Mellow / 10



 用件を簡潔に告げるだけ告げると通話は途切れた。後は無機質な不通音を繰り返すばかりの受話器を暫し無言で見つめるが、当然の様に続く言葉も促す声もそこから出て来る事は無い。銀時は固い動作で受話器を黒電話の上へ戻すと、壁に掛かっている時計を見上げた。
 (あれから一週間未満。九時半)
 読み取った、大体の針の角度はそんなものだ。陽もとっぷり沈んで、もう夕飯を終えて眠ろうとしている家庭も多いだろう。勤め人なら仕事帰りにくぐった飲み屋の暖簾を持ち上げ、帰宅の途につく頃かも知れない。
 真選組ではどうだろうか。こんな時刻だが、デスクワークがメインのお役所の様に、ぴったり定時で終業と言う事も無いだろう。町の見回りでも内勤でも良いが、年中難しげな顔をして忙しく立ち働いている副長様が暇をただただ持て余していたとは考え難い。
 落ち合うのに指定された場所は、銀時も名前ぐらいは知っている大衆向けの、深夜営業もやっている居酒屋のチェーン店だった。恐らくだが、小さな個人経営の居酒屋よりは客の人相を憶えられ難いと言う目的あってのチョイスだろう。
 ともあれ、突然の発作で慌てて店に飛び込んだと言う風では無さそうだったので、少なくとも巡回中とか討ち入り中では無かった様だが、今後万一そう行った非常事態の中で発作に襲われたら、土方は一体どうするつもりなのだろうか。幾ら銀時が数コールで電話を取れる状態だったとして、電話を掛ける土方の側がそう出来る状況下に常にあるとは限らない筈だ。今日は良いとして、今後もずっとそれが続くとは限らないのだ。
 ある程度急性的な症状と小康状態とを繰り返せば周期ぐらい見えて来るだろう、と言うのが土方の目算の様だった。だが、確かにそうかも知れないが、それでも万全とは行かない筈だ。ただでさえ命のやり取りに関わる物騒な職業だと言うのに、こんなに悠長にしていて果たして良いのだろうか。
 (やっぱり医者に言った方が良いんじゃねェのか…?)
 そう浮かぶ建設的な意見だが、あの時の土方の断固とした拒絶の態度が、言っても無駄だと物語っている。銀時が勝手に地味顔辺りに報告などしようものなら、本気で斬りかかられかねない気がする。
 否、きっとそれどころか──、
 「……まぁ、追々考えるか」
 浮かんだ想像を振り払って出た呟きは酷く消極的で、口にした自分自身ですら真剣味の無さに呆れ返る程であった。
 諦め混じりに小さくかぶりを振ると、銀時は早足で玄関へと向かった。件の居酒屋までの距離はそう遠くないとは言え、何しろ相手は病人の様なものだ。走っていく程では無くとも多少は急いだ方が良いかも知れない。
 先日の、顔色も悪く怠そうに座っていた土方の様子を思い出してみれば、のんびり歩いて参上と言うのは流石に気が引ける。
 ブーツに足を突っ込むと木刀を腰に差して、銀時は駆け出す寸前の足取りで家を後にした。
 
 *
 
 平日の夜だが店内はまだ多くの酔客で賑わいざわめいていた。上機嫌に杯を傾ける者、単に食事だけの者など、男女や年齢の様々な客がめいめいのテーブルで時間を楽しんでいる。
 待ち合わせていると言う旨を店員に伝えると、「ああはい、山崎様のお連れの方ですね?」とにこにこと言われた。ヤマザキと言われて思いつくのは地味な面相の真選組隊士の姿であったが、待ち合わせ相手の名前を銀時へ問わなかった以上、恐らく他に待ち合わせをしている客はいないと言う事なのだろう。一拍おいて頷いた銀時の態度に特に不審を感じる事も無かったのか、店の奥へと促され、宴会用の個室へと案内される。
 引き戸を開くと一段上がって畳の敷かれた和室風の個室があり、中央に置かれた卓の前にはいつもの黒い着物を着た土方の姿があった。彼は煙草を咥えた侭、「よぉ」とでも言う控えめな意味なのか、ほんの僅かだけ肩を揺らすと視線を動かして銀時の方を見た。
 卓の上には既に酒と軽くつまめそうな料理が何品か並んでおり、向かいの席にもビール瓶と伏せたグラスと箸とが用意されている。土方の前には酒の注がれた猪口が置いてあったが、手を付けている様子は無かった。
 「お客様は他にご注文は?」
 ここまで銀時を案内してきた店員が矢張りにこにことそう問うのに、今は良い、と答えると、店員は卓の上の呼び出しボタンの案内をしてから、「ごゆっくりどうぞ」と一礼して去っていった。
 扉が閉まった事で、去っていく店員の足音と店内の喧噪とが一段と遠くなる。銀時がブーツを脱いで卓へと近づくと、無言の土方は煙草を灰皿へと落とすように置き、その姿を見上げてくる。
 「………」
 縋る様な目だった。常の様な鋭さも力も無く、唇が何かを訴える様に震えながら上下し、湿った呼気を漏らして戦慄いている。
 言葉は無くともただ仕草だけで解る、苦しいのだと。
 待ち人の訪れを待っている間に必死になって張り詰めていた糸は、銀時の接近と共に切れて仕舞ったのだろう。頼りのない眼差しをふらりと彷徨わせ、ぼんやりとした様子でこちらを視界に収めているだけの土方の様子はいつに無い程に弱々しい。
 まるで、息絶える寸前の動物を見ている様な気がして、銀時は土方の横に片膝を付いて座ると、力無く下がった肩に触れた。大丈夫か、と問いながら、眠りそうな子供を起こす時の様に軽く揺する。
 「って、何かこの間よか悪そうじゃねぇ…?」
 日頃は触れたら切れそうとすら思える怜悧な面相は、命の灯火の消える寸前の力無い生き物の様に弱々しく顰められている。
 「オイ、本当に大丈夫かお前、」
 人形か何かの様に揺すられる侭に揺れていた腕が、やがてのろのろと持ち上がると銀時の胸ぐらをぐいと掴んだ。最後の力を振り絞る様な、加減の無い膂力で掴まれた着物にぐしゃりと深い皺が刻まれる。
 次の瞬間には、ぐらりと傾いだ土方の体重に押される様にして銀時は畳の上へと仰向けに転がった。土方もその胸元に顔を埋める様にして一緒になって倒れ込んで来る。
 「、」
 痛ぇ、とか、重ぇ、とか、浮かびかかった抗議ごと息を呑む。白い着流しをぐしゃぐしゃになるまで掴んで、銀時の胸の上で息を荒くしているのが、自分の知る筈の土方十四郎と言う男である事に寸時困惑を憶える。
 その行動が、銀時の着衣や皮膚から体臭を嗅ぎ取ろうとしている故なのだと、漸く追いついた事実にようよう入りかかる力を抜けば、がくがくと小刻みに震えている手指から症状の重さを窺い知る事が出来た気がした。
 黒髪の頭を小さく揺らして、はぁはぁと背を大きく上下させながら縋り付く手に、熱い息遣いに──異常な光景に訳が解らない侭に喉を鳴らすと、銀時は胸の上の黒髪にそっと手を触れさせた。
 「……どう?」
 訊けば、即座にかぶりが振られた。足りてねェ、と苦しげに掠れた声音が耳朶を打つ。
 前回は治りかけとは言え傷があって、血液に近くより濃い臭気があったから効いたのかも知れない。然しあれから何日も経って傷なんてもう痕ですら残ってはいない。
 「じゃあ、どうする?どうすりゃ良い?」
 銀時は問いながら上体を起こした。その膝を跨ぐ様に腰を落とした土方はまだ、銀時の着流しを震える両手で掴んだ侭で俯いて呼気を弾ませている。
 卓を見やるが、食器は箸だけで刃物の類は見当たらない。爪楊枝が備え付けてあるから、あれで指でも突いて血を出せば良いのか。それとも刀を借りてさくっと切り口を作るべきか。
 「ここ、を」
 どうしたものか、と考えていた銀時の耳にそんな声が届く。漸く明瞭になった言葉に促されて視線を向ければ、土方は自らの右袖を捲り上げて己の皮膚を示してみせた。
 右の二の腕。薄い皮膚の下にしなやかな筋肉を蓄えた、色の薄く硬質な膚のその上。そこに滲む様に浮き出た薄く紅い痣の様なものは、まるで入れ墨か何かの様に異質な程に際立って見えた。
 「少しで良いから、舐めてみて、くれ」
 「へ」
 「気色悪ィかも知れねぇが、たのむ、」
 思わずこぼれた間の抜けた一音に、重ねて希う様な調子の声。土方は荒い呼吸の下でそう懇願すると頭でも下げる様に再び深く俯いて仕舞う。
 (これって、)
 言うまでもなく、薬液の注入箇所だろうそこに傷らしきものはもう無く、代わりの様にその痣様のものは花開いていた。一見すると内出血か何かの様だが、入れ墨の様に綺麗な輪郭を以て皮膚の上へと浮かび出ている。花の形と言えば確かに花の様だ。薄い紅色一色で、皮膚の上に無遠慮に描かれた模様をそう表するのなら、だが。
 「…、」
 言ったきり俯いた土方の姿は、裁決を待つ罪人か何かの様だった。犬猿の仲の男を前に己がどれだけ無茶な願いを口にしているのかは解っているのか、それ以上言い募りもせずにただ苦しげな呼吸を繰り返すばかりでいる。
 (くそ、)
 土方の口にした様な、気色が悪い、とかではなく、単純に注文に困惑しただけだ。怖じ気づいている訳でも無いし、指を切って血をくれ、と言われるよりはハードルは全然低い筈だ。そう一つ頷いて肚を決めると、銀時は土方の腕を手に取って背を屈めた。
 腕だけでも解る体温の熱さに少し驚きつつも、色白の皮膚に咲いた大輪の花へと顔を近づける。
 ちら、とそこで一旦視線を上へと持ち上げると、俯いた土方の長い前髪の隙間から、今にも泣きそうに濡れた眼が僅かに見えた気がした。
 いつになく近い距離にか、煙草の香りが鼻をつく。汗ばんでいるでも無く、滑らかな手応えを触れた指先に返して来る膚の上へと銀時は軽く唇を押し当ててみた。その感触にか僅かに震える腕を捉えて、舌を伸ばす。
 「──〜ッ!」
 途端、土方が上体を仰け反らせた。電流でも走った様なその反応に少し驚きつつも、「効いてる?」と問えば、土方は背を反らせてぎゅっと目と口とを固く瞑った侭、こくこくと何度も頷く。
 「っ、っ、…!」
 条件付けは、血液や体液を含む、坂田銀時を構成する物質。その実感を間近で改めて得て仕舞った気がした銀時が、花の様な痕に舌をぞろりと這わせると、土方は声にならないくぐもった音を喉奥で鳴らし、幾度か身体を跳ねさせた。
 苦しそうにも見えるが大丈夫なのだろうか、と銀時が唇を離すと、背を反らせた侭の土方は目を思い切り瞑ってはぁと熱い吐息をこぼした。それは苦しげな様子であると言うのに、どこか恍惚とした嘆息の様だった。
 それから、ぐにゃりと骨でも抜けた様に前向きに倒れ込むと、土方は再び銀時を巻き添えにして畳の上へと倒れ込んだのだった。
 「……効いた?」
 その侭ぐったりと、重くなった身体を持て余す様に動かなくなった土方に、銀時が恐る恐るそう訊ねてみると、土方は眠る寸前の様な忘我の調子でぼんやりと、「……本当に効いた」とこぼした。
 「本当にって」
 「…ああいや、調べてたら、条件付けってのは直接摂取の他に、この痣みてェなもんからも効果が出る様だって事に行き当たったんでな、試す価値はあるかと思って」
 試したら想像以上に効いたらしい、と続けながら、土方はのろのろと身を起こすと、銀時の上からごく自然な動作で離れた。襟元を正す様な素振りをしながら席へと戻るその様子から、どうやら発作はこれで押さえられたらしい、と判断した銀時も畳の上から起き上がった。
 「何だ。体液飲まないと駄目みてーな流れだったから、血ィ出さなきゃならねェかなとか、飲尿とかキッツい話になったらどうしようかとか考えてたんだよなー実は。それが、痣舐めるってだけなら余程楽だし良かったわ」
 「そこで直ぐ下品な発想に行くのかよ」
 銀時の、安堵から思わず出た軽口に、土方は顔を顰めながらも笑って返すと、瓶ビールを手に取って銀時にグラスを返す様に促した。礼と言う事なのか、酌をしてくれると言う事だろう。受けて銀時は伏せられていたグラスを持って差し出す。
 「まぁ、手間をかけた事に代わりはねェからな。用が無ェんなら礼と思ってゆっくりして行ってくれ。俺ァあと少ししたら帰るが」
 「そ?じゃお言葉に甘えさして貰うとすらァ」
 なみなみと注がれたグラスに口を付けながら笑う銀時に、土方も安堵した様に肩の力を緩めた。彼は手のつけられた気配の無い猪口を取り上げ、軽く乾杯の仕草をすると一息に酒を煽る。反った喉が旨そうに上下するのに、先頃までの様子からはかけ離れていると思って、銀時は密かに胸を撫で下ろすのだった。







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