スワニルダの羨慕 手に提げたスーパーのビニール袋がカサカサと、歩く度に音を立てる。 月の無い夜空にも似て、この辺りの地域は陽が沈む事でいよいよに静かにそして暗くなる。遠い繁華街のざわめきも光も、打ち棄てられた様な裏ぶれた町からは酷く遠い。 足下を照らす外灯なぞ無い所に持ってきて、軒を寄せ合う家々の狭間はまるきりの陰だ。横合いから不意に通り魔や強盗の刃が伸びて来てもおかしくない。痛い程の不気味な静寂。 そんな静けさには決して埋没出来ぬ音を引き連れて、銀時は万事屋への帰路についていた。 土方の隠れ棲んでいるあばら家を出たのは数分ばかり前の事なので、今の時刻は大体八時程度である。そのぐらいの時間であれば、まだかぶき町の様な繁華街は猥雑に賑わい、人とそれを誘うネオンの明るさが町中に満ちている。住宅街だとしても、最近ではこんな時間に早々眠る者は少ない。家々の軒先には灯りが目立つし、TVの音なども聞こえて来るだろう。 こんなに耳の痛くなる様な静けさと、夜の暗闇と言うものを実感させられるのは、銀時にしても実に久々の事であった。 天人の訪れる前の江戸であれば、どこもかしこもこんなものだった筈だ。だが生憎銀時はその頃の江戸の町を知りはしない。己の棲まう賑やかな町の近くに、こんな影に満たされた様な世界が未だ残っていたのだとは、知ってはいたが知らぬも同然であった。 改めて知る町の姿に、薄ら寒ささえ憶える。まるで文明にも世界にも置き去りにされて仕舞ったかの様な、寂寥感を纏わせられながら。 成程、確かにこんな町であれば、何かと目立つ男を潜ませ隠すには持ってこいと言う訳だ。本人が表を出歩くと言う、最も危険な要素が存在しないのだから猶更のこと。 (……打ち棄てられた町の、片隅、の…、) 誰もいない町の家の中で、独り人形の様に座す土方の姿をつい脳裏に描いて仕舞い、銀時は直ぐ様にかぶりを振った。余り良くも楽しくもない想像だ。 ……仮令それがそう遠くはない未来の事であったとして、も。 土方が死ぬと言う運命が最早変え難い事だとしても、それでもあの男は真選組の副長だ。死ぬ迄。否、死んでからも。亡骸も、亡骸未満も、決して他者に──況してや真選組(彼ら)の敵でもある攘夷志士には、何があったとして知られる訳には行かない。 その首は疎か、髪の一本でさえ、奪われる訳には行かない。命を獲った証を渡す訳にはいかない。それが土方と言う人間の名誉を守る事であり、真選組と言う組織の面子や体裁、誇りを護る事でもある。 その為にも土方と、彼の仲間とが模索した最良の方法が、この様な寂れた町に身を潜める事だったと言う訳だ。 (…………) 面白くない、にも似た、不快な感情がまたしても、いつかと同じ様に意識の裡でゆっくりと鎌首を擡げるのを感じて、銀時は態とらしく大仰に溜息をついた。 土方の置かれた状況が大凡彼らしくないものだから、それが彼の最期とは思いたくもない様な──そんな身勝手な感傷を憶えた、ただそれだけの話、だ。が。 (こんな静かで、暗ェ所だから余計にそう感じるんだろうな) 思ってそっと空を見上げる。隘路の狭間から見上げた夜空に星は少ない。こんなにも暗い町並みの中でさえ、空を照らす周囲の光が強すぎて星も目立たないのだろうか。 逆に、遠い夜空の高さから見下ろせば、この辺り一帯は真っ暗な孔の様で不気味な、社会の底辺の様な世界が拡がっている様にでも見えるのだろう。 ふと足を止めてみれば、纏わりつく様なビニール袋の立てる小さな音も、固い靴底が踏み抜く足音も、途絶えて仕舞う。静かな闇にただ吸い込まれて、何の谺も返っては来ない。 暗闇が怖いと思った事は、少なからず今の銀時には無い。(半透明で正体不明な存在が居るとか居ないとかそう言う場合は除くが) 昔の慣れと、日頃狭い家に居る事が多いのもあって、暗闇に目は利く方だと自負している。 畏れるものは見えるものにはない。暗闇は、そこに何も見えないからこそ、畏怖を憶えるものだ。何もない暗闇に恐れを抱くと言うのは、そこに己の恐怖を描き出すからである。 (……アイツは今頃、何考えてんだろうな) 益体もない想像だと思いながらも、そんな事を考えた。 夕刻家を訪ねた時に、怯えと怒りの衝動侭に、自らの左腕──だったもの──を握り潰そうとしていた土方の姿を思い出してみて。銀時はそれを寸でで止めた己の手指をそっと見下ろしてみた。 引き剥がす様に、掴んで。ぱきりと罅割れた音を袖の中に響かせるのを、耳にした。 不要なパーツなどない。だから、『これ』は違うのだと、声にならない声で上げた全身の叫びが、あの激しい恐怖と拒絶とで起こした自傷行為──一応は自傷である──に繋がった。 銀時は敢えて指摘はしなかったし、訊いてみたりもしなかった。だが、間違いなくあの男は、一度は諦念に置いた死への恐怖に戦いていたのだ。 それが。こんな闇しかない夜に、何を思って、向き合うと言うのか。 静けさは忽ちに物解りの良い理性を浸食して、役立たずの瞋恚に変えるだろう。考えれば考えるだけ、孤独であれば孤独であるだけ、土方は己の運命をより痛烈に目の当たりにする事になる。 本当は銀時は陽が沈む前には帰る心算でいた。食事を共にすると言う茶番を終えて仕舞えば、後は何も用事などないのだから当然だ。 だが、気付けば何となくずるずると。不自由な片手だけで山積みの書類を片付けて行く土方の背を見るとも無しに見ながら居座っていた。予定よりも──予想よりも遙かに長い時間。 それは恐らく…、昨日に気まぐれの心算で夕食を作って行った時と同じ、手心の様なものだったのだろうと思う。 目の当たりにした危うい自傷に、きっと少しだけ心配になったのだ。 理由も特に言わずに居座り込む銀時へと、チャイナの夕飯は良いのか、と厳しい調子で問いを寄越してきた男に、俺が遅い時は階下のババアに飯作って貰ってるから大丈夫だ、と返しながら思ったのは──何で、他人の心配なんてお前がしているのだ、と言う至極真っ当な事だった。 犬猿の仲の男の周りの人間の心配なぞする前に。真選組の事に残り時間を腐心し続けるより先に。 取り乱して、少しは喚いて、いつもみたいな罵声を八つ当たりでも良いから叫べば良いのだ。己の運命を嘆いて、みっともなく泣いて仕舞えば良い。 そうすれば、溜め込んだ身の内の恐怖に食われて、自覚もなく自らを貶めて壊して仕舞いそうになる事など、無いだろうに。 (それだから、アイツの気を少しでも紛らわせてやりたかった、って……?〜らしくねぇだろ、なんだよソレ) どうせ一瞬先にはもう関わりもしないだろう事だと言うのに。 そうしようと思っていたと言うのに、全く無責任な話だ。 夕食を、また気が向いたら作ってやる、だなどと。責任も義務も、関わり合いになってやる、その心算さえも無い癖によく言えたものだ。 (一時のテンションに身を任せると身を滅ぼすんだよって、あんだけ繰り返したじゃん俺) 馬鹿だなあ、と溜息にもならない自嘲を浮かべて思う。 事は決して、ノリや勢いで何とかなる話ではないのだ。どうあっても後味の悪さを得る事は変わりようがない。無力感だの呪う他ない運命だの……そんな理不尽に振り回されるのは真っ平御免だ。 馬鹿だなあ、ともう一度銀時が胸中で諳んじたその時。 きん、と甲高い金属の音を耳が捉えた。思わず顔を起こす。静かな夜には無駄に響く、金属音と騒音と悲鳴と── (…え。マジで通り魔?) 幾ら音が通るとは言え、その大きさや距離からしてそう遠くはない。思わず銀時は手近な空き家の壁に背を付けて、木刀に手を乗せた。神楽の夕飯にはもう遅すぎる──ので、明日の朝食になるだろう──、煮物を詰めたタッパを入れたビニール袋を地面にそっと置く。 (一対多) 襲撃者に対し喚く声が概ね揃った。そこからそう判断するなり、銀時は木刀から手を離した。なんとなく先の想像がついて、置いたばかりのビニール袋を拾い上げると、騒ぎのあった方角に足を向ける。その頃にはもう騒ぎは静まっている。 少し進んで隘路を出た所で、くるりと角に頭を巡らせて── 「おや。奇遇ですねィ、旦那」 夥しい血溜まりの中に無造作に立つ少年の姿を視界に収めた所で、銀時は想像通りの有り様にやれやれと息をついた。今更何をどうと訊きたい訳でもないが、そうも行かなさそうな予感しかしなかった。 * まあ、見るだけ見れば一方的な殺戮にも思える凄惨な光景である。 斃れ伏して動かない、浪人風体の男が三人。皆各々の身の内から零れ出た血溜まりに衣服をじわりと浸している。 その中にしゃがみ込んで死体の懐中を漁っている少年が、大凡刀なぞ振るう様には見えない、幼げでさえある美少年と言う面立ちをしているのがまたタチが悪い。幼気な少年と、彼の拵えた三つの亡骸──現実味の無さはさながらちょっとした悪夢の様相である。 まあその少年の名前が、悪名高い真選組一番隊隊長のものであると知れば、ニュースや新聞を日頃から目にする人間にとっては、悪夢じみた光景も忽ちに納得の行くものへと変わるだろう。 沖田が日頃から行うあらゆる破壊行為やフリーダムな行動、その年頃にして神懸かりな剣の腕は、市井ではある意味で彼の上司でもある近藤や土方よりも有名である。 「どんなに躍起になって隠しても、秘密ってのァ、隠せば隠すだけ漏れんでしょうねェ」 やがて溜息混じりにそんな事を言いながら、沖田は浪士の一人の懐中から探り出した紙片をひらりと指に挟んで振って見せた。 疑問符を浮かべるより先に、読んでみなせェ、とばかりに半ば押しつけられる様な調子で向けられた紙片を、銀時は仕方なく殺戮の現場までもう少し近付いて受け取った。開いてみればそこには、土方がこの辺りに潜伏していると言う情報がある事と、その真偽を確かめる事、そして叶うならば殺害する事、と言う旨が書かれていた。 概ね予想通りではあったが、想像以上に現実的な危機感のある内容である。思わずぐしゃりと手の中で件の紙片を握り潰すが、沖田はそんな銀時の姿を僅かに一瞥しただけで特に何も言わなかった。 どの道土方がこの辺りに潜み棲んでいる事自体が『あってはならない』秘密なのだ。こんな手紙は犯人の証拠品として残す訳にはいかないのだから構わないと言った所だろう。 「旦那ァ」 「……何よ」 「通りすがりの旦那は、通りすがりの警察(俺)が通りすがりに攘夷浪士に襲われて、通りすがりに斬っただけだ、って証言、悪ィんですが、しちゃァ貰えませんかねィ。現犯なんで面倒な取調べとかは特に無ぇんですが、関わりの無ェ真選組(ウチ)の連中にも『そう言う事』で扱わせてーんで」 だから沖田がそう言って寄越した時も、銀時は溜息で諾を示すほかなかった。土方の扱いについての事情に全面的に協力すると宣った訳ではないのだが、事情を知って僅かでも関わって仕舞った以上、今更素知らぬ振りをするのも寝覚めが悪い。結果的な意味で。 だが、銀時の速やかな了承に、沖田は「へぇ」と、さも驚いた様な調子で片眉を上げてみせた。自分から提案しておいてその態度はなんだ、とばかりに肩を聳やかしてみせれば、 「旦那の事だ。てっきり何か吹っ掛けて来るかと思ったんですがねィ」 などと返されて、口がへの字に歪む。 「あのな。オメー俺の事何だと思ってんの。流石に人の弱味に付け込む様な真似はしねーよ。するにしたってちっとは空気読むわ」 「そいつァ失礼しやした。読まねぇ事のが多い様な気がしたんですがねィ」 不満顔の銀時の返答を予測していた様に即座にそう繋げると、沖田はその辺りに転がっていた古びたビールケースをがたごとと引っ張り出して来て、その上にすとんと腰を下ろした。膝の上に左肘を乗せて頬杖をつくと、右手をさらりと振って。「そんな事より、」と切り出す。 「てェ事は旦那、野郎の口から現状は訊き出してあると言う事で?」 「そうなっても可笑しかねぇ、どころか、そうなる様、に仕向けた張本人が何を抜かすんだコラ」 「さて。何の事やら」 しゃあしゃあと宣う沖田に向けて凄んでみるが、これもまたさらりと躱された。場所が場所だけに、或いは状況が状況だけに、流石に子供の様に衝動の儘に怒鳴り散らしたくなる憤りは堪える。堪えたその分だけ何だか滅入りそうになる気を誤魔化す様に溜息を重ねて、銀時は中指をぴんと立てた。このやろう、と口を衝いて出ない言葉を面白がる様に沖田が笑う。 「まあ、正直こっちも色んな意味でお手上げだってェのは本当の話ですからねィ。旦那が協力的に扱ってくれんなァ、ありがてーです」 真っ向からそんな風に言われ、逆に銀時はばつの悪い思いを持て余す。吹っ掛けたりしないと自分で宣って仕舞った手前、口止め料がどうのとか言う打診は巫山戯ても出せる筈もない。 「別に協力的になった心算はねーよ。寧ろ基本的に関わる方針じゃねェの。だからこれ以上不必要に人を巻き込まないでくんない?メンドくせーのは俺嫌いだし」 「まあそうですよねィ。で、面倒臭がりの旦那がこんな時間にこんな所をぶらついてる理由は何ですかィ?一体どんな『面倒臭くねぇ』事なんだか」 切り返しは素早かった。退路を抜き放った刀で塞がれるのにも似た調子に、銀時は寸時口を噤んだ。退いたのでも怖じ気たのでもなく間合いを計る為に。 その沈黙を肯定の意で取ったか否定の意で取ったか。沖田もまたそれ以上を続けも言い募りもしない。ふらり、と眼差しを彷徨わせて、足下に転がる出来立ての亡骸を、暇そうな靴先が軽く突いた。 (らしくねぇ、って言いたいより、どうして、って言いてェみてーだな) 沖田の問いは当て擦りが本体だが、探るにも似た意図は確かに潜んでいる。否、探ると言うよりもっとあからさまな、興味、の様なものだろうか。 まあその点に於いては銀時も否定はしない。何しろ昨日の今日の話である。一体どんな遣り取りがあの後に生じれば、折り合いの悪さで有名な万事屋の旦那と真選組の副長とが翌日にもう一度顔を突き合わせる事になるのか。 ここに来てまさか、本当にただの通りすがり、であると言う事もないだろう。沖田は端からその可能性を除いて考えている。実際そうでもなければ、銀時が苛々と、土方の事を探る攘夷浪士らの書き付けを握り潰す事もあるまい。 昨日沖田の立ち去った後に、どんな話し合い──或いは取引──が銀時と土方との間に生じたと言うのか。沖田の着目する問題はその点そのものにではなく、『どうして』そうなったのか、と言う所を的確に衝いて来ている。 確かに、とは銀時とて己で思う所だ。暇潰しでも気紛れでも口止め料の無心でも──一『面倒臭い』事を上回る程の意味があるとは到底思えない。 (やっぱ馬鹿だったか) 選択が、ではなく、決断が、だ。 何故わざわざ、関わる心算もない筈のものに手を出したのか。心配だの同情だの、そんな安っぽい情けを『今』のあの男に掛けた所で何にもならぬ事など解っていた、のに。 「……面倒くせぇな、たァ、手前ェで思ったわ。でもあの野郎さ、いつもあんだけ周囲をドン退かせながらも平然とかっ食らってた、マヨネーズまみれにした犬の餌みてぇな飯も食えねえって言うじゃん?流石にそれは無ェなあって、思っちまったんだよ」 独り言の様にそう切り出した銀時に、沖田は何も答えはしなかった。ただ無言で続きを促してくる。 首の後ろを引っ掻く。腕の中でかさかさと鳴るビニール袋の音。先頃まであれだけ響き騒音の様に煩わしかったそれを相槌の様に思いながら、銀時は己の歩いて来た方角をちらりと振り返った。 辻斬りめいた、こんな捕り物の一幕でさえ、恐らくあの静寂と孤独の家の中には届くまい。 あそこは土方が遠からぬ死を待つだけの棺桶であり、人形を人知れず囲う為の筺だ。隠れるでもなく、匿われるでもなく。行き着く形に最も適しているとだけ思ってそう設えただけの、ひとりきりの空間にはきっと、何も。 沖田の問いも銀時の懊悩も、土方の命を狙う者らの摘み取られた命も。なにひとつ、知る事はないだろう。 それでいい、と思う。あの男のこれから向かう途には、向かい合わねばならぬ世界には、これ以上煩わされなければならない事は必要ない。定められたも同然の。決する未来を違える事以外の『何』が、土方の慰めになると言う。 「だから、面倒くせぇが、こんなのァただの気紛れだ。ちっと弱った野良犬に餌やったら、想像以上に懐かれたかなってだけの。同情して面倒看る心算も、拾って帰る心算も無ぇよ。 ただ、頼まれたから飯を食わせに来た。そんだけの話だよ」 面倒臭ぇから。そう断じる調子で言えば、沖田は妙に神妙そうな声音で、 「…………そうですかィ」 ゆっくりと噛み砕く様にそう頷くと、何やら考え込む様な仕草をしながら銀時の方をくるりと振り返った。足下の亡骸が靴先に蹴られてほんの少し肩を揺らす。 「なんなら旦那、面倒臭ェついでの依頼って事で一つ、土方さんの飯炊き──いえ、野良犬の餌やりでしたかィ。あん人の身辺警護も兼ねて、請け負っちゃくれませんかねィ」 ぐにゃりと揺れた亡骸を斜めに見下ろして、銀時はあからさまな不機嫌を示す様に鼻を鳴らした。これだから面倒臭い事を口にはしたくなかったのだ、と呻く。同じ様な昼間の山崎の様子を思い出す迄もなく、想像に易い話の流れだった。 「どうですかねィ?」 猶も続ける沖田の調子は酷く軽い。そうすれば少しは自分が楽になるのに、ぐらいの意味しか込められていない様な『依頼』の申し出ではあるが、そこに含む意の本質と、実際迫った危機感の信憑性は、生憎にも足下に三つばかり雄弁な形として転がっている。 全くタイミングの悪い事だ、と思いながら、銀時は吐いた吐息を一度吸って、きっぱりと言い切った。 「悪ィが」 「………」 きっぱりとした拒絶の気配に、珍しく沖田は鼻白んだ様に口を噤んだ。片方の眉を持ち上げて、さも不審そうな眼差しを寄越して来る。 恐らく沖田は、「面倒臭い」と口にしてはいながらも、銀時が『依頼』の申し出を断る筈はないだろうと確信していた。逆に、『依頼』と言う形にする事で、銀時が『気紛れ』を起こし易い様に──土方がそれを受け入れ易い様に──してやろう、ぐらいの気持ちでいたに違いない。 横たわる亡骸よりも重たげな沈黙が落ちるのを、銀時は無造作に押し払った。気鬱な事はこの上無いが、続ける。 「言ったろ。面倒くせェ事に関わる心算はねーの。大体、仲の悪い俺に世話焼かれたり護られたりするなんて状況、アイツが甘んじる訳ねェだろーが」 「近藤さんが心配して回した気遣い、って言う名目一つ付けば、土方さんは応じやすぜィ?身も護れて飯も食える様になるってんなら、一石二鳥じゃねーですか」 直ぐ様に返って来る沖田の返球は予想通りだったので、「まぁそりゃそうだ」と軽く受ける。 確かに、近藤からの気遣い──或いは『命令』で宛がわれた護衛と言えば、土方は幾ら相手が銀時であったとして、諾と受けるだろう。無論それは本心からの納得ではなく、かと言って、それが命令だから、と言うのでもなく、それだけ己が今の真選組にとっての足手纏いである事、そして真選組にとって無用な危険を招く存在になっている事ぐらい己で承知しているからだ。 「だが、それはアイツを今より更に無理矢理に追い詰める様なもんだろ」 「…………………」 ただでさえ、避け難く変え難い『終わり』が用意されていると言うのに。猶もそこに向けて追い遣る事に何の意味があるのか。 銀時の静かな切り返しに、沖田はまたしても返答を寄越さず黙り込んだ。少し唇を尖らせてそっぽを向く。 己の浅慮にぐらい気付いてはいたが──それでも口にしたかったのだろう、と銀時は思う。この事態に追い詰められているのは土方だけではない。多忙になる身の回りだけではない。変化は全てに於いての『変化』だ。土方は消える。遠からず確実に。その事実と実感とを厭になるぐらい日々の生活に最も感じているひとりは、紛れもない沖田総悟当人である。 昨日、団子屋の店先で銀時の姿を発見した時に沖田が何を思って──焦りも隠さず無理矢理に釣り針を引っかけに来たのか。今ならば解る気がした。 己と土方の分に買った餡蜜二つの存在を、重たい気鬱の詰まった鞄の中に思いついた時には、きっともう縋るにも似た手は伸びていたのだ。 団子一皿と餡蜜一人分。全く、安い釣り餌だ。 安いが。それしか思いつかなかったに違いない。後は銀時の裡の、例えば同情やお人好しと言った点を信じるだけ。 そうして銀時が『面倒臭い』と宣いつつも土方に伸べた手を、信じてみたくなったのだ。縋って仕舞いたくなったのだ。 (でも、それだとアイツは何ひとつ救われやしねぇだろ) ぎりぎりと、握り潰さんばかりの膂力を込めて掴んでいた、彼自身の左腕──だったもの──を思い出せば、そこに刻まれた苦悩と怯えは、推し量る迄もなく理解出来た。 ただでさえ、己の陥った変容とそれに因る自らへの無力感や嫌悪感は酷く土方を追い詰めている。元より己に厳しすぎるきらいのある男だ。侭ならない身体や戦く心はさぞや彼の矜持を苛んでいる事だろう。 そこに来て、仲も折り合いも悪く、一般市民で、関わりは喧嘩の相手程度でしかない銀時に『護られる』立場になどなったら、どうだろうか。幾ら近藤からの打診であったとしても、土方は益々に自らを苛み、赦せなくなり、身体的どころか精神的にも磨り減って行って仕舞うに違いない。 これ以上あの男が抱える苦悩を増やす事には意味はない。慈悲も優しさも同情も無い。 早く終わって仕舞えば良いのにと、そう思う迄に、追い詰めてどうすると言う。 「だから、よ。偶々で良いんだ。野郎が俺の作った飯なんぞ食うのは。飲み屋に行くとか、ダチの家に行くとか、そんぐらいのノリで気が向いたら訪ねる様な。そんだけの方が、アイツも、俺も、『面倒臭ェ』事にはならねーだろ」 依頼なんて義務感の関係になったら、土方はもう、銀時の作る食事を『美味い』とは食せなくなるだろう。あれは、気紛れの様なものだと。何も惜しむ事もない、考える必要も悔やむ程にも足りない、そんな偶然の些事であると、思えるならばそうであった方が良いのだ。 僥倖や。或いは依頼に因って生じた義務である、などと。思われたくはない。思わせたくもない。 残る時間を、苦悩し怯えを得ながらも、酷い苦痛や無力感に苛まれながらも、恐らく土方は最期の瞬間まで前に進もうとする事を──己のしなければならない事を──止める事など出来ない。あれは、そう言う男だ。 なればこそ。それを止める事も、避け得ぬ運命を変える事も出来ないと言うのであれば、それに僅かでも関わる馬鹿な決断をして仕舞った銀時に出来る関わり合いは、『偶然』や『気紛れ』、その程度の事であるべきだ。 何しろ土方十四郎と言う男は、情けや同情を他者になぞ求める様な──それに甘んじる事が出来る様な──そんなタマではないのだ。 寄り添って苛み合って罵り合って傷つけ合う。そんな『近い』存在になりたい訳ではない。だが、知己が、ほんの少しでも己に関わり合った何かが消えると言う事には寂しさを憶える。人は生きて死ぬ。そんな道理は疾うに解りきっている事だし、割り切れてもいる。別に土方にだけ特別な思い入れを感じた訳ではない。だが──、だが。 (そんなまさか、って。そんなん無ェだろ、って。当たり前みてぇに、思ったな) こんな風に死ぬお前じゃないだろ?そんな事を言いかけて咄嗟に止めた。そんな言葉は無責任過ぎる。余りに。 だから理不尽も運命も、過分な思い入れも好きじゃない。物わかりの良すぎる諦念も好きじゃない。何かからなにかを奪うだけの結果も、願わくば避けておきたい。 ──、のに。 それ以上は言葉を続ける気も無かったから、銀時は黙って立ち尽くしていた。そこに、ふらりと遠くへ行っていた沖田の視線が戻ってくる。刃の色にも似た瞳が夜闇の中で炯々と。 きっと、足下の亡骸を作るのも、銀時に『依頼』と提案を持ちかけるのも、同じだけの労でしかない。そこには紛れもなく草臥れた色と──悔しそうな、諦めの悪い表情があった。 「………イヴの林檎、ですねィ。なまじ旦那の与えた気紛れの慈悲って餌が、あん人から生きる諦めを少しなりとも奪っちまったってんなら。益々に放り出すなァ、残酷でしかねーや」 突っかかる様な調子は、それこそイヴに禁断の果実を口にする事を唆した蛇の様な表情で紡がれた。 そんな沖田の皮肉に、然し銀時はきっぱりと断じた。口元に我知らず苦い笑みが作られる。 「それを解ってるから、手前ェが面倒なのを承知で『偶然』を作ろうとしてんじゃねェか」 * 駆けつけた真選組隊士への証言に適当に相槌を打って、銀時が家に帰り着いた時には時刻はもう十時を回っていた。神楽も定春も既に押し入れの住人だし、新八も家に帰っている。台所に食器の類が無かったので、神楽は銀時の想像通りに階下のスナックで適当に何かを食べたのだろう。お登勢に借りがまた一つ増えたのはやむなしとして、また適当に踏み倒そうと密かに銀時は決め込む事にした。 然し腹具合がなんとかなったとは言え、万事屋での食事当番の掟は遵守されるべきものである。明日の朝にあれこれ言われるのは致し方あるまい。神楽には悪いがこの、持ち帰った煮物を上納する事で大人しくなって貰うほかない。 密閉式のタッパの中には余り美味しそうには見えない煮物が詰まっている。どうして煮物とは冷めたら何だかその色彩も相俟って、食欲をそそらないものになるのか。そんな事をぼんやりと考えながら、タッパから小さい鍋に中身を移して、ラップで蓋をして冷蔵庫に入れておく。電子レンジなどと言う便利なアイテムはそれこそ階下に行かなければ無いので、明日の朝また鍋に火を通して温めるのである。 それと、帰り道がてら立ち寄ったコンビニで買ったプリン──これも神楽の機嫌取り用である──を仕舞い、銀時は一緒に買った缶ビールと最中を袋から出すと、それを手にしてソファに腰を下ろした。 表面に少しの汗をかいた缶を開け、一個だけの最中の封を切る。酒のつまみに甘いものと言うのはどうなんだと、偶々遭遇した酒の席でそう文句を言って寄越したのは土方だった。人の嗜好に勝手にダメ出しするなとその時は返した様に思うが── (そんな事でさえ、今は遠い、な) 当たり前だが当たり前とは思えない事に顔を顰めながら、銀時は勢いよく缶ビールを煽った。喉を苦い塊が通りすぎる様な感触に胃の底が重たくなる。これは実に酒の肴には宜しくない感傷だった。 (いっそ、依頼って形にしときゃァ、収入も安定して良かったんじゃねぇの…?) 何故わざわざ『面倒』と己で口にしながらも、その決断を選んだのか。解る様で解らない、その感情或いは感傷が、飲み下すには重たい事この上ない肴だった。 沖田は弾劾の様に口にした。手前ェで希望を与えておいてそれを無碍に扱うなど、益々に酷い話だろう、と。 確かにそれは認める。土方は少なくとも『次』をまた意識したからこそ、「また作ってやる」と言う銀時の社交辞令にも似た提案に、思わず乗って仕舞ったのだろうから。 だが、同時に土方は己のそんな望みを酷く嫌悪した。失敗した、と言いたげな表情で困惑していた。なんでかんであの男は警察で、銀時と言う一般人を己に関わらせる事を厭うのだ。そんな男が他者に──坂田銀時に何らかの可能性を寄せて縋る、などと言う事は、正しく『失敗』でしかないのだろう。 己の置かれた現状に、ほんの少し伸べられた変化が──銀時の親切心にも似た行為が、土方にとって何らかの寄る辺になったのは間違い無い。だからこそ、作り与えた食事は『美味かった』のだろうから。 それが土方にとってどのぐらいの存在であったのかは、銀時には量る術はない。何しろ、土方は己の望みに──『次』を期待した心に──気付いた途端に、それを棄てようとしていたのだ。『失敗』だと思って。 それでも銀時は、土方が自己嫌悪の中に沈み込んで仕舞う前に、「別に構わない」と返した。 そうして、沖田のくれた嫌味ごと、自ら面倒を買って出た事を認めて仕舞った。 (…………関わる心算なんざ、無かったのになァ……) 苦々しく思いながら、最中を乱暴に囓る。餡の甘みですら苦く、最中の皮の柔さでさえ喉を刺す。痛烈に。 どうあっても、無力や変わらぬ結果に打ち拉がれて、何らか後味の悪さを得るだろうに。 解っている癖に。 「……厭だった、んだろうな」 ぽつり、と呟いた言葉は、何処にも届かず彷徨う事もなく、静寂の部屋を反響して銀時の耳へと戻って来た。 土方の感情なぞ無視して、いっそ依頼とした方が収入も安定するだろうし、実入りも良いだろうに。何故わざわざ土方の矜持だのなんだのを斟酌してやっているのだろうか。何故、惜しむ程の後味の悪さがそこに生じると気付いて仕舞ったのか。 ………厭だったのだ。他にはない。 人間と言うものが、一人で自分の事だけを考えて生きる事が出来るものならばきっと楽だったろうに。なまじ他者の為に、何かの為に生きる事を知って仕舞えば、同時に孤独と虚無を知る事にもなる。死そのものを恐れるのではなく、孤独にそれに相対する事に怯える。 人の死は絶望と等価だ。そして人の最も深い絶望は孤独を識る事なのだから。 識って、もしもそこに立ち止まったら。土方がもう真選組の為に尽くさなくて良くなってゆっくり療養に入る、などと言う事になったとしたとしたら。その時に初めて彼は絶望感の中に怒りと嘆きとを憶えて、涙のひとつぐらいこぼせるかも知れない。怒りでも妬みでも、誰かに縋る事ぐらい出来る様になったかも知れない。 だからこそ、厭だと思えたのだ。そんな事は有り得ないと知っていたからこそ、厭だった。 あの男が、この侭死に気付いて孤独に怯えながら、だがそれを誰にも見せる事も悟らせる事さえもなく真選組の為に──自分以外の為に尽くし続けて、そうして損なわれて行くのを黙って観ているのが、厭だったのだろう。 何が出来る訳でもない。何をして欲しいと望まれている訳でもない。何かをしようとも思っていない。関わり合いにはならないべきだと互いに弁えながら、然しそこに何らかの理由を見出して仕舞った。 惜しむ事と、惜しまれる事と。縋りたいくせ伸びて来ない手を。己の為に嘆く事ひとつ無く、嫌悪と忌避感だけを深めて、そうして己を壊して行く様な、ひとりきりでそんな馬鹿な選択をした男を。 それが厭だ、と。そんな馬鹿に関わる決断をした馬鹿な男は。力無く吐き出した直後に、悔いる様に笑った。 これから損なわれる者に対して、損なわれるのが厭だと思うなど。 己の意に沿わず消える事を厭だと思うなど。 ──それが、何らかの思い入れではなくして、何だと言うのか。 。 ← : → |