落とされしクララ 沖田に先導される形で、銀時が辿り着いたのは町中の小さな家屋の立ち並ぶ地域だった。 江戸市中も市中、かぶき町とそう距離も離れていない長屋の建ち並ぶ旧市街の一角で、近年の都市部の開発に因り、棲んでいた若者が移住し空き家の多くなった地域だ。人の行き交いが余りない為にか鄙びた気配が漂い、余り治安も宜しく無さそうな風情の町並みである。 「存外そうでもねぇみてーです。寧ろ逆に、家族の元を離れてこっそり生きる、借金取りから逃げてひっそり住まう、そんな、後ろ暗いが犯罪にゃ手は染めてねェ落伍者共の吹き溜まりってェ感じですかね」 きょろきょろと辺りを見回していた銀時の疑問に応える様にかそう説明すると、沖田は促す様な仕草をして家屋の隙間の隘路へと入って行く。掘っ立て小屋同士が身を寄せ合っている様にも見える、そんな有り様がこの辺りの特徴をどうやらその侭表している様だった。 真選組の隊服の人間なぞさぞ目立ちそうだと思ったのだが、沖田の慣れた足取りは、そうでもないのだと雄弁に語っている。 元より街路を行き交う人自体が少ない所に持ってきて、市井の情報屋や幕府に真っ向から向かうには憚られる用途を取り扱う商店はこう言った地域にある事が多い。市井の噂話に耳が早く事情通の沖田がこの界隈をしょっちゅう出入りしていると言うのは別段おかしくない話ではないのかも知れない。 そんな慣れ故にか。沖田は一見道でも何でもない家の隙間を迷いのない軽い足取りで抜けて行く。ある程度の区画整備はされているが、家々の密集地域は迷宮並の野放図さだ。そんな隘路を、障害物の無い道を選んで歩く事暫し。 「到着しやしたぜィ」 言って沖田が足を止めたのは、うらぶれた家屋の一つの前だった。正直、見た限りでは他の小汚い家々と何ら違いがあるとも思えない。面積は万事屋より大分狭そうだし、屋根は雨漏りの心配、壁は隙間風の心配をしたくなる程にぼろぼろの風情だ。 ただ、周囲の空き家と異なり、その一軒からは確かな人の生活の気配がした。僅か、だが。間違いなく。戸口も窓も、人の度々動かす所に埃っぽさや、見た目の汚さ程の草臥れ具合はない。一見してぼろぼろの空き家の一つにしか見えないのは、態とそう設えたものなのかも知れない。 「まー、立派な別荘だこと」 ここまで来る暗く狭い道程を重たい鞄が辺りにぶつからない様に必死で抱えて来た銀時は、その疲れもあってお座なりにそう口を尖らせた。相変わらず何がなんだか解らないが、最早半ばどうでも良くなりつつある。 「独身生活を心ゆくまで満喫出来そうに立派でしょう」 そんな銀時へと宥める様な仕草を添えてそう言うと、沖田は無造作に戸に手を掛けた。建て付けの悪そうに見える木製の横引き戸は、然しあっさりとスライドした。矢張り見た目程には酷い出来でもないらしい。 「ただいま戻りやしたぜィ」 戸を開けるなり拡がる、三畳ほどの三和土。一見して土間でしかないのだが、そこには玄関口との仕切りに小さな衝立を挟み、ごく普通のシンクと、プロパンガスのボンベを備えたコンロ、それに小型の冷蔵庫とが鎮座していた。 掘っ立て小屋の外見とは微妙に食い違う、場末のアパートの中の様な家財だった。目前に拡がるその光景に思わずぱちりと瞬きする銀時の真横。左側の、土間と、少し高めに造られた居間とを仕切る木製の戸ががらりと引かれるなり、そこから聞き覚えのある声が飛んで来て、 「総悟、テメェお遣いぐれェで一体どんだけかかって──、」 そして声の主の愕然とした表情と共に途切れた。 否、茫然とした表情になって仕舞ったのは銀時の方も同様であった。 戸の向こうから苛立ち混じりの声を引き連れ姿を見せたのは、先頃沖田の提示した話題に散々上った、曰く『今は暇』らしい、着流し姿の土方だった。 互いに疑問符と不意打ちの不快感とを抱えた侭で向かい合うのを余所に、沖田は銀時の手から荷物をひょいと取り上げ、畳の上へと置いた。どさりと響く重たい音が場の空気を唐突に押し出す。 「おい総悟!なんでこの野郎がいやがる!?テメェ何考えて、」 ばっと弾かれた様に視線を銀時から外し、沖田を思い切り睨み付けて土方は凄い剣幕で怒鳴り声を上げた。急に感情に火でも点けられたかの様な調子は、さも苛立たしく、腹立たしく、我慢がならない癇癪の様に見えて、思わずかちんと来た銀時は眉を寄せた。不機嫌も顕わに吐き捨てる。 「何でも何も、そりゃこっちが訊きてェわ!俺だって来たくて来た訳じゃねぇに決まってんだろーが!」 銀時の憤慨の態度に、土方は一瞬だけこちらへと視線を滑らせたものの、またしても忌々しそうな表情と共にそっぽを向かれた。ち、と露骨な舌打ちの音だけが返る。 流石に、いきなりああだこうだと言って重い荷物を引き摺って連れ回された挙げ句、ゴールに居た──件の荷物の届け先が土方なのは間違いあるまい──人間にここまで嫌悪と不快感とを剥き出しにされれば、銀時の元より余り多くない忍耐ゲージはあっさりと限界を振り切った。 とかく、日頃から無駄に掴み合い言い争いをする事の多い土方を相手にすれば、ただでさえならない我慢なぞ一秒たりとも堪える気になぞなれそうもない。 「──」 何かを言い返して、それから直ぐに立ち去ろう、と思った。全く以て、腹立たしい。訳が解らず苛々とする。 こんな事ならば変な気なぞ起こさずにいれば良かった。団子のツケ程度の恩義なぞさらりと流して仕舞えば良かった。 「まぁまぁお二人共、狭ェ中大の大人二人がそうカッカするもんじゃねーですぜィ。暑苦しくていけやせん」 だが、銀時が口を開くより、或いは行動を起こすより先に、暢気な声を二人の間に投げ入れたのは沖田だった。 仮に。本当に仮に。取りなしのつもりであったとして、この状況では火に油だろう。何しろ土方がここまで怒りを顕わにしているのだ。銀時を連れてきた、と言う元凶である沖田に対して怒りを更に募らせない理由なぞない。 銀時とて、訳も解らず誘導される様にこんな所に連れて来られた、と言う意味で沖田を憎々しげに思いはするが、ここに来て実際大層不快な態度を見せて来たのは寧ろ土方の方である。憤慨の矛先は沖田よりも土方に向いている。 「…………クソ。もうてめーにゃ遣いなんぞ頼まねェ」 当の土方は捨て台詞の様にそう言うと、その場に腰を下ろした。まだ続きを言い募りそうな気配ではあったが、彼がそれ以上を続ける事はなかった。 「疲れてんでしょうに、急にデケェ声なんぞ出すから眩暈でもしやしたか」 「総悟」 喉奥から絞り出す様に呼ぶ名には、咎める響きが強かった。受けて、沖田は大人しく口を噤んだ。だが、ちらりと視線だけを銀時の方へやると、罪悪感なぞこれっぽっちも感じていない様な表情で肩を竦めてみせる。ヤレヤレ。そんな口の動きと共に。 「……」 当の土方が草臥れた様に座り込んだのもあって、なんだか銀時は毒気を抜かれた分、居心地の悪さに似たものを持て余して口を噤んだ。どう考えても土方の目は銀時を招かれざる者としてしか見ていない様だったし、沖田に至っては何を考えているとも知れない。と、なればどう考えても場違いで邪魔なのは己の方である。連れて来られておいて肩身が狭い、と言うのは非常に業腹なものではあったが。 「………万事屋」 「……何」 「来たくて来たんじゃねぇって言ったろ。テメェ一体、総悟(こ)の野郎になんて唆されてここに来た」 呼ばれて応じれば、苛立ちや憤慨を兎に角理性で押し殺した様な声音で土方のそんな問いが飛んで来る。沖田を問い質すのも叱責するのも取り敢えず後回しにする事にしたらしい。話のまだ解りそうな方から取りかかる。実に土方らしい判断である。が。 「…単に荷物持ちとか何とか言われただけだよ」 口を尖らせた侭で銀時は簡潔に、土方の知りたいだろう要点だけを答えた。まだ収まらぬ苛立ちの侭にあれやこれやと言ってやっても良かったのだが、そうしなかったのは土方の顔色が酷く悪そうに見えたからだった。目元には薄墨をはいた様な隈がくっきり出ているし、いっそ疲れているのを通り越して窶れて見える。 「……そうか。総悟の勝手で手ェ煩わせて悪かった」 一度、静観する様に横に腰掛けている沖田の方をじろりと睨み付けてから、土方は銀時の方を見て、僅かに目を伏せてみせる仕草をした。口調はいつも通りで、謝ると言う割にはどこか尊大な気配さえも感じられたのだが──、 (まあ…、疲れてる所にわざわざ鉄槌振り下ろすのもな) 思って、銀時は胸中で沸々としていた苛立ちをなんとか吹き消した。 土方は、銀時に今まで憶えがない程に深く疲労している様だった。武装警察の副長職などと言う面倒な地位にいるこの男が疲れた様子でいる姿ならば今までにも幾度か目にする機会はあったが、今の目の前にある異常さはその比では到底無かった。弱ったそこをわざわざ攻める気にはなれない──攻める価値はない──、そんな風に感じられる。 それに何より。尊大だろうが不本意だろうが、土方が先に矛先を納めるポーズを取った以上、銀時がいつまでも構えているのは仕方がない上に大人気ない。 恐らく、沖田が疲労困憊の土方に対してイヤガラセを行いたかった。そんな程度の事に違いないと無理矢理に決め込んで──厄介事の気配はとことん排除したかったのだ──、銀時は土方の謝罪の仕草に応じる様に肩を揺らした。 形振りを構わず釣る価値のある──そんなイヤガラセであるものか。 そもそもイヤガラセだったとしたら、銀時と土方との言い合いを寸前で宥める必要はない。 解ってはいたが解りたくはない本心があり、銀時は間を探す様に曖昧に室内へと視線を走らせた。 座り込んだ土方の肩の向こうは、簡素な畳張りの六畳間程度の広さの空間が一つ。木製の、窓枠と格子しかない窓はぴたりと閉ざされていたが、蛍光灯の薄ら灯りが天井から下がっている。晴れの昼間には些か不健康とも無粋とも見える光景だ。 部屋の中央付近には四角い卓袱台が寄せてあり、その上には書類の類だろう紙束や筆記用具と言ったものが並んで、或いは散らばっていた。 壁には襖が一つ。屑籠に、煙草盆──後はその程度のものしか見当たらず、娯楽や私物の気配はしない。殺風景を通り越して薄ら寒ささえ憶えそうな風情である。 土間にある台所らしき役割を果たしていると思しきスペースにも、余り生活の痕跡──使用感の様なものがない。ただ、安っぽく古いと言うだけの家財の数々は、一見あばら屋のこの建物に酷く似つかわしい様だったが、まるで態と『そう』在る様に設えた様な違和感がある。 譬えるならば、まるで映画のセットの様に、酷くどうでもよい背景の様な存在感なのだ。 そんな所に、まるで隠れ潜む様に居る──棲んで、居るのだろう──男の存在は、更に異質なものである様に銀時の目には映った。 造作の出来や侍として鍛えた肉体、と言った外見的なものはさておいて。土方十四郎と言う男は、決して華やかではないが、目立たない存在では断じて無い。雑踏に紛れれば風景の一つだが、目に留まれば必ず人目を惹く。そう言った手合いなのだと、大分不承不承ながらに銀時は知っている。闇の中の金剛石か、はたまた光の下の黒曜石か。さながらそんなものの如くに。 人目なぞ本人の関心の埒外なのだろうが、わざわざ目立つ真似を無用に好む男ではない。 だが。同時に土方は尊大で矜持高い男だ。そんな男が、目立つ気がなく歩いている、のと、『これ』とでは訳が違う。こんな風に、隠れ潜む事を良しとする様なタイプでは決して無い筈だ。 そんな奇妙に銀時が眉を寄せたのを、何か説明ないし釈明を求められていると感じたのか、土方は大きく息をつくと咎める様な目で沖田を見た。 「荷物が重かったんで。全く、土方さんは人遣いが荒くていけねーです。アンタの机周りのファイルと書類全部持って来いたァ、忙しくか弱い部下にどう言う料簡なのか抗議したくもなりまさァ」 視線に促されて沖田はそう答えるが。 (嘘だな) 「見え透いた嘘ついてんじゃねェ。つーか誰がか弱いんだ、殺しても殺されねぇドSが」 奇しくも銀時の胸中のツッコミと土方の声は重なった。じとり、と向けられる二対の詰問の視線を前に、沖田は憮然とした様な沈黙を返した。その間僅か数秒。 「じゃ、俺ァまだ仕事が積んでるんでそろそろ帰るとしまさァ」 そして次には何事も無かったかの様な調子でそう言い、立ち上がった。ぱんぱんと態とらしく上着の埃を叩く様な仕草をすると、「おい、」むっつりと腕組みをし睨みつつ声を上げる土方の苛立ちなぞ何処吹く風とばかりに、銀時の方を振り向く。 「旦那、ご協力ありがとうございました。荷物ん中に茶菓子が入ってますんで、宜しければどうぞ」 「おい、」 土方と同じ様に──但しこちらは睨み下ろす位置だが──、抗議の意図強く呻く銀時の横をするりと摺り抜け、「じゃ」そう軽く暇を告げると、沖田は戸口を抜けて出て行った。かたりと静かに閉まる戸に、あっと言う間に外界も、そこに出て行った者も遮られて仕舞う。 (……真っ向から逃げやがった) 沖田の余りにマイペースな思い切りの良さと行動とに、思わず茫然と見送る形になった銀時は、遣り場を失った問いを溜息にして絞り出した。 向かいでは土方も同じ事を考えていたのか。両者の重苦しい吐息が、これもまた綺麗に重なった。 …アレ?進みが遅い…? ← : → |