廻るナタナエル



 「……で、」
 ややしてから、地を這う様な気鬱さを纏った声が土方の唇から漏れ出た。語尾の半端な切り口からして、恐らく「テメェはどうするんだ」とでも続くのだろう。
 直ぐに帰る、と返すのを思わず躊躇う程には、土方の態度は先頃の遣り取りとは異なり静かなものだった。また苛立ったりしている様だったら、それに乗じて怒りながら立ち去ると言う選択肢もあったのだが。
 それ程疲労しているとでも言うのか。怒りを継続する意味や意地さえ無為だと思える程に。
 「……えーと。アレか。煙害で屯所を遂に追い出されたとか?」
 考えれば考えるだけ奇妙で、やり辛い。そうして答えに窮する銀時が思わず選んだのは、ここに至るまでで最も奇妙に感じられた事の一つである、土方が『こんな所』に潜む理由を問う事だった。
 実際興味、と言うか好奇心(に似たもの)はあったのだが、どうせ真っ当に問いた所で、あの憤慨の様子を思い出してみれば、躱されるか無視されるか逆上されるかの何れかになるだろうと想像は易かったので、投げられたのは態とらしい軽口程度に留まる。
 すれば土方は先頃の苛立ちの残滓をほんの僅かだけその横顔に乗せて、
 「そんなんじゃねぇよ」
 とだけ短く否定を投げて寄越した。
 わざわざ言葉にして否定されずとも解ってはいる。煙害マヨ癖害が気になるぐらいの事で、真選組になければならない土方の存在を切り離せる訳もない。
 かと言って、張り込み、と言った様子ではないし、そもそも土方はそんな仕事を自らする立場の人間ではないだろう。
 命を狙われているから隠れなければならない、などと言う消極的な発想をする男でもない。
 休暇にわざわざこんなあばら屋を別荘として選ぶとも思えない。
 仕事の荷物を運ばせている以上、ここに長期間、沖田をして『忙しい』と言わしめるだけの業務内容を部下の元に置き去りにして留まらなければならないと言う事は明かだ。だ、とすれば怪我か病気か何か、已むを得ない様な状況に置かれているのか。
 可能性の列挙は連ねれば連ねてみるだけ、なんだか段々と邪推の様に思えて来る。上手く続く言葉も見つからず──不用意に動くも憚られて、銀時は曖昧に「ふーん」と頷くと再びその先の行き止まりで立ち往生して仕舞う。
 そんな銀時の様子を見て、答えを待つのも無駄と判じたのか、土方は沖田の置いていった、銀時がここに連れて来られる原因となった件の重たいスポーツバッグへと躙り寄るとその中身の検分を始めた。
 沖田の口にしていた通りの、重たげに綴られたファイルや書類束などが次々に取り出され積まれて行くのに、思わず口の端を下げて銀時は呻いた。これでは重たい訳である。
 「……まぁ、総悟の責任たァ言え、テメェが真選組(ウチ)の荷物を運んで来た事には変わりねェんだ」
 不意にそんな事を言うと、それらの荷物に続けて衣類らしき軽そうな風呂敷包みなどを取り出した土方は最後に、江戸市中でちょっとした評判のある和菓子店の名の書かれた紙袋を引っ張り出した。形からして本当は上の方に入っていた様だが、取り出した順序が土方の内心の懊悩の様なものをよく表していた。
 それはこの一言を出すまでの躊躇い。
 「茶ぐらい淹れてやる」
 そう何処か諦めた様な調子で言うと、土方は、すい、と畳を滑らせる様にして、所在なく佇んでいる銀時の方へと紙袋を押し出した。それから立ち上がって、上がれ、と仕草で促してから、自分は逆に土間へと下りる。
 どうやら宣言した通りに、『茶ぐらい』入れてくれる心算らしい。簀の子の敷いてあるコンロの前へ向かうと、薬缶を火に掛け始めた。
 「……んーじゃお言葉に甘えて」
 寸時の逡巡は、己の横を通り過ぎていった土方の、窶れた横顔に軽く押し流された。甘味の入った紙袋よりも余程気に懸かるものとして銀時の目にその様が映って仕舞ったばかりに。
 若々しい覇気や精彩は失われていないと言うのに、どこか作りものめいた酷い顔色が丹精な面に過分な翳りを落としている。疲労以上の疲労。或いは、怪我。それこそ、病気……?
 またしても胸中に立ちこめる、興味と言うパッケージングを施された邪推に自分で胸を悪くしながら、それが後ろめたさに似たものであると気付いて、銀時は少なからず狼狽した。居心地の悪さとやり辛さと張り合いの無さとが、こうまで銀時と土方との『仲の悪い』関係性をはっきりと断じれなくして仕舞うものだとは思いもしなかった。
 「適当に卓の上片付けても構わねぇぞ」
 畳に上がった銀時を振り返ってそう言うと、土方は土間と居間とを遮る横引き戸をぴしゃりと閉ざして仕舞う。
 「………いや、別に畳の上でも構うこた無ェし…」
 もごもごと返しながら、隙間なくぴたりと閉じた戸を、複雑な心境そのものと言った表情で見つめて、銀時はそれから密やかに息を吐いた。これ以上はなく解り易い土方からの拒絶の気配に、苛立つより先に諦めを憶える。
 取り付く島もないとは正にこう言う事を言うのだろう。そんな事を、思う様に行かない落胆と共に咀嚼しながら、銀時は思い出して紙袋へと手を伸ばした。沖田の言っていた、茶菓子がどうの、とは恐らくこれの事だろう。
 貰えるものなら貰おう。そう決め込むと逡巡なぞ放り棄てて、二つ折りにされた紙袋の口を開いてみれば、そこには持ち帰り用に詰められた餡蜜が二人前入っていた。
 「舟橋屋の餡蜜…」
 そう高級ではないが、庶民の間で親しまれる一品だ。お土産や贈答品などにもよく用いられる。銀時も何度か機会に恵まれ口にした事がある。わざわざ買おうと思える程の懐の余裕は残念ながら、無い。
 紙袋から、二つの使い捨てカップに入った餡蜜を取り出す。中は二層に分けられており、下には寒天が、上には果物や餡などの具材が入っている。具材を寒天の上にあけて別添の黒蜜を上から存分に掛けて食する。お好みでアイスや白玉、栗などを乗せるのもオツである。
 久々の甘味の気配に銀時は、諸々の疑問は一旦さておく事にして、上機嫌に口の端を持ち上げた。土方と気まずい空気の中で食べる、と言う現状が無ければより良かったのだろうが、まあそれは仕方がない。
 「ん?」
 餡蜜を取り出し、更に紙袋を逆さにして振ってみるものの、落ちて来たのは持ち歩き用の保冷剤のみ。匙の類が一緒に入っていない。カップに付いている様子もない。銀時は暫し辺りを見回すが、当然都合よく匙なぞ落ちてはいなかった。
 得物が無ければ折角の餡蜜も食い様がない。まあ匙の一本や二本ぐらいはあるだろうと、銀時は横引き戸をからりと開いた。頭をそこから突き出してみれば、土方の姿は未だコンロの前にあった。
 急須を前に茶筒と格闘している風に見える、そんな土方の様子を見て、銀時の口の端は再びむっと顰められて下がった。同時に気分も多少下を向き、忘れかけていた苛立ちを発掘しそうになる。
 「オイオイ。茶ァぐらい自分で淹れらんねーの?」
 呆れと揶揄の混じった刺々しさのある銀時の言葉に、土方は一瞬驚いた様にこちらを振り返ったが、直ぐさま舌打ちをして眼前の急須へと意識を戻す。
 ぎこちない手つきが、茶筒の蓋に移した茶葉を急須へと落とすと、続けてコンロの上で湯気を丁度吹き始めていた薬缶の火を止めた。
 銀時の揶揄めいた一言は、土方の事だからどうせいつも部下に入れさせていて、自分で茶を入れる事なぞ滅多にない事なのだろうと高を括った故の軽口の心算だったのだが──もう一度、寸時銀時を振り返った土方のその表情は、酷く傷ついた様な、悔しさを隠し切れない様な、苦渋に溢れたものである様に見えた。
 然し特に否定も言い訳も開き直りも、何も口にする事はなく。銀時もまた何かを問うでもなく。寸時の交錯は通り過ぎる様に終わる。
 取り上げた薬缶を傾け、急須に熱湯を注いでから、土方はぎこちない手つきで茶筒をなんとか閉めた。その動きは何処か左腕を庇っている様に見えて、ひょっとしたら、矢張り負傷の類なのだろうかと、銀時は眉を寄せた。
 それとなく、少し捲ってある袂から覗く土方の腕を見遣るが、件の左腕には疵らしい疵は見て取れない。少なくとも見える範囲に異常は無さそうに見えた。
 (コイツの性分つーか職務なら、生傷ぐらい絶えそうも無ェが……)
 魂が入れ替わっていた時はどうだっただろうか、と思わず銀時は首を傾げてみるが、存外『自分の身体』と言うものはよくよく観察するものでもない様で、幾ら思い起こせど記憶に引っ掛かるものは浮かんで来そうもなかった。
 と、急須と湯飲みを乗せた盆を土方は持ち上げ──その手から不意に力が抜けたかの様に、盆ががくりと傾いた。
 たちまちにバランスを崩した湯飲みが落下し、滑った急須は盆を掴む土方の腕にその中身をぶち撒けて転がり落ちる。
 「おい!」
 急須の中身は、先頃湧かしたばかりの熱湯だ。沸き上がる湯気に顔を顰めて、銀時は土間へと下りた。その場に膝をつく土方へと近付く。
 「何やってんだよお前……、火傷すんだろうが」
 呆れ混じりにそんな風に言いながらも、冷やした方が良いだろう、と思った銀時は、土方の想像以上に不器用だった所作に呆れるより慌てるよりも寧ろ苛立って、熱湯を被ったその左腕を掴んだ。
 「触んじゃねぇッ!」
 途端、ばしりと音がしそうな勢いで払われて、銀時は「え」と思わず茫然と瞬きを繰り返した。ひょっとしたら火傷が痛かったのだろうか、と寸時そんな間の抜けた事を考えたのは、凄い剣幕で声を上げた土方本人が次の瞬間浮かべた、狼狽にも似た表情を見て仕舞ったからだ。
 或いは、その──辛そうにも見えた──表情を見ていなければ、銀時は直ぐ様、心配してやったのに強く払い除けられた、土方のそんな態度に腹を立てる事も出来ていただろう。そして土方の方も、そうなれば強い調子で斬り返す事が叶った筈だ。
 「……、」
 己で己のした、嫌悪にも似た拒絶反応に、打たれた銀時よりも当の土方こそが困惑している様だった。
 だが、そんな拒絶を受けたから、思わず銀時も怒るタイミングを逃して毒気を抜かれた訳ではない。
 憤慨に割く筈だった意識の空隙が、違和感を憶え──それはたちまちに驚きに変わった。
 庇う様な動作をしていた、土方の左腕。熱湯を浴びたその腕を掴んだ、銀時の右の腕。掌。指先。
 指は人体に叶う繊細な動作の為に、とても感覚機能が鋭敏に出来ている。
 その指が、全く感じなかった。
 少なからず沸騰温度に近いだろう、熱湯を浴びた腕の、熱せられた温度を。温かい或いは熱い筈の体温を。
 その指が、違和感を拾い取った。
 大凡、その皮膚の下に筋肉や肉を備えているとは思えない、奇妙に固く冽たい感触を。
 「……おい…お前、まさか、」
 「…触んな」
 思わずもう一度確かめようと伸ばした手は、払い除ける所作ではなく、弱々しささえ漂う拒絶の言葉に遮られた。
 土方は、悔しさと苦しさの入り交じった複雑な表情で奥歯をぎしりと噛み締めながら、茫然と動作を停止させた銀時を見遣った。
 義手だ、と銀時は思った。但し昨今の、本物と見紛わぬ出来と触感、機能をも備えたものとは異なる、マネキン人形の様な『モノ』だと。
 だが、何故。どうして。それを問うには言葉は迂闊で、銀時と土方との関係性は余りに稀薄だった。だから、互いに張り詰めた気まずい緊張の糸を、手繰ればいいのか断ち切ればいいのかが解らずに黙り込むほかない。
 問題の左腕を、間違っても銀時の手が触れて来ようとせぬ様にか、右腕と身体とで庇う様にしていた土方は、やがて自ら糸を切る様に、あからさまな溜息をついてみせた。
 「こうなりゃ仕方ねェ。他言無用にしろ」
 土方が責めたのは、『秘密』らしきものに不用意に触れた銀時ではなく、その銀時の前で急須をひっくり返し熱湯を被ると言う無様をやらかした己に向けられた様だった。或いは、銀時をここまで連れて来た沖田のイヤガラセにか。
 (……確かに、これはイヤガラセとしか思えねぇ)
 寸時漂っていた悲壮さをあっさりと振り切ると、未だ困惑顔でいる銀時を余所に、土方はそっと立ち上がり、シンクの前に掛けてあった包丁を無造作に掴み取った。
 「え、ここでサスペンス的な脅迫ってお前どんだけ…」
 「違ェよ」
 切れ味のそれなり良さそうな、ごく普通の家庭用の調理道具、であり最も生活に身近な刃の一つである包丁だ。身近であるが故に、その切れ味や使い心地や感触を容易く想像出来る。思わず後ずさる素振りをする銀時を見下ろして、呆れた様に素っ気なく否定を投げて。
 「──!?」
 それから、酷く無造作な手つきで、土方は手にした包丁を逆手に持つと、肘を折ってシンクの淵に置いた自らの左腕にさくりと突き立てた。瞠目する銀時を余所に、その侭手首付近から刃を綺麗に垂直に肘まで滑り下ろす。
 「ッ馬鹿か、お前何やってんだ一体!」
 先頃の拒絶の剣幕を忘れて、銀時は咄嗟に伸ばした手で土方の、包丁で真っ直ぐに切れ目を入れられた左腕を掴み上げた。逆の手で包丁を叩き落とす。
 「っ、てぇな」
 そう抗議する様に呻く土方の視線は、包丁を叩き落とす為に打たれた右手に向いている。今し方自ら割いた左腕には一瞥もくれない。
 「…………」
 土方の左腕を掴む、銀時の右の掌に。指に。先頃感じた硬質な触感。
 恐る恐る銀時がそちらへと視線を巡らせてみれば、そこには、通常腕なぞ割かれれば当然切断されて大量に噴き出す筈の血の一滴も滴ってはいない。無機質な、腕が。ある。
 だが、硬質で冽たい癖に、掴んだ腕には妙な感触があった。これだけは掴んだ所で生体と然程は変わらない、人間の皮膚の感触だ。
 人間の腕を掴んでいるのだからそれは当たり前の手応えだと言うのに、その皮膚の下には人間では有り得ない光景が広がっている。有り得るものが、有り得ないカタチで、そこにある。
 骨と、血管と、筋肉と、筋と、肉と、神経と。皮膚の下に隠れている人間の腕と全く同じ、然しそれらの物質とは全く違った真白なもので構成されたそれを『腕』と呼んでよいのか──解らない。
 ただ、先頃思った様な義手では有り得ない事だけははっきりと解った。義手であれば、血管や神経の再現なぞする必要はないからだ。
 割かれた腕の中に覗く、骨、に似たもの。血管、に似たもの。毛細血管の一本一本まで模様の様に存在している癖、それはつるりと白い一色の物体だった。
 まるで精巧に作られた人体模型だと、晒された腕の中身、そこから視線を離す事も出来ない侭、茫然と銀時は思った。真っ新な琺瑯と繊細な糸とでつくられた、人体の形であると。
 つくりものであるのだと。
 問う事も出来ず、理解も出来ずに銀時は立ち竦んだ。こんなものは見たことがない。こんなことが起こる筈がない。こんな冒涜がある筈がない。
 これは、生命を──生体をその侭に異物に固めた、酷く歪な物体だと。そう思った。
 『何』であるのかは、解らない。ただ、『それ』が酷く美しく酷く歪で酷く冒涜的な有り様である事に、吐き気すら憶える。
 問いは疎か否定すら出て来ない。黙り込んだ銀時から視線をそっと逸らして、やがて土方は口を開いた。どこか自嘲めいた響きを隠しもせずに吐き捨てる。
 「火傷なんざする筈がねェだろ。こんなザマじゃ」
 異様そのものの有り様となった左腕を晒して見せる、その横で。
 それこそつくりものの様に婉然と嗤いながら。







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