を向けた。察して即座に黙り込む部下を振り向きもせず山道の方へと視線を投げる。
 「(誰か来る。一旦離れるぞ)」
 話し声の類がした訳ではないし明確な足音を聞き取れた訳でも無いのだが、土方の明敏な直感はここに向かって来る何者かの気配を嗅ぎ取っていた。土方の直感を疑う気は無いのだろう、山崎も疑問は口にせずに足音も立てずに社から降り、身を低くして足早に森へと進む上司の背を追う。
 木々の隙間に二人して潜んで振り向けば、果たして土方の直感通り、島民らしい人間の男が二人、社の前に立つのが見えた。
 初めて目にする島民だ。好奇心も手伝って少し観察すれば、二人の男の身なりは古びて汚れた着物の裾を上げて頭には手拭いと言う、農作業中を絵に描いた様な姿であった。履いている草履も土に汚れており、まるで今し方まで行っていた作業を放り出してここに来たかの様にも見える。
 彼らはただ社の前に、何か会話をするでもなく呆っと立っている。そこから特に何をすると言う訳でも無い。ただ、口元を小さく何か動かし続けながら熱心に社を見つめているその姿は、昨晩山崎の報告した、トランス状態で宗教的儀式に夢中になっていた、と言う有り様に合致している気がした。
 その侭動かない彼らを見ていても埒が開かない。土方は我知らず粟立っていた自らの二の腕を擦りつつ、山崎を促して森の中を下山する事にした。逃げる訳では無いが、振り向きたくはなかった。きっとまだ同じ様に何かを唱えながら突っ立っているのだろう想像は易いし違えてもいまい。
 粟立った腕を見て、これを怖れだと土方ははっきりと認める。島民が宗教的な行動をしている可能性がある、と言う所である程度の予測や覚悟はしていた。だが実際目の当たりにした『あれ』は何だ。あれを果たして、宗教とか戒律とか言う言葉に当て嵌めて良いものなのか。
 土方は彼らの宗教的な行動にではなく、ただ生物的な感覚としてそれを不気味であると感じた。攘夷浪士にも一種の宗教じみた集まりを形成している者らも居るし、真選組もそう言ったカルト集団を摘発した事もある。故に、宗教的な思想の元ひとつに集まった人間たちを相手にする事は初めてでは決して無い。然しここは──あれは、何か今までに土方の見て知って来たものとは何か根本的に異なったものの様に見えたのだ。
 宗教とは文化だ。文化には社会的な理由と意味とがある。だが、彼らのあの行動は、朽ちた社を恰も奉じる彼らの行動は、感性は、人間の作った文化と言うよりも、何かもっと異質なイキモノの生命活動か何かの様に思えた。
 (こんな島に引き籠もって外界との接触が断たれれば、人間ってのはこんな得体の知れねェ共同体になり果てるのか…?)
 閉鎖社会には変容が無い。変容が無ければやがて不審と反発とが生まれる。宗教行為がそれを怖れた故の、結束を固める為の行動だとすれば彼らは、何かひとつの得体の知れぬ信念に凝り固まった一種の、一個のイキモノにも似た集団と言えるのかも知れない。
 そんなものたちを前にして、あの万事屋一行も、自分たちも、果たして無事でいられるのだろうか。異なった社会性を有したものを相手取る事は、ただただ目の前の敵を倒すと言うだけの討ち入りよりも余程に危険だ。話と思想と心理とが理解の及ばぬ領域に在る者など、ある意味で人間では無い。
 ぞっとしない想像に顔を顰める土方に、山崎が「大丈夫ですか」と小さく問いて来る。問うた相手の方はと言えばいつもの地味顔に動揺の類を乗せている気配は無い。何だか癪で、土方は「ああ」と簡潔に、然しはっきりとそう答えた。
 「一旦戻りましょう。この時間帯に動き回るのは流石に危険ですから。夜になったら副長は旦那たちの所に行くんですよね?」
 昨日銀時らに約束した事を忘れた訳では無いが、思い出して土方が頷けば、
 「俺はやっぱりちょっと気になりますんで、夜もう一回社を調べてみようと思います。後で旦那たちの居る家を教えて下さい。追いつけたら追いつきますから」
 山崎はそう、背後に遠ざかった社の方を振り返る様な仕草をしながら言った。土方にも己の信じる直感があるのと同じで山崎にも、ただの廃屋にしか見えない物に、然し何かしらを感じる監察としての勘があるのだろう。そこに反対する理由も特に無いので了承しておく。
 「じゃあ、夜までは仮眠でも取って体を休めとくべきですね。昼間っから薄暗い洞穴に逆戻りって事ですけど」
 言って、土方がうんざりとした表情を作る前に山崎は苦笑と共に肩を竦めてみせた。お陰でひねた返答を返す気の削がれた土方は、「だな」と単なる相槌でしかない首肯を返す。
 折角外に出れたのに、とは思うが、そう思った所で、そんな暢気な事を言っていられる状況でも無かったと思い直して溜息をつく代わりに緊張感を吸い込んだ。どんなに天気が良かろうが日の下が心地よかろうが、この奇妙な島で不気味な連中に囲まれている現実を思えばそこには不快感と不安感しか生じない。
 こうして人並みに不安を憶える癖に、その癖きっと己はどこかで楽観視しているのだろうと、ここに来て散々自覚はさせられて来た。それこそ嫌になる程に。
 昨晩山崎が生意気にも口にした、『らしい』と言う言葉が苦味を含んだ棘となって胃の下辺りに突き刺さるのを土方は感じていた。






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