因果売りのコッポラ



 「病気、みてーなもんらしい」
 取り敢えず畳の上へと戻ってから、やがて土方が切り出したのはそんな一言だった。
 病気、とは言ったが、実際医学的に『病気』と分類して良いのかどうかも知れない、近年の地球では未だ未確認、広い宇宙でも滅多に例を見ない、そんな症状を持つ『病気』。
 その症状は、肉体を構成するパーツや成分が少しずつ、全く別の物質に置き換わって行くものだと言う。
 外見、皮膚はその侭で、肉が琺瑯(によく似た物質)に、血管や神経が糸(によく似た物質)に。骨が金属(によく似た物質)に。次々と身体が浸食されて行くその症状をして、人形症などとも呼ばれている。この国の大昔の文献に『呪い』として似た症状が記録されているそうだ。
 変質した箇所(パーツ)からは神経信号が途切れ、痛みなどの一切を感じさせない代わりに、己の意志での動作が出来なくなる。そしてやがては完全な『人形』となって、『死』ぬ。
 宇宙でも稀な症例と言われるだけあって、未だ確実な治療法は見つかっていない。初期症状の内に変質したパーツを切断する事でそれ以上の症状の進行が防がれた例もあれば、まるで効果が無かった例もある。
 また、感染源も、感染経路も、感染する条件も一切が不明で未知。土方にも『何処』から感染したか心当たりはなく、血液などの体液を介しても他者に伝染する事はない。感染源も、発症しない侭で知らずの内に他者に伝染している事もあるとかないとか──まあこの辺りは他星の四方山話である。
 「今までにも、妖刀に身体乗っ取られたり、ドライバーになったり、女になったり、魂が入れ替わったり……大凡信じられねぇ様な事は散々あっただろうが」
 何でそんな『病』に、と銀時が想わずこぼせば、土方は淡々とした調子でそう軽く言って寄越した。動じていない訳でも、諦めた訳でもない様だが、ある程度の覚悟は既に固めているのだと、その態度が雄弁に語っている。
 「屯所を出てんのは、感染者が拡がるとかそんな不確かな懸念が理由じゃねェ。いつ何時身体のどの部位が役立たずになるかも知れねぇんだ。今は未だ左腕以上に浸食しちゃいねぇが、何れ斬り合いの中で利き手がいきなり駄目になる可能性、執務中に眼が駄目になる可能性──どんな『症状』が起きる可能性も否定出来やしねェんだ。俺が真選組にとってのリスクになる訳には行かねぇだろ」
 先頃自ら『開いて』みせた左腕を目線だけで示して言うと、土方は深々と溜息を吐いた。恐らく今までもそうして『理由』を繰り返して来たのだろう。己の納得と一定の諦念とをそこに描きながら。……言い聞かせるかの様に。
 「この『瑕』も、便利なもんでな、放っておけば自動的に修復される。血も出ねェから体力も消耗しねぇ。これで後は自由にさえ動けば文句の出ようも無ぇもんなんだが」
 生憎そうは上手くいかない、と。皮膚のすぐ下のつくりものをそっと指でなぞってみせる。『開いた』部位に緩く包帯を巻いただけの土方のその腕が、もう彼自身の意思ではどうにかなるものではない『異物』であるのだとは、そう説明された所で信じ難い、と言うよりも実感が湧かない。
 「肩の方にはまだ浸食してないみてェだからな。上げ下げ程度は出来るが、左(この)腕そのものはまるで棒でもぶら下げてる感じしかしねェ。ご丁寧に関節は残ってるから猶更だな。
 まぁ、動く内にやれる事ァやっておかねぇとなんねェからな。少々不便だが、利き腕から浸食されてんじゃねェだけマシだ」
 銀時のじっと見つめる視線に応える様に言いながら、土方は自らの左の二の腕に右手を添えた。ぐ、と力を込めて持ち上げれば、肘の部分で腕が内側に曲がる。が、添えていた右手を離せば、だらりと肘が伸びて腕は落ちて仕舞う。
 態とらしくあからさまに示される『物体』の有り様に、銀時は顔を顰めた。まるで死んだばかりの人体の四肢だと思って、その想像に胸を悪くする。
 「それ、は…その。本当に治らねぇのか?治療法の研究とか、こんな所にいねぇでそう言う望みが少しでもある病院とかに行った方が良いんじゃ」
 「したら地球になぞいられなくなんだろ。どっか他星の研究機関に送られて、死ぬまで解剖と研究を繰り返された挙げ句、死んだら標本扱いなんざお断りだ」
 紋切り型な銀時の意見に、土方は自嘲めいた笑みを口元にさっとはいた。続ける。
 「一応、真選組(うち)の可能な範囲で方々に手は尽くしちゃいるが、何しろ宇宙でも症例の少ねェ『奇病』だ。
 っは、このご時世で未だ原因不明で正体不明の不治の病なんて言うもんが大真面目に存在してるたァ……、しかもそれに罹っちまうたァ、いよいよ運の尽きって事だ」
 吐き出す息と同時に、辺りに俄に漂い出したのは、抜いた刀を突きつけられる様なひやりとした空気。……或いはそれは気の所為でしかないのやも知れぬが。
 だが、それが『死』の足音であるのだと、銀時は知っている。本能以上の経験則で、知っている。
 そう。恐らくは──否、確実に。
 土方は既に、己の生を諦めている。
 「──」
 気休めも軽口も、或いは全く関係無い様な話も浮かんだ。だが、何れも口を衝いては出て行こうとしない。呑み込み損ねたからだ。この、途方もなく実感の無い理不尽の『死』を。顔見知りの人間に不意に訪れた、想像もし得なかった『終わり』を。
 戦場での死ならば、それが敵の手であれ事故であれ、因果の生じさせたものだ。誰かを斬れば誰かに斬られる。積み上げた屍の数だけ己に纏い憑く死神の数は増える。それがごく当たり前の話だからだ。
 銀時は漠然と、土方もそう言う手合いだろうと思っていた。
 ここはもう銀時の生きていた血と硝煙と鉄錆の臭いの漂う時代ではない。疾うに戦の消えた世界だ。望めば危険と無縁の世界で生きられただろうに、彼らはわざわざ刃と言う生き方と死に方とを選んだ。
 だからきっと、この男が斃れるのは、何者かの刀の前にその首を捧げる時だろうと思っていたのだ。怨恨と因果の積もった相手の刃の前に、彼の信念が屈した時だと。そう、思っていた。
 まさか、こんな。因果もなにもない、ただの理不尽な運命の悪戯が。
 まさか、そんな。悔恨もなにも残せない、残りの命数を無力に数える事の叶う時間が。
 この男がこんな風に、刃を置いて、諦めの眼差しを浮かべて、死の準備をするだなんて。
 (──思いも、しなかった)
 戦って、戦って、刃を握りしめた侭、己の護るものを護り抜いて死ぬ男だと、思っていた──そう、銀時が何一つ疑問無く思って仕舞うぐらいには、土方十四郎と言う侍の鮮烈な生き様は『そう言うもの』として常に其処に在ったのだろう。
 それが、顔色悪く窶れて、草臥れた老人の様な顔で皮肉を嘲って、こわれた左の腕を示して寄越すなど。『そう言う事だから』とばかりに告げるなど。
 それが、土方の裡で既に諦念に昇華されたから、では無い事は、解る。理屈ではなく、解る。この男はそんなに諦めの良い性質ではない。潔く腹を斬るぐらいなら、刑吏を逆に斬り殺してでも足掻くだろう。無論、真選組に累が及ばぬ事が前提だろうが。
 「…………」
 荷物持ちの様な扱いで連れられた挙げ句のこの展開に、上手く言葉の出て来ない銀時をちらと見て、それから土方はあからさまな溜息をついて肩を聳やかしてみせた。説明は終わり。他に何かあるか。そんな意味の所作であるとは解ったが、「おう」と頷く訳にも行かず。「大変だな」と形ばかり同情してみせる訳にも行かず。いつもは無駄に回る口が、どう言った冗談をも吐き出すのを堪えている。いや、真っ先に冗談を出す事を浮かべて仕舞うのも如何なものかと思ったが──、
 「…………」
 銀時からの返事や反応が無い事に焦れたのか、再びこちらを見た土方は、今度は「ち」と舌打ちをしてからそっぽを向いた。これだから話したくなかったんだ、とか、総悟の野郎、とか、そんな呪詛めいた言葉をぼそぼそと早口に呟いている。
 承知の上で同情しないのが、恐らくは土方が銀時へと望んだ反応だったのだろうと思う。だが、一度呑み込み損ねた棘はもう一度は上手く口に出来そうもない。幾らやり辛かったからとは言え、銀時は完全に最初の出だしで失敗した。
 「えーと…、だ」
 だが一応は努力してみようと、銀時が言葉の接ぎ穂を探そうとすれば、直ぐ様に土方がぎろりと振り返──もとい睨み返して来る。黙れ、と言う意味なのか、何かあるなら言ってみろ、と言う意味なのかは解らないが、銀時は取り敢えず辺りを素早く見回した。
 と、件の原因となった──色々な意味で──餡蜜のカップが目に留まった。保冷剤の入った袋から出して暫く経つが、この気候ならそう傷みもすまい。
 じゃなくて。
 「飯。飯とか、食えんの?」
 忽ちに目の細くなる土方に、「いやほら何かお前窶れてるし」と続ける。すれば土方は、銀時の問いが決して悪巫山戯を由来とするものではないと判じたのか、「ああ」と頷いて、それから右手の甲でそっと自らの頬を擦った。そんなに窶れて見えるのか、とでも言う様に。
 「内臓が変質するまでは食えるたァ思うが、どの道食っても栄養になる気がしねぇ……と言うか、身体がこんな風になって行く以上、恐らく栄養の摂取自体が無駄って事なんだろうな、」
 頬に触れた右手で、続け様に胃の辺りを指して言うと、土方はやおら手を伸ばした。銀時が先頃縋る藁の如く注視した餡蜜のカップの蓋を掴むと、容器を傾けながら器用にその蓋を外し、中に入っていた缶詰の赤いさくらんぼをぽいと口に放り込んで──顔を顰める。
 「……砂を噛んでる感じにしか思えねェ。マヨをどんだけ掛けても、だ。実際、腹も別段減らなけりゃ、それで参っちまう様な事も無ぇ」
 ぺ、と餡蜜のカップの蓋に種を吐き出しながら言って、得意気に──自嘲でもある──言ってみせる土方の望む様に、
 「そりゃ珍事だな」
 そう、日頃散々からかってきたマヨネーズ癖に纏わる所を捉えて返してはみたものの、銀時の内心は晴れない。相手を思う様にやり込めないから、ではなく。晴れない。
 ものわかりの良い諦めも、実感の無い侭に決断を迫られた覚悟も。土方の裡に不意打ちの様に生じた、そう数えざるを得なくなった残り時間をただ悲嘆に暮れて過ごすばかりではいけないと言う焦りから出て来たものだ。
 決められた『終わり』と言う悲壮感を実感し喚くだけの時間も、未だ死ねないと言う未練も、生きる為に己で悪足掻きをする猶予も、なにひとつこの男には与えられておらず、受け取る心算もないのだ。
 残りがどれだけあるかも知れない時間も、真選組の為に動き続ける。彼らの足手纏い、邪魔者として終わらない為に、最期の瞬間まで己なぞ省みずに。きっと。
 窶れて。疲労して。両腕が動かなくなって。足も。眼も。鼻も。耳も。口も。全てがつくりものと成り果てても。成り果てるその前と同じ様に働き続ける。動き続ける。
 以前、機械(からくり)のたまが『機械は人の為に働く事が喜び』だと言っていた事を銀時は不意に思い出した。
 では、土方と言う男は元来機械の様な男だったのだろうか、と寸時考えて、思考が段々逸れている事に気付く。
 こんな想像は無意味だし、軽口に投げたって土方を怒らせるか酷く傷つけるかの何れでしかない。憤慨した所で、今の土方であれば「そうかもな」と自嘲の色濃く笑うかも知れないが。
 「本来、」
 銀時の軽口がそれ以上続かないのを見て取ってか、土方は喋るのにも疲れたと言った素振りでそう切り出した。
 「テメェには──いや、テメェらには知られる心算は無かった事だ。口止め料が欲しいならくれてやるから他言無用にしろ。即金は無理だが、後で山崎に届けさせる」
 テメェ『ら』とわざわざ言い直された事に銀時はむっとした。『ら』に掛かるのは当然『等』で、それは銀時の周囲の、彼を含めた複数形──万事屋の残る二人(と一匹)にも自然と知れる事と言っているも同然だったからだ。そんなに口が軽い様に見えているのか。それとも単に三人ワンセットと思われているだけなのか。何れの理由であっても少しばかり腹立たしい。
 「金なんかいらねぇよ別に」
 その苛立ちもあって、突き放す様な言い方が出た。そもそも、万事屋が幾ら生活に困窮していたとして、三人と一匹揃ってワケアリの病人にタカる程に性根は腐っていない。
 待ち望んでいた筈の暇のタイミングが、こんなに後味の悪いものになろうとは思わなかった。苛々とした成分を、何処に苛々としているのかよく解らない侭に噛み締めて立ち上がる。ブーツに足を突っ込む間、土方の視線は背中に感じたが、何も言われる事はなかった。
 じゃあな、とも言わず、銀時は玄関の戸に手を掛けて外に出た。じゃあな、とは追い掛けても来なかった。ぴしゃりと閉ざした戸の向こうで、土方は一体何を思っているのだろうか。
 口止めは万全だろうかと考えて、暫くは万事屋の前でも張らせるかも知れない。今の土方は、事情を知る攘夷志士にでも襲撃されればそれまでなのだ。その警戒ぐらいはするだろう。
 (その想像にも腹は立つが、)
 一歩。後ろ手に閉ざした戸から離れた所で、銀時はむすりと顔を顰めた。ゆるりと、背後のあばら家を振り返る。
 沖田と、山崎と、近藤と。他にも幾人かの人間が土方の『事情』を知ってはいるだろう。
 だが、彼らが真選組の人間である以上、土方の病状の回復方法を求めて調査を行ったり、土方が不在となる業務の空白を埋めるべく動かなければならない。それこそあの沖田をして『忙しい』と言わしめる程に。更にその傍らで通常業務もこなすと来たら、『それ以外』の事で土方に関わる時間なぞ殆ど無いに等しいだろう。
 否、土方自身がそれを良しとはしないだろう。病人にかまけてる暇があったらとっとと仕事をしろと怒鳴りつけそうな気がする。
 「…………」
 知らず、苦い味が口中に拡がる。後悔にも似たその味は、侭ならない己とそれを取り巻く現実から得たものだ。
 あの土方が、茶の一つすらまともに淹れるも苦心していた腕で、わざわざ己の為に何かをするとも思えない。それこそ摂取の必要さえ無いと言うのであれば、食事なぞしないだろう。そうして窶れようが痩せようが、どの道『死』せる身へのカウントダウンは変わる事はないのだから、余計に。
 (……くそ、)
 つまらない話を訊いて仕舞った。碌でもない話をまんまと訊かされて仕舞った。これでは関わらないと言った所で、関わり合っているも同然だ。後味の悪さと言う意味では一級品に。
 そこに来て相手は聞き分けの良い機械(からくり)ではない。土方自身が己の現状を歯痒く思うからこその、あの自嘲の様子なのだ。そこに無償(に見える)の手なぞ差し伸べる真似は、土方の矜持を踏みにじる行為に他ならない。
 ここ数分の間で見慣れた気さえする、土方の、投げ遣りな諦念に自らを収めようとする態度は、大凡彼らしくない、と言えば、無い。だが、らしい、と言えば、らしい、と思える。
 真選組にとって○○だから、と言う判断基準。結局のところ行き着くのはそんな結論。
 もう少し悲嘆しても良いのに、と思う。もう少し悔しがって、予期せず事情を知る事となった銀時に口止め料の打診なぞせず、日頃のチンピラ警察っぷりの様に恫喝めいた口を利いたり怒鳴り返すぐらいの気概を持っていても良いのに。と。
 生きる、事の『先』を思えと言うのは、遠からぬ『死』を宣告された人間にとっては、恐らくは酷く残酷な話なのだ。残された時間をどう使うかは当人の自由だ。土方が悲観し毎日泣いて過ごそうが、最期の瞬間まで真選組の為に尽くそうが、それは近藤にだって口出し出来ぬ事だろうし、部外者である銀時になぞ以ての外だ。
 だが。
 (……………茶ァ一つ満足に淹れんのも困難な状態で、こんなボロ家で、それこそ置き去りの人形みてェに、朽ちるのを待つだけ、だなんて)
 その想像は銀時の胸中を曇らせ、口中に酷い苦味を生じさせた。そう、先頃も感じたこれは、紛れもない後悔。子供じみた癇癪にこの苛立ちの感情を紛れさせて、飛び出して来た己に対するものと、態とその効果を狙った物言いをして寄越した土方に対するものだ。
 苛立ったのは──後味が悪い、と思ったのは、この侭あの男を一人こんな場所で朽ちさせる運命にだ。それを、見過ごしても良い事だろうかと斟酌せねばならない事にだ。
 「〜ああクソ」
 ぐしゃりと髪を掻き混ぜて、銀時はぐるりと、今し方自ら閉ざした玄関戸を振り返った。これも沖田の思う壺と言う事だとしたら、いつか一発くれてやらないと気が済みそうもない。
 がら、と勢いよく再び開いた玄関の向こう、居間の上に座る土方は、戸口に佇む銀時の気配を感じてでもいたのか、然程驚いた様子は見せなかった。
 何だ、と言いたげに億劫そうに視線を投げて寄越す、男が。
 一瞬後か、それともどのくらい先かは知れぬが、『死』んで仕舞うなど。今は想像もつかない。
 「よくよく考えたんだけどさ」
 ぱたりと後ろ手に戸を閉めて、銀時は玄関の内に入り込んだ。些か斜めな切り口に、土方が訝しむ様な表情を作るのを見ながら続ける。
 「やっぱ折角の機会だし、口止め料的なもの、貰っておこうかなーと」
 「……………幾ら欲しい」
 顔を顰めた土方が、隠さぬ苛立ちを垣間見せた。言葉には問いよりも棘の方が強い。
 己で『口止め料』と打診しながらも、実の所銀時がそんな風に他人の弱味に付け入る様なタイプだとは思ってはいなかったのだろう。びしりとした調子で、警戒する様に纏った棘の鎧には、はっきりとした侮蔑の色が込められていた。
 出来れば厄介事は見て見ぬフリをしたい派の銀時としては、ここで退くのが正しいのだろうと。何処かで思ってはいた。否、先程退かなかったどころかこうして戻って来て仕舞ったのだから、もう既に後に退くタイミングは完全に逸している。
 今更、だ。
 足を止めて仕舞った。今更だ。
 降り積もりそうな面倒さと、関わってどうするのだと言う厄介さとが首を擡げるのを振り払って、銀時は「んー」と考える様な仕草で視線を漂わせた。
 「三百円くらい?」
 「ふざけんな」
 返ったのは即答と、小銭の重みより紙幣の厚みを持つ財布だった。
 侮辱されたと感じたのだろう、土方の冷え冷えとした視線に晒されながら、銀時は乱暴に投げつけられた財布を拾い上げた。無造作な手つきで開けば、中身は想像通りに紙幣とカードの類しか入っていなかった。小銭を持ち歩く主義ではないのだろう。
 (まぁ確かに、重いし音は鳴るしで碌なもんじゃねぇのかもな)
 勝手に財布の中身を探りだす銀時に、土方の表情は冷えるのを通り越して能面の様になっていた。もう呆れ果てたと言う事だろうか。喧嘩の時でさえこんな眼で見られた事はなかったのにな、と余所事の様に思いながら、銀時はその中から最も額面の少ない千円札を取りだすと、土方に見える様にくるりと回して懐に仕舞い込む。
 財布は元通りにすると畳の上にそっと置いて、銀時は冷蔵庫の方へと歩き出した。土方の已然変わらぬ冷めた眼差しがその背を追って来る。
 「っても、コレだと貰いすぎだし、釣りは万事屋らしく働いて返すわ」
 は?と疑問をぶつけて来る土方の視線と意識とを背に感じながらも振り返らず、銀時は冷蔵庫を開いた。それこそ勝手に。
 「……おい万事屋、テメェな…、」
 舌打ち混じりに土方は立ち上がると土間へと下りて来た。財布の次は冷蔵庫まで漁る心算なのかと、如何にも忌々しげな調子である。が、口止め料と先に言い昇らせたのが己であるからか、制止は特にしない。仮に銀時がどんな難題を要求した所で、応えてくれようとするのだろうか、と思って、小さく嘆息した。
 そこまで性根の腐りきった人間に思われている、らしいのは、少しばかり心が痛い。
 検分した冷蔵庫の中身は清々しいぐらいに大した物が入っていない。マヨのストックを除けば万事屋の食糧事情と大差ないかも知れない。
 マヨネーズの群れからは取り敢えず目を逸らして見れば、少量の豚ロース肉が入っていた。あとはもやしと半分残った玉葱。袋売りのピーマンと生姜が数個。萎び掛けた人参。輪切りに半端に残った大根。少人数用の小パックの味噌。シンクの下も手を伸ばして開けてみれば、こちらには調味料が少々。あと新聞紙にくるまれた馬鈴薯らしきもの。
 土方が手ずからこれらの食材やらを持ち込んだとは思えないので、部下の…と言うか山崎辺りが一日二日前に適当に何かを作って行ったのだろうか。
 粗方確認すると、銀時はその中から豚肉ともやしとピーマンとを選び取った。あと生姜を手に取り、冷蔵庫を閉じる。
 「生姜焼きにするか」
 「……は?」
 「そろそろ早い夕飯時、ってぐらいだろ。朝から何も食ってねぇんだし腹減ってんじゃねぇの?」
 ぽかん、と虚を突かれた表情で、咎めるのも忘れた様に立ち尽くす土方の前で、銀時はさっさと野菜を洗い始めた。適当に調理道具と調味料と薄力粉を探し出しながら、さくさくと調理手順を進めて行く。
 土方は、どうしたら良いのか、銀時が何をしているのかが解らなかったのか、その意図を探りたかったのか。銀時の行う動作をじっと見てはいたが、掛ける言葉を持たずにただ黙っている。
 そうする内に、皿の上には銀時の適当配分調味料に因る、豚肉の生姜焼きと塩でさっと炒めたもやしとピーマンと玉葱の野菜炒めが出来ていた。
 「流石に米は自分で炊けよー」
 卓の上に料理の皿を置いてそう言う銀時に、ここでいよいよ土方の顔が思い切り不審げに顰められた。
 「……どう言うつもりだ、何だこれは」
 「だから釣り銭だって言ったろ」
 呻く様な土方の問いにそうとだけ答えると、銀時は使った調理道具を水につけて──流石に洗いまではしない──、懐に先頃仕舞い込んだ千円札を服の上から軽く叩いて示した。
 要求したのは三百円ぐらい。材料費を含まない調理費もとい人件費が残る七百円に値するかどうかはさておいて。
 「じゃあまた依頼があったらご贔屓に」
 ひらりと手を振って、銀時は今度こそ呆気に取られた侭でいる土方の姿を、閉ざした戸の向こうに追い遣った。
 
 *
 
 玄関戸の向こうに、今度こそ遠ざかる銀時の足音を聞きながら、土方は暫くの間茫然と立ち尽くしていた。
 「……何のつもりなんだ、あの野郎…」
 解らない以上に解らない。一度は出て行ったと思ったら、金をやはり貰うと戻って来て、千円札を抜いて食事を作って去っていった。
 「………訳解んねぇ」
 心底呻きながら、土方は畳の上に座り込んだ。まだ足は駄目になってはいないが、体力の衰えが矢張りあるのか、身体を酷使すると疲労を憶えるらしい。
 それもまた、身体の中の何処とも知れぬ場所や機能が少しづつ損なわれて行っているからなのだと思えば、堪らない無力感に打ちのめされずにいられない。
 はあ、と深々とした溜息をついて卓の上を見遣る。書類山の隙間にちょこんと置かれた皿の上には、出来立ての生姜焼きと野菜炒めとが鎮座している。米も無ければ味噌汁もない。質素で簡素なものだ。
 (飯ったって……碌に食えやしねぇって言ったばかりだろうが)
 実際の所、食せない訳ではないのだが、味も栄養を摂取していると言う感もしないのが、悲しいかな、土方の今の現実だった。
 その癖、食物も水分も、摂取せずとも身体は完全には参らないのだから困る。既に外見に何の影響が無くとも体組織の中では、血液などが全く違う物質に置き換わっているのではないかと思う。それこそ機械(からくり)の様なオイルにでも。
 味も意味もない上、残り時間にも作用する気配がないのだ。ならば摂取する必要もあるまいと、土方は食事を摂る事を自ら避けていた。一昨日やって来た山崎が焼きそばをつくってくれたのは無理に食べたが、不味い、と言う訳ではなく、単に、喉を通らない、と言うのは食べ物にも作り手にも何だか申し訳がないとつくづく思う。
 「………」
 今目の前に置かれている生姜焼きとて同様である。だが、時に食うにも困る生活を経た経験もあってか、どうにも食べ物を粗末にするのは憚られる。
 初めて人間の手から与えられた餌に困惑する野生の獣の様な所作で、土方はおっかなびっくり卓の前に座った。とは言え別に恐れていた訳ではなく、単に、銀時のしていった事の意図が掴めずに困惑しているだけだ。
 溜息をそっと吐き出すと、少し熱を失いつつある生姜焼きへと、土方は気が進まぬ侭に箸を伸ばした。砂の味しかしない、食べている感覚のしない食物と言うのは、恐ろしい程に食欲や生きる実感と言うものを萎えさせる。
 だが、そっと口に運んだ肉は、薄らぼんやりとした土方の味蕾を強烈に刺激した。
 「……、」
 久方ぶりに感じる、味覚と、それを嚥下し胃に落ちて沸き起こる、食欲、に似た空腹感。
 (……美味い)
 正直にそう思って、二口目も箸が自然と伸びた。野菜炒めも、塩だけの簡素な味付けの癖に、しゃきしゃきとして口当たりが良い。
 (あの野郎、存外美味い飯を作れるんだな)
 手放しでそう思ってからかぶりを振る。
 (いや、これはそもそもここにあった食材で作ったもんだろ?つーかそもそも弱味を盾にせびった金であの野郎は動いただけなんだろ?誉めるどころか感謝なぞする必要は無ェだろうが…)
 それは至極真っ当な思考であったが、皿が空になる頃には土方も流石に、気付いた事を溜息混じりに認めざるを得なくなっていた。
 あの、面倒な事には極力関わりたくないなどと言う姿勢を隠さぬ男が、一度は立ち去ったものの、また戻って来た。更に面倒な『口止め料』を受け取るとまで言って。
 それどころか、飯なんざ食えないと言ったのに、濃い目の味付けの料理──しかも土方の見立てが間違っていなければ、マヨネーズを隠し味に溶かしたタレを使って──を作っていった。日頃あれだけ味覚馬鹿のマヨラーと人を馬鹿にする癖に。
 「………」
 それは、土方の置かれた状況を知った銀時の、同情にもならない気まずさが行わせた、一種の気まぐれだったのかも知れない。
 だが、この料理が土方の事を気遣って作られたものである事は確かだった。
 これは、同じぐらい天邪気でへそ曲がりな男にしか解らない様な、遠回しな激励か気遣いか、はたまた心配に類する行動だ。
 (……何のつもり、か、)
 名残惜しさにも似た感覚を振り切って箸を置くと、土方は左の肩口からぶら下がる、大凡己の腕とは思えない物体をそっと掴んだ。
 こんなモノに段々と変容するだろう未来を恐れない訳ではない。叶うならば腕ごとそんな理不尽な『病』なぞ切り落として仕舞いたいと思わない日はない。
 嵐の夜中に揺れる小舟の様に、いつ暗闇から圧倒的な波が訪れては全てを浚っていくのかと、恐れる日々に土方が得たのは、紛れもない諦念だった。生きる今を諦めた訳ではない。だが、最期の時を迎えるまでを設える作業は自然と、揺れる波に身を任せオールを漕ぐ様な投げ遣りな覚悟でもあった。
 恐れて震えても、悲観し泣き喚いても、運命を呪っても、自棄っぱちを起こしても、何にもなりはしない。最期まで尽くす事こそが己の選びたい途なのだろうと漠然と思って、足下を這い回る不安感からは目を逸らし続けていたのだ。
 こんな風に、今の自分に『何か』を与えられる──与えられて、それを喜びとして受け入れる事の叶う、そんな贅沢が、罷り通るなど。その可能性自体をもう既に考えるのを止めていた。そう言う意味では間違いようもなく土方は自棄で、投げ遣りで、諦めを美徳と感じていた節がある。
 (飯の、一つくらいで……、それを美味いと感じられた、なんて、当たり前の事、さえ)
 堪らなく情けない様などうしようもない様な心地に浸され、土方は己の右掌でそっと目を覆った。天を仰ぐにして目蓋を閉じる。
 きっとそれは日常的に人が思う事だ。食事が美味しい。晴れていて気分が良い。空が青くて綺麗だ。仕事が上手く行って嬉しい。喉が渇いて水を飲んだら気持ち良かった。友と酒を飲んで楽しかった。良い夢を見ながら眠りに就いた。
 ──そんな、生きるに当たり前の様な、平然と享受してきた、生きていた喜びと恩恵。
 「──、ちくしょ、う」
 日々に平然と得ていたそれらを、蔑ろにした事はないし、死にたいなどと思った事もない。
 それでも、不意打ちの様な理不尽がそれを攫って行く。
 どうして、と、攘夷浪士の刃を受けた部下が泣きながら叫んでいた。死にたくない。俺はまだ、妻子を遺して逝く訳にはいかないのに。いやだ。しにたくない。しにたくない。
 そんな悲鳴も怨嗟も、敵味方問わず数えきれない程に耳にした。それらの突然の避け難い死の理不尽さから比べれば、徐々に己が喪われる『病』なぞ未だ、死の覚悟が出来るだけマシなのだと、そんな傲慢さえ得ていた。
 違う筈が無かった。同じだった。この一点から己がどうなるか知れないと言う事だけは。世界が、遺したものがどうなるか知れないと言う事だけは。
 死にたくない、と思う事だけは──……同じ、だった。
 「クソ、くそが、あの、腐れ天パ、が」
 土方が諦念の名前で仕舞い込もうとした、生きるに当たり前だった感情を、衝動を、欲求を、あの男は安っぽい飯一つだけで思い起こさせた。
 死に覚悟なぞ幾ら決めた所で、所詮人はどうやったって、生きている以上は、死にたくないと思うのだ。身体を構成する全ての成分が、生存しようと思って生まれて来たのだから。
 覚悟は、悪足掻きと等価ではなかった。
 ただ、最期を迎えるまで赦された、貴重な猶予である事に変わりはない。
 何の気もなく、置き去りにされただけの飯が。銀時の気遣いにも似た、下らないお節介が、そんな事を土方に思い出させた。
 死にたくなどないのだと。悔しくて堪らないのだと。
 無為ではなく、覚悟でもなく。残された時間は、その叫びの為にあるのだと。
 「…………………悔しい、に、決まってんだろう…!」
 悔恨か。それとも理不尽さへの無意味な怒りか。困惑の深まった感情をぐしゃぐしゃに飲み干して、土方は深く、深く息を吐き出した。
 煙草を吸いたいと思ったのも、久し振りだった。





デリケートな話題ではあると思いましたが…。

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