Mellow / 8



 神妙と言うよりは消沈した様子で目の前に座る土方の前へと、湯飲みを置く。何も無いよりは言葉が吐き出し易くなるかも知れないと思っての、一応は銀時なりの気遣いであったが、中身は朝湧かして薬缶に残っていた水道水である。
 だが、透明なそれに土方はちらりとも視線を向けようとはせず──水が置かれた事にすら気付いていないのかも知れない──脱力に近い様子で俯いた侭、膝の上に置いた拳を時折開きかけては閉じてを繰り返しているばかりだ。
 誰にも聞かれない様な所は無いか、と問われ、少し考えてから銀時が提案したのはここ、自分の住処であった。スナックの二階で、来客などは階下の大家に因る家賃の取り立て以外には殆ど無い。誰にも聞かれず邪魔も入らないと言う点では申し分無いだろう。
 他にも密談に向いた店や宿に心当たりはあったのだが、金を払う必要があると言う前提条件が少々面倒臭かった。その場合だと、相談を、と持ちかけた土方が金を払うべきなのは当然になるが、金を使わせて仕舞えば相談とやらを断りづらくなる。
 それに何より、土方の身形が血腥い黒い警察の制服であった事が問題だった。真っ昼間の料亭やら茶屋に入って良い格好とは到底言えない。
 ともあれ、そうして連れて来た銀時の家である。来客用の長椅子に腰を下ろして数分、土方は何やら葛藤する様な風情で延々と沈黙を保っていた。
 相当に口も気分も重そうなので、銀時も取り敢えず無理に天の岩戸に手をかけるのは止めて、水を供したきり後は黙って、土方が自主的に口を開くのを待つ事にしたのであった。
 相談とは言ったが、その前に彼は『心当たり』と口にした。詰まる所それは。
 (こいつが、その…、何つぅか、突然アレがアレしてあーなったアレな感じの原因、とかそう言う話だよな?)
 靄のフィルターを掛けて曖昧にしたい記憶に横目で触れながら、銀時は胸中でむにゃむにゃと明瞭ではない思考で呻いた。何と言うか、直視して思い起こすには余りに刺激的な──と言うよりは衝撃的な光景だったのだ。
 指に触れた柔らかな舌の、うねる様な感触。触れた口中の熱さ。普段無表情で煙草をくわえている筈の唇が夢中で吸い付いていた、己の指。
 (……やべ)
 ぶんぶんと頭を左右に振って、銀時は触れれば直ぐに生々しく再生された記憶を再び靄の中へと追いやろうとしたが、一度意識すると逆に記憶はぐるぐるとループ再生を始めて仕舞う。
 (なんか目もぼーっとしてたし、とてもじゃねーけどいつもの、目つきの悪さ一つで人殺してそうな雰囲気と比べもんにならねぇ事になってたし、何つぅの、つまり──)
 総合して出そうになる、件の光景への感想を押しやろうとするが矢張り上手く行かない。記憶にモザイクのフィルターでも掛けようとするが、それだとより明確に『そう』としか感じられなくなって、銀時は複雑に歪みそうになった口元を押さえて俯いた。
 (〜………エロかった、としか言い様がねーわあんなん!白ヌキしてもモザイク掛けてもアウトって駄目だろ!つーか待てまて、そんならいっそ普通に思い出した方がなんぼもマシだろうが落ち着け俺!)
 自らの席の前に置いた水を一気飲みすると、銀時は出来るだけ正面に座る土方の方を見ない様にしながら額を揉んだ。余りに意外で、仰天する様なものを見て仕舞った所為で、少しばかり判断力とか現実感とか諸々が馬鹿になっているに違いない。言い聞かせて小さく息を吐く。
 「……実は、昨晩の怪我で厄介な事になってる」
 「っえ、」
 平常心、と銀時が三度胸中で唱えた丁度その時、ずっと俯いた侭でいた土方がぽつりと呟く様な言葉を発した。それまでの思考が思考だったもので、少々間抜けな一音で思わず訊き返す。
 「…〜だから、昨日のあの、怪我と言うか、で薬物らしきものを盛られて」
 負傷、と言うのが余程に癪なのか、土方は膝の上で握った拳をぐっと強く握りしめて口早にそう言うと、俯かせていた頭をほんの少しだけ持ち上げた。大層顰められた眉の下の目が、瞠られた銀時のそれと出会う。
 (っ、)
 逃げそうになる眼を何とかその場にとどめて、銀時は土方の乾いた唇の紡ぐ言葉を半ば呆然と──或いはただ黙って聞いた。
 信頼出来る医者の診断であると言う事から始まり、奴隷の身に『条件付け』と呼ばれる習慣を与えると言う、大層非人道で厄介な効能の話を。
 そしてそれこそが土方の身に起きている全てであって、先頃の奇妙な行動に対する理由の説明でもあった。
 「…………それで、俺の血っつぅ訳?」
 条件付けを持たせると言うその薬物だか薬液だかの入ったアンプルは、土方に投与される寸前にそれを止めようと悪足掻きをした銀時の指を確かに掠めた。指を見下ろせば擦り傷程度の小さな疵があり、それは確かにその時に生じたものである事は間違いがない。
 土方が、己の身に『条件付け』としてそれが働いて仕舞ったのだろうと結論づけているらしいとは、ここまで来たらわざわざ事細かに説明されなくても解る。恐る恐る問いた銀時に、然し彼は「いや」と小さく首を左右に振った。
 「多分だが、血、と限定されている訳じゃ無いんだと思う。実際てめぇのその疵、血なんざもう出てねぇだろ」
 「……まぁ確かに」
 言って指さされた、人差し指。小さな擦り傷は一日ですっかりとふさがって仕舞っていて、まだ薄紅い疵が残っているばかりのそこには──土方が夢中で舐め吸い付いていたそこには血は殆ど滲んではいない。
 「疵、って事でそこから一番匂いがしただけで、血液だけに限定されたもの訳じゃねェのは明らかだ。何しろ疵は舐、……触れはしたが、血は吸っちゃいねェ」
 先頃の、銀時から見れば色々と問題のあった気のするあの光景は、当然だが土方にとっても余り快い記憶では無いらしい。彼は一度わざとらしく咳払いをするとそう断じた。
 「匂いって」
 「だから、恐らくだが、てめぇの──坂田銀時の身に纏わるものなら、何でも『条件付け』として効くんだと思う。体臭とか、汗とか、…勿論、血もな」
 土方の不本意そうな表情に促される様にして見下ろした指。血の気配は無いが、そこから僅かの血の臭気を嗅ぎ取って、彼は我を忘れる程にそれを求めたと言う事か。
 納得は行ったが現実問題としてそれは──もとい、これはどうなのか。銀時は何となく左手の人差し指を拳の中に握り締めて引っ込めた。別に土方が理性無く飢えたゾンビの様に肉を食い千切ると思った訳では無いが。
 「……実際、不本意ではあるがてめぇの近くに居るだけで多少は効いてるのかも知れねぇ。さっきまでは酷い風邪みてェな状態だったのに、今じゃこの通り何とも無ぇ訳だしな」
 「………」
 銀時の体臭だか、それとも傷口から血の匂いを存分に摂取したからなのかは定かではないが、土方の様子は彼の言う通り、少なくとも先頃のあの、熱に浮かされ理性を喪失している風では無い。
 が、然しその医師の診断とやらが正しいのであれば、あの『発作』めいた事は一時的に解消されただけで、また起きると言う事になる。そしてその都度に銀時の血だか何だかが必要になると言う事でもある。
 「じゃ、こんな所で腐ってねぇで、早くその医者の所に行った方が」
 「駄目だ。あんな様ァ誰にも見せる訳には行かねぇ。だから医者にも真選組(うち)の連中にも知られるつもりはねェよ。てめぇも腹ん中に仕舞っといてくれ」
 常識的に考えれば真っ当だろう銀時の意見は、即座に強い口調で遮られた。負傷も不調も仲間には一切悟られたく無いと言う、土方にとっての意地であり強がりに、銀時は諭す言葉や反論の類を諦めた。とりつく島もない、と言う拒絶の意思が余りに強い。それでも説き伏せようとすれば喧嘩にでもなりそうだ。
 代わりに吐いたのは溜息がひとつ。同情の気配は取り敢えず込めずに済んだ。
 「難儀過ぎじゃねぇ…?」
 「それについては全くの同感だが、こうなっちまった以上は不本意だろうが難儀だろうが何だろうが仕方がねぇ」
 土方の、いっそ楽観的な事もある切り替えの早さは、こんな状況であってもその性質を損なってはいないらしい。俯いて散々考え込んでいた時間で妙に肚を座らせて仕舞ったのか、彼はもう既に至っていたのだろう提案を口にした。
 「頼む、この厄介な症状が治るまで、面倒を掛けるが協力して欲しい」
 必要なら金も払う、と躊躇いもなく続ける土方に、銀時の方が逆に面食らった。何しろ自分は素性の怪しい元攘夷浪士として多分に疑われている身なのだ。幾ら腐れ縁や折り合いの悪さ故の気安さの様なものがあれど、土方が『頼む』とまで言うとは思ってもいなかった。
 (いや、問題は寧ろそこより──、)
 思い至った所で銀時は軽く唇を噛んだ。ばつの悪さを恐れる子供の様に、出ない言葉を飲み込む。
 「奴隷用だろうが何だろうが、そう言う薬物があるならそれを解く手段や別の薬物はきっとある筈だ。そうでもないと使う側が安心して使えねェからな。毒と薬ってのは常にワンセットで作られるもんだ。俺はそれを探してみようと思う。だから、その間だけで構わねぇ」
 膝の上の両手が組み合わされて固く握りしめられる。土方は真っ直ぐに銀時の目を見ている。不本意だ何だと口にするその通りなのか、希う目の下で唇はきつく引き結ばれていた。
 「協力、ってもな、具体的に何すりゃ良いの。採血しとくとか?」
 乾いた唇を湿らせる水がもう無い事に痛烈な後悔を憶えつつ、銀時は殊更に軽い調子で訊いた。これが土方の内罰的な性質につけ込む卑怯な態度であるとは、解っている。
 何しろこれは、銀時の負い目であって責だからだ。
 右の、二の腕。あの時、銀時は土方の白いシャツに包まれたそれを──そこに刺さったものを見て眩暈にも似た感覚を憶えた。
 上着を脱げと言ったのは、本当にずぶ濡れの土方が生臭かったからと言う訳ではなく、ちょっとした嫌がらせ程度の事からだった。渦中に飛び込む事を選んだのは紛れもなく銀時自身だが、寒い中水に着物の裾を浸して歩かされたと言う状況に対する意趣返しめいた事を何かしてみたかっただけだ。
 だが、その上着が無かった事で、土方の腕に薬液が刺さった。真選組の隊服、特に上着はある程度の防刃可能な素材で出来ているとは、今までに幾度も見て知れている。
 そう。上着を脱がずにいれば、針ぐらいなら防げた筈だったのだ。
 だからこれは偶然ではなく必然の結果だ。銀時の軽口が、土方に取り返しのつかない負傷を与えたと、断じても良い筈の。
 だが土方は恐らく、そう、だとは思いもしていないのだろう。負傷は己の責だと断じている。故に今まで一言も銀時の態度を咎める様な事はなかった。それどころか逆に、銀時が協力的な言動を見せた事で少し安堵した風さえあった。
 「俺は蚊じゃねぇんだ、流石にそれはハードルが高ェ。だから、取り敢えずだが、俺が呼んだら会ってくれるだけで良い。と思う。発作がどの程度のスパンで来るのか解らねェ以上、暫くは確実に連絡のつく所に居て貰う事になるんだが…」
 発作の度に試験管か何かに潜ませた銀時の血を舐めると言う土方の姿、と言う浮かびかけた想像は、蚊、の一言で綺麗に雲散霧消した。血はすぐ酸化し凝固するから持ち運びにも保管にも苦労しそうだし、確かにそんなものを舐めたり飲んだりする絵面も含めて色々な意味でハードルは高そうだな、と言うどこかずれた感想を残しながら、銀時は「解った」と頷いた。
 「どうせ仕事もねェし暇っちゃあ暇な身だ。連絡を受けて即参上、ぐらいやってやるよ。もし長時間電話に出れねェ様な事情が出来たら、こっちから予め連絡入れる、それで良いんだろ?」
 異を挟まれぬ内にとでも言う様な銀時の早口の返答に、土方は、頼んでおきながらもこうもすんなり話が通るとは思っていなかったのか、拍子抜けした様子で瞬きを何度かするとおずおずと口を開いた。
 「………良い、のか」
 「良いも何も、言い出しっぺはおめーの方だろ。わざわざ断る理由もねェし、それに、」
 「?」
 「…や。何でもねぇ。で、探してみるってもアテは?あんのか?」
 「あぁ、まずは昨晩逮捕した連中から、件の薬物の入手ルートを当たる。芋づる式に手配中の馬鹿息子の親の組織にも手入れが出来るかも知れねェしな」
 銀時の取り消した言葉の続きを気にする風でもなく──或いは協力を明確に得られた事で安心していたのかも知れない──、警察らしい表情を取り戻した土方は、幾つかの捜査プランを所々ぼかしながらも並べた。
 とは言え、警察の仕事となると流石に銀時の関われる領域では無い。取り敢えずは薬物の問題については土方自身に任せておいて、銀時は必要に応じて呼び出されて行けば良いだけだ。
 「…と言う訳で、暫く迷惑を掛けるが頼む。家を出辛い事で生じた費用や負債はきちんと払う」
 話がまとまったところで土方に、頭こそ下げはしなかったものの、軽く目を伏せ神妙な調子でそう言われて、銀時はひらひらと手を振る。
 「いらねぇよそんなもん」
 「だが、」
 「てめーが安心してぇってんなら受け取るが、逆に不安になるんじゃねぇの、今の状況だと」
 「…………」
 金払いが生じると、ただの『頼み事』は少なからず義務感を伴った『仕事』になる。だが、そんな『仕事』に対して、この坂田銀時と言う人間が土方の思う様な信頼には値するのか、となれば話は別だ。
 金を幾ら積んでも信頼を買う事は出来ない。金で縛った関係である分だけ、金で裏切るかも知れないと言う疑惑だってついて回るだろう。
 それならば人として信じた方が余程楽な筈だ。土方にとっても、銀時にとっても。
 「…………解った。改めて宜しく頼む」
 「おう」
 然し、矢張り完全なる信頼には程遠いのか、長い黙考の末に土方は諦めた様に、然し真摯にそう言い、銀時も応じて頷いた。
 (信頼一つで返そうなんざ、虫が良い話なのは解ってら)
 本来ならば土方が『頼む』などと口にしなければならない理由はなかった。然しその事実をその侭指摘して、罪悪感を背負って見せる事で土方に協力していると思われるのは嫌だった。
 仕方無いから、ではなく、筋を通す為だから、でもなく。無関係であったとしても貸せる手ぐらいあるのだと、そんな風に思って貰いたかったのかも知れない。
 然し結局は、嘘を吐く様な後ろめたさと罪悪感とを持て余しているのだから、世話がない。
 事を招いたのは、或いは事態をややこしくして仕舞ったのはてめぇの所為だと、いっそそう詰ってくれた方がまだマシだっただろうか。







  :