頬を薔薇色に染めて手掛けし恋の悲惨について考えよ / 1 午前中は晴れ渡っていた空は午後になって俄に曇り始めていた。予報では夜からの雨だとか言っていた様に思うが、刻々と空を覆って行く雲が果たして向こう何時間雨粒を落とすのを堪えてくれるのかなど、幾ら見上げて見た所で専門家でもないのだから解り様もない。 まあ今すぐ雨が降ろうが降るまいが、後は家に帰るだけの身にはさしたる差はない。午後の講義に出る心算は端から無かったから傘は持っていないが、今の世の中いざとなれば傘など何処でも手に入るのだ、そう深く悩む事でもない。 そんな事より今は、昨晩うっかりゲームに夢中になって削られて仕舞った睡眠時間を取り戻す事の方が思考の優先順序としては上位に来る。早く家に帰って一眠りしたい。欠伸を噛み殺した銀時は、なかなか変わる気配のない赤信号をちらと見遣ってから、尻ポケットに入れてあるスマートフォンを取り出した。信号機の中で点滅するメーターはまだ赤信号が長く続く事を示していたので、暇つぶし程度にと思いながら天気予報の情報サイトを開く。 結野アナのお天気情報、と題されたページを慣れた手つきで開けば、笑顔がそれこそ晴天の様に眩しい気象予報アナウンサーの画像がページ内に表示される。気象予報士でありニュース番組の名物お天気コーナーを担当している結野アナの名を冠した、気象情報のサイトだ。 (午後から夕方にかけて一部地域で俄雨…?雷注意報とか出てんじゃん。朝と話違くね?) 胸中でぼやきながら薄暗くなり始めた空を仰ぐ。上空は風が出ているのか、暗灰色の雲が白い雲と地上との間を遮る様に伸びて拡がって行っている。俄雨が今すぐにでも降り出すのか、それともそんな事はないのか。矢張り幾ら雲間を見上げた所で解りはしなかった。 視線を信号機に戻せば、赤信号の残り時間を示すメーターは残り二つになっていた。車輌用の信号機が黄色に変わり、青矢印の点灯と共に交差点を右折しようとしていた車が順番に走り出す。 スマートフォンの液晶を消して元通りポケットへと戻すと、銀時は斜め掛けにしている鞄の位置を何となく直した。 主要幹線道路を通るこの横断歩道は、昼間は車輌の往来が優先される為に歩行者用の青信号の点灯時間が短い事で知られている。逆に言えば車輌の青信号がとても長いと言う事なので、信号の待ち人は銀時の他にも大勢が集まっていた。皆、短い青信号の間に横断歩道を、中央分離帯で足止めされる事なく渡りきって仕舞おうと少し前のめりでいる様にも見える。まるでマラソンか何かのスタート地点の様だと思いながらも、自分もその中の一人だと言う自覚は銀時にもある。この信号の長さは、一度でも逃せば電車の一本も逃す事になる。万一にでも渡りきれないなどと言う事が起きぬ様、出来るだけ早足で渡りきって仕舞いたい。 鞄が揺れて歩行の邪魔にならぬ様にと肩紐を押さえる。気休め程度だが。 そうして銀時がメーターの残りあと一つになった赤信号を見上げようとしたその時、視界の端で人が動くのが見えた。止しておけば良いのに、と、どこかで思いながらも反射的に頭が右方面を向く。 道路を挟んだ反対方向、道の角に小さな花屋がある。その花屋の前に小型の白いワンボックスカーが停車しており、花屋の店員らしい男が荷を積んでいた。 そこまでならば銀時の目を特別引く光景だったとは大凡言えない。注視が思わず向いたのは、その花屋の男が不自然な動きをしていたからだ。 小さな、植え替え用の鉢が幾つも並べられたケースを持ち上げ、車まで運んで積み込む。鉢は掌ぐらいの大きさのポリポットだ。幾つも入っているとは言え、そう重たいものでもないだろう。 だが、それを運ぶ男の動作は緩慢で、そして注意深い。ひょこ、と片足を引き摺りながら歩くその様子は、男がその挙措に慣れきっているのだと知れる。危なげないが惑う様子も無く作業を淡々とこなす姿は、昨日今日の怪我と言った動きではない。随分長く──ひょっとしたら生来脚が不自由なのかも知れない。 何となくぼやりとそんな光景に見入っていた銀時は、どん、と軽く身体に隣行く人がぶつかった事で我に返る。信号はとっくに青に変わっていた。樹木か何かの様に茫然と立ち尽くしていた銀時を邪魔そうに避けながら人々が歩いて行く。歩いて来る。 やべ、と羞じと失態とに舌打ちをして、銀時は横断歩道に踏み出した。まだ青信号の残り時間を示すメーターは四つ…いや三つ残っている。早足なら渡りきれないタイミングではない。 早足のスニーカーが中央分離帯へと差し掛かった時、またしても銀時は後方の花屋を振り返っていた。ばたん、と荷室を閉める音が車輌の走行音たちに混じって聞こえた様な気がしたのだ。 と、そこで思わず足が止まる。 荷室を閉じた花屋の男が運転席の戸を開けていた。荷物は積んだのだから後は届け先に運ぶだけなのだろう。そんな車輌の横、縁石に小型の鉢植えが一つ取り残されていた。 「あ、」 花屋の乗り込んだ運転席を見遣るが、花屋がこちらを振り返ってくれそうな気配はない。エンジンがかけられ、緩く振動を始める車。そこから視線をスライドさせれば、ひとつだけぽつんと取り残された頼りなく寄る辺もなさげな鉢植えが、縁石の上に淋しく佇んでいる。 銀時は足を停止させた侭、辺りを忙しなく見回した。青信号は既に点滅を始めた様で、慌てて走って横断していく人々がその横を通り過ぎて行く。花屋の店の中にいるだろう店員の姿も、近くで信号を待つ人間の姿も無い。 気付いているのは自分だけ。 「ああクソ、」 銀時は点滅し始めた信号に背を向けて横断歩道を逆方向に駈けた。横に車が通っていない事を確認してから、斜めにもう一つの横断歩道を越えて花屋の車に勢いよく辿り着くなり、だん、とその車体を平手で叩いた。 それとほぼ同時に、信号の赤と青とが入れ替わり、道路を車の群れが走り出した。赤信号に再び転じた歩行者用信号のメーターは、なかなか減らない満タン状態を維持している。 運転席に収まっていた花屋の男が、突如鳴った音に何事かと訝しむ様な表情でミラーを見遣る。そこに映り込む様に手を、ちょっと待って、のポーズで振りながら、銀時は縁石に置き去りにされていた鉢植えを見下ろした。 全く、お前のお陰で電車一本逃す羽目になっただろうが。 悪態未満の心算でぼやいて、大きく溜息をつく。そうする内に車から花屋の男が降りて来た。 「何だ。何かあったのか?」 片目に眼帯をして、長めに伸ばした頭髪で埋もれさせた男の姿は。否態度も。大凡銀時の想像し得る『花屋』のイメージとは掛け離れていた。黒いシャツにジーンズのその姿からは仄かに煙草の香りがしている。その上から濃い緑のエプロンを着用している所だけが、唯一『花屋』の体裁を保っている風に見えなくもない。 「や、鉢植え一個忘れてるみたいだったんで…」 言って銀時が足下を指させば、男は暫しの間きょとんとしていたが、やがて小さく喉を鳴らして笑った。 「そうか。わざわざすまねェな。気付かなかったよ」 どこか大義そうに礼(らしきもの)を言う男の様子は、何だか銀時が信号を渡り損ねて戻って来た事をも知っているかの様に聞こえた。そんな筈もないのだが。 「だがな、」 男はこつんと手の甲でバンの荷扉を軽く叩いて肩を竦めてみせた。その仕草が言葉ではなく銀時に伝えている。悪いが徒労であった、と。 「もうこいつの入るスペースまで荷物を積んじまってね。折角だしひょっとしたらこれも何かの縁かも知れねェ。こいつはアンタにやるよ」 不自由な足を庇う様に膝を折った男は、地面から持ち上げた鉢植えを銀時の方へと突き出した。 茶色い、テラコッタの色をしたプラスチックの鉢だ。その中に敷き詰められた黒く湿った土から、ここ数日で漸く出て来た様な小さな芽と申し訳程度の草が覗いている。 眼前に突きつけられた鉢植えに、銀時は面食らった。近くに店があるなら戻しに行けば良いんじゃないかとか、一個ぐらい何とか車に積む事は出来ないのか、とか、幾つも反論は浮かんだのだが──、空っぽの鉢にいつの間にか勝手に生えた雑草の様な植物を前に、出て来たのは全く違う言葉だった。 「いや、俺一人暮らしだし植物の面倒とか見てらんねェし…」 「そいつは花だ。咲けば願いが叶う」 そして花屋の男が返したのも、全く違う、脈絡など無い様な言葉であった。 「え?」 「……かも知れねェぜ?」 思わず聞き返せば、ふ、と悪戯っ子の様な笑みを浮かべてそう返し、花屋の男は呆気に取られていた銀時の手の中にその鉢植えを押しつけた。咄嗟に受け取って仕舞ってからはっとなって男を見るが、彼は既に銀時に背を向けて運転席へと戻った所だった。 「ちょ、オイ?!」 「じゃあな」 開いたパワーウィンドウからひらりと手だけが振られる。花屋の車は泡を食う銀時には全く頓着もせず、その侭滑る様に走り出した。 瞬く間に遠ざかるその姿を暫し茫然と見送ってから、銀時は手の中に残された鉢植えを見下ろした。 雑草と見紛うかも知れない、何の変哲もない芽と葉っぱ。肥料らしきものも蒔いておらず、品種を書き記した紙切れ一つ刺さってもいない。 「………えぇぇ……?」 滅多にない親切心を起こして、信号を一本──電車を一本逃してまで得たものは、手の中の精彩のない鉢植え一つ。 否、別に見返りが欲しかった訳ではなく、単に商品を一つ忘れて行ったら後で困るだろうと思ったら勝手に身体が動いていただけの事なのだが。 「ひょっとして、端から捨てる心算だったとか?オイお前何とか言えよ…」 有り得ない話でもない。そう思った銀時は鉢植えに向けてぼやいてみるが、当然鉢植えの中の小さな葉はイエスともノーとも応えてはくれなかった。 電車の遅れは一本か二本か。その分遠のく帰宅時間と、減少する睡眠時間。雨が降るかも知れない可能性のリスク。銀時は失ったそれらの損失と引き替えに得た鉢植えをその侭置いていって仕舞おうかと暫時の間考えはしたが、結局持って歩き出した。 願いが叶う、などと言われた事を信じた訳では無いが、この侭損失だけを抱えて帰ると言うのも何となく業腹であったのだ。 (どうせ直ぐに枯れんだろ。面倒なんて見てる余裕無ェし、ウチあんま日当たり良くねェし) まあでも、置いておくなら午前中だけ洗濯物が乾く、日差しの差し込むベランダの角が良いだろうかな、と茫洋と考えながら、銀時は横断歩道に面した信号機を見上げる。赤信号の残りメーターは二つ。今度は何事が起きても渡りきろうと決め込んで待ち姿勢に入るのだった。 ほんとに現パロ出来てるのかなこれ…。 ← : → |