アントアーニアの鳴声 結局、あのほんの僅かの空隙だけしか、土方が涙らしきものを見せる事はなかった。 その上涙をこぼした理由さえも判然とはしない侭だ。散々張っていた意地が、他人の労りに触れた事で気が抜けただけなのか。改めて己の置かれた境遇に対して感情的な揺らぎが出たのか。それとも全く関係のない事なのか。銀時には解らない。 そう。結局──結局、土方は泣かなかったのだ。銀時の覆った掌の下でそっと感情を涙にして落としただけで。喚きもしなければ八つ当たりもしなかった。恨み言を唱えるでも、逆上するでもなく。てめーに心配される程落ちぶれちゃいねェと怒鳴り返す事もなかった。 遠からぬ、唐突に、然し確実に迫って来る不可避の死を前にして、直面する現実の正体は概ね、苛立ちと、怒りと、恐怖と、後悔と、未練だ。それらを少しでも遠ざけたくて、出来るだけ考えぬ様に目の前の『後始末』にだけ没頭する、その心理は解らないでもない。 だからこそ恐らく土方は、己の身体に不要になった寝食を切り捨てたのだろう。無意識のうちに。己の生を諦めて、納得し受け入れているのだと言い聞かせる為に。 以前本人が断じた通り、確かに土方の肉体は今、食物の摂取や睡眠と言った休息を必要なものとして欲してはいない様だった。だが、それでも肉体は窶れるし衰える。毎日計って比べている訳ではないのだから確かとは言えないが、日を追う毎に草臥れた様に痩せて行っている様には見える。 だから、そうでもなければ、肉体が『病』の元凶(ウィルス)に因って保たれているのに、窶れて行く理由に説明がつかないのだ。 恐らく。恐らく、だが、土方は、己が死を平らかに受け入れる為に──未練も後悔も悲嘆も無く終わる為に、殊更に今の有り様を木偶人形の様なものであると定義したのだろう。 これから役立たずになる己は、もう要らない。そう思う為に。 きっと、そうして己を『切り捨て』なければ、真選組の誰もが土方の喪失を損失であると事務的に思う事が出来なくなる。近藤辺りは感情的に泣き叫んで、土方の裡の恐怖や未練を引き出して仕舞う事だろう。 最期の瞬間までを、未練に暮れて怯えて喚いて過ごしたくなどない。ただ在るが侭のさだめの様に受け入れて、進む。──土方の、負けず嫌いで前向きで挑戦的な性質のその侭に。 (……でも、俺ァそれが厭だった) 救う事も、治す事も、楽にしてやる事も、出来やしない。同情も、憐憫も、必要とされていない。 それだから、些細な手心が思わず湧いたのだ。ほんの少しの情を以て寄越した気紛れの食事の中に、果たして土方は何を感じてくれたのだろうか。 適当なあり合わせを集めた、美味いかどうかも知れない雑把な男飯は、生きるのを物わかり良く諦めていた土方の味蕾を刺激して、きっと『何か』を思わせたのだ。孤独ではない事とか。怖れとか。生きる感覚とか。多分そう言ったものを。 そうやって数回繰り返した、『気紛れ』の飯炊き。自分たちの夕飯を作るついでに、何やらそれを食べたいと言う土方の分も作ってやると言って、食事の材料費を支払わせる。そんな大義名分とギブアンドテイク。 そこには、同情や憐れみと言った過分な情は何一つ差し挟まれる筈がなかった。 (そんなつもりも、無かった、んだけど…な) 嘯いてから銀時は自らで打ち消す様に唇を歪めて苦笑した。 厭だ、と思ったのだ。 厭だと思える様な思い入れを土方に抱いて仕舞っていた。想像もし得なかった不似合いな死の訪いにも。ひとりひっそり動きを止めるのだろう男の性質にも。身体の侭ならぬ状態で不逞浪士にあっさりと命を奪われる未来の可能性にも。 それは厭だ、と。ただそう思ったから、今こうして頭を抱えずにいられない。 好奇心やお節介で、一度足を突っ込んだが最後深みにずるずると嵌った、のではない。きっと嵌りたくて嵌った。関わりたくて関わった。銀時には何も出来ない、『何』かが出来た。それは真選組の連中には出来ない様な事なのだと、確信している。 ……同時に。それが決して、土方が救われる可能性ではないのだと言う事も。 どう、厭であれど。どう、望まずとも。どう、ほんの少しばかり救ってやった気になった所で。 ──土方十四郎は、死ぬのだ。 しかも、そう遠からずそれは訪れる。雨がいつか上がるのと同じ様な、酷く当たり前で理不尽さなどない事象の様にして。 「……………」 ゆっくりと振り返ってみれば、畳の上には筆を忙しなく動かし続けている土方の姿がある。 すっかり卓袱台も兼用する様になった、丈の低い文机を挟んだ向こう側で、じっと手元の作業に没頭している男の姿は──大分見慣れて仕舞ったその光景は──然し、もう少しばかり『先』には失くなるのだ。 左の眼球は四日前に銀時が今日の様に食事を作りに訪れていたその時に、不意にそして唐突に失われた。左腕は、辛うじて動いていた肩部分も、二日前には遂に動かなくなったと言っていた。次は左の膝辺りが怪しいと、軋む音をさせながら先頃に告げられた。傍目には何でもない様な男の脚の内側で、骨ではないものが鳴らす音は、紛れもなく何かに向けた残り時間を刻む秒針の音の様だった。 隊服姿の人間や人相の知れた近藤や沖田がうろうろすると目立つからと、土方は最近彼らの訪いを拒んでいると言う。本人は襲撃の可能性を槍玉に揚げていたが、恐らく本当は、少しづつ損なわれて行く己の姿なぞ彼らの前に晒したくないからなのだろう。 銀時だけは、『他者』だから此処に居る事を赦されている。土方にとって護らねばならぬ対象に類さないから、それが叶っている。 だが、そんな事実にも優越など憶えない。憶えられる筈もない。何故ならそれは、銀時が何を抗議しようと意見しようと、土方は何ひとつ己の感情や意志を揺らがせる心算がないと言う牽制の意でもあるからだ。 そんな強固な隔に、銀時の斬り込める空隙はひとつ。気紛れの飯炊き。依頼にも満たない、ただの気紛れ。だが、土方が『何か』を感じて、得てくれたそれだけが、銀時の縋る武器だった。 助けたいのか。助けなぞ出来ない癖に。厭だから?それで土方自身の矜持を踏みにじって、怖れを招いてやる事になったとしても? ……望まれなくても? お前にだけは、同情や憐れみを向けられたくはないのだと、土方は銀時に言った。 お前の記憶している、物騒なチンピラ警察の副長で、馬鹿馬鹿しいガキみたいな喧嘩をよくする、そんな土方十四郎の侭で居させてくれと、願われた。……そして、銀時はそれを言葉にして拒否した。 それに閉口したのかそれとも絆されたのか。土方は、銀時の被せた掌ひとつ──慈悲とも言えないが──にだけ、利口な諦めや賢しい納得以外の何かの感情を出して縋る事を己に赦したのだろう。 きっと土方は、坂田銀時の存在に──それが、此処に居る事に。思わずこぼれた己の願いを『気紛れ』として受け取ったばかりか、今も此処に居る事に、何かの意味を見出していてくれているのだと思う。 土方の口にした通りの、無為の存在で居て欲しいと願う以上に。『何か』が、いつからか生じていた。 漸く、そのひとかけらを拾うことが出来た様な気がしたのに。漸く、それが何と言う情であるのかを掴みかけた気がするのに。 「……失いたく、ねェ」 手の中で菜箸を弄びながら、銀時は眼下で沸騰する水面に映る己に向かって、軋る様にそう吐き出した。 だがその小さな声を土方が拾った様子はなかった。おんぼろの換気扇がからからと立てる音は存外に煩い。攪拌する熱気は酷く煩わしい。 聞かれなかった事で、果たして救われたのか。それとも逃げたのか。皮肉に顔を顰めながら、銀時はそっとガスコンロの火を止めた。鍋の中で荒れていた湯があっと言う間に静かになる。 きっと今、己の裡の感情もこんな風に煮立って、どちらともつかずどうしたら良いのかも解らずに藻掻いている。熱源を切れるスイッチはきっと外部にあって、然し誰も切ってはくれない。 沸々と、もやもやとした感情をぶつける様に、銀時は溜息をひとつ落とすと、大人しく料理に没頭する事にした。取り急ぎ用意した野菜を刻む事に専念する。 家から持って来た、残り物の牛蒡を丁寧に洗って皮を剥いてささがきにする。こう言う細かい作業は得意だが、普段は面倒なのでやらない。そもそも牛蒡自体買わないのだが、先日、昔請けた失せ物の依頼人が、近くを通ったからお土産にと、畑で採れたと言う野菜をあれこれ置いていったのだ。 この後は灰汁抜きだ。面倒な食材だが、仕事が増えるのは今は良い。土方の事を笑えないと余所事の様に考えながらでも集中した作業は存外に早い。時間を掛けるつもりでいたのに、あっと言う間にまな板の上には下拵えを終えた食材が並んで仕舞った。 なお本日のメニューは、秋刀魚にワカメの味噌汁にきんぴら牛蒡。もちろん神楽と新八に持ち帰る分は確保してある。二人の分の秋刀魚は家に帰ってから焼くつもりなので、腑だけ取って冷蔵庫の中だ。 「………」 集中すれば没頭出来る。没頭するだけ仕事は早く終わる。キリの見えている作業なのだから尚更。気を逸らす心算がそんな思わぬ弊害に早速挫けつつも、銀時は空いた手を持て余し気味に、もう一度土方の方を振り返ってみた。 相も変わらずこちらに注意を向ける様子はない。ひたすらに目の前の仕事に没頭しているのだ。その内容は銀時には知れないが、真選組の存続や執務の引き継ぎと言った、土方の『死後』に必要とされるものなのだろう。それこそキリなどない様な。 何となく。本当に、なんとなく。書類を俯き加減に見下ろしている、その左の眼に視線が行った。 その眼窩には硝子玉の様な眼球が収まっている。視神経が断たれているのか「見えない」と土方本人は口にしたが、眼球は生きている時とまるで変わらぬ様な虹彩を持って、動いている。 網膜に像が結ばれない事、黒い瞳孔が開きっぱなしである事だけが、その器官がもう『生きて』はいないのだろうと辛うじて理解させる。 まるで本物の眼球だと思って、それがもう見えない、生きていないのだとは到底信じられなくて、あの時思わず手を伸ばして触れていた。抗議する様に痙攣する目蓋を開かせて指の腹で押してみたが、固く冽たい質感が無言の肯定を寄越すのみ。 信じられないが、信じるほかない。もうあの眼は見えていないのだ。もう痛みを感じる事もなく、土方の肉体のパーツを少しづつ異物へと換えて行く病(ウィルス)の産物でしかないのだ。 もしも、残るもう片側の眼球も『こう』成り果てたとしたら──、もうあの鋭い眼差しに己の姿を捉えられる事はないのか、と。そんな事をぼんやり考えていた銀時は、不意にそうして凝視していた瞳がぎろりとこちらに向けられるのに我に返った。睨む様に見据えられて、心の臓が跳ねる。 「何だ。何か言いてェ事でもあんのか。さっきからチラチラと」 「……いや別に…」 見てない様で流石に聡いと言うか。己に向けられる気配は殺意や害意以外には存外鈍く、気にしてすらいない傾向の強い土方だが、流石に狭い空間内での視線は感じていたらしい。まあ銀時の落ち着きのない挙動を思えば寧ろ当然と言うべきか。 或いは、視線を感じたぐらいだ、先頃の銀時の呟きも拾われていたやも知れない、が。 (……………だから、どう、って訳でも、ねェんだろうけどな) お前が失われるのは厭だと、そう銀時が叫んだ所で。訴えた所で。それは土方の懊悩を深めるだけの事にしかならないのだろう。 だが、縋って欲しい、とは思うのだ。それこそ『人間らしく』。少しは喚いて取り乱しでもすれば、こちらも手の伸べようが、物の言い様があると言うのに。 銀時の向ける同情──実際は少し趣を異にするのだが──や心配が土方の意地を突き崩して、それで土方が弱さや怯えや情けない部分を露呈する事になるのだとしても。だ。 土方は基本的に銀時と同じタイプの人間だ。色々なものを護ってばかりで、それを当たり前の様に思っている様な人間。己も、己の周囲の多くの人間たちもそう思っている。その点に於いては銀時より重症かも知れない。護る為に己の身を削る。省みなどしない。なまじに『勁い』人間であるからこそ、そうなって行く。 本来土方を護れる存在であるだろう近藤には、土方は決して己を護らせたりなどしないだろう。精神的な意味での庇護はあるかも知れないが。それがどの程度土方の抑止になっているかは当てにはならないレベルに相違ない。 銀時にとっての神楽や新八の様に、忌憚なくぶつかって来れる様な存在は──土方もそれを受け入れる事の出来る様な存在は、解り難い事この上ないイヤガラセばかりを寄越す沖田ぐらいのものだろう。 そしてそんな沖田の事も、土方からすれば友である以前に『上司』と言う立場を持って仕舞っているが故の隔たりがある。当人たちが良くとも、弁えなければならぬ場面は役人の仕事には多い筈だ。 詰まる所の話、己の定めたものを護ると言う事にだけ必死で、その分で己を蔑ろにする土方の事を、あらゆる意味で護ってやれる存在は居ない、と言う事だ。 尊大な態度も高い矜持も固い意地も、その向こうにある土方自身の、人間なら誰でも持ち得る脆さや弱さを鎧うのに一役買っている。そしてそれは本人でさえも知らず、当然であるべきものだった。そう。慥かにこの男は『勁い』のだから。 何でもねェよと、へらりと躱す銀時を睨んで、土方は「ち」と露骨な舌打ちをした。また何か碌でもない事を考えているに違いないと『読まれて』いる気がしたので、両手を挙げて降参の意を示しておく。 すれば土方は二度目の舌打ちをしながら、右手に握っていた筆をそっと置いた。それから卓の上にあった湯呑みを慎重な仕草で掴んで中を覗き込み、そこでむっと顔を顰める。 「お湯沸いてるか」 続けてこの問い。どうやら茶で喉を濁したいらしいと判断し、銀時は薬缶に水を入れる事で答える。そのついでに、自分は茶を飲む気分ではなかったから、冷蔵庫に勝手に入れてあるいちご牛乳のパックを取り出してぐいと煽った。口の中にじわりと拡がる甘さにふうと溜息がこぼれた。矢張りこう言う頭の煮詰まった時には糖分が一番だ。 「ちっと待ってろ。直ぐ沸くから」 いちご牛乳の紙パックを置いて、湯の沸くまでの間に急須の用意をするべく銀時が茶筒を手に取ると、土方が少し狼狽の気配を見せた。お代わり、と命じるつもりまでは無かったらしい。右手にカラの湯呑みを持った侭、その場に立ち上がる。 「良いって。座ってなさいよ」 茶ぐらい黙って座っていれば勝手に出て来るのだろう、そんな役職の人間だと。土方の事をそんな風に思ってからかったのはまだ遠からぬ日の話だった筈だ。思い返しながら銀時は立ち上がり歩こうとした土方を振り返って、 「 、」 がくん、と土方の身体が、突っ支い棒を外したかの様に傾ぐのを見た。 その左膝から下が突っ支い棒だ。重さを支え損ねた慣性その侭にがくりと崩れて、土方は咄嗟に右手を壁について──次の瞬間には手が壁を滑り、その侭畳の上に横向きに転がっていた。 どさりと倒れ込む重たい音が遅れて耳朶を打つ。 「あれ?」 土方の唇が、どこか幼い響きでそう紡ぐ。心底不思議そうに。何が起こったのか理解の範疇を唐突に越えた出来事に、動揺して。 畳の上を、取り落とされたカラの湯呑みがころころと転がって行く。それを茫然と見つめて、それから土方の表情は能面の様に凝固した。怯えるよりも余程怖がって見える、そんな雄弁な無表情が、畳の上に無様に横たわった己の脚の方をゆっくりと見る。 「…………」 動く右の手が畳を支えにしようとして、然し再びがくりと傾ぎ、半身を起こしかけた体勢が崩れる。 贋物と本物の視線のじっと見つめるその先で、土方はおずおずと捲れ上がった着流しの隙間から左の脚を持ち上げた。 ぶらん、と。 そうとしか形容のしようのない動きで、その膝から下がだらりとぶら下がり、慣性でゆらゆらと揺れる。 付け根からゆるゆると持ち上げられた脚の。膝のその先だけ。まるでつくりものの様に。 それから、視線はゆっくりと己の右の手に向けられた。手首をくるりと回す様な動きをしようとすると、きしきし、とそこから音が鳴る。 僅か。ほんの一秒にも満たない空隙で、土方の表情から面が外れた。ぐしゃりと歪んだ、異物を見るあの目だ。己の左腕を握り潰そうとしていた、あの時の表情を浮かべる。 「ひじか、た」 その寸時の呪縛を破ったのは銀時の声だった。びくりと背筋を震わせて、土方は忽ちに自嘲めいた表情をその面に形作った。そこに浮かぶのは慥かな諦観と納得。縋るものなど欲しくないのだと拒絶するかの様に。 然し、僅かの震えが土方の裡を語る。心ごと食い荒らされる恐慌に哭く様に、だらりと下がった膝と、左袖の中の腕とが、きしきし、と軋んで揺れていた。 もうルールから逸れていいよねタイトルその2。 ← : → |