五棺桶島 / 13 草履で歩く素足に泥や夜露が纏わりつく感触は実に久々に憶えるものであった。 江戸の新しい町の道の殆どはアスファルトで整備されているし、そうでない旧市街も土がきちんと整地されていて、その地面は固い。こんな風に泥で少し柔らかい道やそこから生える夜露に湿った雑草などまず無い。 まず思い出したのは武州の事だった。天領の農村がその面積の殆どを占めていた、言って仕舞えば田舎だ。特段悪い場所では無かったが、余り好きな故郷では無かった。出来るだけ早くそこから離れて独りでも強く生きたいと願っていた土方にとっては、今更戻りたいと思ったり望郷の念に駆られたりする様な場所でも無い。 文明の発展の一切から切り離された島は、土方が居た頃の武州を思い出させた。似ていると言う程では無い筈なのだが。 では何故武州の事など思い出したのかと言えば、理由をよくよく考えずとも単に己の知るこう言った田舎じみた情景は此処の他にはその一箇所しか無いからなのだろう。 そう気付けば、己の世界も余り広くはないものだと思う。任務で僻地へ出向く事は幾度かあったが、行き先は何れもそれなりの町で、こんな風に夜の農村の狭間を物思いに耽って歩く様な事はなかった。 思い出す程にあの風景が恋しいと言う事は無い。今更だ。ただ、こんな風に叢を歩き回る事など随分と久し振りだと思っただけだ。 自らに言い訳をしている様な妙な心地になりながら、土方は夜露に濡れた足下の叢を見下ろした。村落を少し離れ森に入って仕舞えば、そこは轍一つ家一軒さえ無い山林になる。島民も件の薬草茶などの材料を求めて森に入る事ぐらいはあるのだろうが、それは道が出来る程に確かなものでは無いらしい。 元より人間にとって危険な野生動物の既に駆逐された島だ、人間の領域から突如森に分け入った所でそこは最早未知では無いから何か事故や獣害が発生するでもない。そうなれば、森に用事があれば好きな所から入れば良いだけの話だ。安全を確保された人の領域たるを示す道など必要無いのだろう。 夜は物騒ではなくただ静かで寒い。こんな時間に森の中になど好きこのんで入る者など恐らくはいないだろう。そうでなくとも夜が早いのか、村落を歩いても土方が銀時ら以外の人間の姿や気配を見出した事はない。外敵が入って来ない事に平和ボケしている上に夜も安全と言うだけの事ならば願ったり叶ったりなのだが。 今日は銀時は「送る」とは言い出さなかった。仮に言ったとしても土方の方から断っただろうが。餓えを一時満たしておいて今更常識的な態度を取り繕う訳では無いが、矢張りこんな事態にあって暢気にセックスなどをする事は危機感に欠ける行動だとは思う。銀時らしからぬ様子だったとも思う。……土方自身が抵抗しなかったどころか甘んじて受け入れたのだから、それこそ今更の話だが。 果たして銀時もそう思って追い縋らなかったのかは解らないが。取り敢えず調査も依頼も継続と言う事で、また明日の夜に落ち合う約束は取り付けた。 一応、山崎が来るかも知れないとは伝えておいた。今頃社の調査の続きをしているのか、それともすれ違いになる事を怖れて洞穴に先に戻っているのか。 何れにせよ何か新しい事を掴んでくれていれば良いのだが。山崎の憶えた勘が、あの社に纏わる何かを──引いては神様こと標的に纏わる情報、或いは当人を何とか発見するに至っていれば最高だが、流石にそこまでを高望みする気は無い。 だが、何かしら進展をしてくれなければ困る、とは正直に思って土方は眉を寄せて顔を顰めた。結局ここに来て己は未だ大した事は出来ていない。万事屋を発見し協力を取り付けたぐらいだ。それでさえ土方に出来て山崎に不可能と言う事では無いのだ。 (全く、江戸から少し離れたぐらいで、こんなにも手前ェが頼りの無ぇもんだとここまで思い知らされる事になろうとは…) ここまででも幾度となくその自覚はあったが、実際にこうまで己の得て来たものや知って来たものが役立たずになると流石に自信も喪失する。山崎には「気負うな」と言われたが、そんな部下の前で己が全く『使えない』事実は自覚すればする程に土方の顔を気鬱に顰めさせた。 (浅知恵さえも役に立たねェってんなら、後は腕っぷしぐらいしか残っちゃいねェ。そんなザマで万事屋の連中をどう護ろうかなんて考える事自体が烏滸がましいのかもな) 思考の末に浮かんだ結論は、常に最悪から前向きの想定を心掛けている土方にしては珍しくも後ろ向きであった。素足にまとわりつく泥汚れが不快だから、足下の頼りなさを知るから、そんな事を思うのかも知れない。 夜の闇も森も木々の狭間の星々も、江戸から見上げるそれとは随分と異なって見えた。大義名分も侍の名も法も仲間でさえも随分遠い、それでもこの場所に己の良く知る変わらない連中が居ると言うだけで結果は多分マシなものになる筈だと、確信も無くそんな事を思う。 愚痴の一つや二つこぼしたくなる様な、最悪に近い状況だと言うのに。 (図々しいな。野郎が居れば、なんて手前ェに都合の良い事ばかり考えてやがる) 根拠の無い確信は明確な信頼の為せる業なのかどうか。それでさえ、本当の所は何を信じて良いものなのかすら解っていないと言うのに。 想いの名前でも何か形にしておけば安心出来たのだろうか。ただの確信以上に、互いを信じて背中を任せ合うに至れたのだろうか。 思ってから、違うな、と否定する。想いの正体が恋だ愛だそれともただの腐れ縁だ情人だセフレだとはっきりした所で、土方はそれらに己の信念を譲るつもりは何一つ無いと思えたからだ。煮え切らないが、あの男は矢張り土方にとっては身体を明け渡そうが心までくれてやれるものではないのだ。 どんな言い訳や理由を探そうが、一時の餓えと熱情とで我を忘れて仕舞う様な関係など、正しいものとは思えない。情に絆された挙げ句の、無様な為体を晒しただけの過ちとしか言い様が無い。危機感に欠けるどころの話では無い。 己に何が出来るか。何をすべきか。それを見誤る様なものであれば不要だとは、この巫山戯た任務に就く前にも思った事だった。 (そうだ。少なくとも、今俺の考えなきゃならねェ事は、標的を探し出して確保して、チャイナを救出して万事屋共々無事に返す事だろうが) 女々しくなりつつあった己の思考に向けて罵倒しながら、土方は見下ろしていた足下から視線を周囲へそっと向けた。木々と叢とに囲まれた森は鬱蒼として歩き辛い。ハイキングコースの様に舗装された山林では無いのだからそれも当然だが。 虫の声の合唱に囲まれながら、土方は慎重に再び歩を再開する。まだ村落に近いからライトは点けていない。足下はよく見て動かなければ躓いて仕舞う。 こんな辺鄙としか言い様の無い島に逃げ込んだ犯罪者は果たして何を思うのだろうか。土方の様に故郷の田舎でも思い出して郷愁に似たものにでも駆られるのだろうか。 逃げ隠れをするなら、こんな目立つ場所は普通は選ばない。木を隠すには森だ。町の中にでも潜んだ方が余程に見つかり辛いものだ。手配書などまともに見て憶えている者は存外に多くは無い。 つまる所の話。天人はこの島が特異な環境だと知らずに逃げ込んだとは思えないと土方は考えている。何かの折にこのい號離島特区の事情を知って、それを利しようと思いここに逃がれる事を選んだ筈なのだ。 だがどうしても疑問が残る。その特異な環境の中で宗教的な要素を擁した『神様』として君臨したとなれば、それは直ぐに知れ渡って仕舞う事だ。 この島が江戸幕府の密かな監視下にある事ぐらいは、島の事情を知るならば確実に知り得ている基本情報だろう。そんな行動を取れば目立つ。そして気付かれる。隠れ潜む目的には明らかに合致しない。 この島に幕府が手を出し辛いと言う事を知っているなら猶更だ。今回の土方らの様な、少数のエージェントが送られる可能性ぐらいは想定して然るべきだろう。だとしたら、銀時らはそう疑われた可能性もあるかも知れない。 だがそれならば、夜兎を怖れ隔離したのは余り利口とは言えない行動だ。驚異に成り得る天人だから、女だからと生贄と言う名目で処刑するのも早計だ。 女を生贄とする。古今東西の宗教的に見てもそう珍しい話ではない。前時代的ではあるし正しくも無いだろうが。 その間生贄は女の仲間にとっての人質にはなるが、女が殺されればそれ以降はその効力を失って仕舞う。銀時や新八の反発を抑え込める自信があるにしても矢張り早計過ぎる気がするのだ。飼い慣らすならば外部から来た夜兎が危険と感じようが、もっと上手い事出来る筈だ。実際神楽は島民に対して警戒をまるで抱いていない様ですらあった。大人しい人質ならば殺すよりもっと上手い使い方があるだろうに。どうしてそこまで神楽を殺す目的に拘ったのか。 利用価値、と言う、離れぬ嫌な予感を不意に思い出したその時、ふと土方は眉を寄せた。何か今違和感を憶えた。 昨晩、違和感がある、と山崎も口にした。 (そう言えば島に来てから、一度もチャイナ以外の、) 山崎が村落の中で最も大きな家屋に潜入して目撃したと言う、男たちの儀式めいた行動。 然し宗教に即したものの存在の無さ。 社に現れた不気味な二人の男。 農作業をしている男たち。 生かされ拘束もされていない銀時と新八。 その推定事実に異常さは憶えるし不気味な感覚もある。だがそれが具体的にどんな意味を指すのか迄は解らない。 然しそれが、神楽が『生贄』とされる理由なのだとしたらそれは。 夜兎への畏れでも無い、人質目的でも無い、『彼女』を、処分するより他に手立てが無いからなのだとしたら、それは──、 「──!」 思考が纏まらない侭の脳が猛烈な情報量にリソースを割いていた丁度その空隙に、突如異質な音が入り込んだ。土方は考えに囚われその接近に気付くのが遅れた己を呪う。だがその呪う事さえ既に遅い。 ぢ、と乾いた音が耳に嫌に大きく響いた。項に何かが触れる気配。 経験からそれが、何か大きな虫の様なものがまとわりついているのだ、と判断した土方は手で項を払おうとするが、それよりも早く鋭い痛みを感じて短い苦悶を上げる。 小さな蚊ですら気付かぬ内に肌に貼り付き血を吸い上げていると思えばぞっとしないと言うのに、それよりもっと大きな何かが項を刺したのだ。 理解と同時に嫌悪感が背を走り、咄嗟に伸ばした手で土方は自らの項を刺したそれを掴んだ。ぐしゃ、と嫌な音と感触とが、握力を調節する余裕も無かった掌の中でそれが砕けた事を伝えて来る。 恐る恐る手を開いてみれば、掌の中で潰れていたのは蜂だった。少なくとも蜂に似ている、然し今までに見た事のある同種のものより明かに巨大な、蜂。 掌の半分程もある巨大な蜂は今は潰れ、ぴくりとも動かない。そしてその尾には針が無かった。 蜂は一刺しで尾と共に針が抜ける事もある、と言う事を思い出し土方は再び手を項にやった。今度は慎重に、己の皮膚に未だ残っているのだろう、蜂の大きさを考えればぞっとしないサイズの『針』を探す為に。 「……?!」 だがそれは叶わなかった。手は項に届くより先にがくりと脱力し肩からぶら下がり落ちる。痺れる様な脱力感は腕ばかりか背筋を瞬く間に這い降りて、土方の膝は当人の意志に反してがくりと崩れ落ちた。 巨大な蜂。掌に残ったその残骸をもう一度見遣る。こんなものが地球の土着の生物だとは思えない。と、なるとこれは件の天人がこの島に持ち込んだものに違いない。刺した対象を害す為にか、刺した対象に何かをする為にか。 然し『蜂』となると一度しか使えない筈だ。一刺しで針が抜けて死んで仕舞う。つまりは他に何匹もこんなものが居るのか、それともこの一匹しか居ないのか。 思考がぐるぐると回る。視界がぶれて霞んで、嫌な汗がどっと出ていく。全身に力は最早僅かも入らず、伸ばしたつもりの手は刀に触れてすらいない。 もしもこの蜂に毒でもあったら、ここで死ぬのだろうか。 そんな比較的に常識的な思考が自然と浮かぶのにそこに悲嘆は無い。否、恐らくその方がマシなのではないかと理解して仕舞ったからだ。 霞む土方の視界の中には、周囲から己を取り囲んでじっと見つめる無表情の島民たちの姿があった。意志の全く宿らぬどろりとした眼差しで、獲物を──或いは仲間をか、彼らは見つめているのだと。そんな絶望的な理解は残念な事に早かった。 * 三十分近くを待っていたが、土方が戻って来る事は無かった。 山崎が土方と別行動をして山に入ったのが今から二時間程度前の事とすれば、洞穴に戻ってからも更に三十分は経過している。幾ら銀時らとの情報交換を行っていると言っても、流石に二時間超は長すぎるだろう。 昨晩の様に『寄り道』でもしているなら話は別だが──否、それにしても矢張り長い。 山崎は銀時と土方とが奇妙な深い関係にある事は薄々…いや大体を知っている。少なからず人目を忍んで連れ込み宿に消えていく様な関係である事は知っている。 無論本人達に訊いた訳では無い。調べた──と言う程調べてもいない。己の上司とは言えど平等に監察対象にすると言うのは山崎に与えられた役割だったが、それでも踏み込むべきではない一線がある事は知っているし、そう言ったものはその侭にしておくべきだ。下衆の勘繰りが職務の様なものとは言え、興味本位で他人の秘密を徒に暴き立てるのと職務とは異なる。 因って山崎の結論は概ねが推論であったが、あの二人がどう言った理由でか所謂ところの『そう言う』関係にある事には気付いていたし知る所でもあった。 互いに恋愛事にする気配は全く見せないので、単なる遊びにしてはリスクが高い上に不思議な相手選びだとは思ったが、まあ当人たちがその状況に甘んじているのであれば別に構うまい。 己が上司に向けて何かを口にするとしたら、『それ』が真選組の障碍になる関係になったと判じた時だけだ。そしてそれが到底起こり得ないだろう事だとも解っている。 そんな、二者に対する密やかな事実を思考に乗せれば、昨晩土方が『寄り道』をしたのだろう想像を肯定する要素は幾らでもあった。疲れた様子に、何処か落ち着きなく浮ついた様子、少し掠れた声や、気怠そうな挙措。極めつけは土方自身からの報告にあった、銀時との奇跡的な偶然の成した『再会』だ。 非常時に、とは思うが眉を顰める気はしなかった。具体的に何があったかは定かではないが、土方の様子がそれまでの旅程中の気負いや苛立ちを棄てて、どこか気楽で安堵している様にも見えたからだ。 副長がそれで良いなら良いだろう、と、山崎は今までに幾度と無く至っては落ち着いた結論に今回も腰を据えて、何か口出しをする気は一切無かった。軽く指摘はしたが、精々その程度だ。 ──だが。 (それにしても遅い) 『寄り道』にどれだけ耽ったらこれだけ遅くなるのだ、と言いたくなる様な時間経過を既に見ている。そして山崎の知る土方は、淫蕩に耽って任務を忘れて仕舞う様なタイプでは断じて無い。恋情だのと言った個人の感情よりも平然と真選組と言う組織を選び取れる様な人間だ。 土方がもしもそんな、色事や恋愛事に容易く溺れて仕舞う様な性情だとしたら、とっくに銀時との関係に山崎は口出しをしていただろう。真選組の為にはならない、と言う一番卑怯な言い種で。 故に至った結論は、何かあったのではないか、と言う至極真っ当な、然し極力起こり得ては欲しく無いものだった。 (何かあったにせよ、無いにせよ、俺も行った方が良いなこれは) 島民の居る場所へ向かったのだ、トラブルの可能性は否定出来ない。況して山崎が社で得た推論が正しいのであれば、銀時や新八の事も危ぶばねばならないと言う最悪の可能性も視野に入れなければならないだろう。そしてその『最悪』の──最も起こり得ないだろうと何処か無意識で楽観的に考えていた可能性が正しければ、それが、ここに来て何故か突然標的(敵)の方から打って出ようとした、と言う想像を益々に恐ろしいものとさせる。 山崎は立ち上がると灯りを消して荷物を持ち上げた。もしもこちらの動きに気付いた事で自棄になって標的が動いたのだとすれば、もう此処に戻る事は無いだろう。物品を残して行く理由は無い。 活躍を削られた分いろいろ手落ちな山崎パート。 ← : → |