Mellow / 13 風呂上がりの濡れた頭をタオルで拭きながら冷蔵庫を開く。殆ど空の事が多い庫内は見回すまでもなく今日も閑散としており、その中で缶ビールの貴重な在庫が一本だけ、主か何かの様に佇んでいた。 これを飲んで仕舞えばまた新しいものを買って来なければならなくなる。その億劫さや出費を思えば頭も痛くなるが、大した逡巡もなく銀時の手はその最後の缶ビールを掴み取った。藁にも縋りたい心地でアルコールに頼りでもしなければ到底落ち着いて床になどつけそうも無い。 行儀悪く足で冷蔵庫の扉を閉めると、戸棚から開封済みのチーズ鱈の袋を取り出して居間へと向かう。乾物特有の強い匂いであっても、今は食欲が全くそそられそうもないのは承知の上であったが、空腹の胃にアルコールだけを流し込むと、後で後悔するのは己の方なのだ。 ビールの缶を開けて風呂で熱くなった全身を冷ます様に大きく一口を煽る。それからソファにどっかりと音を立てて座り込めば、思いの外勢いがついて床が抗議の音を立てた。階下の大家に明日顔を合わせたら、家賃も碌に払わない癖に床に傷なんかつけるんじゃないとか、何かしら文句を言われるかも知れない。 ソファの固い座面は力の抜けた銀時の体重を優しく受け止めてはくれない。何しろ安物だ。身体が沈み込むほど柔らかいクッションも布団もこの家の何処を探してもありはしない。 床に転がるよりはまあマシだと言う程度ではある。思った所で口元を掌で押さえた。まだ湿り気の残る頭髪をがりがりと引っ掻いてかぶりを振る。 (何で、) 呻く様な自らへの問いは、アルコールを纏った溜息の中へと半分消えた。今からでも風呂に駆け戻って冷水でも浴びて来たいぐらいに、顔がかっと熱くなった気がして、もう一度勢いよく缶ビールを傾ける。 今日、いつもの様に土方の求めに応じて条件付けを行った。ただ、今日は『いつもの様に』はならなかった。何故なら恰もその一環の様に、然し明らかに無意味な事を追加して行って仕舞ったからだ。 呼吸をしているのは当たり前。それが熱を持っているのも当たり前。膚が温かいのも当たり前。唇が柔らかいのも当たり前、探った口内が酷く熱かったのも、当たり前。生きているものを相手にしているのだから、当たり前の道理だ。彼だけが特別だった訳ではない。強いて言うならば相手は前後不覚になる様な体調不良を起こしていて、それだけだ。 正直な所を言えば、銀時は己の行動に戸惑っていた。と言うよりは、戸惑いを感じた事について、を戸惑っていた。 当人である所の土方を見れば解る。あれは、条件付けであって治療の手段でしかない。必要なものは坂田銀時と言う生物を構成するものなのだから、痣を舐めて唾液を与えていた時と何ら変わりは無い。それが、口腔を通して行われたと言うだけの話なのだ。 とは言え銀時は、土方を助ける為にそうした訳では無かった。何故か、と言われても上手く説明は出来ない。ただ結果的にそれが条件付けとして功を奏しただけで、行動としては余りに唐突で、衝動的で、恐らくはその瞬間には碌な思考など働いてはいなかったからだ。 そんな行為に感情的な惑いを憶える事自体がおかしな話とも思えたが、どうしてかあの行為を思い出す度に肚の底が熱を持って疼く。 あれは接吻などと言う、言葉から想像し得る様な甘い行為では無く、ただの(強いて言えば)医療行為だ。薬を欲する者にそれを与えただけの、それだけの事だ。 薬が、あの時には己の腔内で分泌された唾液であったと言う『それだけの事』だ。それを土方が甘露の様に啜ろうが、絶頂した様に恍惚としていようが──、それだけだ。条件付けとはそう言うものだと何度も聞いたし何度も見て来た。もしも条件付けが銀時の構成物でない他のものであったとしても、例えばマヨネーズだったとして、土方は同じ様にそれを欲するだろうし身も委ねるだろう。いや、マヨネーズだったら平時から喜んで摂取してはいたか。 (くそ、何だかこれじゃ俺が一人馬鹿みてぇじゃねェか) 馬鹿馬鹿しくなりかける思考の苛立ちに、早くも空になりかけたビールの缶を叩き付ける様にして卓に置くと、銀時は際限のない苛々とした溜息と共に額に両手を当てて項垂れた。 幾ら、浮ついた話にはとんと縁のない銀時でさえも、これを解らないと言える程には初心では無かったし、迂遠の現実逃避を楽しめる程の余裕も持ってはいなかった。 何故、も、どうして、も無い。解っているからこそ戸惑っているのだ。ただの医療行為としか思われぬものに、思えぬ筈のものに、己がどうやら欲情して仕舞ったと言う事実に。 「………」 恐る恐る除けた掌を見下ろして、銀時はぐっと表情を歪めた。手に触れたのは得たものでも何でもない、ただの成り行きとその結果だけ。だからこそこの惑いを憶える様な感情、或いは衝動が酷く愚かなものであると言う事だけは、はっきりと解る。 仕方がないだろう、とも思う。他者が一人でだけ気持ちよさそうに感じ入って前後不覚になっている様を、ただ横で見ているだけなのだ。それに触発されて仕舞う事自体はきっと別段おかしなものとは言えない筈だ。 おかしいと思えるのは、湧いた衝動が一時だけのものに留まらなかった事だ。あれを──ただの『条件付け』と言う行為に欲情して肚の底を熱くしたばかりか、それ以上を求めたくなって仕舞った事だ。 ほんの気の迷いだと。戸惑ったその侭に認めて仕舞えれば多分楽だったのだろう。だのに、気の迷いと、一時の衝動だと割り切れずに更に戸惑って、その感情を直視しようと馬鹿な真似をしている。 欲情した肚の奥底の衝動に、感情の名前を付けて取り出そうとしている。愚かだと、馬鹿だと、解りきっているその癖に。 (気の迷い、で片付けられちまったら、そりゃ楽だろうよ) 缶ビールへと再度伸ばしかけた手を引っ込めると、所在無いその掌で目元を覆って、銀時は長く重たい息を吐き出した。それが出来そうもないから今こうしているのだと、妙に冷静に分析をする己の裡の呆れ声が耳障りで堪らなかった。 折り合いの面では最悪の相手だし、幾ら女日照りであっても同性の人間にその種の感情を抱く事など想像すらしていなかった。元々相手の事を特別嫌っていた訳では無かったのは確かだが、好かれてはいないだろう事を解っていて好意を抱ける程に矛盾もしていなかった筈だ。 銀時が土方に対して負い目を感じているのは事実だ。だからこの件に纏わる事ならば、出来る範囲でならあらゆる協力を惜しむつもりもない。助けになれると言うのであれば助けになってやりたい。 それは銀時にとっての道理であって、土方が何も思っていなかろうが銀時はそれを果たす義務が己にはあると思っている。 そこに、下心やら思い違えや、打算的な何かを差し挟むつもりは無かった。思いもしていなかった。 (…くそッ、俺は、) それだと言うのに、気がついたらこの様だ。結局はこの事態を招いた時と同じ、過分な干渉とお節介な行動とがそれを引き起こしている。 土方はそれを、意味のある感情だとは思ってもいないだろう。衝動は自然な行為で、結果的に正しい解答へと導くに至っただけの事。だからこれは──銀時の抱えた『これ』は、銀時と土方とがこの状況に陥ったからこそ辿って仕舞った不運。或いはタイミングの悪く生じた思い違え。 だが。その、土方にとっては最低としか言い様の無い『条件付け』の生じた現状は、銀時にとって多分、そう悪くない事なのだろうと言う、手前勝手な後ろ暗い喜びをもたらしているのだ。 (胸の悪ィ話だ) 己の思いつきに、感情の指し示した答えに、反吐が出そうな嫌悪感を憶える。他社の不幸を逆手にとって得る己の利を、醜悪だと思えるだけまだマシなのだろうとは──気休めや言い訳に過ぎないが、思う。 だが、どう言い繕った所で。どう否定してみようと思った所で。 (……あいつが、俺に縋るほかない姿に俺は欲情して、況してやそれを、) 吐き出しそうになった言葉を奥歯の間で磨り潰して銀時は、結局荒れた感情には何の助けにもなってはくれなかったビール缶をぐしゃりと握り潰した。ひび割れた様に乾いた音を鳴らしたそれから、残った僅かのアルコールが指を伝って滴り落ちて行く。 冷たい筈のそれが、肚の底で燻る劣情を冷ます役には立たない事ももう解りきっていた。薄汚い感情を罵りながらも、脳裏に浮かぶ情景は相反して甘美でもある。堪えきれずに手が下肢をまさぐり出すのを何処か客観的に銀時は見つめていた。 想いは一人相撲にしかならず、望む事さえ酷い話にしかならない。負い目を感じていようが肉体はそれとは乖離して疼く。嘲り嗤う。 それでも、気付いて仕舞ったこれは、至って仕舞ったそれは、銀時の裡に根付いて枯れてくれそうになかった。 。 ← : → |