※流血と言うかエグい表現がちょっと出てくるので苦手な方はご注意下さい。 ========================= オランピアの瞳 或る時その日の、晩から食事が摂れなくなった。 遂に腑の方に『症状』が出始めたのか、銀時の供してくれる食事はいつもの様に美味しいのに、胃がそれを受け付けようとはしてくれず、結局吐き戻す羽目になって仕舞った。 消化の気配の無い事に、遂に『これ』さえも許されなくなったのだなと思って、眼前で苦しそうに、泣きそうにしている銀時へと、すまない、と謝れば、また無言で抱き締められた。 背中に回った手が酷く震えていて、厭だ、と繰り返す声が常になく弱々しくて、今度は上手く笑ってやる事が出来なかった。 真っ当なイキモノでは無い身体では、睡眠も摂れない。『これ』が睡眠などと言うものを必要としないからなのだと解ってはいたが、眠ろうとしても意識が何処にも沈んで行かないと言うのは流石に初めで。長い夜には些か困り果てた。 何しろ、身体は碌に動かないのに、伸べられた床の中でじっと真っ暗な天井を見つめているだけの、無為でしかない時間を食い潰さねばならないのだ。その途方もない労力たるや、想像の至る様なものではない。 今日はここに残る、と言い張る銀時を、ガキどもが心配する、と言い聞かせて、無理に帰らせた。だから、この家には誰もおらず、ただ静かなだけの夜をじっと動かずにやり過ごすほかはない。 それが暇だったから、と言う訳ではないが、時間を掛けて、仕舞いっぱなしだった携帯電話を引っ張り出して、なんとか山崎の留守電へと、もう終わりの刻が来たのだと言う事だけを遺しておいた。飽く迄事務的に、だが。 近藤や沖田にも言いたい事は山の様にあったが、土方は敢えて二人には何も遺さぬ事を決めていた。己がどうなった所で、二人を信じていたから、と言うのもある。だが本音の所で言えば、挫けて仕舞う事を恐れたのかも知れない。 右の眼はまだ明瞭に、あばら家の夜に満ちた、孤独と寂寥感を宿した世界を克明に映し出してくれていた。全く、残酷な事だと思う。 きん、と耳鳴りがする。喉がかさつく。腕が、脚が、軋む。腑が不要になる。 じっとしていればいるだけ、それらの気配──己を変容させようとする『症状』が、まるで悪意の様に全身の至る所までまとわりついて、酷く土方の心を苛んだ。 処刑台で刃をじっと待つ様なその時間に堪えかねて、土方は力の入らない手足を引きずってなんとか腹筋と壁とを使って身を起こすと、その侭冷たい壁にだらりと背を預けて座ってみる。たったそれだけの動作さえも、今は酷く苦痛だった。時間の掛かる事や痛みを憶える事ではない。『出来ない』事こそが、苦痛なのだ。 四肢は、もう殆ど動かない。昨日までの食事も、銀時が直接に箸や匙を土方の口元へと運んでくれた。必要ないからと突っぱねる事も出来たのに、それだけが生きている己の寄る辺である気がして、どうしても断れなかった。銀時も、断られるなどとは思っていなかった様だったが。 どんな情をそこに差し挟んだのか。大凡面倒くさがりの印象しかなかった男は、この終わりまでの間、酷く親身に土方へと接して来ていた。 壊れる存在に情なぞかけても。愛するに似た行為なぞ遺しても。何の意味もないと言うのに。 生きている実感は、諦めを得たかった土方にとって苦痛でしかなかった筈だと言うのに、それでもここまで『人間』として保ったのは、紛れもなく銀時のその親身な働きがあったからである。その事に土方は、感謝すればいいのか、苦痛を長引かせたと怒ればいいのか、解らない。 生涯を懸けた色々なものを失う代わりに、色々なものを得た。その比率がどう、と言う問題では恐らくないのだろうが──、『こう』なった全てを諦め、納得し、受け入れていただけでは、それは感じる事の無かったものなのだと思う。 ……尤も、死すれば全て無である。悲観ではなく、事実として土方はそう思っていた。 明日、銀時が来たら、『終わり』を恃もうと思う。 他人に私的な期待を寄せるなど、江戸に出て来てからは憶えの無かった事だった。それを赦せる程に、坂田銀時は土方の裡に何かを遺したのだろう。 己が真選組の事以外に何を遺せる、などとは今更もう思いもしないが──あの男の心に残るのは、不思議と悪くないと思った。 今は、癇癪を起こす寸前の子供の様な顔を見せる事もあるが、あの男は白夜叉などと言う大層な名前を携えて攘夷戦争を生き延びているのだ。あの戦で刻まれた戦没者の数を思うのなら、きっと他人の死には慣れている事だろう。 遺して、残さない。あの男にとってそんなものであれば良いと思った。 一時の情は貰った。望みを許されて享受した。恐らくは土方の人生に於いては初めて。 そんな感傷を未練だと言われたら苦笑するほかないが。どの道土方にはもう覚悟は疾うに出来ているのだ。引き延ばされたそれを、漸く受け取る刻が来たと言うだけのことで。 朝になれば。 「…………死ぬのか。そうか。…俺は、」 思いの外にかすれた声が出た事に驚く間もなく、明瞭な筈の右の視界が歪んだ。次いで頬を熱いものが伝わって、喉が引きつる様な音を立てる。闇と静寂の落ちた小さく鄙びた空間の中で、誰にも届かず誰も知る事の無い、悲鳴の様な音。 「近藤さん、総悟、山崎、みんな、」 もう、会えない、のではない。もう、無くなる、のだ。 こわい。喪失が、その後が。己がどうした所で、後を信じるしかない、ただそれだけの事が。怖い。 ここには誰もいない。だからこの慟哭も涙も、誰も聞かない。土方の残す苦悩なぞ、誰も知らぬ侭に。知られぬ侭に。 死と言う未知が怖いのではない。尽くす事の終わった、未練のない、孤独が怖い。 「万事屋、」 ひとときは未練にしてくれるかも知れない、あの男の心が。何を思うのか。怖い。 忘れて欲しいのに、忘れて欲しくはない。この情が、己をここまで生かした。それが── 「ぎん、とき」 与えられて飲み干して受け入れて識った、それが、情の名前だ。 坂田銀時。 合わせた唇や、どこか空虚な交わりや、繋いで離さなかった手や、厭だと呟かれた言葉。惜しまれて繋がれた生の実感。 きっと、正しい。この感情の名前は正しい。未練を、悔いを、孤独を、尽くす以外の無為の生を、与えて寄越してくれた人の名前と同じもの。 坂田銀時。その名前を憶えておこうと思った。 その感情を。憶えておこうと、思った。 死ぬかもしれないけれど。そうなった先に何が在る訳でもないのだろうけど。 こんなにも怖くて、こんなにも穏やかだった。この、人間らしい時間を、憶えておきたかった。 無意味なイキモノでしかなくなったものを、大事にしてくれようとしたのだろう、男の名前を、忘れたくはなかった。 意味がなくとも、それだけは。 一瞬先には無になるものだとしても。 「銀時」 憶えた侭、逝ければ良い。貰ったものごと全部。棺に捧ぐ手向けの花の様に。抱えて。 何かを遺したとして、お前はきっと忘れてくれるだろうからこそ、俺は憶えていたい。 俺だけは、俺に、これを未練として、遺していきたい。 消えるから。消えるからこそ。ころして貰うから。死ぬからこそ。誰かに遺すものがないから。何も遺す心算などないから、こそ。 「──」 死ではない。死以外の全てがこわくなって、土方は聲にならない言葉を迸らせながら哭いた。 * 「土方!おい、土方!!」 がくがくと、乱暴に揺さぶられて土方の意識は瞬時に覚醒した。己は畳の上に四肢を投げ出しだらしなく座していて、目の前で銀時がその両肩を掴んでいる。 どうやら昨晩あの侭眠って──と言って良いかは解らないが──仕舞ったらしい。泣いていた眼が腫れていなければ良いなと思いながら、気恥ずかしさもあって「ンな揺すらなくても起きてる」そうぶっきらぼうな調子で紡いで── そこで土方は愕然とした。 声が、出ていない。 腕を動かして意思を伝えようとして、四肢のどこにも力が入らない事を識る。瞬きをしようとするが、開いた侭閉じもしない。右の眼はまだ世界を映していると言うのに。 万事屋。いや、銀時。 そう呼んだつもりで唇を動かすのに、動いていない。絶叫しようと息を吸おうとするが、然しそれも叶わない。 「土方!」 酷く狼狽した声で、様子で、銀時は土方の事を呼び続けている。両頬を掴んで持ち上げられて、真っ青になったその顔は見えるのに、大丈夫だと伝えたいのに、何も。何も、出来ない。 「土方!オイお前、何悪い冗談──、っ、ひじかた、」 銀時が揺さぶる度、きしきしと腕が揺れている。呼びかけに応えるのではなく、ただの──応えのない事を示す雑音として。 なんで今なのだ、と土方は必死に叫んだ。殺して欲しいと、今までありがとうと、近藤さんたちに宜しくと、そう伝える心算でいたのに。 ああ、これだから死は理不尽だなどと言うのだ。終わりは唐突で、残酷であると。誰もが口を揃えてそう嘆くのだ。 ひとときそう噛み締めた後、土方は改めて己の終わりを受け入れる事にした。銀時が終わらせてくれる、その刻を待って、伝わらない事なぞ承知で心の中でだけ呟く。すまないと。もういいから、どうか願いを叶えてはくれまいかと。 そうしてどれだけの間、銀時はそうしていただろうか。 泣きそうな顔をぐしゃぐしゃに歪めた男が、土方に何度も口接けを落として、何度も名前を呼んで、そうして── 土方の右の眼球に唇を一度だけ落として、銀時は不意に、卓の上に置いてあったペーパーナイフを手に取った。鉄製の、刃の無い、薄いだけの刃物。 鈍色のそのきらめきが、薄く尖らせられた尖端が右眼の縁に触れるのが見えて、土方は必死でかぶりを振った。勿論、動きはしなかったけれど。 銀時の眼を必死で見上げる。何をするつもりなのだと。やめてくれと。 殺すなら、何も目に見えるところを損なわずとも良いではないかと、そんな勝手を訴える。届きはしない。伝わりもしない。信じたその侭かどうかは解らない。銀時の手が滑る様に動いて、 「 」 ぐぬ、と。眼窩に鈍い刃がこじ入れられた。肉を抉る感触、骨を擦る感触、神経の引き千切れる感触。 ひたすらに痛い、狂いそうな程に脳が痛みを訴えるのに、土方の喉からは苦悶も悲鳴も拒絶も出ては来ない。ただ全身が痛みに原始的な反応をして、びくびくと背が跳ねて血に混じった涙がこぼれ落ちていく。 まだ生きていた部分が、蹂躙される、こわされる。痛い、痛い、痛い。 「ごめん、ごめんな。痛いよな、ごめんな」 何の為の謝罪なのか。少なくともこれは、この所業は、土方の命を殺める為の慈悲でもなんでもない。だから苦痛は終わらない。だから激痛が、苦痛が、遣り場の無い傷みが脳を焼くのを、土方はまるで拷問の様に感じて受け入れる他ない。 「ごめんな、ごめんな。すぐ終わるから、ごめんな」 銀時はそう繰り返しながら、土方の眼窩深くに差し込んでぐるりと一周眼球の周囲を回した刃をぐっと押した。開かれっぱなしになった目蓋から眼球が押し出される。ぶら下がった視神経と眼球とが切り離され、転がり落ちる。 ふつりと、赤く灼けていた視界が消失した。痛みだけがずきずきずきずきといつまでも脳を、心臓の鼓動と共に叩き続けている。 痛みが強すぎて、叫びたいのに、喘ぎたいのに、指先ひとつ動かない。激痛に身体がどう言う反応を示しているのか最早解らない。 ただ眼球が抉られ取り出された事は解った。まだ、『生きて』いた眼だ。 「ごめんな。痛かったよな。でも、俺は、お前がお前であったものが全部無くなっちまうのは厭で、だから、」 出血と痛みとで意識が──あっても意味のないものだが──遠のく中、そう言い訳の様な言葉を紡ぐ銀時の声と、血にまみれて震える手とが抱いて来る腕の力を感じた。 もう何も見えない。痛い。ただ、ひたすらに、痛い。 背を掻き抱く手、唇や手指が顔に触れる感触。何度も耳元に訴え続ける、声。 厭だ、土方、厭だ、お前を喪いたくない、厭だ。 後頭部に衝撃があった。押し倒されその上にのし掛かられるのが解る。男が、何度も何度も名前を呼んで、何度も何度も訴えて来る。 答えられない。見えない。何を訴えるも、何を伝えるも、出来ない。 肌の上を辿る手が、血に塗れて、きっと歪な軌跡をそこに刻んでいっているだろう。快楽だろうが情だろうが、きっと薬になぞならない。 何だ、こうならなくても、人形であっても、テメェには同じだったのか。 そんな事を思って、土方は虚ろにわらった。恐らく表情は何ひとつ変わりはしないのだろうけれど。 だが、血のぬめりとは別の、温かな滴が顔に落ちて来る。その瞬間だけ土方を苛む全ての痛みは和らいだ。 こんなモノでも、お前が想う、それだけの価値があるものだったのか。 そうじゃねェなら、こんな風に泣いたりしねェだろう? 顔に、身体に、ばたばたと落ちて来る滴。 穿たれる身体も、抉られた眼窩も、動かない身体も、言葉の一つすら放てない喉も、その癖まるで消えてくれはしない意識も。 そんな姿になっているモノを前に、銀時は泣いている。 土方の事を惜しんで、泣いている。 厭だと繰り返して、失いたくないのだと訴えて、泣いている。すきだ、と震える言葉が紡いで、泣いている。 ……それが結実で、遺せたものなら。それは幸せな事なのかも知れない。 (俺も、すっかり狂っちまったらしい) 力なく、嗤ったつもりで笑った。 痛みが段々と遠のく。呼び止める声も。肌に滴った涙の温度も。徐々にかすんで、少しずつ消えて── もう、この侭人形にでもなって仕舞え。 後の事なぞ──壊されるか、愛でられるか、なぞ。もう知らなくて良い。 死んだのだから。己の終わりを恃んで、土方十四郎と言う人間はここで死んだのだから。 。 ← : → |