?→! / 13 寝付きが悪いのは雨音の所為だろうかと、そんな事を考える。 夜半に入って降り出した雨は重たい雨粒をぱたりぱたりと地に落とし、大気を湿らせ粘つく様な湿気を齎す。降り始めから本降りに入ってもその勢いは然程に変わらず、恐らく日が昇るまでにはすっかりと止んで仕舞う事だろう。長引く気配の無い惰性の様な雨は、ただでさえ浅い眠りを苛々と妨げる雑音でしかない。 屋根に落ちた雨が樋を伝って流れ滴る音と、植え込みの葉を叩いてはからかう様に断続的に響く軽い音。どちらも日頃ならば気にも留めぬ環境音として聞き流せた事だろう。溜まった疲労は眠る環境を選んでなど居られぬ程には早急な眠りを欲していると言うのに、意識だけがぴりぴりと張り詰めて夜の闇の中に、雨音の中に、様々な気配や嘲笑を聞き取ろうとしている。 ぱたん、と一際強く雨の滴が音を立てるのに、思わず闇に薄目を開きかけた土方は、意識して固く目を瞑り直した。 眠気や疲労が一定を越えて仕舞うと逆になかなか眠りに落ちれない事はままある事だ。全身は倦怠に満たされた革袋の様に重たいのに、肩から上だけが冴え冴えと世界に意識を向け続けている様な状態だ。土方も幾度か仕事の修羅場の中でそんな思いを経験して来ている。 そんな時の対処法は目を瞑って外界から関心を失う事だと、土方はそう心得ている。じっと目を閉じた侭、音がしようが気怠さに脳が不快な疼痛に似た痛みを訴えて来ようが、ただただ目を閉ざし続けていれば、大概の場合は気付けば朝になっているのだ。眠れたのか、眠れていないのか、と言う判断はつけ難いが、兎に角眠りの遠い夜をやり過ごす事は叶う。 疲労はしている。睡眠は摂るべきだ。それも出来るだけ穏やかな質のものを。 思った所で今晩はもう易々叶う事はあるまいと、目蓋にじっと力を込めながら土方は半ば諦めに入っていた。だが、今にもぱちりと目を開いて仕事の続きでも探そうかと言う己の思考には全力で自制をかけた。形ばかりでも休むのと休まないのとでは効果は段違いだ。肉体も、内臓も、脳も、いっそ好きな時にスイッチを入れたり切れたり出来たら楽だろうにと下らない想像をする。 眠りが浅くなる程の疲労も心労も、雨音の所為などでは当然、無い。ぐれむりんの捜索を任されてから最早二週間以上が過ぎている。迷惑千万なバカ皇子の来訪する、期限と告げられた時までは一週間を既に切った。 万事屋に依頼し得た成果が最大の功績であって、それは真選組の直接の手柄にはなっている。とは言えそんな実績は城の頭の固い老中には全く効果を成してはいない。日中に銀時から受け取った一匹を届けに行った先、江戸城で土方はここぞとばかりに、『完璧』な成果を挙げていない結果を詰られ、実のまるで詰まっていない嫌味めいた説教と叱責とをこれでもかと貰う羽目になって仕舞った。 本来部下に松平の元に運ばせる予定だったのだが、その肝心の松平公が偶々に城に上がっていたので、土方が自ら赴く事になった、と言うのがその経緯の発端である。 近藤もこんな時期だと言うのに幕臣の何某の主催する会食に招かれている。断りきれない相手からの時期を弁えぬ誘いなぞイヤガラセ以外の何者でもないと土方は思ったし沖田も同意はしたが、近藤はそれも仕事だと、多忙で机を離れられない土方を前に少し申し訳無さそうにそう言った。 形ばかりの、嫌味が肴となる会食とは言え、土方や部下が慌ただしく奔走している中で自分だけが酒を飲む事に抵抗があるのだろう。そんな近藤の気遣いに土方は純粋に感謝と頼もしさとを憶えずにいられない。 含羞にも似たその感情を糧に出来れば、土方は己の身を働かせ続ける事に何も問題を憶えない。それは長年を経てすっかりと根付いて仕舞った己の生き方なのである。近藤に、彼の望み志す侍の──警察の生き方をして貰う事こそが土方の生きる目的と言っても良い。 そうやって、長い時間をかけて漸く。──漸く、それを模倣するだけだった己にも、その形が得難い理想と憧れの体現だと思える様になって、そうしてあの男に出会ったのだ。憧れや尊敬には成り得てはならない感情を親しみへと易々変えて、拒もうとした土方の心にまでするりと入り込んで来たあの男に。 ふ、と苦味しかない溜息を寝息の振りへと流したその時、突如枕元で音が鳴った。張り詰めていた弦が弾けたかの様な動きで土方が素早く起きあがれば、枕元に置いてある携帯電話が着信を示すランプを点滅させながら震えていた。 起きる理由にさせられたか、眠らぬ大義名分を得たか。どちらに対してか小さく舌打ちをして、土方は通話ボタンを押した。携帯電話を耳に当ててみれば自然と表情が引き締まるのを感じる。 《遅くに済みません。お休みでしたか?》 電話の相手はいちいち問いて確認する迄もない。山崎だ。そうなれば話の内容は今目の前に横たわる最大の問題に対する答え或いは突破口になるものである可能性が高いのだ。元よりあった訳でも無い眠気もどこか拗ねた様な心地も一緒くたに忽ちにして吹き飛ぶ。 「いや。それより奴さんの居所でも知れたのか」 開口一番の問いに、電話の向こうの山崎が苦笑する気配。それをどんな無茶振りだと言う抗議の代わりに聞いた土方は隠さない溜息で応える。それ程に事態は進展していないと言う事だ。 土方の言う『奴さん』とは、ぐれむりん逃亡事件に何ら関わっただろうと思われる指名手配犯の事だ。元々密売人として動いていた攘夷浪士くずれの男で、ハタ皇子がぐれむりんを地球に持ち込む際に使った業者に偶然か狙ってか勤めており、その後直ぐに辞職して忽然と姿を眩ましている。そして逃走中のぐれむりんの何匹か──暫定残り頭数は八匹だが、分裂している可能性もある──は未だ発見されていない。宇宙生物の密輸も得意としていた『奴さん』がその事と無関係と言うのは無いに等しい可能性だ。 他にも、ぐれむりん逃亡事件に関わった疑いのある人物は残念ながら幕府内におり、山崎や土方はその容疑者の絞り込みに現在努めている最中だ。本来なら管轄違いの件だが、指名手配犯の逃亡先を探る為にもそれが必要だったのだ。 他星の皇族に賜ったペットに将軍が至らぬ扱いをした、と言う風聞を与える。そんな下らない、程度の実に低いイヤガラセや足を引っ張る事に使命を燃やす様な愚かしい、将軍家の敵となる人間は、割り出しに困難を憶える程に少なくない数ではないと言うのが悲しいかな、現実だ。 そう言った連中に買われ、件の指名手配犯が逃亡したぐれむりんの何匹かを押さえている可能性は非常に高い。或いは報酬がぐれむりんそのものである可能性もある。 《残念ながらそちらは未だ。ですが、先月出所した元メンバーの男を調べた所、どうにも怪しげな連中とつるんで不穏な動きを見せている様で──、》 そこで山崎は一旦土方の反応を待つ様に言葉を切った。促しも息継ぎもせずに土方が黙って続きを待てば、ほんの僅か躊躇う様な気配を漂わせた息継ぎを挟んで彼は続ける。 《テロ、ないし大掛かりな事件を起こす可能性があります。根拠は山とあるんで敢えては報告しませんが》 土方は首肯とも取れる仕草で小さく鼻を鳴らしてそれに応えた。眉間が深い縦皺を刻んで口元が微細に弧を描く。 ぐれむりんを入手したい連中の目的と、将軍に不名誉な赤っ恥をかかせたい連中の目的との一致はぐれむりんが逃走した事で既に叶っている。と、なるとこの後生じるのは利害だ。後者は城に戻りつつあるぐれむりんの頭数にやきもきしている事だろうが、最終的に全頭数が揃わなければ幕府の思う最良な形で外交には臨めない。つまり、一匹でも戻って来なければ良い。 戻ってこさせない為にはどうすれば良いか。殺すか、売るか、それとも使うか。 そして、山崎が確信したのは最後の一つらしい。根拠を聞かずとも指名手配犯の為人を思えば特に否定する必要性も感じられなかった為、土方は混ぜっ返す様な真似はせずに言う。 「テロなら未然に防ぐのが理想だな」 《そう言う事になりますね。どうしますか、副長》 「出所したばかりとか言う下っ端の居所は勿論掴んでいるんだよな?」 《当然です》 言い切る山崎の声にふっと忍び笑うと、土方は立ち上がった。着物をさっさと脱ぎ捨てると、長押に掛けてある隊服を手に取る。 「まずそいつらを挙げる。言い逃れ出来ねぇ様に共犯者も挙げられりゃ御の字だが、まあそこまで贅沢は言わねェよ。取り敢えずは空振りを誘って本丸を開けさせるのが理想だな」 携帯電話を耳と肩との間に器用に挟みながら、シャツの釦を淀みない手つきで留めて行く土方の表情には最早訪れぬ眠気に対する苛立ちや倦怠感は微塵も無かった。 山崎から件の情報を聞き出すと、土方は冴え冴えとした思考で人員の構成を考え終えて、夜番の隊へと連絡を入れた。手筈を伝えた後、時計を見上げる。そう大規模ではないが一応は隊を動かす捕り物になる。真選組の人間はいつ如何なる時でも素早く出動が出来る様に常に準備をしてはいるが、大事にはそれなりの時間が必要になる。況して今は深夜だ。夜明け前までに片がつけば上々と言った所だろう。 そう思った所で、一旦閉じかかった携帯電話をもう一度そっと開く。時計と日付を映し出しているディスプレイにはメールの着信を知らせる表示は無い。 だが、それを見つめて得るのは過日の、どこか浮かれた様な心地や疼きにも似た期待ではない。何処か空虚な苦味だけだ。 二日前に銀時と気まずい遣り取りをして以降、メールでの連絡はぱたりと途絶えていた。今まで散々、挨拶や報告以下の内容を送って来ていた男がどう言う変化なのだとは思うが、その原因となったのだろう己の発言を思い返せば、それが銀時にとって大層気の障るものだったのだろうと言う自覚ぐらいはあった。 『猫』探しの依頼の一環であったとしても危険には関わるな、と土方は言った。銀時としてはそれが、己を、万事屋を軽んじられたも同義だと取ってもおかしくはない。と言うか意味としては正しくその通りでしかない。 警察である土方としては、民間人に対しての当然の判断としてその事を銀時に告げた。言い辛い、と思って言葉が澱んだのも、それが『依頼主』としては余りに誠意に欠けるものだと思ったからだ。 それでも、土方は自らの──警察としての己の意見と本分とを選んだ。そして、それは正しいものだとも思っている。だから、銀時がそれを気に障るものと取ったのだろうと感じてはいても、謝罪の類を口にする気は無い。 だが、土方十四郎と言う個人的な感情でものを言うならば、銀時に対して申し訳の無さに似たものを憶えているのは確かだ。銀時への信頼は慥かなものだと言う実感はあるのだから、その事だけは先に言い置いてから説明すべきだっただろうかとも思った。然し、言葉はあの時どうやっても出なかった。下らない意地か、それとも矜持か。或いは単なる羞じか。兎に角、投じれなかった言葉に後悔の味を憶えた所で意味は最早与えられない。 一度はメールにその旨を綴りかけたが、結局は無機質な文面は途中で消した。簡単に紡げる言葉に誠意が果たして読み取れるのか、上手く伝える事が出来るのかが解らなかったのだ。 言葉を紡ぐに容易いものに誠意が宿らないのであれば、言葉を尽くす事こそが誠意なのだろうとは思う。思うが、感情は言葉程には容易くなくて、そして無為だ。 土方が気休めでしかない謝罪を口にしようがしまいが、銀時は恐らく万事屋として期日になるまでは土方の依頼に対して全力を尽くしてくれるだろう。事態が進展する様な『何か』が無ければ連絡をもう寄越そうとはしないとしても。 口中に涌いた苦味は呑み込みも吐き出しもし損ねた言葉の残滓だろうか。最早何の意味も与えられそうもないものだと言うのに。 浮かんだ自嘲を振り払う様に、廊下を駆けてくる足音を聞きつけた土方は刀架の愛刀を手に取った。準備が整ったと言う部下の報告にはっきりと頷くと、未だ暫くは止みそうもない雨の夜へと向かい出る。 恋愛臆病なので解ってても進まない土方。 ← : → |