夢見ませザントマン



 昼食の後の午睡を、無粋な呼び鈴が破って響いた。
 「はーい」
 朝ドラマの再放送を食い入る様に見ている神楽と、ソファに横たわって昼食の消化に励む銀時がそれに応える事はないと端から承知でいる新八が、湯飲みを置いて立ち上がるなり慌ただしく玄関に向かう。
 時刻は十三時前。特別玄関に昼休み中の札を提げている訳ではないが、普通の会社だって昼休みの時間だと言うのに、個人業且つ不定休だったりする万事屋が勤勉に働いている筈もない。
 今は取りかかっている長期戦の依頼も無ければ、飛び込みも無い。言って仕舞えば万事屋的には暇である。それでも貯蓄は日々少しづつ切り崩されて行くのだから、依頼ならそれなりに歓迎する心算はあるが、胃の落ち着きが促して来る眠気をわざわざ中断する事との秤に掛けると、まあ取り敢えず新八に応対を任せるか、と言う結論に落ち着く。
 どの道、それこそこんな時間だ。依頼人よりも階下の大家か宅配便の可能性の方が高い。縦しんば依頼人だとしたら、流石にこんな昼過ぎの怠惰空間に黙って新八が通す訳もない。依頼人を取り敢えず玄関に待たせておいて、従業員の態度を取り繕うぐらいはしてくれるだろう。
 「銀さん、ちょっと銀さん!」
 そう、こんな感じに。
 顔面に乗せていたジャンプをひょいと除けられ、銀時はいきなり拓けた視界の眩しさに目を眇めた。少し滲んだ部屋の風景の中に、こちらを覗き込んでいる新八の眼鏡もとい顔がある。
 こんな時間に、どんな大層な用件を持った依頼人だろうか、と思いながら欠伸を噛み殺し、銀時はのそりとソファに上体を起こした。──所で、新八が指で軽く玄関の方を指さして見せるのに気付く。
 「……何。客じゃねーの?」
 言いながらちらりと向かいを見ると、神楽は相変わらずドラマをきらきらとした目で熱心に見ている。内容が白熱しているのか、時折身振り手振りのリアクションが加わるので、迂闊に近付くと危険である。それにしても何で朝や昼のドラマで、格闘技めいたファイティングポーズを取っているのだろうか。「今がチャンスネ!討ち取るアル!」とか物騒な叫びが出て来るのだろうか。
 ともあれ、そんな神楽を放置しての新八の態度に、銀時は来客が依頼人であると言う可能性を即座に捨てた。
 ちなみに、神楽はあれでも一応は万事屋と言う稼業を務めていると言う自覚があるらしく、ドラマが良い場面だろうが何だろうが、仕事となると文句を言いつつもきちんと切り替える。その後で見損ねた話をレンタルして欲しいだのと言われる事もままあるが。
 「お客さんはお客さんですけど、銀さんの言う様な『お客さん』じゃないです多分」
 多分。曖昧な言い方が気に懸かったが、一度起き上がった身をまた横たえても仕方がない。銀時は二度目の欠伸を今度は隠さずに、目蓋を指先で擦って立ち上がった。新八が特別言い添えて来た訳ではないから、階下の大家や家賃に纏わる『客』と言う事は無さそうだが、余り招いて良い『客』でも無さそうな雰囲気である。
 「はいはい〜っと……、」
 廊下に出るなり、顔を顰めるより先、細く開けた居間の戸を後ろ手に思わず閉じたのは、玄関に佇む黒服に見覚えがあったからである。
 「どうも。こんにちは、旦那」
 人相に、ではなく、その纏う服装にだ。人懐こそうな表情を浮かべてぺこりと頭を下げてみせる、真選組の隊士服の男。
 「……あー。えーと。アレだろアレ、…その」
 「…山崎です。こんにちは、旦那」
 六人も同じ服装と背格好の人間がいればその中に埋没しそうな、顔立ちも佇まいも酷く地味な男は、曖昧に視線を漂わせる銀時の様子に別段気分を害した様子もなく、淡々と自らそう名乗って寄越した。
 「そうそう川崎くん。中学の卒業式の時以来だなー久し振り」
 「言った傍からボケんで下さい。俺も仕事中なんですからこれでも」
 面倒そうな気しかしない。そう思って空々しく言えば即座に軌道修正された。しかも真顔で。
 あ。これ絶対面倒なやつだ。
 即断した銀時は、あらぬ方角を目で追いながら首の後ろを引っ掻いた。「じゃあ」となまくらの切り口上を鋭く振り下ろしながら、冷ややかな面を作る。
 「何の遣い走りで来た訳。副長サンの不在で大層お忙しい筈の公僕殿が」
 銀時の急に向けた切れ味の大層悪い刃に、山崎は然し怯まなかった。日頃口の悪い上司に相対して慣れているのかも知れない。困った様な表情で両手を軽く挙げて見せる。
 「時間が余り無いってだけで、喧嘩を売りに来た訳じゃないですよ。手短にお伝えしますね」
 尤も、土方の場合は切れ味の悪い皮肉の刃を向け合うより、一撃で相手を撃沈させかねない刃を慎重に突き出す手合いである様な気がする。過去に銀時と口論になった時も、埒の無い舌戦にはそう長く応じられた憶えがない。
 「これを。昨日の礼だそうです。俺じゃなくて土方さんからの」
 突っぱねられると思ったのか、誰からの頼まれ物、と言う点を強調して言うと、山崎は腕に提げていた紙袋を銀時の方へと差し出して来た。紙袋は、昨日見たばかりのものと殆ど同じ。見覚えのある和菓子屋の銘が表面に印刷されている。
 「どうぞ、後で皆さんで食べて下さい」
 銀時に手を出す気配が無いと知ると、山崎は直ぐにそう言い添え、玄関の上へと紙袋をそっと置いた。
 皆さん、と言う事は、三つはあると言う事だ。ナマモノだから当然、昨日銀時が食べずに置いて来たものではあるまい。改めて今日、山崎が『土方に頼まれ』て買って来たのだろう。
 銀時が紙袋を受け取らなかったのは、不貞腐れていたから、ではない。かと言って、鈍い刃を喧嘩腰に叩き付けた手前、気まずかったから、でもない。
 真選組の──土方の仲間達が、土方を『病』から救うべく奔走しているのは解る。それこそ、土方の頼みでも無い限り、万事屋にわざわざ礼などと言って立ち寄る暇なぞないぐらいに忙しい筈だ。焦っている筈だ。いつとも知れぬ刻限を、ある意味で土方以上に覚悟しながらも。諦める事なく、雲を掴む様な奇蹟を探し求めている筈だ。
 銀時は真選組の人間ではない。万事屋と言う稼業ではあるが、なればこそ依頼されない限りは昨日の一件とは無関係でいるべき存在だ。
 だから、山崎の来訪を見て真っ先に疑ったのは『依頼』があるのではないか、と言う事だった。
 それがどんな内容かはさておいて──アレに、関わらせる心算なのではないかと。恐れた。憤った。先日の沖田の様に、不意打ちで関わらせるだけ関わらせて、後味の悪い思いだけをさせて──そして変わらない結果を味わう羽目になるのではないかと。
 その心算ではないかと思ったからこそ、居間の戸を閉じた。ここには関わらせたくないのだと、お前らには──あの男の死になぞ関わりたくはないのだとはっきりと示す為に。
 手土産から入る辺り、余計にその可能性を考えて仕舞い、銀時は殊更に冷めた眼差しで紙袋を見下ろした。土方が銀時に──万事屋に頼るとは思えないし思わないが、沖田を含めて、その周囲の人間たちはそうとは言い切れない。土方が望もうが、望まないでいようが、救う手立てに縋りたい藁として、万事屋を選んでもおかしくはない。
 「ああ、そう言や食い損ねてたっけ。別に気にしねーでも良かったのに、何か悪ィね」
 大好物と知れている甘味を殊更無関心に扱う銀時に、山崎は曖昧に微笑みを浮かべて見せた。それが答えと言う事だろうか、そうしてからぺこりと再び頭を下げる。今度は暇の意味だったのか、今にも玄関戸を開けて立ち去る様な動きを見せて、
 「そうだ、もう一つ。土方さんから伝言を預かって来とるんです。旦那に」
 矢張りその侭立ち去りはしなかった。呆気に取られた顔を、む、と忽ちに顰める銀時の目をじっと見上げて、山崎は疲れた顔に希う様な色を寸時乗せた。
 然し縋る気配はなく。勿体振るでもなく。
 「今度は煮物が食べたい、とか言ってましたけど……」
 意味、解ります?
 そう肩を竦めて、あの人も訳の解らない事を言う、と言いたげな苦笑を浮かべてみせると、「それじゃあ」と会釈一つを残して山崎は万事屋を後にした。
 これが昨日の二人の間には通じる符丁の様なものであるのだと、まるでそう知っているかの様に。知らない素振りで軽く、軽い意味なぞ持たない癖に言い残して行った。
 「……………」
 依頼とは言わない。望まれてもいない。だが『伝言』の遺す所の意味は、解る。
 銀時は気鬱さを纏った溜息を落として、やがて足下に置かれた紙袋をゆっくりと手に取った。行きがけに慌てて買って来たのだろうか、保冷剤は入っていない。紙袋の中には、昨日のものと同じカップ入りの餡蜜が、三つ。今度は匙もちゃんと入っていた。
 手紙一つない。縋る色一つない。沖田の勝手に付き合わされた挙げ句、昨日結局食わずに行ったから。ただそれだけの様な、貸しも借りもゼロになるだけの『礼』。
 だが、ひとつの伝言がそこに一滴だけの惑いを投じている。己で、昨日の借りは返して、それで終わりだと土方は理解している筈だ。銀時を関わらせるべきではないとも、関わって欲しいとも、思ってはいない、癖、に。
 (……生きるのを、諦めちまった奴が。『次』を望む、ね…)
 渇望する程の苦しさは、未だ感じない。希う調子をあのひとことの伝言に載せたのは、飽く迄山崎の独断だ。
 関わるべきではない。どの道、あの男は喪われるのだ。
 『病』が唐突に治るなどといった、三文芝居の様な奇跡は起こらない。都合の良い未来なぞ訪れやしない。いつだって死は理不尽で、何かからなにかを奪うものだ。
 奪われるものが、喪われるものが心に根を張れば張るだけ、それを引き抜かれる時の痛みは凄絶で、堪え難いものとなる。
 関わるべきではない。元より、あの男に纏わる事など己とは無関係だ。
 昨日沖田に巻き込まれさえしなければ──銀時が足を突っ込みさえしなければ──、ある時不意にその死を知って、ああそうなんだ、と、ほんの少しの感慨を憶えて。
 ……それだけの筈だった。
 土方と言う男が、彼らしからぬ『病』で死した事には、何かを思うやも知れない。だが、それだけだった筈だ。そこまでだった筈だ。
 こんな、理不尽な怒りなぞ。
 こんな、関わりようのない無力感なぞ。
 忌憚なく彼を救おうと手を延べ尽力出来る者らに、訳も知らぬ様な苛立ちを憶える事も無かった。
 (何が出来る?何も出来ねぇだろ。解ってる。そんな都合よく何かが起きる訳もねぇし、俺が何かをしようとした所で、野郎にとってはそれが苦痛でしか無ェ事だって解ってんだ)
 昨日、足を止めて仕舞ったのが悪かったのか。
 飯も食えないと己を軽んじて自嘲する男に、ほんの少しの手心を向けてやりたくなって仕舞ったのが、悪かったのか。
 ……………………あの男が、あんな所で、ひとりひっそりと衰えて、諦念の中で、悔やみもせずに、モノの様に喪われて仕舞うのが、どうしてそんなに厭だと思えたのか。
 「……依頼料にしちゃァ、やっすいよなあ……」
 胸中の問いに答えるより先に、銀時は浮かぶ侭の苦笑を隠さずにそっとかぶりを振って、餡蜜の入った袋を閉じた。
 
 *
 
 「あ、」
 書類を捲ろうと動かした左腕が、だらりとした動きで卓の上を払う。
 またやって仕舞った。ち、と舌打ちに露わな苛立ちを乗せると、土方は自らの左腕に払われて卓の下へと散らばった書類を掻き集めた。
 肩まではなまじ普通に動くから、つい『左手で何かをしよう』とすると必然的に、肩から下の、自由にならない腕は棒を払うのと同じ様な動きとなって、何かしらの被害を生む事になる。
 今までの──人間の腕より軽いから余計かも知れない。肩の僅かの動きでも、左腕はだらりとした操り人形の様に持ち主を振り回す。文字通り振り回しているのは己の方だと言うのに。
 皮肉にもならない。己の想像を下らないと直ぐさまに振り捨てて、土方は左腕を抜いて袖の中に仕舞った。始めからこうしておけば良かったのだと、何度もこんな失敗を繰り返す度に思うのだが、幾ら此処が真選組の屯所でも副長室でもない場所とは言え、執務中に余りだらだらとした恰好でいるのは好ましいと思えない。物事は姿勢と気概だと思う土方の性質故の──お堅さ、の様なものである。
 それに、左袖を抜いてだらりとしている様は、どこぞの万事屋稼業の男を彷彿とさせ、る気がしないでもない。不快感に更に不愉快感を上塗りしたって仕方がない。
 仕方が無くて、どうしようもない。
 「……ち」
 当たる先のない苛立ち。その苦味を舌先に転がしながら、土方はペンを置いた。残りの書類をぱらぱらと繰って、まだまだ全然、時間が足りないと呻く。
 (時間、か)
 着物の上からそっと、軽く重たい左腕を掴む。外見を何も違える事なく人形のパーツの様に成り果てた腕。触っても、熱湯を掛けても何も感じない物体。今なら切断された所で出血は疎か痛みさえ感じる事もないだろう。
 今は未だ左の腕一本に留まっている『浸食』だが、一月ばかり前の、一番最初の自覚症状を憶えた時はほんの指先程度のものだった。
 執務中の事だった。書類に千枚通しで孔を空けていた時、ふとしたはずみで尖ったその尖端が土方の左人差し指をかすった。反射的に「痛い」と思って引っ込めた指の皮膚には、想像通りの白いひっかき傷が出来ていた。
 そして、それだけだった。
 血が出てもおかしくない傷の深さ。割に感じない痛み。細い針を刺した時の様に、押せば血が出るだろうかと、思わず訝しんで指の腹をぐっと摘んでみる。
 …………その時の感触と違和感と嘔吐感とを、土方は忘れる事は出来ないだろう。
 摘んだ右の指に返ると思った、皮膚の下の肉の感触はしなかった。ただ、固い空洞の様なモノが、異物が、皮膚の下に直ぐ、在る。
 胼胝が出来た、などと自らを誤魔化せそうもなく、半ば衝動的に机の上にあったカッターを指の腹に当てて──
 (結局、痛みは無かった。どころか、暫くの間指先の感覚が何か鈍いと思ってた原因までもが曝されちまった訳だが)
 左手の動きが鈍って来ていたからこそ千枚通しを引っかけるなどと言う事をやらかしたのだから、いずれは己の身に起きた事と同じ様に直面してはいただろう。あの時に秘密を内包した筺を切開しなかったからと言って何が変化したとは思わない。
 ただ、それが、真剣で切り結んでいる最中などに発露したものではなくて良かったと、つくづくに土方は思う。感覚の鈍った手で抜刀に失敗して、とか。斬られた事にすら気付かないで、とか。そんな『異常』の見つけ方を──大勢の目に曝される形と言う最悪のバレ方をしなかったのは、マシな方だったのではないかと、思っている。
 そうして一月少々ばかりの間で、症状は左腕のほぼ全域に拡がった。最近では朝起きるとまず、身体の末端を叩いて触って確認せずにはいられなくなっている。
 ──次はどこが、駄目になるのかと。
 こんなものが、四肢、全身に、拡がって。
 こんなものに、成り果てる日が来る、などと。
 病などと言われず、呪いだとでも言われた方がいっそ楽だっただろうか。そんな風にひねた考えを思考の片隅に適当に投げ捨てて、土方は目の前の書類に再び意識を向けた。
 四肢が──否、残る三肢がこの左腕と同じ様に一ヶ月で全てを浸食していくとは限らない。急激に症状が進む可能性も、その逆も否定出来ない。
 停まって仕舞う前に土方にはやり終えておかねばならぬ事がある。それは遺される真選組の為にしておかねばならない事ばかりだ。後の人間に恙なく業務を、副長が一手に担っていたあらゆる事柄を引き継ぐ為に、しておかねばならない事は、教え記しておかねばならない事は山の様にあるのだ。
 既に近藤や山崎が後任の教育や、机仕事の様式の統一などに忙しく立ち働いている。松平にも執務向けの人員の補充を具申している。
 だが、それでも尽くさねばならない事は余りに多すぎた。多すぎて、途方もなさすぎた。
 当然だ。それは土方が真選組の結成から少しづつ模索し会得してきた事の量と、掛けてきた時間と同一なのだから。
 だから時間は迂遠で、限りがある。
 一子相伝の技、などと言うものを思って笑う。そんなものがある訳ないと今なら実感出来る。人の人生と等価の時間を掛けて得たものを、学んだものを、誰かにその侭遺す事なぞ──その侭の意志で伝えたいなど、幾ら願った所で叶う筈もない。
 技術、やりかた、知識、そのものを伝授する事が叶ったとして。それを同じ様に使う事をこそ求めるなど幾ら望んだ所で、叶う筈もない。
 血を分けた子ですら、遺伝子を受け継いだと言うだけの異物だ。生物が本能で遺すのは己の遺伝子だけであって、そこから先の人生ではないのだから。
 結局の所。時間は迂遠で、限りがあって。土方に残された時間はどれだけあった所で『足りない』のだ。
 握った拳が卓の上でかたかたと震えている。恐いのではなく、怖くて。途方も知れず先も見えない、そんな最期の時までを結局は徒に食い潰すしか出来ないのだろう、己の人生とその無様な結果に。
 刀を手に取った時から、殺される覚悟も死ぬ覚悟も殺す覚悟も出来ていた。剣の死合いであれば決してこんな風には思わなかっただろう。確信はある。嬲られ殺されようが、それも因果と思って逝っただろう。無論最期まで抗いつつ。無論最期まで組の為に尽くしつつ。
 「──」
 ぐ、と唇を引き結んで、土方は無意味な罵倒を堪えた。もしも、の話も。今、の話も。想像は余りに無為に過ぎた。『病』に罹った今となっては、精々悔いる量を減らす事ぐらいしか出来ない。
 (こんな事、考えてみてんなァ……、久し振りだな)
 それもこれも、昨日の、あの不快で不可解だった出来事が原因だ。
 らしくもない感傷を思いの外に欲している己に不意に気付くと、土方の口元から自嘲めいた笑みが乾いて落ちた。同時に、額がことりと卓の上に着地する。
 今朝に山崎の持ってきた、屯所の食堂で作って貰った弁当は、矢張り砂の様な味と食感だった。
 食べ慣れた味は決して不味いものではない筈なのに、一口毎に身体が、それを──摂食なぞ不要だとでも主張するかの様に、拒絶する。
 昨晩訪れた山崎は、台所に残っていた洗い物から、土方が食事を何ら摂ったとは気付いた様だった。それが誰の手に因るものだとか、何でだとか、そう言った問いは一切こぼしはしなかったが、少なからず土方が久し振りにきちんと食事を摂ったらしいと言う事実に安心していた風ではあった。
 だから、「明日は朝食を持って来ましょうか?」そう問われた時に、土方は当たり前の様に頷きを返していた。万事屋の雑把な料理が美味く食べれたのなら、食べ慣れた屯所の食事が不味い筈はないと思って。
 その手前もあって、落胆は益々に砂の様な不快感と味とを齎した。土方の痛苦に気付いた山崎は、無理はしない方が、と言って寄越したが、結局なんとか時間を掛けて砂もとい砂の様にしか感じられない食事をなんとか摂った。不味い訳ではなくとも、不要だから苦痛。そんな単純で解り易い結果を残して。
 ……だから、と。今更言い訳はしない。
 去り際の山崎に、昨日あの男の食べ忘れて行った餡蜜を、きっと野郎は家で一人でなぞ食べ辛いだろうからと、三人分買って行く様に頼んだ。山崎は急に飛び出した万事屋と言う単語に不審そうな反応は見せたものの──弁えを心得ている男だけあって、諾以外の返事を寄越してはくれなかった。土方にとっては大層有り難い事に。……或いは後悔の効かぬ事に。
 何か言伝はありますか?
 職務の時と何ら変わらぬ調子で山崎にそう問われた時。土方はごく自然に己の望みを口にしていた。それがどんなに愚かで馬鹿げた事であるかを、知りながらも。
 ……今更言い訳もない。なりもしない。
 あの男をこんな事情に巻き込むべきではないと、解っているし思ってもいる。怠惰な性情の癖に、ああ見えて他人の頼みや困った人間を無碍に出来ない男だ。治りもしない奇病に罹りいつ死ぬとも知れない人間を、知らぬ振りをして見捨てる事なぞしないだろう。
 ほんの僅かの、些細な願い一つであれ。男にとっては気まぐれでしかなかったかも知れない事の一つであれ。そうして袖を引かれて仕舞えば、男は見て見ぬ振りで過ぎゆく事など、きっと出来なくなる。
 縋る心算は土方にもない。同情や憐れみを寄せられるのも真っ平だ。
 そして銀時も土方のそんな性質を理解しているからこそ、昨日も関わらず通り過ぎる事をまずは選ぼうとしたのだ。
 巻き込むべきでは、ない。
 あの男の垣間見せた気まぐれに縋って、終わりと言う避け難い結末までの無聊を慰めたかった訳ではない。
 …………あの飯が、美味しかったから。
 生きるに値する執着を、或いは後悔を、諦念の世界から拾い上げて仕舞うぐらいには、土方に『何か』を与えてくれたから。
 (二度目は、砂の味しかしなかったとして、も)
 何かの期待が、明日を生きさせる。未だ死ねないと言う想念以上に、目覚める朝への希求を募らせる。
 それさえも喪い果てたら、ただ生前の記録を模写し続ける、それこそ人形と同じだ。
 「………………後は、死ぬだけだってのに…、」
 縺れた思考の糸からぽろりとこぼれ落ちた言葉は、己で思うより余程自棄っぱちで惨めに聞こえた。後は精々、未練と言う名前の後悔でも噛み締めて、動けなくなるまでの時間を真選組の為に尽くし続ける。それが諦念と言う名前の、憶えた結論だったと言うのに。今更。今更なにを。
 刑の前日に食事の要求を赦された受刑者でもあるまいに。死ぬからと、贅沢を罷り通そうなどとどの口が宣うのか──思って土方はその滑稽さに喉を鳴らした。
 もう一度『生きて』みたいなどと、散々人の命を摘み取って来た鬼が良く言えたものだ。
 人間らしさの詰まった浅ましさが喉奥でぐるぐると、悲鳴を堪えて蹲っている。人間らしさを望んでおきながら、その『らしさ』の裡には碌なものが何一つ無い。
 覚悟と諦めとを避け難い『死』からそっと抜き取って仕舞えば、後にはこうして延々と、答えのない懊悩ばかりが繰り返される。それこそ不毛な事に。畏れを避ければ避けるだけ、己の無様な有り様が背中にぴたりと貼り付いて離れない。死と等価に。嘲笑いながら。
 「っは…」
 ……一体いつからこんなに怯懦な心を抱く様になったのか。死をも恐れず先陣を切って刀と采配とを振るう鬼の副長が。こんなに生き汚く、こんなに覚悟の無い、弱い人間だとは思いもしなかった。自分の事だと言うのに、思いも、しなかった。
 もう笑う気すらしなくなって、土方は卓に伏していた頭をごろりと横に転がした。書類が皺になると思うが、そんな事さえ余所事の様だった。
 無意識のうちで、異物と成り果てた左腕を掴む。きしきしと関節の軋む音を立てるそれは、まるで精巧な人形の様だ。
 次は何処が駄目になるだろうか。目。目は出来るだけ最期まで見えていた方が良い。腕も。耳も利かないと不便だ。口も。
 「……………………そりゃそうだ。不要な部分なんざ、ある訳無ェだろ……?」
 思った侭に言葉がほろりと落ちて──ああそうだ、当たり前だ。そう在る形で生まれて来たんだ。不要な機能がこの身体にある訳がない。心臓は動いて血液を全身に送って、血液は脳と臓器と四肢を動かして、肺は呼吸して、腎臓肝臓胃腸そればかりじゃない、骨筋肉眼球耳声帯、なにひとつ、無くなって良いパーツなんて、無い──、土方は『病』への途方もない怒りに浸されて指先に力を込めた。
 皮膚の下、何も感じない『腕』が軋む。きしきしと。つくりものの腕が。指の膂力に押されて、皮膚をへこませて、その下の琺瑯の肉がぱきりと壊れ、
 
 「そうだよ、不要なもんなんざ無ェんだって」
 
 横合いから不意に飛んで来た軽い言葉と、手とが。怒りに色を失って白くなった、土方の右の掌をそっと取り上げていた。
 「──っ、よろず、や、?!」
 愕然とする。いつの間に家に上がり込んで来たのか、思考に没頭する余りか、それとも衰えでか、まるで気付きもしなかった。
 「そ。万事屋の事をオメーよく無職寸前だの自営業無職だの抜かすけどな、そんな稼業でも皆さんの役に立ってたり立ってなかったりしてんの。社会の底辺みてーなマダオだって段ボールのリサイクルとかなんかそんなんの役に立ってんだよ、要らねぇから軽んじて良いもんなんざ無ェんだよ世の中」
 驚きに硬直する土方の手を、有無を言わさぬ強い力で押さえながらも、銀時はやんわりとした調子で言って「だからちったァ見直しとけ」そんな風に付け足しながら、見慣れた気怠げな笑みを寄越して来る。
 「…………、」
 土方の独り言の意味を捉え損ねた訳ではあるまい。寧ろ解っていて、まるで無関係な方角へ逸らしたのだろう。何も聞いてはいないと。
 だから、この手の力をもう緩めてやれ、と。
 己を壊したい程の怒りを、赦してやれ、と。
 「……離せ。問題無ぇ」
 右手指が、痛覚などないのを良い事に食い込ませた左腕には、恐らく罅の一つぐらい入っているだろう。着物の下で、解放された腕が揺れて関節が耳障りに音を立てる。きしきしきし、と。
 逆に、左腕を破壊しても良い力を込めていた、右の指の方が痛んだ。薄ら赤くなった指の腹と、固まって仕舞った様に強張っている手指とが、土方の寸時の激情を物語っている。
 (壊したかった、訳じゃねぇ、)
 そう言いかけて止める。馬鹿馬鹿しい。弱気と恐れとが、確かにこの『モノ』を拒絶していた。思わず銀時がフォローの言葉を投げる程に、そんな土方の苛立ちと怒りとはあからさまに知れているのだから。
 「うーん。オメーちょっと痩せたんじゃね?」
 押さえる様に、制止の為に掴んだ土方の右手をくるりとひっくり返しながら、銀時はそんなどうでも良い様な事を言ってそっと手を離した。思いの外強く掴まれていたからか、手首が薄ら赤いが大した事はない。……寧ろ、痛い事に安堵した。
 「何言ってんだ。ちょっと飯抜いたくれェで腕まで易々痩せねぇだろ」
 見た目は別段変わっていない。様な気がする。思って笑い飛ばす様に言えば、銀時はぴんと張った人差し指を土方の眉間へと突きつけてきた。
 「お前普段どんだけマヨ摂取してたと思ってんの。正直ドン引くレベルだったからねアレ。そんだけのカロリーが一気に失せるとか大問題だろ脂肪的に」
 「人がマヨだけで生きてたみてーな言い方すんじゃねぇ。マヨネーズは飽く迄万能調味料で、勿論それ単体でも立派な嗜好品としても堪え得るが、飽く迄飯に掛けてこそのもんなんだよ」
 「いやアレはマヨネーズが添え物って言うよりマヨネーズが主食だったからね。うぇ」
 舌を突き出してさも気分を害した様に言う銀時に、土方は思わず拳を振り上げるジェスチャーをしてみせた。すれば、益体のない会話の応酬の延長線上の様に、銀時は微かに歯を見せて笑う。
 「まあマヨはてめーで適当に乗せてくれや。その…、なんだ。ご注文の品、持って来てやったからよ」
 注文、と鸚鵡返しにする土方に、買い物袋を一つ持ち上げてそう躊躇いを振り切る様に言うと、銀時は思い出した様にブーツを脱いで立ち上がった。履き物を脱ぐ暇も無く、泡を食って先頃の土方の愚行を止めた、と言う事なのだろうと察し、恥ずかしさや気まずさもあって、土方は足跡の残る畳からそっと目を逸らした。後で拭いておこうと密かに思いながら、台所へ向かう銀時の背を目で追う。
 「筑前煮で良いか?つーか米あんの?あんなら一緒に炊いとくけど」
 「あ。ああ、冷蔵庫の横に、山崎が色々置いて行ってたから、多分ある」
 「じゃ勝手に漁らして貰うからな」
 こんな住まいで、しかもこんないつどうとなるとも知れない病状を抱えた土方が気軽に買い物になぞ行けはしない。空腹を感じた時の為に、と、日持ちのする食材や調理道具、レトルトの類、調味料の類を山崎がその辺りに仕舞っていたのは見た憶えがある。生憎と必要に迫られなかった為に自分で確認なぞ一切してはいないが。
 昨日の様に、手が空いていて手ずから(簡素ながら)料理を作って行く事もある。山崎もまた、自ら人形の様に食事を摂ろうとしなくなった土方の事を案じてくれていたのだろうと、今となってはそう思える。
 「あと、一応材料費が万事屋(ウチ)持ちだからさ、夕飯に持って帰っても構わねえよな?」
 ごとごと音を立てて鍋を引っ張り出しながら言う銀時に、ああ、と頷いて、土方は改めて何だか恥ずかしくなって来て、ぐるりと頭を巡らせた。
 一体なんなんだ、飯を作りに来て欲しいって。独り立ちした息子が、近場に住む母親にする頼み事でもあるまいに。
 「それは勿論……つーか、俺の飯でもあるんだし、俺が払う」
 「そ?まあ有り難ェ話なら遠慮なく乗らして貰うわ」
 もごもごと言う土方には気付かぬ様子で、銀時は彼らしい態度で提案に応じると、さっさとした手際の良さで食材を袋から出して下拵えに入る。
 時刻は、と卓の上の携帯電話に触れれば、四時を少し回った所だった。煮物が出来るまでどのぐらいかかるかなぞ知らないが、まあ早めの夕飯と言った時間になるだろうか。
 思い出した様に、土方はその侭卓から書類などを下ろし、部屋の真ん中付近に置いた。折角食事を作って貰うと言うのに、散らかった机で仕事の合間の様な食し方をするのも何だか気が退けたのだ。
 (今まではそんな事、気にした事もなかったが)
 屯所の食堂で、困難な懸案事項の書類を片手にうんうん唸りながら食事を摂っていた憶えは一度や二度ではないが、余り良い姿ではなかっただろう。
 (……それこそ今更、か)
 後悔と言う程ではないが、何だか今更の様に思い起こせば悔やまれる事である気がして、土方は溜息を呑み込みながら、乾いた布で先頃銀時の残した足跡を軽く擦った。ここ最近空気が乾燥気味だったからだろう、細かい砂粒が畳の目に少し食い込む様にして残るのを見て、早々に白旗を上げておく。後でゆっくり考えよう。
 片手で不器用に掴んだ布を部屋の隅の行李の上に置いて、土方は己のそう言った小さな挙動の度にぶらりと揺れる左袖を無意識のうちに掴んだ。もう握り潰そうと言う様な衝動は失せて仕舞ったが、それはこの不具の『病』への肯定では断じてない。
 物思いや自嘲に囚われて悄然と座り込んでいる土方の方を、コンロの前の銀時が時折振り返って来るのを視界の端の意識は気付いている。だが、特別言い繕いはしない。言い訳も弱気も本音も、関わらせるべきではない男には無用でしかない。世間話にすらならないものだからだ。
 銀時の方も、土方の挙動を気にしてはいる様だが、それは先頃の衝動的で自虐的な行為があって故の事だろう。別にそれ以上は関わろうとも訊こうとも振ろうともしない。冗談で濁したその侭に蓋をした。
 そうして小一時間、時折思い出した様に交わされる悪態未満の遣り取りを途切れ途切れに挟むうち、
 「出来ましたよー」
 銀時の戯けた様な仕草と共に、見慣れぬ皿に盛りつけられた煮物が卓の上にやって来た。憶えの無い皿は余り上等なものではなさそうだが、絵柄の削れなどから使い込まれた品物である事が伺えた。ひょっとしたら家からわざわざ持って来たのだろうか。
 「鍋には残りが少し入ってっから。明日の朝飯くらいにゃなんだろ」
 概ね土方の想像の肯定だろう、そんな答えが銀時の口からさらりと返って来るのに、礼を言うのも何だか妙な気がして、「ああ、」曖昧に頷く事しか出来ない。
 「メガネとチャイナの分は」
 「新八は今日はお妙が休みだから家飯(ウチメシ)。神楽の分はタッパに詰めてそこにある。後でちゃんと持って帰るから心配すんな」
 シンクの横にちょっとした弁当箱ぐらいに中身を詰めた保存容器が置いてあるのを見て、土方は少し安心を示して頷いた。銀時の作った夕飯を、彼の家族やそれに類する存在でもない自分が食する、と言う事に、なんだか酷く居た堪れない心地があったのである。
 銀時は卓の上の煮物の皿の傍に、白米を盛った茶碗と、豆腐の浮かぶ味噌汁とを次々並べた。
 …………二人分。
 「………」
 狭苦しい卓に並ぶ二人分の食事。黒い塗り箸と割り箸。不揃いの食器。
 土方のきょとんとした視線を受けて、銀時は「あー」と斜め上に視線を投げながら、土方の向かいに腰を下ろした。
 「いやホラそろそろ飯の時間ではあるし?ちょっと早いけど、労働して疲れたしまぁ良いかなーとか、やっぱ飯は出来立ての方が良いだろとか……、」
 作らせておいて否やとは言わねぇだろ、とばかりに口を尖らせてあれやこれやと理由らしきものを並べると、「とにかく」と銀時は割り箸を手に取った。
 どうやら、共に食事をしようとしているらしい。それが気まぐれを由来としているのか、銀時自身で口にしたあれこれの中に含まれた本音があるのかは知れない、が。
 「………」
 きしきし、と揺れる左腕が疼いた。何だか酷く苦しい様な感覚に襲われて、土方は眇めた視界の中に映る食事をじっと見下ろす。
 面映ゆさや、含羞を感じる様な。
 「冷めちまう前に食おうや」
 そんな土方のぼんやりとした思考を遮る様に、銀時はそう言って自ら、ほんのりとした焼き色と、味の染み込んだ色に染まった鶏肉へと箸を伸ばしてみせた。
 「……いただきます」
 釣られて、軽く手を合わせてから、土方もころころとした里芋を掴んだ。よく煮えているらしく、箸がぐにゃりと通るのに我知らず、美味そうだ、と思った。
 口中に放り込む時だけ僅かに緊張する。覚悟はしているとは言え、朝の時の様に砂を噛む様な無為の味がしたら──だが、その不安は今日も無事に土方の舌先で柔く崩れ去った。
 歯の間で粘土の様にぐにゃりと崩れた里芋は、ほんのり甘さのある醤油の味がした。
 「柔らかく煮えてて、美味い」
 正直にそう言えば、銀時は不意打ちの攻撃を食らった時の様な表情を一瞬作って、それから照れ隠しの様に後頭部をがしりと掻いた。
 「っても、里芋(それ)自体は剥いて水煮になってる奴買って来ただけだからね。もう準備万端後は煮るだけみてーな、不器用な若奥様御用達みてーな奴」
 「だが、煮て味を付けて、作ったのはお前だろ」
 「………」
 どうやら真っ向から土方に誉められた、と言う事が銀時にとって意外性のある事だったらしい。まあその反応に思い当たりはまるで無い訳ではないが──何せ銀時の事を真正面から褒めた憶えなぞない──、少し複雑な心地になって、土方は刻まれた絹さやを音を立てて咀嚼した。
 「へぇェ。そんな銀さんの作る飯が美味かったんですかァ?お偉い公僕様のこった、もっと舌が肥えてんじゃ、」
 「美味い」
 からかう様に投げられた言葉に、土方はほんの少しの笑みを添えて真っ向から頷いてやった。右手で箸と共に掴み上げた味噌汁の椀を啜る。これも普通に美味い。
 「…………そ」
 何と返して良いのか解りかねる調子で、銀時は割り箸を噛んでそう、溜息にも似た調子で応えると肩をそっと落とした。実際、犬猿の仲の、しかも死にかけの男にこんな風にいきなり手放しで誉められた所で、どう反応したら良いのか解らないのだろう。
 茶碗を卓の上に置いた侭、箸だけを往復させて白米を口に放り込む。行儀は悪いだろうが、左腕が使えないのだから仕方がない。そうやって土方は暫し食事に専念していたが、やがてそっと眼前の銀時の顔を見遣った。視線を感じて、味噌汁を啜っていた銀時が「ん?」と眉を持ち上げる。
 「……正直、また普通にこうして飯が食える様になるたァ、思ってなかった」
 その切り出しからデリケートな話題に入ると感じ取ったのか、銀時は自然な所作で視線を土方の方から外した。
 互いに、深い話になる事は──関わり合いになる事は御免なのだと理解している。していて、それでも。土方はこれを口にせずにはいられなかった。
 「昨日テメェの作って置いてった生姜焼きは悪くなかった。だから、また飯が食える様になったのかと思ったんだが、今朝はそうじゃなかった。屯所の食堂から持って来た飯で、食い慣れてる筈の味なのに、どうやっても砂みてぇにしか感じられなくて、
 だから正直、…安心、したんだ 」
 銀時の視線が戻って来るのを感じて、今度は土方が俯いて逃げた。だが、捉えさせない様にした心算が、余計に視界に映し出したのは、銀時が作った料理たちだった。
 頼んだからだ。伝言で。
 お人好しさのある男の、ちょっとした気まぐれに期待しただけの。そんな結果。
 土方の為、だけではない。銀時自身と、同居人の為の夕食。そう言う事にしろと、土方からの支払いの申し出も受けた。
 だからこれは偶さかのものであって。決して依頼でも確約でも親切でも同情でも、ない。
 「……俺の飯だけ食えんの?何で?」
 思わず、と言った感で溢れて来た銀時の問いに、「さあ」と肩を竦めて笑う。軽く。大した事はないのだと言う為に。
 「知らねぇ。食い慣れてねぇからとかじゃねぇのか」
 誰か──『この男』──が、土方の為にと、思いをくれたもの、だからだ。
 「…………そんなもんかねぇ…」
 よくわからん、と呻く銀時に、もう一度「さあな」と自ら遠くに解答を投げ遣って、食事を終えた土方はそっと箸を置いた。
 「ごちそうさん。美味かった」
 「…おう。まだお代わりとかあるけど」
 「いや。美味いし有り難ェが、余り量が食えそうもないんだ」
 土方の食べた量は、大凡成人男性の一回の食事量には値しないだろう。まだ白米をかっ込んでいた銀時が少しだけ顔を顰める。そこに心配に似た成分を感じ取って仕舞った土方は、大した事ではない、ともう一度繰り返す様にまた肩を揺らした。
 これ以上この男の人の良さに、困った人間を易々見捨てても行けない性質に、付け込む様な真似はしない様に。しなくても良い様に。
 ほんのり緩めた表情を乗せた面で力を抜いて座り直すと、自然と左の袖が揺れた。カラでもないのに、カラの様な動きと、きしきし、と不快な音色。
 反射的に苦味を伴った苛立ちが沸き起こり、土方は唇を、く、と噛んだ。ついては離れない、『病』の横槍。その都度に突きつける残酷さは、縋る藁さえ欲して仕舞いそうな恐れの可能性を内包して、いつでも土方を嘲笑っている──
 「ま、まあ、また気が向いたら作ってやるよ」
 土方の表情の沈んだ変化を和らげようとでも言うのか。銀時はそう早口で言うなりそっぽを向いた。
 爆弾ではなかったがそれにも近い衝撃に、今度は土方が目を剥く番だった。
 「……良い、のか」
 そう恐る恐る口にして仕舞ってから、やってしまった、と後悔がどっと波の様に押し寄せる。社交辞令に甘えを見せるなぞ。誓っても良いが、普段の土方であれば、幕臣の老狸たちとの会議だの面倒な遣り取りでもこんな無様は絶対に晒さない。
 縋る様な色が乗ってはいなかっただろうか。死ぬ事に怯える余りに、他者の親切に餓えて、浅ましくも他人の気遣いに乗っかろうとする様な、そんな情けない人間に見えて仕舞っただろうか。
 「、」
 撤回も出来ずに口籠もる土方を驚いた様にまじまじと見返してから、銀時は「そう、その…、」言葉の接ぎ穂を探す様に意味のない声を上げた。その酷く困った様な横顔を盗み見て、土方は猛烈な自己嫌悪に勢いよくダイブした。
 「依頼とか他のことで、忙しく、なけりゃ、な。ウン、別に構わねーよ?」
 そこに更に踏み付けられる様な心地がして、思わず土方が顔を持ち上げてみれば、銀時は目をあらぬ方向に泳がせながら鳥の巣の様に収まりの悪い銀髪を引っ掻いている。がりがりと。声には出さない言葉の代わりの様にして。
 「……そう、か。依頼、する程の事じゃ、無ぇし、な」
 互いに解る。関わるべきではなく、関わらせないものであるべきだ、と。
 解っている。
 解っている、癖に。
 「そう、そうそう。万事屋ったって飯炊き屋さんじゃねぇんだ、し」
 どうして、いつもの意地の応酬と同じ様にして、無理に近付こうとしては、離れるのか。
 これでは。こんな『優しさ』では。縋れと。それでも良いと、認められているのだと、そんな錯覚を起こして仕舞う。
 軋む腕が、腕に似たモノが痛い。
 これが、変えさせた。土方に諦めと恐れと怒りを。銀時には同情と憐憫と義憤を。それはきっと、この腐れ縁の、犬猿の、万事屋と真選組の副長との関係を決定的に崩して行く。それがどんな形であれど、今までの有り様にはもう戻れないものへと変えて仕舞う。
 「だよな」
 こんな風に。無様に。浅ましく縋って、死ぬのを恐れて人の温もりを求めて、怖さを消したくて、段々と壊れる不具な身を醜く呪って、怒りの捌け口と安っぽい同情を欲して、諦めては叱咤されて、それでもいつかは泣き喚いて、そうして──
 (侍、ですらいられずに、テメェの中で、消えていく、なんて)
 一番無様なのは、それでも銀時の『社交辞令』の様な言葉を、必要ないと突っぱねる事の出来ない、弱り切った己自身だ。
 
 一頻り理解を示した振りを決め込んで頷き合って、そうして訪れたぎこちない沈黙。
 それを、リラックスしている様な素振りで土方は受け入れ、銀時は居慣れないからだと言う事を決め込む。
 不器用な言葉たちが、正直な気遣いも甘えも何一つ向け合えずに、何が正しいとも肯定されない侭に、ただ無意味に流れて行く。





一頁一頁ぐるぐる長くすんませ…。

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