Mellow / 14



 今日も電話は簡潔な用件だけで切れて、銀時は不通音を無機質に鳴らし続ける受話器を黒電話本体へと叩き付ける様にして戻した。
 どうせ持つ荷物など無い。木刀だけを腰へと収めると、銀時は足早に玄関へと向かった。座ってブーツを履く間も頭は忙しなく働いて、指定された場所を脳内の地図に仔細に描き出す。
 珍しくも、土方は電話越しに自らの現在地を告げて寄越した。つまりは、来てくれ、と言う事だ。そうして口早に伝えられたのは、名前通りならば割と大きなビジネスホテルの名前だった。
 部屋の階数と番号、そして連れが後から来るとはフロントにも言ってある、と付け足して切れた電話はそれ以上の事は語らなかった。時間を指定するでもなく、急げと催促されたでもない。だが電話口の向こうの土方の様子や声音から、これは急ぐべきだと判断した銀時は直ぐに家を飛び出すに至ったと言う訳だ。
 いつも大概の場合、条件付けの周期を迎えた土方にはそれ程余裕があるとは言えないのだが、それでも態度を取り繕う事は忘れていなかった。閉ざされた場所や隠れた場所に至って、安心して条件付けを得られると言う状況になるまでは、一応は真選組の鬼副長と言う顔を忘れる事は無い。それは実に意地っ張りで強がりな土方らしい一面と言えた。
 そしてそれは逆に、土方がまだ大丈夫だと銀時にそう判断させるに足る要素でもあった。指針と言う程に明確な判断基準とはならないが、ともあれ彼が今まで通りの様子や態度で居ると言う事は、銀時にとっての安心材料ともなっている。
 症状は、多分に最初の頃より悪化している。周期が酷くぶれる様な事は今の所起きていないが、『条件付け』を得る為の行動、或いは発作とも言うべきその表れは回を増す毎に酷くなっている気がしてならない。僅かづつだが確実に、『それ』は土方の心身を蝕んでいるのでは無いだろうか。
 とは言ってみた所で、土方への説得を試みる事に関しては、銀時は既に諦めている。故に、せめて出来る事は少しでも早く駆けつけてやる事ぐらいのものだ。
 言い訳の様にそんな事を考えながら、原付に跨って目的地に到着するまでは数分。ホテルに駐車場の類は無かった為、近くにあった時間貸しの駐車場に愛車を停める。繁華街が近いだけあってか駐車料金は半ばぼったくり価格に見えたが、どうせ必要経費として土方が払ってくれるだろう。
 ホテルのフロントに部屋番号と待ち合わせの旨を告げると、宿泊者名簿への記名を要求された。同じ紙に記されている土方のものだろう名前欄をちらりと窺えば、そこには山崎次郎と言う如何にも偽名臭い名前が、どこか見覚えのある筆跡で書かれていた。
 つまり偽名にした方が良いと言う事らしい。銀時は少し考えてから、桂小三郎と書いた。住所欄にも適当なものを書いたが、フロント係は特にそれを見咎める事もなく、簡単に非常口やアメニティの使い方の説明などをすると、エレベーターへと銀時を促した。実に事務的だったが、急いでいるので結構な事だ。
 どの道ホテル内のあちらこちらに監視カメラは付いているし、銀時の風貌は目立つ。何か事件でも起きれば直ぐに色々と露呈しそうだ。尤も、土方には間違っても事件沙汰になる様な事をやらかす様なつもりなど端から無いのだろう。何しろこれはただの、条件付けと言う作業をする為に選んだ場だ。
 急く意識を紛らわそうと、無駄な事をつらつらと考える内に目的の階数へと到着する。エレベーターホールを出れば直ぐに左右に廊下が拡がっていた。一定の間隔を置いて取り付けられた扉と、そこに表示された部屋番号とを数えながら進めば、やがて辿り着いたのは角部屋だった。直ぐ近くには非常用の外階段へ出る扉が設置されている。
 部屋番号の表示と、電話口で告げられた数字とを見比べて、ここが待ち合わせ場所に相違ないと判断して扉をノックすれば、「開いている」と短い応えが返って来た。フロントに、連れの到着を知らせてくれとでも頼んであったのだろうか。
 「お邪魔しまーす」
 少し戯けた調子でそう言って扉を押すと、応え通りにロックは掛かっていなかった。滑り込む様にして室内に入ると、まず銀時は後ろ手にロックを掛けた。段差の無い戸の前には土方の草履が脱ぎっぱなしになっており、スリッパが二揃え用意されている。どうやら落ち着いて履き物を替える余裕も無かったらしい。
 ブーツを脱ぎながら廊下の奥真っ直ぐを見ても、そこから見えるのはカーテンの閉ざされた正面の窓と、テレビや電話の置かれた机のみだ。入り口のすぐ右手は部屋になっていて、水場に続くと思しき換気用のスリットの入った扉がある。どうやらその影になる位置に寝台が置かれている様だ。
 スリッパは無視して裸足で室内へと入れば、予想した位置に寝台が二つ並べられていた。どうやらツインを取る思考に至る余裕はあったらしいが、肝心の部屋を取った当人はそれどころでは無さそうであった。
 「……大丈夫か?」
 銀時は恐る恐る声を、二つの寝台の隙間に座り込んで、座面に側頭部を寄り掛ける様にしている土方へと掛けた。非番だったのか着物姿の彼は、激しい発作に襲われてだろう、息を全力疾走の後の様に荒くしてるばかりで、答えすら返らない。
 取り敢えず痣を出そうと腕を引けば、ふるふるとかぶりを振られる。「──、」一瞬だけ息を呑んでから、銀時は土方の背を支える様にして寝台の上へとその上体を持ち上げた。途端、ぐいと胸ぐらを掴まれ引き寄せられたかと思えば、目前には熱い呼気を吐き出し続けている土方の唇と、眠る寸前の時の様に力無く細められた眸とがあった。
 (っ、)
 今度は明確に、意味があった。衝動よりも理性でそう判断出来たかどうかと言うタイミングで、銀時は土方の唇に食らいつく様にして口接けていた。
 眼下の獲物を逃がさぬ様に両手でその頭部をがっちりと捕まえれば、腔内で土方の舌が引き攣って喘いだ。背が撓り、瞑られた目元に合わせてその睫毛は震え、無我夢中の体で首に回された腕が更に銀時を引き寄せる。
 無様な口接けだと言っても良い程、野性味の強い交合だった。ただの喰らい合いにも似た粘膜のがむしゃらな交わりに、互いの唇の間からは夥しい唾液が滴って落ちる。そしてそれを一滴も逃すまいと土方は、呼吸を忘れた様に喉だけを鳴らして干して行く。
 「っはぁ、」
 どれぐらいの間そうしていただろうか、やがて、酸素を求めて僅かに離れた狭間から、土方が喘ぐ様に喉を反らし息を吐いた。銀時も一旦寝台に手をついて顔を離すが、土方は酸欠でか恍惚でか、薄く涙の幕の張った目で追い縋る様に唇を戦慄かせて言った。
 「足り、ねぇ」
 「ッつぅ!」
 そうしてやおら、銀時の首に絡めた腕をぐっと更に引き寄せると、黒いインナーごと肩口に歯を立てた。容赦のない力に銀時は顔を顰めるものの、僅かに滲む血に夢中になって息を荒くしている土方の様子を見て、咄嗟に引き剥がしたくなるのを堪える事にした。
 どうやら本格的に吸血鬼よろしく血を啜れる感じでは無さそうだし、そもそも血には催吐作用があるらしいから、間違っても干物にされる事は無いだろう。
 「………」
 ややしてから、銀時の肩口にがっぷりと立てられていた土方の歯がゆっくりと離れた。それと同時に獲物を捕らえる様に──或いは縋りつく様に回されていた腕もするりとほどけて落ちたかと思えば、座った侭の姿勢で土方はその場に仰向けに倒れた。いつもの、条件付け後の症状でか、ベッドのスプリングを派手に鳴らした割に、その全身はぐにゃりと背骨でも抜けた様に脱力しきって仕舞っている。
 薄らと開かれた唇はもう比較的に穏やかな呼吸の調子を取り戻していたが、血を纏って紅いそれはまるで紅でも差した様に、顔色の悪い膚の中で鮮やかに映えて見える。
 まるで吸血鬼か妖怪か。そうとしか言い様の無い有り様の顔にそっと手を伸ばすと、銀時は袖口でその口元を拭ってやるが、土方はそれに僅かに片目を眇めてみせるのみだ。
 余韻にでも浸っているのか、銀時の手の動きを、身体と意識はぼんやりとした侭でも無意識の様に眼球が追った。
 血の色と匂い。蕩けた眼と意識。目の前のそれに銀時は無意識の内に喉を鳴らしていた。
 警鐘が鳴る。
 『これ』は恐らく誤りでしかない。人の道にも劣る様な酷い話でしかないものだ。
 だが。
 それでも。
 鼓動が弾む。脳の何処か遠くで疼きが背筋を勝手に震わせる。
 銀時のそんな葛藤を嘲笑うかの様に、それは身を離して猶煽り続けるのを已めない。
 何も知らない侭、勝手に身を投げ出して弱味を晒して全てを委ねて、たった一人を──否、『条件付け』を求めて縋りついて来るのだ。
 (もう、)
 かぶりを振って小さく嗤う。ぐずついた理性が喚き出す。酷い話だと、狡い事だと。
 「ちくしょう、」
 漸く口から出た声は、掠れて小さく消えた。何の歯止めにもならずに、力無く消えた。
 だから。
 それならば。
 「…なぁ、提案なんだけど」
 躊躇いと罪悪感の狭間から絞り出した筈の声は、然し何処か軽薄な響きを伴って滑り出た。
 あれほどまでに理性だ自制心だ気の迷いだと忠告し続けていた割には、非道くあっさりとした声だった。







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