狂えるコッペリウス



 軋む左腕を手に取ってじっと見つめる。
 外見は人間のそれとまるで変わらない。皮膚の上の小さなほくろまでその侭だと言う。
 元あった傷は自然と消えて──否、無くなって仕舞うらしい。新しく付けた瑕も自然と修復されて元通りになる。
 このウィルスが、或いは天人が、果たしてどの様な理由で、どの様な生態で存在するのかは知れないし、興味もないと土方は言った。銀時とてそれは同じだ。
 宿主の──この場合は土方の身体を全て食らい尽くしたら、その次はどうなるのだろうか。人形の様な物質にその構成素材全てを置き換えた『土方』の裡で、ウィルスは淡々と生き続けるのだろうか。
 だ、としたら非道い話だ。
 天人の中にも『巣』の様な独自のコミュニティや居所を拵えて仕舞う種族は居るが、彼らは大概の場合、地球内の法や宇宙渡航法に基づいて処罰される事が多い。だが、今回の場合相手はウィルス(或いは極小サイズの天人)である。ウィルス相手に法も何もあったものではない。
 そして、人間の力や医療の力で抑止が効かないものであれば、手の打ち様もないのだ。
 遺された側にせめて出来る事はと言えば、宿主となって『死んだ』亡骸を、研究の為に然るべき機関へと提供するか、ウィルスが熱で死ぬと信じて、万一の蔓延を防ぐ為に遺体とその身の回りのもの全てを焼却するか。そのぐらいしか思いつきそうもない。
 「……でも、俺ァそれも厭なんだよね。お前がバラバラの標本にされてホルマリンの中に浮かぶのも、灰になってどっかに吹き散らされちまうのも」
 そう、土方のものではなくなった左腕を指の腹で撫でながら銀時が謳う様に言えば、くつくつと喉を鳴らす音だけが返る。
 「じゃあどうしたいって言うんだ。何なら『厭』じゃねェんだよてめーは」
 「そうだな……、人ひとり入れるぐらいのガラスケース手に入れて、その筺の中に飾っとくとか?」
 「……真顔で変態じみた事抜かしてんじゃねェよ。引くわ。言っとくがそんなの真っ平御免だからな」
 目を据わらせて抗議を寄越す土方に、割とマジなのに、と思いながらも口には出さない懸命さはある銀時は、曖昧に笑い返しながら、触覚の失われた左の腕を戯れに擽ってなぞり上げて行く。
 皮膚の感触は外見と同じで、触れただけでは人間のそれと矢張り変わらない。だが、強く押してみれば、その下にあるのが脂肪や筋肉では決して無い、固い手応えを持った物体なのだと知れる。
 それ以上進むには袖が邪魔だったから、着流しの左側を掴んで引き下ろす。
 「……」
 土方は盛大に顔を顰めはしたが、何も言っては来ない。大方、銀時が触れ慣れない物体を面白がっている、とでも思っているのかも知れない。
 肘の部分を軽く折り曲げる。きし、と関節の辺りで軋む音。曲げた侭そっと手を離そうとすると、かくりと力なく重みの侭に元に戻って仕舞う。紐で全身を繰られた操り人形が丁度こんな感じに似ている。紐を引いていない限りはその手足は自由に動かない。
 ちらりと伺えば、土方は無言で銀時のしたい様にさせている。己の腕と言う感覚がもう無いから、何も感じないし不快でもないから気にならないのかも知れない。どうなっても構わないと思っている風でさえある。
 肘から手を離し、二の腕を辿る。刀を振るう剣士として鍛えられた肉体の、造型の美しさや均整はまったくその侭だと言うのに、触れてみて思い知る、その中身は今では歪な作り物でしかない事実。
 腕の内側の少し柔らかい部分に触れて、銀時は土方が何も言わないのを良いことに、その腕を持ち上げると皮膚の上に唇をそっと押し当てて吸い付いてみた。その感触にではなく行動に、土方の背が一瞬だけ神経質そうに震える。吸い痕ぐらい残らないかと思ったのだが、ここも矢張り皮膚の下には紛いの感触が在る為に叶わなかった。
 続けて腕の付け根、肩の辺りで軋む音を聞きながら、脇腹の方へと手を進めて行けば、流石に土方も狼狽した様子で「おい…、」と抗議する様な声を上げた。
 「何してんだテメェは」
 ここから先は未だ人間の侭の様だ。思って安堵しながら、土方が何らかの反応を見せた事が楽しくなって、脇腹を下から上へと掌でなぞり上げてみる。
 「っ待て、おい…、胴体はまだナマモノなんだ、擽ってェだろ」
 「生きてるって良いなぁとか思わねぇ?」
 「思うか馬鹿、」
 銀時の軽口に辛辣な調子を向けかけた土方の言葉が、びくりと震える身体と同時に途切れる。くすぐったいのならくすぐってやろうと悪戯心を起こした銀時の手が、土方の脇腹を摘んだのだ。
 「あのな…。遊んでんじゃねぇよ、いい加減に離れやがれ」
 「いやいや、遊んでねぇって。な、擽ってぇって事はさ、やっぱ生きてるって事な訳だよ」
 真っ当そうに聞こえる事を言ってやれば、土方がむっと口を噤む気配がした。気遣いに聞こえなくもない銀時の言い種を無碍に払うのは流石に躊躇われたのだろう。
 その隙に入り込む様にして、残った右襟を捲って落とそうとすれば今度は流石に制止の手が出た。
 「待て。何脱がしてんだ」
 ぺち、と右の襟を掴む銀時の手を軽く払って、土方は少し後ろに引く動きを見せた。その侭落とされた左の袖を引っ張り上げようとするのをやんわりと押し留めながら、銀時は真顔で提案する。
 「な。手前ェがちゃんと生きてるって確認、してみねェ?」
 「は?」
 「はい?」と言うより「はぁ?」の響きを一音で返した土方の、殆ど剥き出しに晒されている左側の腰辺りに銀時はするりと手を滑り込ませた。
 すれば、きっかり六秒の沈黙の後。
 「…………………は?」
 今度は「はい?」の響きで、土方はぽかんと口を開いた。呆気に取られた様にその侭暫し固まって、それから眉を思い切り寄せる。
 「……巫山戯て、いる訳じゃ無さそうだな。頭は天パ以上に湧いてるみてェだが。一体どう言う風の…いや、どう言う心算なんだテメェ」
 少し低さを増した声音は、質問と言うよりは尋問の調子で、それを向けられた銀時は想わず忍び笑った。職業柄なのかも知れないが半分以上は元々だろう。こんな低音とキツい目つきの迫力で迫られたら、黙りの一つも決め込めそうもない。
 厳しく吊り上がり眉根を寄せた眼差しは、銀時の方をじっと見据えて動かない。こんな物騒な形の鬼が瞳孔の開いた眼をして刀を携え歩いているのだ。それは不逞浪士も恐れる訳だ。善良な一般市民でも思わずそっと目を逸らしたくるのではないだろうか。
 見たことの無い筈の、然し見た事もありそうな光景を思い起こし──夢想してみる。
 ずっと、そう在った様に。ずっと、そう在る様に。
 その鋭く真っ直ぐな黒瞳に銀の色が過ぎって、ふと注意を引く。忽ちに細められる目に頭の中で戦闘開始のゴングが鳴り響いて、そうしていつも──
 「おい、訊いてんのか万事屋、」
 余所事に思考が逸れかかっていた銀時は、重ねられようとした問いに我に返ると、両腕を伸ばして土方の頬を捕まえた。「え」と眼前の黒瞳が瞠られるのを見つめながら、顔をついと寄せて唇を重ねる。これ以上もなく解り易い、問いに対する答えのつもりで。
 すり合わせる様な口唇の動きに、土方が思わず目を閉じる。ムードを考慮したと言うより、単に眼前でにやにやと笑う銀時の顔を見ていたくなかっただけだろう。ぎゅ、と寄った眉間に深い山脈がくっきりと浮かび上がっていた。
 期待には添えないだろうが──或いは期待通りか──、その侭するりと唇を離して、銀時は至近距離で吐息に乗せて囁きを落とす。
 「お前がちゃんと生きてるって確認してぇ。まだ、諦めるには勿体ねェくらい、お前は人間なんだって教えてやりてェ」
 意を決して、然し緊張はおくびにも出さずにそう、甘いだろうと思える息遣いで、銀時ははっきりと告げた。
 「お前を抱きてェ」
 「──」
 舌先に、思いついた願望を乗せた途端、びし、と凍り付く様な動きで土方が身を強張らせた。息を呑んで、然し次の瞬間やわやわとそれを溜息にして吐き出す。
 「…………本気か」
 それが、心底訝しむ様な声音だったから、銀時は秒と空けず即座に首肯を返す。
 「ああ」
 「………………」
 今度は呻く様な沈黙だった。是か否かどちらを選ぶか考えているのではなく、もっと単純に「これどうしよう」と言った所だろうか。
 「だから、お前を、抱きてぇんだっt」
 「解ったから繰り返すな!……〜いや、解っちゃいねェが、」
 この侭放っておいたら、土方はぐるぐると惑う沈黙に逃げて仕舞いそうな気がしたので、もう一度距離を詰める心算で銀時が迫れば、土方は顔を赤くしながらも掌を立ててそれを制した。視線をあちこちに彷徨わせて、それから脇腹にまだ突っ込まれた侭でいる銀時の手を見下ろす。解り易い葛藤の姿だ。
 「さっきはお前もキスしてくれたじゃん」
 「〜……ッ、それは、てめぇが顔近付けて来たから、…っつーか関係ねェだろそれは!」
 先頃、後頭部を引き寄せられた事を思い出して、銀時が口を尖らせてそれを指摘すれば、土方はしどろもどろになった。沸騰寸前の湯の様に耳まで血を昇らせて抗議を寄越すのに、
 「関係は無ェかもしんねぇけど、意味は大アリだろ?」
 またしても真顔を作った銀時は、そう言いながら土方の脇腹に差し入れていた手をするりと進ませた。背中に入り込んだ掌で、抱き寄せる様に両者の距離を狭める。
 「お前が、やっと俺を受け入れて縋ってくれてんだ。……堪んなくなるだろ」
 「……………」
 ぶすりとした調子で紡いだ筈の言葉には、銀時が己で思った以上の熱が篭もっていた。
 そこからはっきりとした『欲』の片鱗の様なものを感じたのか、受けて、土方は何かをまだ言いたげな表情を浮かべたものの、口には出さなかった。言っても無駄、だと悟ったのかも知れない。
 「な。生きてなきゃ出来ねェ事さしてくれや」
 単なる要望と言うには足りないぐらいに諦めの悪い、銀時の『お願い』を無言で聞いている土方の背はぴんと張った侭だった。神経を尖らせた物慣れぬ野良猫の様に、己の振る舞い方を慎重に量っている。
 合わさった視線が。右の綺麗な黒瞳と、左の紛いの眼球とがじっと銀時の姿を映している。今までの──いつもであれば疾うに言い合いか喧嘩が始まるか、目を逸らして離れているか。そんな時間を超えてもずっと。
 「……俺ァ碌に動いてやれねェんだ。いいとこ、マグロかダッチ人形にしかならねェぞ?」
 そうして奇妙にさえ感じる沈黙の間の後、漸く出て来たのは、そんな自嘲の気配の強い言い種。らしい、と言えばらしいが。思って、銀時は苦笑しながら土方の右掌をそっと捕らえた。
 「…万事屋?」
 訝しむ様な表情で浮かべられた疑問符に、手指をそっと絡めて銀時は答える。
 「こうして、ずっと縋ってくれりゃ良いから」
 「……………………良く解らねェ野郎だな、てめぇは」
 沈黙の末に、ふっと顰め面を緩めた土方の、見えている眼と見えていない眼とが、同じ様な微笑みをそれぞれ浮かべるのを見て、銀時はその左側の目蓋を唇で塞いだ。
 抱く、などと言う宣言が嘘や冗談ではない事の証拠の様な、通常有り得ない様な仕草と距離とに土方はまたしても何かを言いたげに一瞬口を開きかけたが、結局それを口にはせず代わりに溜息を吐き落とした。
 「物好きな奴」
 笑みに似た調子でそんな悪態をついて寄越した唇に、銀時がもう一度自らの唇をそっと寄せれば、今度は眉間に皺を作らぬ表情が、無言で目蓋を下ろした。
 
 
 きしきしと、軋む身体を夢中になって掻き抱く。
 ゆらゆらと、揺れる腕には縋られない。
 だからせめて代わりの様に、合わせてぴたりとくっつけた掌を猶も押しつけて、絡めた指に力を込めれば、土方も恐る恐るそれに応えて来た。
 当然の様に、互いに男を抱くも抱かれるも経験なぞ無かった為、行為は殆ど見様見真似のものだった。……のだが、銀時は江戸有数の繁華街であり歓楽街でもあるかぶき町をテリトリーとする身である。因ってそのテの知識や四方山話は特に興味がなくとも自然と耳に入って来るので、初めてと言う割には存外にすんなりと事は運んだ。
 変容しつつある土方の身体がその行為をどう受け入れていたのかは解らない。
 「土方」
 だが、少なくとも。そう呼べば、乱れた荒い息遣いの中で、土方が薄らと微笑んでくれた様に見えたから、まだこの男の感覚や感情は何処にも失われてはいないのだと実感出来て、銀時は堪らなくなった。
 こんな事が『何』であるのか──何をも与えられなぞしないと、互いにちゃんと識っていたと言うのに。それでも、絡まった指はどちらの手からも、いつまでも解ける事は無かった。
 この、合わさった掌ひとつが、縋り合った指先ひとつが、何もかもを留めてくれればいいと、馬鹿馬鹿しいとは思いながらも願わずにいられない。
 畳の上に落ちた腕が何一つ応えを返して来ないのも、開かせた脚がだらりと力なぞない器物の様に揺れているのも、左の眼球に感情が何一つ過ぎらないのも。全てが余りに残酷な事実を突きつけ続ける事を止めてはくれない。
 『こう』なったからこそ、銀時は土方に同情以外の目を向けたのだし、土方は銀時に縋った己を認めた。『こう』でなければ、今のこんな様は有り得ない。こんな情は存在し得ない。
 だ、と言うのに、厭う。『こう』なったからこそ、失われるのだと言う結果を。思えば、堪らなく苦しい。どうしようもなく悲しい。
 土方はどうなのだろうか。……願わくば、同じ事を思っていてくれれば良い。
 そんな事を思いながら、銀時の寄せた唇の先で、土方は譫言の様にそっと呟いた。
 「こんな感覚も、感情も知らなかったが………これも、悪くねェ」
 その言葉から銀時が感じたのは、苦痛と等価の安堵。
 
 ああ。間違っていなかったのだ。
 
 *
 
 日々に必要だったのは幸福ではなかった。己の信念を遵守し誠に尽くす、それだけがあれば良かった。
 食い詰めても、身を削っても、狗の誹りを受けても、何でも良かった。魂の何処かに灯された焔を、己の途を照らすそれをただ護り続ける事が出来れば、それで。
 「……」
 久方ぶりに櫃から出して貰った刀は、手入れをサボっていたにも拘わらず、曇りも錆も歪みも見受けられなかった。僅か反った刃の銀色を美しいと思う。鑑賞の意味ではなく、純然たる在り方の意味として。土方の乞うた、己が信念を護る為の手段として。
 刀は刀。モノだ。そこに魂が宿るなど──それについては不本意ながら体験済みである──とはまるで信じていない訳ではないが、少なくとも己の抱いて来た刃に何かが遺っているとは、遺せているとは思ってはいない。
 手には取らない。上手く掴めない事に気付けば、きっとそれに失望して仕舞うだろうから。
 もう良いか、と、銀時が目で問いて来るのに頷きを返せば、刃は再び鞘の内にそっと仕舞われる。
 土方が、刀を見せて欲しいと頼んだ時、銀時は「まさかそれで何か早まった真似をするのでは」と言いたげな不安顔を露骨に見せて来た。土方の前に懐かしい刀身を晒して見せてくれている間もずっと緊張していたからか、元通りに櫃の蓋を閉じた時に出た溜息には疲労の色が覗いていた。
 銀時ほどの剣士が緊張するなど、土方が抜き身の愛刀を前に一体何をすると思っていたのか。
 (……こんな手じゃ、どうせ真っ当に刀なんぞ扱えねェってのに)
 自嘲めかして見下ろした右の掌は、もう殆ど指が動かせない。食事で箸を掴むのにも苦労したから、幼い子供の様に匙と肉叉を使うほかなかった。……それでも苦労したのだが。
 もうこの手が何かを掴む事はないのだろうか、と思った時、ふと土方は自らの刀を思い出したのだ。正確には、その刀を扱う己を、だが。
 刀は念の為にと当初から持ち込んであるが、使う事は想定していなかった為、この家に隠れ住んで数日後には櫃の中へと居場所を移す事となっていた。
 いつもの様に、夕食を終えて後片付けをしていた銀時に頼んで、件の刀を見せて貰う経緯となったのだが──思うほどの感慨も、銀時が懸念したのだろう『早まった真似』も、どちらも然程に土方の胸を打ちはしなかった。
 刀は刀。モノだ。そこに己の魂が都合良く宿る事など当然ありはせず。
 それはただ、土方の心の奥底にじわりと澱みそうな黒い感情を流し込んで来るばかりだった。
 食い尽くされる不安も怯えも、何もかも現実味が余りにあり過ぎた。あてにならない余命宣告より余程雄弁な変化は、解り過ぎるぐらいに確実に日々土方を苛み続けているのだから。
 この侭全てが人形(モノ)となったら、一体どうなるのだろう。
 土方に食事を与え、快楽や痛みを与えて、弱さの生む傷痕をどんどん拡げようとする銀時は、モノと化した『人間』を前に──何を、思うのだろうか。
 刀に魂など宿らない。
 人形にも魂など宿らない。
 久し振りに、己の寄る辺だった愛刀を見ても、含羞じみた懐かしさは憶えたが、それだけだった。
 刀を仕舞った櫃を、まるで忌まわしいものを封印でもする様に紐なぞ掛けている銀時の姿を見遣って、土方はそんな事をぼんやりと考えていた。
 この男は、人形を前にした時にも──生きて欲しいと。そんな願いをひたすらに訴えて来た、あの感情をやはり抱くのだろうか。
 ヒトを愛でたのと同じ様に、ヒトガタのモノにもそんな情を注ごうとするのだろうか。
 …………そして、その時には、人形(モノ)はそれを知覚する事が出来るのだろうか……?
 そこまで思考がふらふらと感傷めいたものへと流れた時、土方ははっと我に返る。
 (……………何、言ってんだ。そうなっちまう前に『壊せ』ったのは、俺だろうが……)
 死んだ後の事なぞ、死に往く者が考えた所で無意味だ。死の前にどれだけのものを遺そうが、どれだけ希望を残そうが、遺された者が何をどうしようかは勝手であり、干渉も出来なければ知る事すらない。歴史に謳われる聖人が全て正しかったのかなぞ、後世の解釈一つで如何様にでも変化するのだから。
 だから土方は、真選組を今の侭で存続させる為に、残された時間を尽くそうと決めた。近藤や沖田や部下たちが、土方ひとりが居なくなった事で迷う事がない様にと。せめてもの道標を遺そうとしてきた。
 きっと彼らならばうまくやってくれるだろうと信じている。そうでなければ心配で、心配で、諦めに逝く事なぞ到底出来やしない。
 そうして全身に絡む未練の糸を少しづつ、少しづつ、解いて来たのだ。後に遺る残骸の事なぞ、今更考える迄もない。
 「万事屋」
 呼ぶ声に潜んだ剣呑な気配を聡くも感じ取ったのか、紐を掛けた櫃を隅に押し遣りながら、眉を寄せた銀時の顔が背中越しに土方の方を振り返って来る。
 「俺は、俺の望んだ時に殺してくれとテメェに恃んだ」
 露骨に目を逸らしたがっている気配のありありと伺える銀時へと、土方は挑む様に視線を結んだ。そして一瞬だけ迷ってから、口の端を吊り上げた。笑おうと思って。
 自嘲ではない。何でもないから、と言う強がりでもない。
 ……笑おうと思ったのだ。無理のない、これが己の願いで望みで欲しいものであると言う事だけは、解って貰いたかった。
 銀時の表情が、不意打ちで殴られた時の様に驚きに瞠られ、それから困惑に歪むのを待ってから、土方は感覚の既に鈍く成り果てた右の掌をそっと自らの胸に押し当てた。
 もう、あの紐でぐるぐる巻きにされた櫃ですら、土方は自力では開けられない。
 己で刀を手に、決する事の出来る機会は逸したのだ。後は、いつか望んで銀時に終わらせて貰うほかない。
 だが、いつその『望み』を訴える力が己から失われるかは知れない。
 「……もしも、俺が何の意思も伝えられねェ侭に、人の形をしているだけの置物になっちまったとしたら。それはもう俺と言う存在の意味に何もなりはしねェ」
 だから。
 「本気で、飾るとか馬鹿抜かすなよ?」
 モノとしては扱わないでくれと、そんな言外にしない願いを込めて口にすれば、銀時はまるで泣く寸前の子供の様な表情になった。ほんの少しの躊躇いを纏った腕を伸ばすと、視力を失った土方の左眼を覆って、肩口にことりと額を落とす。
 頬に触れる銀の髪がくすぐったい。思って、吐息に乗せて小さく笑い声を上げれば、銀時の腕はその侭土方の背を引き寄せて来た。
 「………………厭だ」
 むずがる子供の癇性めいた聲がそんな呟きを落とした。厭、に掛かるものが、飾ったりなぞするな、と言う土方の言葉にではなく、土方がこの侭『消える』、それに対するものであるとは直ぐに知れたから、黙って聞こえないフリをしてやった。
 「痛ェよ」
 背に掛かる腕の膂力に、然し笑いながら言う。この痛みが未練と恐らくは等価なのだと思って良いのだろう。そんな確信はあった。
 だから、痛い、けど。離さないで良い。
 幾ら力を込めた所で。幾ら掻き抱かれた所で。幾ら想いを置いてくれた所で。
 (……いつかは、終わらないといけねェんだ)
 その時に己の意識が『この中』にあるかどうかは知れないけれど。その時には『これ』が未練ではなくなっていれば良い。
 近藤や沖田に思う様に、坂田銀時を信じて委ねる事にしたのだ。魂の宿らない人形を、どうか壊して欲しい、と。
 だから。その時を、後は。待つだけ。







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