?→! / 19 湿気の多さでか生じていた紅い残照は瞬く間に雲の狭間へと沈み、いつの間にか増えていた黒雲に天頂は徐々に覆われつつあった。もう雨が近く降る事に疑いは無い。 翳った陽と同様に翳った気分を持て余した銀時は苛々と歩を進める。先頃までは心地よい労働の疲労感とその後のご褒美に浮かれていられたと言うのに、今の気分は大凡そんな所には無くなって仕舞っている。コンビニも既に幾つか通り過ぎたが、最早酔いたい気分なぞ失せていた。 こちらを僅かたりとも見ようとしなかった白い横顔には、未だ拭えない過日の疲労が確かに堆積した侭になっていた。喧嘩腰で怒鳴り合う気力も無いのか、舌戦にさえ応じないでただ早く立ち去る事を選んだ土方の事を思い返せば、銀時の裡にじわりと罪悪感にも似た感覚が沸き起こる。 銀時は己の憤慨を正当なものだと思っていたし、そこを曲げるつもりも変えるつもりも無い。だから己は間違っていない筈だ。抗議もそして反論も。 棘を向けて来た癖に先に敵意を引っ込めたのは土方の方だ。だが恐らくそれは自分が悪いなどと言った殊勝なものでは無いだろう。良くも悪くも己の言動に責任を持つ男がそう感じたのであれば、回り諄くなれど何かしら謝罪に類する言葉や撤回を寄越して来て居る筈だ。 故に。土方がそれ以上の暴言を噤んで去ったのは、単に──そう恐らく単に、時間が惜しかったのと本当に疲労の中にあったからだろう。 それが銀時の罪悪感を募らせる。己に過失が無いとは断言出来るが、己が仕事上がりに上機嫌に浮かれていても土方が棘混じりの口撃をし掛ける程に苛立っていたのは確かだ。もう日も沈む頃なのにこんな危険な界隈にまでぐれむりん探しに動き回っていたのもまた、確かだ。 己が仕事上がりに正当な対価を得た事については当然だと思う。だから、この後呑みに行こうが、ビールを買って帰ろうが、それは未だ働き続けている土方について罪悪感を何か憶えるものでは無い筈だった。土方に告げた通りに、万事屋の依頼(しごと)は彼に頼まれた『猫』探しばかりでは無いのだから。 一頻り正体の掴めぬ罪悪感の苦味を口中に転がしてから、銀時はそっと溜息をついた。メールで会話していた時は険悪になどならなかったのに、ああして面と向き合うといつも何か不快なものを抱いて仕舞うのか。抱かせて仕舞うのか。 そこでふと思い出して、銀時は袂に放り込んである携帯電話を取り出した。鉄子に頼まれた荷運びの最中、時間を確認しようと開いた侭になっていたその液晶を点灯させれば、そこには発信履歴が表示されていた。いつかも憶えのあるその画面に、また誤動作をさせて仕舞ったのかと思って小さく舌打ちをする。 あの時はメールボックスには土方からのからかう様な言葉が入っていた。今回もそうだと思った訳ではないが、何となく期待を抱いて開いて、やはり落胆して閉じる。 もう一度通話履歴を開いて時間を確認してみると、通話時間は以前よりも少し長かった。ひょっとしたら土方も誤動作の着信に暫く気付かなかったのか、それとも一体何をやっているのかと伺ってでもいたのだろうかと考え──、 「………」 いや、と頭の中でその考えを打ち消す。先頃土方にはストーカーかなどと暴言を投げたが実際にそんな疑念を思っていた訳では無い。寧ろそんな事をしている暇などあの男には無いだろう。単に、いつも通りに怒らせ怒鳴らせようとした故の、近藤を槍玉に挙げただけの挑発だった。 では何故、土方がこんな所で銀時の他の仕事振りを知り得る事になったのか。それは、この辺りに土方が来る理由があったからだ。 銀時とて知っている。この界隈が警察にとっては余り宜しく無い様な場所であると。見廻りや捜査を目的として複数の人間が歩き回る昼間であれば何でも無い地域だが、人気の少なくなった夕刻に、攘夷浪士に蛇蝎の如く忌み嫌われる真選組の幹部がたったひとりで居て良い様な場所では無い。もしもぐれむりんの捜索の一環であれば、部下なり人員を率いて来ている筈だ。 まさか、と言う考えが銀時の脳裏を過ぎる。それはパズルのピースにしては不格好で上手く填らない可能性の欠片。想像か、妄想かでしか無い様なその可能性を、然し確信と言う言葉の鑢に掛ければ、そこには酷く都合の良い画が浮かび上がる。 銀時は鉄子の依頼でこの地域に来ている。治安が余り宜しく無いと言う事は、万事屋だからと言って歩き易い地域と言う訳では無いとも言える。時間や状況次第では、粋がった浪人とみなされ『狩られ』る可能性もゼロでは無い。 そして何より銀時には先日、ぐれむりんの一件で暴漢共の襲撃を受けたと言う事実があるのだ。 土方が──あの、一般市民を遵守する事を自らの組織の役割として生きているお巡りさんが。爆発する危険生物探しの依頼でさえ躊躇いながら持ち込んだあの馬鹿正直な男が。 銀時からの誤動作の通話を、『何かあった』のではないかと疑ったのだとしたら。 まさか。と思う。都合が良すぎる、とも思う。だがその描かれた画は余りにも土方の描いたものらしい様に思えてならなかった。 焦っていたから。否、焦っていたからこそ。 (んな訳──、) 馬鹿な想像だろうか。都合の良い妄想だろうか。銀時の身に何かがあったのではと危ぶんで、目前の事を放り出してまでその身の無事を確認しに来た、などと言う事は。 (いや、妄想でも思い違えでも構わねェ、) 大事なのは引き留める事だ。必要だったのは問い返す言葉だった。『もう良い』、そう言い放たれた言葉が依頼の取り止めを意味したものであるのなら、万事屋の信条としてそれは看過し難い。一度受けた依頼を、関わった事を、こんな下らない擦れ違いで反故にするなんて沽券に関わる。 (──そうじゃねェだろうが、馬鹿か!) こんな時まで依頼と言う便利な言葉に理由を求めようとする己を叱咤して、銀時は手の中の携帯電話でリダイヤル操作を行う。何と言葉を紡いだものかなどとは考えず、無機質な呼び出し音が止むのを死刑宣告の足音でも聞く心地で待つ。 「あ、」 やがて、続いていた呼び出し音が、ぶつ、と途切れた。通じた手応えに思わず口を開いた銀時だったが、言葉を発するより先に無機質な音声アナウンスが耳へと届けられて肩を落とす。 《お掛けになった電話は現在──》 終話ボタンを爪で突き刺す様に押してそれを止めると、銀時はメール作成画面を開いた。 悪い。すまねぇ。お前の依頼を反故にするつもりじゃなくて。 そんな言葉たちは次々に浮かぶのに、打ってもしっくりと来ない。紡がれ完成する無機質なテキストの文面は何一つ己の言いたい言葉を、上手く伝えてはくれていない。 くそ、と悪態をついた銀時は作成しかけていたメールを消した。今になって漸く解った気がした。メールだと険悪にならないのではない。メールだから険悪にならなかっただけなのだ。互いの声も反応も表情も目の前に無いから。解らないから。都合の良い想像だけで良かったから。 単純過ぎる理解が腹立たしかった。銀時は再びリダイヤルを押して、元来た方角へと踵を返した。あれからもう結構に時間は経過している。土方がまだあの辺りに居ると言う目算も可能性も低かったが、最後に彼の向かった方角を目指して走る。 鳴り響くコール音は然し目的に届かない。電話の主は今電話に出られないと言う旨を告げる定型のメッセージは何度それを聞き直した所で電話の主が今何処に居るのかを教えてはくれない。 土方が怒っていたとしても、こうも何度も電話を掛けて、それでも出ないとは少々考え難い。話もしたくないと思っているとしたら、無視ではなくいっそ着信拒否か、電話を受けて即切ると言った解り易い意思表示をするだろう。 何故電話に出ないのか。疑問は段々と焦燥となって走る足下を浸して行く。あの界隈は警察にとって危険も多い地域だ。土方が銀時を案じたのだろう懸念と同種の不安は忽ちに罵声や不満となって喉の奥深くで蟠る。溺れそうな感覚に息をこぼすと、銀時は一旦立ち止まって今度はアドレス帳を開いた。たった一つしかない、土方十四郎の登録の中のメモ欄に記してあった電話番号を手動で打ち込む。 今度のコール音は短い。2コール目が鳴るより先に取られた電話口に、銀時は早口で土方への取り次ぎを願った。 それは土方が予備として入れておいたらしい、真選組屯所の電話番号だ。よもや使う事など起こらないだろうと思っていたが、全く世の中何がどう幸いし災いするかなど解ったものでは無い。 真選組の通信室に繋がれたらしい電話は、悪戯電話と訝しんで直ぐに切られると言う事は無かった。名乗りと、土方に繋いで欲しいと言う銀時の申し出に応じた隊士は何事かと流石に訝しんだが、切迫した声音からただ事ではないと察したのか、対応は早かった。 《少なくとも屯所には戻っていない様です。何とか連絡が取れないかこちらからも試してみますので、何か解りましたら知らせて下さい》 流石に副長の理由無き不在、しかも余り治安の宜しくない界隈での事とあってか、電話口の向こうに緊張の気配が漂い出すのを感じながら、「杞憂なら越した事ァ無ぇけどな」そう少しぶっきらぼうな口調を態と作って言うと、銀時は通話を切った。 そう、気の所為であるのなら、考え過ぎであるのなら、それで構わない。果たして土方は何にも巻き込まれずいつも通りの仕事をしている銀時の姿を目撃して何を思ったのだろうか。 決まっている。安堵だ。想像通りならば、間違い無く。安堵したからこそ、空回りしただけの己に苛立って、その感情の侭に棘を向けたのだ。そうせずにはきっと居られなかった。銀時と目を合わす事さえ避けたのは、銀時にではなく、己に激しく腹を立てていたからだ。 馬鹿かアイツは、と思ってから銀時は溜息をつく。馬鹿なのは己も同じだった。互いに苛立って、衝動的に刃を向け合った。 想像でも何でも良い。互いに愚かで未熟だった事に変わりない。何一つ己の事を伝える、教える、知って貰う、そんな言葉を出せずに居た事に変わりは、ない。 何度目かの不通の報せに舌を打って、銀時は猶も諦め悪くリダイヤルを押した。人気のすっかり無くなった隘路を越えて、野良犬の姿の一匹も見当たらない、すっかりと闇に沈んだ町にぐるりと視線を這わせる。 その目が何かを捉えるより先に、耳がその音を拾った。先日の一件では苦々しく耳に焼き付いた、携帯電話のコール音。 足が止まる。夕暮れから昏い夜の中に入った世界。逢魔が時から魔が刻へと沈みきったその中で、高らかに鳴り響く音。誰かが誰かを呼ぶ音の繰り返し。 銀時の目は違えずその音を響かせる元凶を捉えていた。雨水用の側溝の蓋に辛うじて引っ掛かっている、黒い携帯電話。それを横目に、自らの手にするシルバーの携帯電話の終話ボタンを押せば、目の前のそれも沈黙で肯定を寄越した。 (何で、) 浮かぶ疑念よりも答えは何より雄弁であった。銀時が拾い上げたその黒い携帯電話を開けば、不在着信に万事屋の名がずっと連なっている画面が表示された。 間違い様もない。疑い様もない。それは土方の携帯電話だった。 その確信を待っていたかの様に、暗く黒く澱んだ空からぽつりぽつりと雨粒が音を立てて落ちて来ていた。 。 ← : → |