Mellow / 7



 目に付いた、古びた室外機に縋る様にして座り込む。座面にした部分は埃や砂で汚れているのか、じゃりじゃりとした感触が不快だったが、頓着していられる程に余裕はない。
 背後の、これもまた古びたビルの、塗装の剥がれかけた壁に背を預けて大きく息をつく。室外機も室内機もかなり昔から使われていない様で、壁の中に消えているチューブは穴が空いてぼろぼろだった。建物自体も殆ど使われていないのかも知れない。
 少なくとも、ひとけの感じられない事は今の土方にとっては幸いであった。座る場所が埃っぽかろうが、預けた背の下で卵の殻みたいになった塗装がぱきぱきと剥がれ落ちていようが、構うものではない。
 (少し休んで、マシになったら移動しよう。ならなかったら…、気は進まねぇが仕方ねぇ、山崎でも呼ぼう…)
 何で最初の連絡の時に言わないのだと、嫌味も苦情も文句もついた心配をされる事は請け合いだが、背に腹は代えられない。不調も負傷も出来るだけ堪えて仕舞う土方の性分は、多分に彼に言わせれば悪癖か馬鹿以外の何でも無いのだろうが。
 意地だろうか。それとも自信の過ぎた慢心からだろうか。弱味も、弱味に成り得そうなものも、出来るだけ誰にも知られたくはないと土方が思うのは、昔からの習いだ。あの頃ほどには、誰も信用に値しない、とまでは思わない様になって来たと言うのに。
 鼓動が早い。呼吸は熱を孕んで重い。酸素が足りないのか血流が早くて体温が高い。咳無し洟無し発疹無し。汗は殆どかいていないが、頭髪の根元にじわりと湿り気を感じる。冷や汗ではないし、吐き気も無く内臓に不調を感じている気もしない。だから、ただ発熱しているだけでそんなに酷い事にはなっていない。筈だ。
 そんな自己診断の最後の部分を三度咀嚼すると、土方はビルの狭間の隘路に他に誰の気配も無い事を再確認してからゆっくりと全身の力を抜いた。
 地面についた足が少し余る程度の高さ。腰を下ろしているものはそんなに大きな室外機では無いから、背中に寄りかかり過ぎると尻が落ちそうだ。
 まるで打ち棄てられた人形の様だと思いながら、土方は倦怠の強い腕に命じて刀を鞘ごと外すとすぐ横に立て掛けた。
 襲撃を受けた直後だと言うのに不用心とも思える行動だが、あの襲撃に後発隊が居ると言う事は無いだろうとは半ば確信出来ていた。何故か連中は手勢が揃っているから土方の制圧は容易であると考えていた様だったからだ。
 (でも、なきゃ端っから「武器を棄てて投降しろ」なんて言う筈がねェ。寧ろ、絶対優位を確信した警察(こっち)の言う台詞だろうがってんだよ)
 頭の悪そうな恫喝を寄越した浪士たちの顔を明瞭ではない記憶に描いて、その想像に向けて毒づきながら、スカーフをほどいて襟元を弛める。血腥い上着もいっそ脱いで仕舞いたいぐらいだったが、この倦怠感がもう少しマシになってくれなければそれも難しそうだ。錘でも乗せられている様に怠い両肩を意識して、溜息を吐きこぼす。
 (水浴びして風邪引いて熱出すとか、子供か)
 些細な苛立ちの矛先の行き着く所は結局は己自身であった。電線だか洗濯物の干し紐かは解らないが、隘路の間を交差する黒い線たちとその向こうの晴れ晴れとした青空を見上げて、土方は一頻り己に原因のありそうな部分と、昨晩の追いかけっこに至るまでの勘働きの良さとに向けて、後悔とも不平とも取れない愚痴を、最早正常に物事を考える事を放棄し始めていた脳内で吐き散らしては煮込んでを繰り返した。
 不毛で無駄としか言い様のない、そんなループが四周目に入り始めた頃になって漸く、これは結構な不調で、現状かなり宜しく無い状況にあるのではないか?と言うくろい不吉な考えがじわじわと鎌首を擡げ始める。
 (もう、いっそ少し眠っちまうか…?)
 山崎に電話でSOSを出して、「なんでアンタはそう痩せ我慢ばっかするんですか」と子供でも叱る様に枕元でぐちぐちと言われ続ける想像に比べれば、そちらの方が幾分マシなのでは無いだろうか。
 (いやいや、こんな路地裏で、体調不良で、寝ても治るかなんて解らねぇ状況で、て言うかそもそもこの状況での寝落ちは寧ろ気絶と言うべきなんじゃねぇのか……?)
 ああ、駄目だ。考えすらまとまらない。冷静ではないのは百も承知なのだが、より安易な結論へと消極的な思考を運びたくなっている。
 「………?」
 そんな中にふと、流れては溶ける無意味な思考の狭間に何か、墨の一滴でも落とされた様な明瞭な感覚が拡がった気がして、土方は壁面にぐたりと寄り掛けていた背を浮かせた。視線が自然と隘路の一端を向けば、そちらの方からこつこつと靴音が響いて来るのに気付く。
 「……」
 程なくして、建物の影と影との狭間を切り取る様にして現れた人影の存在には余り驚きは感じなかった。それもそうだ、この町の殆どはこの男の庭の様なものなのだから。通り道には余り適さない様なビルの狭間であれど、彼にとっては散歩道程度にしか過ぎないのだろう。
 土方に少し遅れて、男の方もその存在に気付いた。道の半分ほどを塞ぐ様にして室外機にぐたりと腰掛けた黒服の姿に、訝しむ様な表情を浮かべながらも足を止める事は無い。
 それにしても、幾ら彼の庭の様な場所だからと言って、二日も連続で、似た様な場面で遭遇しなければならないのか。それともこれは、てめぇの所為で風邪を引いた、と文句でも投げつけてやれば良いと言う事なのか。
 控えめに言って、楽しいとは言えそうもない遭遇に目を眇めてみせる土方に、銀時は漸く足を止めた。とは言えそれは道を塞ぐ様棒きれの様に伸ばされている土方の両足のほんの僅か寸前での事だった。
 「何コレ、新手の検問か何か?」
 ブーツの爪先で土方の足を示す素振りをしながら言う男に、土方は筋立てて反論をする気力も湧かずに「検問に引っかかる心当たりでもあんのか」と一言だけの悪態を投げる。元攘夷志士の疑惑の噂される男にとってはそれなりに耳の痛い事だろう。
 然し、物憂げを通り越して気怠げな土方のそんな口調に何かを感じ取ったのか、銀時は悪態に反論する様な事もなく、気の抜けた様ないつもの面相に少しだけ険しい色を浮かべた。
 「…いやに萎れてんな。ひょっとしてお前、昨日の怪我が酷かったのか?」
 「んな訳ねぇだろ」
 果たして正しかったその想像通り、気遣わしげな態度で腰を少し屈める銀時から僅かだけ視線を逸らして、土方は馬鹿馬鹿しいと言わんばかりの調子で吐き捨てた。
 図星は図星なのかも知れないが、ただでさえ誰にも晒したくはない弱味を、こんな怪しい奴に晒す訳にはいかない。
 銀時は、本当に買い物の通り道として歩いて来たらしく、右手にコンビニのものと思しき小さなビニール袋を提げ、左手は袖の中へと引っ込めている。ぶらりと買い物帰り、としか言い様のないそんな彼の様子を見つめる土方だったが、何故か視線がそちらから離れない。
 何か、まるで意識を惹き付けてやまない何かがそこにあるとでも言う様に。
 「つーか、よくよく見りゃかなり血ィ被ってるし…、また襲撃でも受けたって所か?」
 呆れてるとも心配しているとも取れぬ調子でそう言うと、銀時は袖を抜いていた左手を出して土方の方へと、その手を伸ばした。
 「──、」
 その瞬間、堪らない芳醇な香りが鼻孔を通って土方の脳を刺した。その刺激は背筋を粟立てながら全身を忽ちに駆け巡る。
 鼓動が弾んで高鳴っていく。香った、見えた、その一点から目が離せない。
 「え、まさか負傷してるとかじゃねーよな?そんでこんな路地裏でぼけっとしてるとかそんな馬鹿な訳、」
 言葉が耳を素通りしていく。らしくもなく狼狽して見える顔も特徴的な銀髪も奇天烈な装束も元攘夷志士疑惑のある素性も、何もかもが、遠い。
 見つめるのは掌。否、指一本。人差し指に、遠目には普通見えないだろうと思える様な小さな、疵。薄く紅い線の様に残った、ちいさな、ちいさな疵。それだけがいやにはっきりと、見えていた。
 まるで好物を前にした犬の様に、滴りそうなほどの唾液が口中に溜まる。指の、疵の、小さなそこから、酷く芳醇で甘美で溶けそうな匂いが漂っているのに、目どころか土方の意識全てが釘付けになっていく。
 (あれが、欲しい、)
 まるで本能の様に脳がそう囁くのを、求めるのを、どこかで当たり前の様に理解し受容する。理性など空腹の動物の前では何の役も為さない。何の必要性も無い。だから、
 「おい?聞こえてるか?」
 手が自然と伸びて、顔の前で左右に振られる銀時の掌を捕まえた。きょとんとした顔と共に動きを止めようとしたそれを引き寄せると、土方は薄紅い傷口ごと指を口へと躊躇いなく含んだ。
 「?!」
 狼狽と驚きの気配。それで指が、傷口が離れていく事を拒否する様に、土方は銀時の人差し指に吸い付いた。舌で舐って吸い付いて、そこから湧き出す様な甘さを必死になって取り込もうとする。
 「ちょ、おい、?!」
 甘いと言うより甘さに似た芳香が鼻孔と口腔とに拡がるが、物足りない。疵を歯で甘噛みしてそこから更なる味わいを引き出すが、それでも何処か足りない、何かが遠い。
 (これ、をもっと得られば……、ん?これ??)
 ちゅう、と音を立てて目の前のそれに吸い付いた所で、土方は頭の中で脳が求めた『これ』についてを考察し始めた。
 芳醇で甘くて溶けそうな程に美味しい様に思えるが、腹は満たないから食物の様なものではない。それよりももっと必要だと──言うならば水や酸素の様に、もっと本能的に、恒常的に肉体の欲する様なものに近い気がする。
 『これ』は一体何だ?
 「………、」
 その疑問にぶち当たった瞬間、銀時の狼狽を通り越して真っ赤になった顔が、見上げた土方の視界に飛び込んで来た。
 「……………………」
 彼の見つめる先には土方自身の顔があって、その唇が赤ん坊の様に熱心に吸い付いているのは。
 「!!!!!」
 一気に頭に血が昇って、土方はがっちりと両手でホールドしていた銀時の掌を半ば振り払う勢いで放した。だが、どれだけ勢いよく放り出そうが、言葉が紡げずぱくぱくと無意味に上下するほかない己の口が、つい今まで彼のその人差し指に熱心にしゃぶり付いていたのだと、濡れた指が否応無しに突きつけて来ている。
 何故、とか、馬鹿な、とか、驚く事で現実から逃げようとする意識を無理矢理捕まえて、土方は己の今し方の行動とその意味とを追求した。否、頭を捻って考え込むまでも無かった。既に解っていた様な気のする解答は、懸命な土方の分析に即座に正しく合点を与えてくれたからだ。
 (あ、の時、か……!)
 銀時の伸ばした手。その指をかすめて土方の腕へと刺さった、厄介な薬液の入ったシリンダー。
 具に思い出した記憶に、土方は狭い室外機の上で膝を持ち上げ丸まって頭を抱えた。
 『条件付け』は薬液を含んだ傷口に、己以外の異物が触れる事で成立するのだと言う様な事を老医師は確か説明していた。そんな診断以来、無菌ゲルで塗りたくられた傷口に土方は全く触れていない。
 だからつまり。
 これは。『これ』が。
 「……あ、のぅ、?」
 「悪ィが、心当たりがある、かも知れねぇ」
 ぽかんとした様子で恐る恐る声を上げる銀時の問いを、形になるより先に遮る様にして言うと、土方は真っ赤になって仕舞った耳を隠す様にますます顔を膝頭に埋めた。
 今の一連の己の様子や動作を、改めて言葉にして説明などされたくないし問われたくも無かった。
 「…………少し、相談したい事がある」
 やがて、長い忘却への願望と認めたくない苦悩との無意味な作業の末に、土方はぽつりとそう切り出したのだった。







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