五棺桶島 / 19



 まるで粘つく泥の海にでも放り込まれた様だった。身体は四肢の隅々にまで鉛でも流し込まれた様に重たく怠く、意識ははっきりしている癖に思考だけが憶束ない。
 目の前には誰のものともつかぬ記憶が時折漂い、土方は己が『誰』或いは『何』であるのかの境界さえ曖昧に感じながら、本能的にその恐怖に抗い続けていた。
 己が『誰』なのかなど、今までの人生で問う事など滅多に無いだろう。何故ならば普通に生きて暮らしている以上、人の意識は如何なる時でも己を亡失する事など無いからだ。
 己の正体を問うなどと言う、哲学的にすら聞こえそうな思索の中で、土方の意識は幾度も得も知れぬものの裡へと融けそうになっては留まる。そしてその小さな抵抗を嘲笑うかの様に、『何か』の──或いは『誰か』の記憶と意識とが直ぐ隣で囁くのだ。
 これもお前。これがお前、だと。
 それはまるで、劇場の席に縛り付けられて見たくもない観劇の場を設けられている様な心地であった。拒否したくとも目を背ける度に頭をそっと戻される。そんな乱暴だがやんわりとした侵食に、土方の意識は『己』を──少なくともこれが己なのだと思えるものを総動員してただ向かい続ける。
 俺が『俺』であるのは──在る依る辺は、遠く離れた江戸の真選組と、今は手に無い刀と、今は目の前に居る一人の男へと向けた感情。
 それは曖昧で不確定の、あやふやな関係でもある。だが、関係性の名前以上に感情がある。あやふやな関係の中に誤魔化して埋めて来た、心が在る。酷い状況でも頼りない不安を退ける程に安堵し心許せる、そんな想いを寄せるものが。
 その事実に、今目の前に唯一在るひとつを頼りに、土方は薄く開いた視界の中、目の前にひらりと翻って見えた白い着物を強張って重たい五指で必死に掴んだ。
 
 *

 「土方?!」
 ぴしゃりと頬を打つ様な声が耳元に響いて、咄嗟に土方は煩いと返そうとして口を開き、そこで乱暴に頭を揺すられて舌を噛んだ。その痛みに呻きながら手を動かそうと藻掻き、余り憶えの無い己の姿勢に気付いた所で狼狽した。
 目の前には白い着物。ぐらぐらと不安定に揺れている身体。頭は下を向いているのか血が昇っていて痛む。そして手はその、目の前の白い着物を縋る様にぐしゃぐしゃに握り締め、その下の肉に爪を突き立てていた。
 「よろ、…ず、や、?」
 白い着物に紅くついた血の染みをぼんやりと見つめながら、漸く己を呼んだ声の主に思い当たってそう問いてから、土方の意識は酷い頭痛と共に覚醒した。
 「──ッ?!」
 がば、と腹筋の力だけで上体を起こしかけた所で、どうやら己の身体が布団か何かの様に引っかけられ──否、誰かの肩に担がれていた事に気付き、今更の様にその不安定な状況に目を剥く。
 「おはようさん、酷い寝相で随分と暢気にお休みだったみてーで何より」
 笑み混じりの銀時の軽口に土方は痛む頭を何度か左右に振って、それから起こしていた上体をぐたりと崩した。また血は昇るし、戦う男の肩上では荷物の様に揺れて気分も悪いが、今はそんな事を気にしている場合では無い。
 記憶は不自然にあちこちが虫食いの様に途切れてはいるが、己があの胸の悪い『本体』をその裡に抱えている事ぐらいは憶えている。そして今『本体』の意識は己の裡にではなく、どこか別の端末に意識をリンクさせそちらに乗っているのだとも。
 だが、それでも土方の裡には未だ端末虫が残されていて、この酷い頭痛も記憶の混乱もそれの仕業なのだとすんなりと理解が出来ていた。皮肉な話だが、『本体』の記憶の断片を共有していたお陰だろう。
 「降ろせ、万事屋!こいつらと同じ、俺ァもう駄目だ、またてめぇらの敵になっちまう前に捨て置くか無力化するか、とっととしろ!」
 裡なる者に喰われる、己を『誰』と問いながら自我を亡失せんと抗う、その孤独な恐怖よりも、銀時や山崎や新八や神楽の敵となって彼らを害する『己』の方が余程恐ろしかった。
 肩上に土方を担ぎながら器用に木刀を振るう、銀時の前には自我を完全に失って木偶と成り果てている島民の姿がある。銀時は普通の人間相手に戦う時と同じ様に彼らを殺さず留めている様だが、その所為で現状が不利になっているのは改めて指摘するまでも無い事だろう。
 打たれ、転がり、骨を折り、それでものろのろと起き上がっては行く手を阻む、彼らはもう死んでいる。少なくとも彼らの脳は寄生した端末虫に因って無理矢理に活かされているだけだ。生命活動さえ忘れさせられた生物を生きている物と呼んで良いのかと問えば、多くは躊躇いながらも、違う、と答えるだろう。脳に寄生した生物と、その生物を使役する存在に因って動かされるだけの肉と成り果てた者たちはどうしたって自律した意識を持つ生きた人間には戻らない。戻れない。
 己も何れはああなるのだ。それも解っている。端末虫は冬虫夏草の様に寄生した生物の脳へと根を張りそれを掌握して『本体』を護る忠実な兵士の機能だけを有したものへと変えるのだ。
 『本体』は自らの身体を土方の裡に残している為に中身は留守の様な状態だが、脳に根付いた端末虫の性質は変わらない。もう数日もすれば土方もまた、この島民たちと同じものへと成り果てる。意志も信念も持たぬ生きた屍の様なものへと。
 否、それよりも前に『本体』が意識をこちらへと戻せばそれで終わりだ。土方はまた見たくもない観劇を──銀時らを己の手で斬り捨てると言う最悪の演目を見せられて、棄てられぬ自我の狭間で悪足掻きをしながら己自身に絶望する。
 行く手を塞ぐ島民たちでさえ斬り捨てない男が、果たして知己を見捨ててくれるだろうか。──答えは、ノーだ。この男は絶対に土方を見捨てはしない。救う手段を探して悪足掻きをするだろう。土方の身体を使う『本体』にとっては実に都合の良い事に。そしてそうなった時の結果は、土方にとっては最悪で最低な話でしか無い。
 「万事屋ッ!」
 ぐ、と抱えている土方の腰を掴む手が更に強くなった気がして、声を上げる。銀時とて土方を気絶させたと言う事は、本当は解っている筈なのだ。土方がそう遠からず敵か異物かに成り果てる事を。それだと言うのに手の力は揺るがない。目前の敵を振り払って駈けながら、手を、離そうとはしてくれない。
 「てめぇの、ッ、てめぇの護りてェもんの事を考えろ!優先順位はこっちじゃねェだろうが馬鹿天パがッ!」
 「煩ェ黙りやがれV字ハゲ!」
 怒鳴る土方に同じ様な罵声を返すと、銀時はその場に立ち止まって土方を地面へと下ろした。足が地面につくなり咄嗟に距離を置く土方の、刺々しい警戒心が恐怖に因るものだと恐らく正しく理解しているのだろう、銀時がそんな土方へと向ける眼差しは少しばかりの苛立ちの気配を漂わせてはいたものの、概ねいつも通りの気の抜けた男の表情であった。
 「解ってんに決まってんだろ。でも今怒鳴り合っても何にもならねェし、そんなん後から考えてやるから、今は俺とおめーとでどうにかこれを切り抜ける方が先だろうが」
 「……」
 嘘だ、と土方は思った。銀時は言いかけた言葉を、思いかけた可能性を、無理矢理に押し遣って変えて投げて来たのだと。
 後から幾ら考えた所で土方の助かる手段など安易に出て来る訳が無い。それでも銀時は俺とお前とで、と言った。切り抜けられるのだと、本気で言っている。安易に浮かぶ最悪の可能性を押しやる程に確かな確信を。
 それは明瞭な直感の様なものであって、不確かなものでしか無いが。それでも土方の心は打たれて竦む。安易に諦めてなるものかと、戦う意志を思い出してそれに縋ろうとする。
 名案だの奇跡的な解決方法など、そんなものが都合良く目の前に転がってくる筈もない。それを解っていて猶、この男の言葉に、そこに秘めた確信に気付いて仕舞う己は滑稽だった。
 ぐ、と口端を歪めて激情の発露を堪える土方へと、銀時は腰から刀を鞘ごと抜いて投げて寄越す。草の上に膝をつく土方の目の前に落ちたそれは見紛う筈もない、己の刀だ。そうする間にも死者の行進の様に現れる島民を木刀で払い除けながら、銀時はもう振り返りもしない。
 「──俺が、また意識をアレに奪われたらどうするんだ」
 「信じてなきゃ背中なんざ任せねェさ」
 松明に照らされ閃く銀髪の後ろ姿が、それでも多分、否、きっと笑っているのだろうと悟って、土方は「馬鹿野郎」と小声でそんな男と自らとを罵った。
 そんなものが、一体何の役に立つのか。
 いっそこの刀で命を断ったらどうかと考えるが、そう思考を巡らせただけで酷い頭痛が更に激しく痛みを齎す。恐らくこの抵抗は己の裡に居る端末虫の本能的な死を回避すると言う生物的な反応に因るものだ。それを押し通そうとすれば、端末虫は自らの保身の為に土方の意識や記憶や精神を破壊してでもこの肉体の主導権を得て止めようとするだろう。
 今は未だ、『本体』が宿主の記憶などを江戸に行った時に利するつもりであるから、土方の意識も精神も保たれているだけなのだ。
 (とっくに、命運は掌中か)
 舌を打って刀を抜く。鞘走りの音にも銀時は振り向きすらせずに目の前の敵を払い除け戦っている。信じているなどと言う言葉はきっと何の役にも立たないと解っている癖に。幾ら信じられた所で現状をどうにかする手段は思いつきもしないし見えても来ないと言うのに。
 (それでも──きっと、俺が確信しているのと同じで、野郎もそれを疑ってねェんだ)
 想い一つ交わせなかった癖に、不器用な筈の互いの心がそんな事ばかり自信を持っているのが馬鹿馬鹿しかった。
 (馬鹿、野郎が…!)
 軋る様な罵声は然し声にはならなかった。土方はその瞬間に己の身体が電流でも浴びた様に竦み、頭の中へとなにか、違う異質なモノの意識と記憶と認識とが強引に注ぎ込まれるのを為す術も無く見つめていたからだ。
 木々の狭間に、銀時の姿が見える。そしてその背後に立ち尽くす己の姿が見えた。脳を犯される様な不快感に踏み留まろうとする、人間の哀れな抵抗を嘲笑い、見ていた。
 それが『本体』の今目にしている光景なのだ、と理解した次には、銀時の背中が見えた。全く背後を気にもせず、信頼だと一言言い置いて戦う男の背中が。
 その背に向けて己の刀が振り上げられるのを土方は見た。
 「──」
 恐らく次の瞬間に目にするのは最悪の光景だ。その想像が、畏れが、絶望が、土方の意識をずたずたに引き裂いて暴れる。厭だと叫ぶ。そんな事は許さないと吼える。そうさせて堪るかと絶叫する。
 何が、信じている、だ。馬鹿野郎。
 罵りながらそう真っ当に思うのに、そう信じてくれていた確信に、行動に、思いに、応える事が出来ないなんて言うのは御免だった。
 だって、悔しいではないか、そんなのは。
 己が不甲斐ないばかりにこの男を、そんな事の為に死なせるなんて。
 俺とお前で、と言われたのに、そう信じられ任されておいて、自分だけそれが叶えられないなど。
 「右だ、万事屋ぁッ!!」
 刃を向けた男の背に向けて、土方は己の何処にこんな力が残っていたのだと言う程に強く、ただ一言そう吼えた。自由になどならぬ筈の身の抗いが、悔しさに叫んだ己の意思が『本体』の意識が支配せんとするその空隙に偶々に入り込めたのか。解らないが、兎に角声が出た。
 銀時は、問い返しも、笑いもしなかった。
 まるで土方のその言葉を待っていたかの様に、木刀を翻して己らを取り囲んでいた島民たちの中から、土方の叫び示したただ一人を躊躇わずに狙って打つ。
 「、」
 島民が──その裡に未だ残っていた『本体』の意識がその衝撃に竦み、土方はその隙を逃さなかった。銀時へと振り翳していた刃を、怯んだ意識を制して止めると、やめろ、と叫ぶ意識をねじ伏せ、自らの腹部へと向けた。
 「手前ェの不始末だ、これで仕舞いにしてやらァ」
 そうして土方は、自らで作った血溜まりに膝をついた。




ゴースト的なシステム。

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