Mellow / 9



 傷口そのものはあれから三日が経過して、再生した皮膚の下へと消えて仕舞った。幾らまじまじと見つめてみた所で、小さな針穴程度の大きさしか無かった疵は、塗りたくられた無菌ゲルに因る円滑な自己治癒の助けもあって綺麗に完治していた。
 然し問題なのは傷口ではなく、傷のあった場所を中心に薄ら紅くなった皮膚の方だった。ゲルを剥がす前でもそれなり見えていたそれは、こうしてゲルを剥がしてみるとよりはっきりと膚の上にその存在を主張している。
 老医師は、痣が消えるまではゲルを落とすなと言って寄越したが、遺憾な事にも既に『条件付け』の症状が出て仕舞っている以上は、この痣の様なものが消える事も無いのだろう。となると、傷も治っているのだし、着替えるのにも邪魔なゲルを剥がさないでいる理由も無い。
 「……」
 鏡をじっと覗き込む。洗ったばかりでぽたぽたと水を滴らせている髪を後ろに追いやって仕舞えば、仏頂面の己の顔がより明瞭にそこに映し出された。その顰め面の視線の先にあるのは、赤子の握り拳程度の大きさの、痣に見える痕。花の形と表されるらしいそれは、単なる痣です、と言うには無理のある形と存在感とを以て土方の右腕にくっきりと刻まれていた。
 (こりゃやっぱり目立つな。風呂はこの侭個人風呂を使った方が良さそうだ)
 薄ら紅くなった皮膚を幾度か撫でると、土方は限りなく重たい溜息を吐きながら、湯船へ疲れた身をどっぷりと沈めた。
 真選組では風呂は基本、屯所にある共同の大浴場を使う事になっている。だが、深夜番や残業などで時間外になった時や、軽い感染症の疑いや負傷のある場合、そしてそれらに加えて幹部の人間は小さな個人用の風呂を使っても良いと言う決まりがある。
 就業時間の定まらない事の多い土方は元からこの個人風呂を使う事が多かった為、今後暫く大浴場を使わない期間が続いても別段不審には思われまい。何しろこの、腕に浮かんだ痣様のものはそれなりに目立っているのだ。大浴場でわざわざ多くの人間に見咎められるのは宜しく無いだろう。
 個人風呂はその名の通りの一人用の風呂で、真選組屯所になる前の元々の武家屋敷にあったものを改修して使っているものだ。大浴場の様な広さは無いが、手足ぐらいは伸ばして入れる浴槽は檜造りで居心地が良い。湯の温度の調整も好きに出来るし、元よりこちらの方が土方の好みではあったから丁度良いと言えば丁度良い。
 唯一の難点は、個人風呂を使った場合は使った人間が後片付けと掃除とをしなければならないと言う点ぐらいのものか。
 湯の中を見下ろせば、透明な湯にゆらゆらと薄い紅色の花が揺れているのが見えたので、何となく手で隠す様にして土方は自らの視界からそれを遮った。傷でも何でも無いのに、何かの印の様に残されたそれは酷く忌々しい。それこそ奴隷に捺された焼き印めいて見える。まあ、誰が見ても『そう』と解る様にすると言った目的もあったのだろうが。
 (……本当に、『それ』が無いと生きれねェ、なんて事があるのか…?)
 撃たれた注射銃。掠めた他者の指。血や肉と言った個人を形成する異物。条件付け。発作。
 思い起こすと頭に血が上った気がして、湯船にばしゃりと顔を付けて土方は喉奥で呻いた。ぽこん、と溜息の代わりに気泡が浮かんで弾ける。
 発作の起きた時は、とにかく体調不良としか言い様のない状態に陥っていた。思考は短絡的になって行くし理性も働かない。そして目の前に差し出された餌──と言うのか何なのか、『それ』から意識が逸らせなくなって、あとは──……、記憶にすら曖昧だ。
 ただ『それ』を得ようと言う強い一念があった事だけは、何となく解る。だがそんな状態は『それ』を得た途端にふつりと途切れて、気付けばまるで憑き物でも落ちた様に元通りになっていた。
 その状況だけで、条件付けとやらの効果が確かなものである事は、残念ながら疑い様の無い事実であると言わざるを得ないのだが、それこそが土方に際限のない溜息をつかせている最大の原因でもある。
 (発作みてェに体調不良を起こすってだけならまだしも、餌を前にしたら理性まで飛ぶって、何だそりゃ…)
 どうしようもない、と呻いて花の様な痣をぐっと掌で押し潰す。そんな事をした所で無意味だとは解っていても、腕が鈍く痛むまで力を込めて、土方は浴槽の縁に側頭部を預けて舌を打った。
 まるで犬だ。辛抱の効かぬ駄犬。条件付け(餌)を与えられるまで、その苦悶に抗う事すら許さないとは、これを作った者らの醜悪な商売が透けて見える様だ。
 しかも、よりにも因って弱味など握られたくない五指筆頭に入る様な男に、そんな己を委ねなければならないと言うのは堪らない話だ。
 実際、どの程度の頻度で『条件付け』とやらが必要とされるのかはまだ解らないが、その都度に坂田銀時の前に無様を晒さなければならない事実は単純に業腹であったし、己の不甲斐なさや情けなさを思い知らされると言う意味でも実に腹立たしい事としか言い様が無い。
 (取り敢えずは、件の薬物とやらをこっちでも調べ直す所からだな)
 医師の診断や見立てを今更疑う訳では無いが、より詳しく調べる事で、効能を除去する方法や紛らわす方法も見つかるかも知れない。
 ぐだぐだとぼやいてみた所で、なって仕舞ったものは仕方がない。何とかするしかない。
 ぷは、と水面から持ち上げた頭を軽く振って一息。握りしめ続けて爪の痕の残った皮膚を隠す様にしながら、土方は今度は鏡からも目を逸らして風呂から上がった。
 
 *
 
 取り調べは順調に進みはしたが、大した成果は出なかった。と言うのもあの現場で取り押さえる事が叶ったのは僅か少数で、それも組織の末端も末端のチンピラ同然の者ばかりだったからである。捨て石、と言う言葉に代えても問題あるまい。
 喧嘩の応援をと呼び出されて駆けつけただけで、詳細は知らない。
 全員がまるで判でも捺した様にそう言った内容の供述をし、誰もが司法取引に応じる気配も無かった。と言うより取引になる様な重要情報を持っている者すらいなかったと言った方が正しい。
 いなかった、ではなく、残らなかった、と言うべきかも知れない。何しろ、土方への襲撃の詳細を、恐らくは知っていた者らは皆骸となって仕舞ったからだ。
 土方は偶々見つけた手配者を追いかけ、追い詰めた。だが、それを防ぐべく手配者の恋人が彼の親へと応援を頼んだ事で事態は一変。逆に集められた手勢に因って土方の方が追い詰められ、偶々近くを歩いていた坂田銀時に助けられる形で一旦地下の暗渠へと転進。
 襲撃にも余り向かない状況だと言うのに果敢にも放たれた追っ手たちは、その目標が真選組副長であると言う事を知っていた筈だ。『ただの喧嘩』如きで水路の奥まで追って来るとは思えない。
 だからこそ葬るより仕方がなかった。あの暗闇の状況で、標的を憎き真選組副長と定めている様な連中を生かして捕らえるのは難しいと言わざるを得ない。
 そして、外で待ち伏せをしていた連中の幾人かが、今回捕らえられた者の全てである。彼ら曰くの供述は前述の通り。叩けばそれなりに埃の出るチンピラばかりであったが、軽犯罪を幾ら積み上げて拘留期限を引き延ばした所で成果は出ないだろうと、土方含めた捜査に携わった人間の意見も一致した。
 取り敢えずは違法な刀や武器の不法所持でブタ箱に送り込む手筈になってはいるが、ああ言った手合いはどうせまた犯罪を犯す側に戻るのが常である。捜査に成果無し、逮捕に意味無し。全く以て張り合いの無い結果となった。
 肝心の、土方の追っていた手配者の男も結果的に取り逃がす事となって仕舞った。女の方も尋問がされたが、こちらもまた大した証言は出なかった。何かあったら親に電話してくれと頼まれただけで、自分は何も知らないの一点張りである。それ以上は叩きようもないので、こちらはもう即日釈放されている。そもそも証言者としての扱いだった為、逮捕すらされていないので釈放とも言わないのだが。
 ともあれ、一度逃げ果せた手配者は今度は慎重になっている事だろう。また一応女の動向は部下に伺わせているが、流石に同じ所に現れる程馬鹿ではあるまい。
 否、それどころか既に親に因って何処か安全な場所に匿われているか、江戸から連れ出されるかしていてもおかしくない。
 手配者を追ったのが無駄で、そこに端を発して土方自身が厄介極まりない状況下に置かれて仕舞った以上、悠長に手配者をまた追いに戻っている訳にも行かなくなった。形式上、土方が指揮を続けているが、捜査が振り出しに戻ったも同然の現状なので、今は現場判断に任せて部下たちに各自捜査活動を続けて貰っている形だ。
 それに加えて現場でへまをやらかした責任もあって、土方はこれ幸いと自主謹慎を願い出て、独自に薬物の調査を続ける事にした。公私混同の様だが、稀少な筈の件の薬物の入手ルートが判明すれば、そこから芋蔓式に組織に行き当たる可能性も高いと言う目算もあって、土方の地道な調査を不審に思う者はいなかった。
 命じられて資料を色々と掻き集めて来た山崎も、よもや土方が薬物の効能に現在進行形で悩まされているとは思いも因らない事だったに違いない。自主謹慎で暇だから、出来る捜査活動をしているのだろうとしか思われずに居た。大した進捗が無くとも、気にする者も居なかった。
 つまりは、『条件付け』を欲する発作さえ起きなければ、土方の体調も様子も、常と全く変わりが無かったのである。
 
 故に、突如として顕れた『それ』の兆候を再び感じたのは遅く、土方は躊躇いを憶える間も余裕も無く、電話を手に取った。
 然程間を置かず取られた電話の相手へと、縋る様に告げる。
 「どうやら、来ちまったらしい。いきなりで悪ィが、頼む」







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