Mellow / 2 口元を覆った掌の下で溜息をつく。 不確かなものや可能性を安易に断じ信じるべきでは無いと言うのが、警察官としての土方の信条だ。だがこれだけは別で、大体の場合に於いて土方は自らの勘と言うものを信じている。 自分が神がかりな程に勘の鋭い質だとまでは思ってはいないが、己の人生の経験上でこの『勘』と言うものが外れたり宜しくない結果をもたらす事は滅多に無かった。だから、少なくとも判断を任せるに躊躇の無い程度には、土方は己の直感、或いは勘と言うものを信じるに値するものだと思っていた。 その勘が、選んだ飲食店に入った途端に働くのを土方は感じていた。不確かな感覚は言葉にして説明出来ない様な曖昧なもので、来たな、とただ直感的にそう思う。そしてそれは矢張り、今までの経験の例に漏れる事なく、正しかった。 報告にあった調査対象『候補』の店は、A4の報告書にずらりと細かい文字で並ぶ数で、部下たちには既に順に調査する様指示は出してある。だが、それを頭から一つ一つ確認して回らねばならない労を思えば、リストの末尾近く、ほぼ無作為に選んだ数件目で正解を引き当てたのは、相当に運が良いか、日頃の行いが反映でもされたか、或いは矢張り己の直感が正しかったと言うほかないだろう。 思わず、煙草を掴む素振りで口元に当てた掌は、溜息と同時に浮かんだ笑みを隠す役にも立ってくれた。溜息は安堵で、笑みは言うなれば会心のそれだ。勝った、としか言い様の無い表情はまだ気取られる訳にはいかない。どうせ視界が暗くて誰にも見えはしないと思うが、まあ気分の問題だ。 飲食店とは言ったが、主にアルコールを提供する店だ。もっと細かく言えば、クラブとかそう言う呼び名になるだろう。店主が自ら肴をカウンターの向こうで作っていたり、静かにバーテンがシェイカーを振ったりしている様な店では無く、薄暗い店内にはカクテルライトが目障りな程にきらきらと踊り、至近の会話すら支障が出そうな程の大音量で派手な音楽が流されている。そんな店だ。 年若い客たちはめいめい踊ったり立ち飲みを楽しんでいて、裏口から静かに入って来た警察の装束の男に気付く様子は無い。官能的な服装で踊っている壇上の女性のあられもない姿に、殆どの者たちが釘付けになっている。 風営法に直接は引っかからないが割とギリギリのラインの店で、いわゆるアングラな雰囲気である。店内ではしばしば若者たちの違法薬物の売買やら、小さなグループの小競り合いが起きていて、その都度警察の手入れやら指導やらが入ると言うのに、未だ営業が続けられている辺り、そう言った場所の需要があると言う事なのだろう。嘆かわしい話ではあると思うが。 そんな店だからか、入り口には『礼儀正しい』ガードマンが雇われており、警察や見知らぬ客への警戒は怠っていない。当然土方が真正面から警察手帳なぞ携えて現れた日には、関係者全員でとんずらを決め込む事は言うまでもない。 だから土方は当初から入り口からの調査は諦めて裏口へと回った。が、路地裏にひっそりと存在する裏口には当然の様に、如何にも腕っ節の強そうな屈強な見張りが立っていた。 だからなのだろう、店の人間も裏口からの思わぬ客の存在などある訳がないと思い込んでいるのか、誰も壁際にそっと寄りかかり、己の勘の鋭さに笑みすら浮かべかかっている土方の姿に気付く様子すら見せなかった。 ちなみに件の見張りには面倒だったので『平和的』に通して貰った。土方の姿は見張りには見られていないし、他に目撃者もいない。裏口と言うだけあって、面した薄暗い路地裏に通行人が寄りつく様な事はそうそう無く、彼が目を覚ますまではまだ時間がかかる筈だ。 カウンターの中には、予てより目をつけていた要注意対象の女性がいる。年の頃二十代のバイトで、髪を派手な金髪に染めており、口元にピアスが付いている事以外は至って普通の娘だ。 店内の派手な明かりに時折照らされる彼女の姿を確認し、その前のカウンター席に座らず立っている男の背を、土方は慎重に観察する。こちらもまた、派手な明るい茶色に髪を染めた、まだ若い男だ。薄暗い店の中だと言うのにサングラスをかけて、口元にはマスクをしている。 それでも、彼が殺人罪と薬物売買の容疑者で、手配書に顔写真つきで載っていて、とある違法組織の幹部の息子で、ただいま必死で逃走中の筈の人物その人なのだと、土方は確信していた。薄暗い店内で伺えるのは目元や髪色や背格好程度だが、見間違う筈も無い。 男に手配が本格的にかけられたのはつい一昨日の話だ。男の所属する組織が他星の組織と大がかり且つ違法な取引を行い、彼はそれに関わっていた。より正確に言うと、その取引の詳細を突き止めるべく潜入捜査をしていた真選組の人間を殺害した容疑をかけられているのだ。 幸いと言うべきか、被害者は死の直前に真選組へ自らの任務の失敗と潜入で知り得た情報と、自らを殺害した者の詳細とを伝える事に成功していた。因って、犯人の速やかな特定と手配とに至ったのだった。 男は己の身の危険を即座に察知し、当然の様に行方を眩ませた。組織──と言うよりは親──も無関係を装った。だが、被害者の潜入捜査の地道な情報の堆積で、男が頼る幾つかの伝手は直ぐに浮上した。それが件のA4用紙にびっしりと印刷されたリストの正体である。 警察は、真選組は同胞への恨みは何を優先しても晴らす。それもあって土方も自らそのリストを片手に地道な捜索へと乗り出し──そうして見事に数件目でアタリを引き当てるに至った。 親元、親類、友達、恋人、隠れ家、そう言ったものを列挙したリストの中から、土方がほぼ無作為に選んだのが、男に何人か居る恋人の一人がバイトをしているこのクラブだったと言う訳だ。 観察する土方の視線の先で、男は一応は恋人(の一人)である所の娘に金の無心でもして、そしてその相談は色よい結果に終わったのだろう、追われる身である事をまるで忘れでもした様に、彼女と何やら話しながら上機嫌そうに音楽に体を揺らしている。 いい気なもんだ、と思いながら、土方は寄りかかっていた壁からそっと背を浮かせた。外観から見た限りこの店には土方の入って来た裏口と、正面の入り口しか簡単に外へと出られる扉は無い。そして入り口へ向かうには、薄暗い中踊る酔客たちを掻き分けなければならない。 店内には無関係の客が多く、身動きは取り難い。万一人質でも取られた日には面倒な事になる。 男が用を済ませて外に出て来た所を捕らえる。若干手間は増すが、その方が騒ぎも起きず、世間体的にも良いだろう。 だから土方は一旦静かに店を出て、応援を呼んで入り口と裏口とで待ち構えるつもりでいた。が、その時何の気紛れか偶然か、女が顔を動かした。その視線が、丁度通り過ぎたカクテルライトの七色の光に僅かに照らされた土方の隊服を、見る。 その表情が硬く強張った。それが自分の彼氏を捕まえに来た武装警察だと直ぐ様に気付いたのだ。 (ち、) 女が何か声を上げるより先に、裏口へと向かおうとしていた足を翻して、土方はカウンターに向かい立つ男の方へと駆けた。逃げられるか抵抗をされるかより先に、捕獲対象を捕らえた方が早いと言う、それは当たり前の判断だった。 然し男は、暢気に寛いでいる様でも矢張り追われる者としての自覚が多少なりあったのだろう、目の前の女の表情が変わるのを見て取るなり、背後を振り向く様な真似すらせずに入り口に向けて走った。 (良い判断だ) 感嘆とも苛立ちとも取れる感想を浮かべながら、土方は意図せず壁の様になった踊る客たちを半ば突き飛ばす勢いで駆けて男の背中を追った。待て、と叫んでも無駄な事は解っている。寧ろ大声を上げて客たちの動きが止まったりパニックを起こされると余計に身動きが取り難くなる。 男は制止しようとする入り口の見張りを突き飛ばして外へと飛び出した。土方もその後を追って外の、階段を駆け上がりながら携帯電話を取り出して手元も見ずに発信する。 《はい、山崎》 「リスト下から六つ目らへんのブルー・ラグーンって店だ、奴のイロのバイト女捕まえて話訊いとけ!」 相手が電話に出るなりそう怒鳴る様に言うと、返事も待たず終話ボタンを押し込んで土方は走る事に集中した。これだけ伝えて話が解らない様な相手ではないと解っている以上、無駄に言葉を費やす気は無い。 賑わう繁華街へと飛び出した男だったが、その足は直ぐ裏路地へ入り、それからまた賑わう道に出て、と忙しなく動き回る。どうやら土地鑑があるらしい。或いは初めから逃げるべき場所にアタリでもつけているのか。 (馬鹿かと思ったが、まるきりの馬鹿って訳じゃなかったか) 走る最中では舌打ちをする余裕も生じない。息は上げない様に走る速度だけを上げて、土方は荒れ果てた廃倉庫の裏口から川縁へ続く非常階段を駆け下りていく男の、今にも闇に紛れそうな影と足音とを追いかける事に専心した。 やがて、無言の追跡者の気配を恐れてか、それとも息が上がって来たのか、前を行く男がちらちらと土方の事を振り返りはじめた。実の所土方の方もそろそろ呼吸が弾み始めていて危険な状態ではあった。ただでさえ走り易いとは到底言えない川の縁だ。おまけに、雨の少ない陽気で水は澱み気味で、生臭い様な臭気が新鮮な酸素を求めて喘ぐ肺を容赦なく痛めつけて来ている。 いい加減諦めやがれ、と喉奥から声にならない声を張り上げた土方の念でも届いたのか、不意に逃げる男がバランスを崩し跳ねる様にして転がった。水位の浅い川へと転がり落ちて派手な水音が上がる。 見るや否や、土方は走る速度を一気に上げると、ずぶ濡れになってまだ逃げようとする男の腕を捕まえた。王手を悟って藻掻こうとするのに背からのし掛かる様にして体重をかければ、川底に手をつく形で男が水の中へと逆戻りする。 「っ観念、しやが、れッ!」 仰向けに転がりながら足蹴りを繰り出そうとする男の腹を逆に踏みつけ、土方は声を上げた。男が罵声にならないうめき声を上げながら懐を探ろうとするのを、抜いた刀の鞘ごと上から押さえつけ、取り出そうとしていた小さな飛び出しナイフと、一緒に転げ出たスマートフォンを奪い取って川縁の地面へ放る。 水位は男が仰向けに転がっても顔が出るぐらいに浅いが、水の中で互いに暴れた為にすっかりびしょ濡れだ。しかもそれなりに臭う。全力疾走の後で上がった体温が冷えた水に晒された衣服の下で急激に冷えて行き、そこで漸くぜいぜいと大きく息をついて、土方は自らの下敷きにした男の姿を改めて見下ろした。マスクやサングラスと言った人相を隠す役に立っていた筈の小道具は見当たらない。逃走の邪魔だと、走っている最中に外して仕舞ったのだろう。 男はまだ諦め悪く足をじたばたとさせているが、腹の上に膝をついて、鞘に収まった侭の刀をつっかい棒の様に胸に当てて抑え込んでいる土方をその程度の動きで退けられる筈もない。 「手こずらせやがって、知ってるだろうが警察殺しは重いぞ。覚悟は出来てんだろうな」 町中を走らされた疲労と、ついでにびしょ濡れにされた事も手伝って土方の苛立ち係数は秒毎に嵩んで行く勢いで上昇中だ。 「幕府の、犬が!」 男がこう言う時のお約束とも言える蔑称を苦し紛れに吠えるのに、何発か殴っておくべきかと土方がそんな物騒な事を考え始めた矢先の事だった。 「……!」 水を蹴る足音を背中で聞いて、土方は足下の男にまだ抵抗する余力が存分にあるだろう事実を思い浮かべるより先に、この弾んだ呼吸と水浸しの形と動き難い足下とで満足に戦えるかどうかを比較的冷静に検討した。振り返るより先にそう脳が反応したのは、これもまた己の人生経験で培われた勘の賜物であった。 (クソ、) 結論は、否だった。少なくとも、自らの全体重で押さえつけている男を即座に無力化するか、手放さない限りに勝ち目は無いと、勘に裏打ちされた判断が返る。こう言う時の己の勘は捜査への勘よりも余程に信用出来ると、土方は知っていたのだ。 立ち上がりざま、苦し紛れに男の頬を刀を掴んだ侭の拳で殴ると、土方は鞘を弾いて飛ばした。川縁を走る足音よりも厄介だったのは、この辺りの川幅は狭く、堀は高く、光源が殆ど無く、おまけに背の少し先には更に真っ暗な暗渠への入り口が口を開いていると言う、戦い難い地形そのものだった。 水の中に転がった男が援軍を呼べた時間は無い筈だ。そうなると予め仕組まれていたか、あのバイト女が仲間を呼んだと言った所か。前者は土方があの店を無作為に選んだと言う時点で考え難いので、正しいのは恐らくは後者だ。 ち、と舌打ちをする土方の視線の先では、水を飛ばして走って来た浪人風の男たちが刀をめいめい抜きながら走って来る姿が見えた。男の仲間と言うよりは親の部下だろう。げほげほと咽せていた男が、救援の訪れを見て喜悦の表情を浮かべるのが腹立たしかったが、生憎ともう殴る手の届く距離ではない。 斬るのは簡単だが、警官殺しとして捕まえる様に厳命されている以上そう言う訳にもいかない。現れた追っ手に関してはその限りではないが。 普段ならば負ける気のしない喧嘩だが、生憎と、水浸しで動きが悪い事と、全力疾走の後で切れた息がまだ整っていないと言う、些かに勝ち過ぎるハンデを背負わされている現状は余り楽しいものとは言えない。勘は矢張り当たる。良いものであっても悪いものであっても。 出来るだけ早く呼吸を整えようと、土方は刀を握り直し構えた。だが新手もそんな事ぐらいは解っているから、きっと出来るだけ早く決着をつけようとして来る筈だ。時間を稼ぎたくともこの狭い場所ではそうも言っていられない。 それでも、戦う事にしか光明は無く、負けてやる気も無い。決意と言うよりはごく当たり前の様にそう思って、土方が整わない呼気で無理矢理に深呼吸をした丁度その時だった。 「──」 背筋がすっと冷える様な厭な感覚と共に、己の直ぐぴたりと背後に、遙か上から何かが──誰かが『降って』来た。 跳ねる水音。着水或いは着地の衝撃を僅かの膝の動きだけで消して、それは背を伸ばすなり土方の肩を掴んで背後、己の方へと引っ張った。 「逃げんぞ」 一息の囁きの様な声量。続け様に腕を掴まれたのを、土方が反射的に振り解かずに済んだのは、その声に聞き覚えがあったからだ。 振り返る直前に、遠い町の光を反射する銀髪が視界に閃くのを、土方は見た。 声と、色彩と。その確信に引き摺られる様にして、土方は男の後を追って暗渠へと続く川の暗がりへと迷わず飛び込んだ。 。 ← : → |