歪みのスパランツァーニ



 銀時がゆっくりと、転がった侭動かない土方の方へと近付いて行けば、土方の瞳の中に忽ちに酷く重たい翳が落ちた。立ち上る陽炎の様な自嘲と、拒絶の気配がそこに宿る。
 たった数瞬で全てが変わった。ほんの少しの間に、なんとか廻っていた世界は無惨に叩き壊され、均衡を失ったそこには彼我の縮められぬ隔だけが横たわっている。
 「……まだ、動くみてぇだが、もう長くはねェな」
 そう言って示すのは、モノと化した左足ではなく、右の手の方だった。掌を返す様な動きをする度に、きしきし、とそこから鈍い音が聞こえて来る。
 「さっきから、少し違和感はあったんだよ。まさか、と思ってただけでな。
 ……それにしてもいきなり早ェ進行だな。遂にナマゴロシは止めて一気に仕留めに来たか?」
 「土方、」
 無理をしている様な、殊更に己とその状況を軽んじて『何でもないのだ』と示そうとする土方を止めたくて思わず銀時が口を挟めば、ぞんざいな仕草で追い遣られた。
 「煩ェな。解りきってる事だって言っただろうが」
 きつい調子で放たれた言葉には含みがあった。つまり、お前の今思っているだろう事は口にはしてくれるな、と。
 だが、銀時は鋭い刃の様な警告を無視した。なまくらの刃で叩き付ける様に斬り込む。
 「心配ぐらいさせやがれ。他に、どっかおかしい所はねェのか」
 問いながらも自らで確かめる様に、畳に座り込んだ侭でいる土方の肩を引っ張り起こそうと銀時は手を伸ばすが、軋む右手がそれを遮った。触るな、と言うよりもはっきりとした、きし、と。耳障りな悲鳴。
 「心配して、されて、何になるってんだよ。どっかおかしいのは全部だ。腑まで隈無く、な」
 「違ェよ。そうじゃなくて、転んだ時にどっか打ったりしてねェかって訊いてんだよ」
 珍しくも余裕なく苛々と弾こうとした土方だったが、銀時のその言葉に一瞬だけ動きを止めて、それから小さく鼻を鳴らした。笑ったのだ。自嘲と言うよりは重く、心底可笑しそうに。
 「……どこを怪我してたって変わらねェだろ。どの道全部『こう』なるんだ」
 だらり、と揺れる膝から下。ぶら下がるばかりの肩から先。それらにゆっくりと触れながら、そう面白がるのに似た声で答えを寄越した土方は、最後に贋物の眼球をそっと掌で覆う様にして俯いた。
 漂う気配は、弱さのない弱さ。諦めの果てに生じて仕舞った苦痛。本来ならば自らにも気付かれずに隠しておく筈だったもの。
 ひとつだけ受け入れて仕舞った、縋るものへの未練だ。それが思い知らせ作って仕舞った悔いだ。
 「…………前も言ったろ。俺ァ、お前の飯を食ってる間は、人間で居る様な気がしてた。今までみてぇにガキっぽい喧嘩とか言い合いとかして、仕事して、刀振るって、人間で居られる様な気が、してた」
 それももう終わりだ。そう続けて、掌の陰の中で土方は静かに目蓋を下ろした。
 諦めだ、と思う。最初に土方の置かれた状況を本人から訊きだした時の様な──己の死を受け入れきった、平坦な嘆きの方法。
 落としたインクが水面に波紋を刻む様に、その平坦な態度がじわりと揺らいで、滲んだ。
 「こんなザマじゃもう飯どころじゃねェし、仕事にも支障が出る。刀を持つ事なんざ到底出来やしねェ」
 だから、もうこれで己は死んだのだ、と。
 言葉にならない奥歯の軋りが、そう訴えている。
 目の前で差し伸べる手を用意せんとする銀時へと、──もうどうかやめてくれ、と。
 未練も情も。縋りたい何かも。縋らせようとする何かも。
 「……、」
 堪える者を暴いて手を伸べる事が、この場合の優しさとは思えない。これ以上徒に、強がりをさも当然の権利の様に暴き立てる事で得るものなど、土方が挫けて膝をつく事ぐらいしかない。そして、それは少なくとも土方の望む形ではないのだ。
 伸べかけた手をぐっと握って、銀時が躊躇ったのは果たしてどのくらいの空隙であったのか。
 「……人間らしく居ろ、って、言っただろうが」
 小さな、余りに小さなその呟きは、然し俯いて心を鎧おうとする土方に届くには余りに弱すぎた。
 なれば、斬り込むしかない。何が何でも言い聞かせる為に。『そう』伝える為に。
 (厭なんだよ、仕方ねェだろ?!)
 自分勝手なエゴが土方の望む『彼らしい』人間性を、ひょっとしたら徹底的に損なうかも知れない。そんな懸念を踏みにじって、苛々と──否、はっきりと怒りを顕わに。銀時は土方の両肩を掴んだ。
 (だって、失いたくねェんだよ。こんな理不尽にてめぇが負けて、もう居なくなるなんて、)

 そんなのは。厭だ。
 赦さない。

 「俺の飯で良いんなら、食いたけりゃ幾らだって作ってやるし、マヨだって山にしてやる。それでてめーが生きた心地するってんなら安いもんだ。
 だから、…………だから」
 縋りたかったのは。嘆きたかったのは。どちらだったのか。そんな皮肉を思いながら、銀時は掴んだ土方の両肩にぐっと力を込めた。きしきし、と抗議する様な音を立てて腕が揺れるのを、煩いから黙れとかぶりを振って払って。
 「まだ俺の飯を食って生きてくれよ。ガキ共はいちいち美味いだの不味いだの言わねェし、張り合いねェし……、美味いっつって、お前が笑ってくれりゃあ、ちったぁやり甲斐もあって、」
 懇願にも似た銀時の言葉に、やがて土方がゆっくりと顔を起こした。泣きそうな表情で、綺麗に笑う。酷く傷ついたのだと。笑う。
 「テメェは俺に、赤ん坊や、親鳥を待つ雛みてェな真似しろって言うのか?……──無意味だろう」
 土方の言葉にも懇願が込められていた。これ以上このちっぽけな矜持を折ってはくれるなと言う願いと、同じだけの諦めと覚悟。──との狭間で振り子の様に揺れている苦痛。
 未練を呑み込んだ分だけ、喉が堪え切れぬ様にふるりと震えた。
 見たかった筈の土方の弱さと、縋る気配の已然として稀薄な勁さとを、遂に見かねたのは銀時の方だった。掴んだ肩を引き寄せて、その侭真正面から抱き込む。
 横滑りした同情だけの関わり合いなぞ、きっと端から見れば滑稽なだけなのだろう。 だが、これは、同情と言うには余りにも。憐れみと言うには余りにも。
 「──万事屋」
 涙の代わりの様に溢れた言葉や強張った背は、間違い無く制止の意図を強く示していた。拒絶ではないが、それに程近い。弱さや怖れを堪えた勁さの形作る、頑なな隔。
 「お前、言ったろ。俺の飯食ってる間は人間だったって。──なァ、そうだろ?てめーは人間なんだから、人間の侭居てくれよ。飯の味やマヨの量にケチだって付けていいから、人間で、居続けてくれよ」
 矜持とか。見せたくはない弱さを盾にして──そんなもので、人間として生きる事を止めないで欲しいと。銀時は間近の黒髪の隙間から覗く土方の耳へとそっと囁く様に願いを落とした。
 酷く愚かな事を口にしている心地がする。子供でもあるまいし、どうしてこんなに感情的になっているのか。
 厭だから仕方がない。放っておきたくないのだから仕方がない。この侭で失いたくないのだから仕方がない。
 (失うも何も、端から俺のもんでも、関わりのあるもんでもねェじゃん……?)
 疑問を浮かべて、そうして気付く。
 失いたくないんじゃない。欲しいのだ。欲しいから、失いたくないのだ。
 それが、正しい順序だ。
 …………この男の存在が、欲しかったのだ。
 だから、こんなにも、苦しい。護れないのが、もどかしくて、苦しくて。無力感が当たり前の理性を削ぎ落として苛む。
 泣き喚いてでも、縋って、生かして、失われない様にしたい。
 「……どんなんなっても構わねェ。生きようとしてくれよ」
 馬鹿にしてんのかと眉を吊り上げるお前の、存外低い沸点を衝いて怒鳴られて怒鳴り返して、ギャアギャアと下らない事を言い争って、互いの連れに呆れられて。そんな日常が今では酷く遠くて恋しい。
 そこからお前の姿が消えるなんて。
 俺の前からお前の姿が消えるなんて。
 「厭なんだ。土方、厭なんだよ」
 喘ぐ様に息をこぼして、銀時は土方の背を掻き抱いた。
 たのむから、と繰り返し懇願する声に、土方はやがて強張らせていた身体から徐々に力を抜いていった。
 そうしてぽつりと、独り言の様にこぼし始める。
 「……俺だってそりゃ生きてェ。諦めたい訳じゃねェ。ただ、この侭腕も脚も壊れて身の回りの世話をされて、眼も耳も口も利けなくなって、それでも手前ェの意識だけは消えるまで残って──そんなん、生きてるって言えねぇだろうが…?」
 段々と壊れ損なわれていく己の姿なぞ、心を許した他者になど見せたくはないだろう。それでその人たちが心を痛めるのだと、知っているからこそ。何も出来なくなって行く己の姿なぞ、他者にも己自身にも晒したくはないだろう。
 そんな風に憶えられるのは苦しい。そんなものに変わって行くのは悔しい。だから。──だから。
 ふ、と土方の口から吐息の様な音が零れた。それを、微笑んでいるのだろうと、銀時には確信出来た。
 きし、と音を立てた右の手が、銀時の背をとんと叩く。頑是無い子供をあやす様に。
 「最初に、お前なんぞに縋ろうとしちまったのは、慥かに俺の方だった。だから、それは済まねェ。身勝手を抜かしてる、自覚はある。だが、明日にはもうこの腕も動かなくなっちまうかも知れねぇ。歩けなく、それとも聞こえなく、それとも見えなく。なっちまうとも知れねぇ」
 だから、死ぬには今しかないのだと──そう笑って寄越す土方を、然し銀時は離さなかった。放す心算など疾うに失せて仕舞っていた。
 「明日の夕飯、なんでも好きなもん作ってやっから。明後日も、その先も、ずっと。食ってくれよ。諦めちまったら、本当にてめぇは人形になっちまうだろ」
 重ねられるしつこい銀時の懇願に、土方は暫時呆気に取られた様な沈黙を挟んで、それから声を上げて笑った。
 「……んだよ。まるで求婚だな。俺の味噌汁をずっと飲んでくれ、みてェな」
 茶化すのにしては可愛げのない、滲んで歪んだ土方の軽口に、応じる銀時にも奥歯を噛み締めて笑った。
 「……そうだよ。悪ィかよ」
 「………………いや、」
 銀時の背を叩いた土方の手指に、ぐ、と力が込められた。きしきしと軋む音を立てながら、指が強く食い込む。生きたい。諦めたくない。そんな言葉がそこから聞こえて来る気がした。先頃口にした言葉よりも余程はっきりと。強く。
 何かを訴え縋る強さを持つ指と、泣きそうな、苦しそうな、吐息。震える、声。

 「……悪くねぇ」

 縋るだけには強すぎるその手つきに、銀時は痛みを堪えて息を吐いた。笑うには足りなかった。喜ぶにも、余りにもそれは酷く歪んだ正しい想いであるのだとは、きっと解っている様で解っていないのだろうから。
 ただ。終わる前の僅かな時に取り縋ってでも、この侭手から無為に零れ落ちるのを見ている事は我慢がならなかった。仮令それが掬い取る事の叶わぬものであると、解っていても。それでも。奪い去る様にしてでも、留めたい。
 望みたくて望まれたかったのだと思う。仮託したのは互いの意地と我侭と、食事を作るなどと言う大義名分。生きれはしないものに生きて欲しいと望む、憐憫よりも余程非道い傲慢。
 土方が、潰えるのを待つだけのその僅かの間に怯えたり喚いたりしても。その時縋る存在になれるのなら。それが赦されるのなら。
 「深川飯が食いてェ。それと天ぷら。卵綴じにした蕎麦。親父ん所の土方スペシャル」
 「最後のはただ飯にマヨネーズ掛けただけじゃね?」
 憮然とした調子で『明日』からの望みを順繰りに挙げて行く土方に、銀時は喉を鳴らして笑いながら、そっと手の力を緩めた。応じる様に、強張りの解けた土方の指がするりと解ける。
 空いた距離の、僅かの隙間を詰める様に顔を近づければ、再び持ち上がった土方の手が銀時の後頭部に置かれた。その侭鷲掴んで止められるかと思いきや、ぐいと頭髪を掴んで引き寄せられた。
 (あ。目、赤くなってら)
 涙の気配はないが、土方の目元は少しだけ赤い。やっと縋るに値するものをそこに見つけた気がして、銀時はほんの少し顔を綻ばせながらそっと唇を重ねる。
 一旦離れて、もう一度、空気を含む様にして口接けをすれば、慣れた角度の触れ合いが互いを自然と受け入れる。舌を交えてそうやって暫し重ねると。
 「…………甘ェ」
 れ、と離れた口唇の間に舌を突き出して土方はぶすりとそんな感想を寄越した。
 「さっきいちご牛乳飲んでたから、それじゃね」
 同じ様に舌を出して笑い混じりに銀時がそう教えてやると、土方はさも厭そうな渋面を浮かべて「うげ」と呻いた。そっぽを向く様に顔をくるりと逸らす。
 それから少し長めの時間を置いて、肩がゆっくりと上下した。溜息の正体は果たして諦めか納得か。
 「どれだけ惨めな思いをしても、無様に泣き喚いても、生きるだけ生きろと身勝手に抜かしやがったのはお前だ」
 真正面至近距離に座す銀時の方は決して向かない、その横顔は言う言葉と裏腹に、苦しげに歪められていた。
 「良いぜ。だが、抜かした以上責任は取れ。俺が自力じゃ終われなくなった、俺が望む最期には。──テメェが俺を殺すんだ」
 ころす、と言うよりも、こわす、と聞こえたその言葉に。
 土方がこちらを向いていなくて良かったと思いながら、銀時は嗤い出しそうな内心を呑み込んで──頷きを返した。







 :