Mellow / 6



 何かがおかしい、と気付いたのは街に出て数十分も経たぬ内にだった。
 直ぐに戻るから供はいらないと言って出た巡回である。大概の場合土方のそう言った行動は、机仕事の煮詰まった時に取られる一種の気分転換でもあったので、止める者もわざわざ無理を言って追って来る者も居はしない。不機嫌そうに顔を顰めて、体に悪そうな煙を量産し続けるだけの機械にでもなった様な鬼の副長に好んで近づく者など、近藤か余程の命知らずぐらいのものだ。
 さて、そんな経緯で一人で街を歩いていた土方だったのだが、何かがどうにもおかしい気がしてならなかった。歩き始めて直ぐに道を二回も間違えて、赤信号を一回見誤った。それらは、ただの不注意と言う言葉で片付けて仕舞うにはどうにも違和感があって、土方は顰め面を形作った侭の胸中でその違和感を追求する事にした。
 何と言うか──、テンションが低いと言うか、虚脱感がある。疲労が嵩んでいる時の様に体の芯が怠くて、ちょっとした所作や言葉が億劫に思えた。更には、不注意の連続の通りに思考がどうにも散漫だった。
 総合すると、眠くて何にも集中出来ていない時に似ているが、脳の回転の悪さの割には意識は明瞭な侭で居る。寧ろいつもよりも冴え冴えとしていそうだと言うのに、体と思考とが今ひとつそれについて行けていない様だ。
 (昨晩、水に浸かって冷えたか…?)
 思い返すと原因はそのぐらいしか浮かびそうもない。川で追いかけっこの顛末を迎えて格闘し、暗渠の排水路を走り回った。当然びしょ濡れになったし寒かった。
 即ち、体を冷やした事で不覚にも熱が出たのではないかと、土方の出した結論はそんなものだった。
 食欲が無いと言った感じではないし、咳も洟もまだ出ていない。つまり体の抵抗と病とが今正に己の体内で合戦を始めた所なのかも知れない。
 (山崎や総悟に不摂生だの何だの言われんのが今から目に見えてんな…)
 舌を打つ代わりにそっと溜息をつくと、土方は巡回を早々に切り上げる事にした。積もった机仕事を前に、どうにも集中出来ていない気がしたから一旦切り替える為に外に出て来たのだが、もしも本当に体調不良だとしたら逆効果になりかねない。
 然し、熱でも出ているのかと意識した途端に病らしき症状は土方の体を蝕み始めた。怪我を、痛い、と認識すると痛みが増すのと同じ様なその現象にうんざりと息を吐けば、思いの外に己の体が熱を持っている事に気付かされる。
 足下をふらつかせる程ではないが、この侭でいれば何れはそうなる目算は高そうだった。何しろ熱を持った脳は手足を酷く不器用にさせるものだ。
 少し休もう、と思った土方は大通りを逸れた。少し裏の住宅街に入れば、防災用に空けられた土地が申し訳程度の公園の様になっている場所があった筈だと、記憶を辿りながら狭いビルの間の路地裏を進んで行く。
 公園(そこ)まで行けば腰を下ろせる程度のものはある。座って休んで、ついでに一服でもすれば少しはマシになるだろう。そう縋る様に思いながら、一歩毎に重量を増して行く気のする足を引き摺る様な心地で進めていた土方の足は、然し望み半ばで止められる事になった。
 昼間の、古びた住宅街。軒を連ねる町屋には幾つも空き家があって、正確に住民の数を把握する事の難しそうな一角。道は前後にのみ。ぽかりと空いた無人の空白を思わせるその地点に立ち入った途端、わらわらと前後の道を塞ぐ集団が現れた。
 「………」
 五人と五人。ぴったり十人。伏兵が居るかどうかは不明。
 そこまで半ば反射的に考えてから漸く、襲撃、と言う言葉が浮かんで来て、土方はくわえ煙草を上下に軽く揺らした。
 風貌は──まあよくある攘夷浪士の様な者ばかり。腰に得物をご大層に佩いているが、未だ抜いてはいない。武士道精神がどうとか言うタイプの浪士だろうか。
 「真選組副長、土方十四郎だな?」
 解っていて取り囲んだのだろうにご丁寧に訊いて来るが、特に気の利いた返し方が思いつきそうも無かったので黙っておく。まあ、本当に土方十四郎本人かを確認したいと言う訳ではなく、名乗りを聞いてそれを打ち砕くのが目的なのだろうが。
 襲撃される様な心当たりは…、数え切れないので思考停止。考えるだけ無駄だ。
 「悪い事は言わない、大人しく我らに従った方が身の為だぞ。さすれば無用な怪我もせずに済む」
 周囲に一般市民の姿無し。人質の類無し。
 「刀をこちらに投げ棄てろ。降伏すれば悪い様にはせぬ。だが、もしも悪足掻きをするつもりであれば腕の一本程度斬り落としても構わないと言われているのでな、容赦はせんぞ」
 口上が終わると、めいめい刀に手を掛け、威嚇の姿勢に入る。
 それを見て土方は刀を鞘ごと腰から抜いた。放る様に促す掌を見せて歩いて来る浪士のその薄汚い手には、到底自らの愛刀を委ねる気にはなれない。
 体調は未だ悪い。前後には敵が暫定十人。暫定十本の刃。熱がまた上がって来たのか思考がまとまるより先に流れて行きそうで、とにかく何かを考えるのが億劫で仕方がなかった。
 「さあ、早く棄てろ!」
 ──結論。斬って良し。
 「──」
 そう判断するが早いか、土方は瞬時の抜刀で、目前に居て掌を天へと向けている男の手首を切り落とした。くるんと回転した手首から先が地面へと転がり落ちるのとほぼ同時に上がる、濁った悲鳴。水道の様にこぼれ落ちる血。
 「き、貴様ぁ!」
 「話が違う、こんな、」
 「くそっ、やっちまえ!」
 動揺と怒りの気配に囲まれるより先に、土方の体は地を蹴っている。泡を食った様子で得物を構えたり動き出そうとしていた生き残り九人の二人が、刀を抜く事も侭ならぬ内の最初の交錯で倒れた。
 拡がる狼狽の気配を剣呑な眼差しで見据え、血を飛ばした刀で、斬りかかって来る連中を軽くいなすと、土方は返り血を浴びて火の消えた煙草を吐き捨てた。
 この酷い不調が長続きすれば危険やも知れないと言う危機感と、或いは単にこの怠さを抱えて戦うのが面倒だったり億劫だったり感じている本心とに背を押される様にして、土方は相手の素性や目的すら問おうとはせずにただ職責を全うする事にした。
 後はもう、殺戮と言って良いだろう様相だ。然し幸いにもそれを見咎める一般市民の姿は無いし、そもそも武器を構えた攘夷浪士に人権と言うものは基本的に無い。司法が整備されても、それが彼らと言う幕府の敵対者に適用される事は酷く少ないのだ。
 面倒だったから返り討ちにした、と言うのは余り褒められた話では無いのかも知れないが、真選組では多々ある事だ。何しろ、殺るか殺られるか、と言うお役目である。いちいち手加減をしたり捕らえていては命が幾つあっても足りない。
 時間にして数分と立たぬうち、昼間の市街には些かに似つかわしくない、腥い臭気と凄惨な色彩で彩られた世界がそこには描かれていた。その中心に立った土方は刀の血を上着の袖で拭って鞘へと収めると、熱を孕んで弾んだ呼気を漏らし溜息をついた。
 念の為に、生存者の居ない屍の群れを個別に見回してから、携帯電話を取り上げ短縮発信する。本来なら手で触れて生死を確認する所だが、とにかく怠くてそんな気も起きない。
 《副長?どうしたんです?》
 「今から言う場所、片付けとけ。十人──いや、十体だ」
 数コールで電話を取った山崎の声に簡潔にそうとだけ伝えると、メモを取る様な音に続いて呆れた様な溜息がひとつ返って来る。
 《一体何やらかしたんですか…》
 「白昼堂々、ひとけの無い場所で十人で囲んで来てんだ、襲撃か襲撃以外の何だってんだよ」
 《……解りました。処理係を寄越します。で、アンタは怪我とかは?》
 「この程度で怪我なんぞするか」
 不機嫌そうな──面倒なだけだったのだが──土方の声から、あれこれ問うよりも現場処理を優先させた方が良いと判断したらしい。あっさりと白旗を揚げる山崎。確かに、足下に累々と転がっているのは、少々どころかかなり刺激の強すぎる『街の風景』だ。真選組の風評を思えば早い所片付けるべきである。
 「じゃあ頼んだぞ。俺は現場を離れる」
 《え?》
 重たくなりそうな吐息を押し止めてそう言えば、山崎の口からは驚いた様な、不審さを抱いた様な一音が返る。その反応から、正直面倒だと思ったが適当に言い訳を作った方が良いだろうと思って、土方は熱い脳を庇う様に頭髪をぐしゃりと潰した。
 「……煙草切れてんだよ」
 あれこれと考えや言葉が浮かびかかるが、怠さを増して来た脳はそれを上手く言い訳と言う言葉の形に組み立ててはくれそうもない。結局、一番単純で一番嘘くさくもあるものを選ぶが、山崎は逆に自然な流れとしてそれを受け取ったらしい。あっさりと納得を寄越す。
 《ああ、》
 「って訳だ。じゃあな」
 ヤニ切れの土方十四郎の不機嫌さも扱いの面倒さもよく知る彼が、うんうんと頷くのが目に見える様だった。上手く誤魔化せた事に安堵しつつ土方は通話を切る。
 (取り敢えず、とっとと離れよう)
 携帯電話を懐に放り込んで、土方はその場を早足で離れた。風邪でも熱でも何でも良いが、こんな無様な為体を部下に見られる訳にはいかない。現場の片付けの間中それを隠し通すのは難しいだろうと判断しての嘘と行動だ。
 足下は、先頃までと違い覚束無く、油断すると忽ちにふらついて倒れそうになっている。当初の予定通りに空き地の公園へと向かう訳にはいかない。何しろ血腥い姿形だし、現場から近すぎる。
 (クソ、)
 舌を打つ口中は乾いて、まるで酷い熱が出た時の様な症状を呈している事は明白であった。この急激な体調の悪化には疑問も不満も湧くが、だからと言って立ち止まる訳にもいかない。
 ひとけの無い昼間の街並に感謝しながらも、土方は来た途を戻りながら万一を恐れて暗い隘路へと立ち入った。少し休むにしても限界が来て倒れるにしても、誰の目にもつかない場所が望ましい。
 冴え続けている意識は何かの違和感を確かに拾い取ってはいた筈なのだが、熱に茹だり始めた脳も全てが億劫で怠い肉体も、全く言う事を聞いてくれそうも無い。
 ただ、本能だけが縋る様にして、足が崩れる事を許さずにただただ前へと進めて行こうとしているのに従い続けていた。







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